赤塚不二夫

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赤塚 不二夫
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本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日
満州国の旗 満州国 熱河省灤平県古北口古城裡22号[1]
死没 2008年8月2日(満72歳没)
日本の旗 日本 東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1956年 - 2002年
ジャンル ギャグ漫画少女漫画
代表作 おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
天才バカボン
もーれつア太郎
レッツラゴン
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文藝春秋漫画賞
(『天才バカボン』)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
紫綬褒章
公式サイト http://www.koredeiinoda.net/
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赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄1935年昭和10年)9月14日 - 2008年平成20年)8月2日)は、日本漫画家血液型A型

1956年貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に『天才バカボン』『もーれつア太郎』の爆発的ヒットにより「ギャグ漫画の王様」[2]と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1935年(昭和10年)9月14日満州国熱河省に、6人兄弟の長男として生まれる。父親は、憲兵スパイとして僻地で宣撫工作を行う特務機関員をしていた[3]。父は非常に厳格でなおかつ権威的であり、漫画を読むことを禁じられるなどし、幼い頃の赤塚は父親が大の苦手だったという。ただ、普段から現地に住む中国人とも平等に接し、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため、敗戦直後に報復として赤塚家の隣に住む一家が中国人に惨殺される中、普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。

10歳の時、第二次世界大戦終戦。父親は終戦直前に赤軍によってソビエト連邦へ連行され、裁判にかけられることとなった。残された家族は1946年(昭和21年)に奉天から母の故郷の奈良県大和郡山市引き揚げた。帰国までに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出されたため、日本に帰還する頃には兄弟は半数となった。死んだ次女の名を継いだ生後6か月の妹・綾子も、母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため死去。その時、赤塚の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という[4][5]。赤塚は小学校に編入し、5年生となった。

2学期の頃、貸本屋で5で漫画を借りて読むようになり、手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する[3]。12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行った[6]

1949年(昭和24年)、父親が帰国するが、抑留生活や日本の敗戦などで父親は権威を失い、以前とは全く違うような人物になっていたという。父の故郷の新潟県新潟市に移り中学校を卒業後、映画の看板を制作する市内の看板屋に就職した。仕事柄あらゆる映画を鑑賞することとなり、バスター・キートンチャーリー・チャップリン喜劇に感銘を受けた[3][7][6]。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。

18歳の時に上京東京都江戸川区の化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫よこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった(投稿欄に住所も載せる緩やかな時代だった)。

『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし[8]1956年(昭和31年)、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[6]

トキワ荘時代[編集]

同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した[9]。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた[10]

当時の赤塚は少女漫画の単行本を3~4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)[11]。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。

1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか[12][13]名義で作品を発表した。

合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア[14][13]で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。

同年、石森の推薦[9]で『まんが王』(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画「ナマちゃん」が連載扱いになる。1961年、アシスタントだった稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去[15]

フジオプロ設立[編集]

1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷、古谷三敏、横山孝雄[16]高井研一郎等と東京都新宿区十二社フジオ・プロダクションを設立。この年に長女のりえ子が誕生[17]。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[18]1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化された。

1967年(昭和42年)、『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。以後2010年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。

1970年(昭和45年)、3月、母が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め、一時退院するもののショックからクモ膜下出血を発症。再入院となり、その後容態が急変、不二夫の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが脳死状態となり、8月20日、59歳で死去[19]。この年、妻と別居状態となる。12月、スタジオ・ゼロが事実上の解散。

1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの、赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中、サンデーの担当編集者、武居俊樹に宛て新連載のタイトルが入った、自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用され、その後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し、武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという[20][21]。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。

1972年(昭和47年)、『天才バカボン』で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で、『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし、10年を超えるロングランとなる。一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期にわたり滞納されている事が発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者(赤塚がスカウトした元・税務署員だった[22])の横領によるもので、被害額は1億とも2億とも言われ、実印まで預け、信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え、告訴することはなかった[23]

また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊(元々、まんがNo.1という名前はフジオプロのファンクラブ会報のタイトルだった)。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊[24]

1973年(昭和48年)、11月5日、3年の別居生活を経て、妻・登茂子と正式離婚[25]

1974年(昭和49年)、ギャグゲリラの連載の一環[26]で、実験的に山田一郎というペンネームに改名し、天才バカボンを含む連載中の作品をすべて同名義で執筆したが、広告サイドから苦情があり、3か月で元に戻した。(当時はペンネームを戻したのはロクなことが無かったからという)

尚この年(1974年)は、これまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。

ステージへの傾倒と長いスランプ[編集]

1975年タモリとの出会い以降、ステージパフォーマンスに開眼し、後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり[26]、長いスランプに陥っている事を公言。

1979年(昭和54年)、3月31日にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日に父がすい臓ガンの転移により71歳で死去[27]

1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、アシスタントの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている[28] 。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した[29][9]

以後入退院を繰り返すも回復の兆しはなく、1994年(平成6年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社[30]

1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞[31]1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章[32]

1997年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、食道を摘出し、小腸の一部を食道の代用として移植する、と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せ、24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する[33]。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが[34] 、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ体重は13キロ減少した[35]。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた[36] [37] 。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した[38]

2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手にまひが出たため緊急手術[39][40]、その後は順調に回復し[41][42]、11月1日には退院を果たす[43]。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料を辞退している[44][45][46]

2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された[47]。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された[48]

晩年[編集]

2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する[49][50]。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』が発売された。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[51]2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市青梅赤塚不二夫会館を設立。館内には幼少時、漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られている。

2006年(平成18年)7月、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死[52]

2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院死去した。72歳没[53]。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという[54]。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)[55]。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた[56][57][58]

赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また、民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、一連の報道は彼が一時代を築いた漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付ける形となった。

また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた[59]。なお、「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布しているが、これは誤り。入院費用は全部パパのお金で賄った、と娘のりえ子が著書に記している[60]。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。

赤塚の葬儀では、藤子不二雄(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日通夜、翌7日告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄古谷三敏高井研一郎北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時、手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ、話題となった[61](項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている[62]。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い[63]アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」[64]

人物[編集]

家。1979年から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者なCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた[65]

映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。

バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父をモデルにしている[66]事もあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをする事が多かった。

ひみつのアッコちゃん』の主人公加賀美アツコと『おそ松くん』のトト子が似ていることについて1989年に発行されたコミック本のあとがきで、そのことを指摘された際は赤塚自身が「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし一方では、赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。

山下洋輔らジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちだが、赤塚はジャズは一切聴かず、歌謡曲好き・美空ひばり好きだった。水木しげるの娘・赤塚不二夫の娘・手塚治虫の娘による対談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』内でも赤塚がジャズを聴いていないのは謎だとネタにされているが、これは『おそ松くん』内でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人(山下の師匠的存在)が新宿ピットインの機関紙に赤塚に寄稿してもらおうとフジオプロに訪問したのがきっかけで赤塚と山下洋輔の交流が生まれたからである(件のイヤミのギャグは長谷邦夫発案によるものであり、赤塚の寄稿の話はなくなったが、この相倉の来訪をきっかけに長谷がピットインに入り浸るようになり、その後赤塚も山下洋輔の一派の面白さを聞きつけ、山下に会うためにジャズ関連の場所を訪れるようになった)。

2010年、誕生日である9月14日Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた[67][68]

芸能界での交流[編集]

1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビ司会を、黒柳徹子と共に担当[69]。これを機に、赤塚の交流は立川談志荒木経惟坂田明篠原勝之唐十郎など各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。

1970年代半ばには山下洋輔等を介してタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市ボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎滝大作らと「面白グループ」を結成した[70]。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し[71]、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。この他にも青島幸男川内康範[72]美空ひばり新宿ゴールデン街でよく2人で飲んでいた)[9]など、様々な人物との交友があった。

1960 - 1980年代テレビアニメドラマ映画などの音響効果技師で赤塚のペンネームと同姓同名の“赤塚不二夫”がおり、下記のアルバム『ライヴ・イン・ハトヤ』でも音響効果を担当するなど、2人の間には親交があった。

全日本満足問題研究会[編集]

1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平奥成達高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。

ライヴ・イン・ハトヤ[編集]

伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。

  • 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ
  • 指揮:佐香裕之
  • スタッフ:構成・演出:高平哲郎/音楽:小林亜星、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫(同姓同名のスタッフ)/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)

面白グループ[編集]

タモリや高平、滝らと結成したグループ。

  • 1977年3月、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作。
  • 1977年10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。奥成達編集で書籍『空とぶかくし芸』が刊行され(赤塚は表紙イラストや本文イラストを担当)、赤字を埋めた。
  • 1979年3月、日活ロマンポルノにて監督:山本晋也、脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで“赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開。また同年6月、東映系でアメリカのコメディー映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』に倣った『下落合焼とりムービー』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開。
  • 1981年、当時、下森真澄と宮村優子の共著で女子大生の赤裸々な本音を綴り、女子大生ブームの先駆けとなった告白本『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本で、女子大生の本音にオジサンが返答するという内容の『SONO・SONO(ソノソノ)』を、面白グループ名義で刊行し、ベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演した。

上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベントは次のようなものがある。

  • 赤塚不二夫の大忘年会 花の応援団を応援しよう (1976年12月27日、目黒名人会)

フジオ・プロダクション[編集]

1965年に長谷、古谷、横山孝雄、高井等と設立。赤塚、長谷、古谷、担当編集者を交えた「アイデア会議」のちに赤塚がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉など)が下絵を完成させて製作を進行という形を取っていた。この様に漫画製作にアシスタントらが大きく関与しているため、赤塚はプロダクションを設立して以来、雑誌掲載時のクレジット表記を長年「赤塚不二夫とフジオ・プロ」としていた。住所は東京都新宿区中落合1-3-15(かつてはマンションの部屋にフジオ・プロが存在していた。)劇中でもフジオ・プロのロゴを無関係な場面に登場させたり、内輪ネタの一環でフジオ・プロを強調することも多かった。

また、赤塚マンガのキャラクターの作り方にはいくつかのパターンがあったようで、北見けんいちは、赤塚が作画スタッフに「大体こういう感じ」と伝えて描かせたものを、話し合いにより少しずつ修正していくという手法を取り、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていたと語っている[73]

また、長谷邦夫、高井研一郎は、『おそ松くん』のイヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーン『もーれつア太郎』のココロのボスなどのキャラクターについて、赤塚が作画スタッフ(高井研一郎)にラフ画を渡し描かせたものを、その後赤塚が自ら描きやすいように修正して、完成させていく手法を取っていたと証言している[74]。 高井研一郎が退社(1968年)した以降は、赤塚がキャラクターデザインを実質一人で施すようになり、バカボンのパパ、ニャロメ、ケムンパス、べし、ベラマッチャ、ウナギイヌ等はその代表的なキャラクターである。[75]

現在は赤塚の長女の赤塚りえ子ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、父が興したフジオ・プロダクションを引き継ぎ、赤塚の二番目の妻だった眞知子が死去した後を受けて社長を務めている。

元アシスタント[編集]

関連企業[編集]

※これらの他にスナック経営などにも進出したが、アニメ制作以外は失敗に終わり、閉店・解散・倒産の憂き目に遭っている。
  • レーシングチーム「ZENY」
トヨタ・1600GTを6台購入し、カーマニアである友人とその仲間、レース好きだった前妻・登茂子のために1968年に設立したレーシングチーム。藤田直廣(現・NOW MOTOR SPORTS 代表)が所属していた。
  • フジビデオ・エンタープライズ
ポリドールレコードの井尻新一から、新人歌手を集めたオーディション番組の立ち上げを持ち掛けられ、設立した番組制作会社兼芸能プロダクション。1969年設立。
  • 不二アートフィルム
スタジオゼロ解散後、吉良敬三を中心とする残党メンバーを集め、「フジオ・プロ動画部」として立ち上げたアニメ制作会社。1971年設立。NHKの「みんなのうた」や幼児番組、コマーシャルなどにセルアニメだけに頼らない実験的な作品を提供していた。1981年にフジオ・プロから独立。現・株式会社 スリー・ディ[91]

作品リスト[編集]

連載作品[編集]

--発表順--

  • くらやみの天使 (1958年-1959年、少女クラブ)U・マイア(石森章太郎水野英子との合作)名義
  • ナマちゃん (1958年-1962年、まんが王
  • まつげちゃん (1958年-1961年、ひとみ<--ひとみとは別の雑誌-->)
  • まりっぺ先生 (1959年、りぼん
  • おハナちゃん (1960年-1962年、少女クラブ)
  • ハッピィちゃん (1960年-1961年、りぼん)
  • トンネルチーム (1960年、たのしい四年生
  • おカズちゃん (1960年-1961年、たのしい五年生
  • がんばれマミちゃん (1960年、なかよし
  • ホームラン教室 (1960年-1961年、冒険王)原作:高垣葵、初回は石森章太郎との合作
  • あらマアちゃん (1960年-1961年、なかよし)
  • ボクはなんでもしっている (1961年-1962年、たのしい五年生)
  • ナマちゃん(1961年、小学生画報)
  • カン太郎(1961年、冒険王)
  • ママなにしてるの (1961年、小学三年生
  • キツツキ貫太 (1961年、週刊少年マガジン
  • まつげちゃん (1961年、りぼん)
  • おそ松くん (1962年-1969年、週刊少年サンデー) - 1967年からは月1連載
  • オーちゃんと11人のなかま (1962年-1963年、たのしい五年生)
  • ジンクスくん (1962年-1963年、中一コース
  • ひみつのアッコちゃん (1962年-1965年、りぼん)
  • 青い目の由紀 (1962年、少女クラブ)
  • すすめ! ケン太郎 (1962年、漫画王)
  • カン太郎 (1962年、冒険王)
  • おた助くん (1963年-1965年、小学四年生
  • アイ・アム・ア・トランジスターボーイ (1962年-1963年、中学生の友一年)
  • サーカス☆ジン太 (1963年、冒険王)
  • まかせて長太 (1963年-1965年、少年
  • カン太郎 (1964年-1965年、少年ブック
  • メチャクチャ No.1 (1964年-1965年、冒険王)
  • そんごくん (1964年-1965年、小学四年生)
  • ケンちゃん (1964年-1965年、朝日新聞日曜版)
  • あべこべ3番地(1964年、週刊マーガレット
  • しびれのスカタン (1965年-1968年、少年画報)画:長谷邦夫
  • そんごくん (1965年、小学五年生
  • おた助くん (1965年、小学六年生
  • なんでもやろうアカツカくん (1965年、少年ブック)
  • ミスター研(1965年、中一コース)
  • おた助・チカちゃん (1965年-1966年、小学四年生)
  • ジャジャ子ちゃん (1965年-1966年、少女フレンド
  • 過激派七年生 (1965年、別冊漫画サンデー)
  • ユー・ラブ・ミー君 (1965年-1966年、平凡
  • いじわる教授 (1965年、ボーイズライフ
  • キビママちゃん (1965年-1966年、りぼん)
  • おたすけくん(1965年-1966年、小学二年生)
  • スリラー教授 (1966年、ボーイズライフ)
  • 怪盗1/2面相 (1966年、少年ブック)
  • 中一コースケ (1966年、中一コース)
  • いじわる一家 (1967年、少女フレンド)
    • 赤塚不二夫のガンバリまショー (1967年、少年ブック)
  • ミータンとおはよう (1967年、りぼん)
  • メチャクチャNo.1(1967年)
  • きかんぽ元ちゃん(1967年、小学一年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学二年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学三年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学四年生)
  • スリラー一家 (1967年、少女フレンド)
  • おせっかい一家(1967年、少女フレンド)
  • 天才バカボン (1967年-1969年、週刊少年マガジン)赤塚不二夫とフジオ・プロ名義
    • (1967年-1969年、別冊少年マガジン
    • (1969年-1970年、週刊少年サンデー)
    • (1969年-1970年、デラックス少年サンデー)
    • (1971年、ぼくらマガジン)
    • (1971年-1975年、週刊少年マガジン)
    • (1971年-1975年、月刊テレビマガジン
    • (1974年-1975年、別冊少年マガジン)
    • (1975年-1978年、月刊少年マガジン)
    • (1975年-1976年、週刊少年マガジン)
    • (1987年-1989年、コミックボンボン
    • (1988年-1989年、月刊少年マガジン)
    • (1988年-1991年、月刊テレビマガジン)** (1989年-1991年、月刊ヒーローマガジン
    • 元祖天才バカボン (1975年-1977年、月刊テレビマガジン)
    • 平成天才バカボン (1990年-1991年、コミックボンボン)
      • (1991年-1992年、デラックスボンボン)
    • 天才バカボンのおやじ (1969年-1971年、週刊漫画サンデー)作画協力:古谷三敏
    • 天才バカボンのパパ (1973年、まんがNo.1)
  • スリラー教授 (1967年、ボーイズライフ)
  • クレージー中学校(1967年、中一コース)
  • たまねぎたまちゃん (1967年-1969年、小学一年生)
  • へんな子ちゃん (1967年-1969年、りぼん)
  • 赤塚不二夫のびっくり研究室(1967年、週刊少年サンデー)
  • テッちゃんただいまケンカ中 (1967年、少女フレンド)
  • もーれつア太郎 (1967年-1970年、週刊少年サンデー)
    • (1990年-1991年、コミックボンボン)
    • (1990年-1991年、月刊テレビマガジン)
  • ヒッピーちゃん (1967年-1968年、少女フレンド)
  • 荒野のデクの棒 (1968年、週刊少年キング)作画協力:古谷三敏(フルヤプロ名義)
  • なんでもヤリます (1968年、週刊漫画サンデー)高井研一郎との合作
  • 花のデコッ八 (1968年、週刊少年サンデー増刊)
  • われら8(パー)プロ (1968年、週刊少年キング)作画協力:古谷三敏(フルヤプロ名義)
  • パア助くん (1968年-1969年、小学二年生
  • 二代目社長 一郎くん (1968年-1969年、小学四年生)
  • ひみつのアッコちゃん (1968年-1969年、りぼん)
    • (1988年-1989年、なかよし)
  • まんが大学院 (1969年、少年ブック)
  • にわとり一家 (1969年、週刊少年キング)
  • SOSエンチャカ丸 (1969年、小学四年生)
  • やってきた(おいら)ズル長 (1969年、少年ジャンプ
  • ハレンチ名作シリーズ (1969年、りぼんコミック)
  • 赤塚ギャグ笑待席 (1969年、少年ジャンプ)フジオプロメンバーの長谷邦夫・古谷三敏・とりいかずよしとの交互制作
  • 赤塚不二夫のヒゲヒゲ物語(1969年、ジョーカー)
  • テレテレおじさん(1969年、少年チャンピオン)
  • おれはゲバ鉄 (1970年、週刊少年ジャンプ)
  • 風のカラッペ (1970年-1971年、週刊少年キング)画:佐々木ドン
  • ネコの目ニュース(1970年-1971年、新潟日報日曜版)
  • ギャグ+ギャグ (1970年、週刊少年サンデー)
  • ぶッかれ*ダン (1970年-1971年、週刊少年サンデー)
  • 死神デース (1970年-1971年、ぼくらマガジン
  • 狂犬トロッキー (1971年、週刊少年マガジン)シナリオ:滝沢解、作画協力:さいとうあきら
  • ハタ坊 (1971年、赤旗日曜版)
  • くりくりくりちゃん (1971年-1972年、幼稚園)
  • おれはバカラス (1971年、週刊少年キング)画:佐々木ドン
  • レッツラゴン (1971年-1974年、週刊少年サンデー)
  • ワルリーマン (1971年-1972年、東京タイムズ
  • にちようパパ (1971年-1972年、東京タイムズ日曜版)
  • ケムゴロー (1971年-1972年、小学四年生)
  • 名人 (1971年-1973年、リイドコミック
  • ワンペイ (1972年、赤旗日曜版)
  • クロッケくん (1972年-1973年、小学四年生)
  • はくち小五郎 (1972年-1974年、冒険王)
  • ひさし笑劇場(1972年-1973年、オール読物) 原作:井上ひさし
  • 赤塚不二夫のギャグゲリラ (1972年-1982年、週刊文春
  • くそババア!!(1972年-1973年、まんがNo.1)原作:滝沢解
  • ワンペイモウチャン (1972年-1973年、赤旗日曜版)
  • スケ番ケロ子 (1973年、週刊少年チャンピオン)
  • 赤塚不二夫の 歌謡ギャグ劇場 (1973年-1975年、月刊明星
  • ニャロメ (1973年-1974年、リイドコミック)
  • ギャグギゲギョ (1974年、週刊少年キング)山田一郎名義
  • おいらダメ高 (1974年、高二コース)
  • 少年フライデー (1974年-1975年、週刊少年サンデー)
  • オッチャン (1974年-1975年、週刊少年キング)
  • ワルワルワールド (1974年-1975年、週刊少年チャンピオン)
  • おまわりさん (1974年-1977年、全電通文化)
  • つまんない子ちゃん (1975年-1976年、月刊プリンセス
  • ニャンニャンニャンダ (1975年-1976年、冒険王)
  • B.C.アダム (1975年、週刊少年マガジン)
  • のらガキ (1975年-1976年、週刊少年サンデー)
  • オッチャン PARTII (1975年-1976年、週刊少年キング)
  • ラクガキ (1975年、読売新聞日曜版)※月一連載
  • 四畳半の西日 (1975年、新潟日報
  • ひさし・不二夫の漫画全集 (1976年、週刊小説
  • わんぱく天使 (1976年-1977年、月刊プリンセス)
  • 母ちゃんNo.1 (1976年-1977年、週刊少年サンデー)
  • コングおやじ (1976年-1977年、週刊少年キング)
  • タトルくん (1977年、マンガくん
  • 建師ケン作 (1977年、週刊少年マガジン)原作:牛次郎、協力:さいとうあきら
  • 怪球マン (1977年-1978年、どっかんV
  • 不二夫のギャグありき (1977年、週刊少年サンデー)
  • ハウスジャックナナちゃん (1977年、週刊少年マガジン)原作:筒井康隆(「家族八景」)
  • あんたが名人 (1977年-1978年、コミック野郎
  • おバカさん (1978年、週刊少年マガジン)原作:遠藤周作
  • アニマル大戦 (1978年、週刊少年キング)
  • まめたん(1978年-1982年、小学一年生)* ちびママ (1978年-1979年、どっかんV)
  • アニメまんが (1978年、アニメージュ
  • ニャロメの研究室 (1978年、コスモコミック
  • 荷車権太郎(1978年、週刊漫画アクション
  • いじわる爺さん(1978年-1979年、週刊漫画アクション)
  • ダダ氏(1978年-1979年、新美術新聞)
  • ブックリぎょうてん(1979年-1981年、親子読書)
  • 赤塚不二夫のギャグランド (1979年、リイドコミック)
  • モンスター13番地 (1979年、少年チャレンジ
  • おじさんはパースーマン (1979年-1981年、小学五年生)
  • まめたん(1979年、小学二年生)
  • ロメオとジュリー (1980年、少年チャレンジ)
  • チビドン (1980年-1981年、月刊コロコロコミック
  • キャスター (1980年、ポップコーン)過激な内容が問題視され雑誌回収騒動に到った問題作
  • ババッチ先生 (1980年-1981年、少年少女新聞
  • なんじゃらママ (1980年、少年チャレンジ)
  • 乙女座★虎右衛門 (1981年、週刊ヤングジャンプ
  • 花の菊千代 (1981年-1982年、月刊コロコロコミック)
  • ワルちゃん(1981年-1983年、小学五年生)
  • ピヨ13世 (1981年、ジャストコミック
  • カマラマン荒気だ!!(1981年、月刊ギャグダ)
  • 赤塚不二夫のギャグ・フォトランド (1981年-1982年、ショートショートランド
  • 四谷「H」(1982年、ジャストコミック)
  • お笑いはこれからだ(1982年-1984年、小説新潮
  • 不二夫のワルワル・ワールド (1982年-1983年、別冊コロコロコミック
  • 不二夫と菊千代の交換日記(1983年-1984年、いんなあとりっぷ
  • 赤塚不二夫の文学散歩 (1983年-1985年、オール讀物
  • 松尾馬蕉 (1983年、平凡パンチ
  • 今週のダメな人(1983年-1985年、週刊宝石
  • 今週のアダムとイフ(1983年-1984年、女性自身
  • にっぽん笑来ばなし(1983年-1985年、2001
  • 週刊スペシャル小僧! (1983年-1984年、週刊少年チャンピオン)
  • 吾輩は猫・菊千代である(1984年-1990年、いんなあとりっぷ)
  • TOKIOとカケル (1985年、週刊少年チャンピオン)
  • トキワ荘グループ テーマ競作選 (1985年-1986年、コミックWOO
  • 「大先生」を読む。 (1986年-1989年、ビッグコミックオリジナル
  • 花ちゃん寝る(1986年-1987年、話のチャンネル)
  • ヤラセテおじさん(1987年、週刊大衆
  • 大日本プータロー一家 (1990年-1991年、コミックボンボン)
  • へんな子ちゃん (1990年-1994年、週刊女性)1967年版「へんな子ちゃん」のリメイク
  • 赤塚不二夫のギャグ屋 (1991年、週刊現代
  • MR・マサシ (1991年-1992年、コミックボンボン)
  • そんごくん (1992年、デラックスボンボン)
  • ネコの大家さん (1993年-1994年、デラックスボンボン)
  • 母ちゃんNo.1 (1994年-1995年、デラックスボンボン)
  • 下落合シネマ酔館 (1994年-1996年、ビッグゴールド)赤塚不二夫&やまさき十三名義。映画について語る対談連載
  • バカボン線友録 (1995年、スポーツニッポン
  • 赤塚不二夫のアニマルランド(1995年、まんがジャパンダ
  • 酒仙人ダヨーン(1999年、ビッグコミックスペリオール

主な読み切り[編集]

単行本[編集]

(※エッセイ、共著、対談集、絵本などを含む)
  • 嵐をこえて (1956年、曙出版) - デビュー作
  • 湖上の閃光 (1956年、曙出版)
  • 心の花園 (1957年、曙出版)
  • 消えた少女 (1957年、曙出版)
  • 白い子犬(天使) (1957年、若木書房
  • その仮面をとれ (1957年、若木書房) - 石森章太郎との合作、石塚不二太郎名義
  • お母さんの歌 (1958年、若木書房)
  • シェー!!の自叙伝 (1966年、華書房) 
  • 赤塚不二夫全集(曙出版)
    1. ナマちゃん(1968年)
    2. ナマちゃん(1968年)
    3. おハナちゃん(1968年)
    4. お助けくん(1969年)
    5. お助けくん(1969年)
    6. お助けくん(1969年)
    7. お助けくん(1969年)
    8. まかせて長太(1969年)
    9. そんごくん(1969年)
    10. そんごくん(1969年)
    11. おた助くん(1969年)
    12. おた助くん(1969年)
    13. 九平とねえちゃん(1969年)
    14. キビママちゃん(1969年)
    15. いじわる一家 (1970年)
    16. ジャジャ子ちゃん(1970年)
    17. まかせて長太(1970年)
    18. へんな子ちゃん(1970年)
    19. ミータンとおはよう(1970年)
    20. モジャモジャおじさん(1970年)
    21. 男の中に女がひとり 女の中に男がひとり(1970年)
    22. 新版世界名作まんが全集 ハッピィちゃん(1970年)
    23. まつげちゃん(1970年)
    24. まつげちゃん(1970年)
    25. スリラー教授 いじわる教授(1971年)
    26. われら8プロ(1971年)
    27. おれはゲバ鉄!(1971年)
    28. おれはゲバ鉄!(1971年)
    29. 死神デースⅠ(1971年)
    30. 死神デースII(1972年)
  • まんがプロ入門 (1972年、曙出版)
  • ぶっかれ*ダン(1972年、全3巻)
  • レッツラゴン全12巻(1973年、曙出版)
  • 狂犬トロッキー(1973年、曙出版) - 斎藤あきらとの共著
  • 大バカ探偵はくち小五郎(1974年、全3巻、曙出版)
  • ひみつのアッコちゃん(1974年、全5巻、曙出版)
  • 鬼警部(1974年)滝沢解との共著
  • 少年フライデー(1975年、全2巻、曙出版)
  • オッチャン(1975年、全5巻、曙出版)
  • 幕末珍犬組(1976年、曙出版)
  • ギャグの王様(1976年、上下巻、曙出版)
  • ニャンニャンニャンダ(1976年、全2巻、曙出版)
  • 風のカラッペ(1976年、全4巻、曙出版)
  • ぼくはケムゴロ(1976年、曙出版)
  • ギャグゲリラ(1977年、全3巻、曙出版)
  • ニャロメの万博びっくり案内 (1970年、実業之日本社) - 全3巻
  • まんが入門 (1972年、小学館) - 監修
  • 「別冊まんがNo.1」赤塚不二夫大年鑑 (1973年、日本社
  • 人生破壊学 (1974年、広済堂
  • 赤塚不二夫1000ページ (1975年、話の特集
  • 全部切りぬく本 (1975年、主婦と生活社
  • まんがプロ入門 (1977年、曙出版)
  • 赤塚不二夫の天才バカ本 (1977年、徳間書店
  • 笑わずに生きるなんて (1978年、海竜社
  • マンガとギャグに強くなる本 (1978年、主婦と生活社)
  • まんが劇画ゼミ(1) (1979年、集英社) - 手塚治虫ちばてつやとの共著
  • ボクは落ちこぼれ (1979年、ポプラ社
  • レッツラゴン宣言 (1981年、山手書房
  • ニャロメのおもしろ数学教室 (1981年、パシフィカ
  • ニャロメのおもしろ宇宙論 (1982年、パシフィカ)
  • 吾輩は菊千代である (1982年、二見書房
  • ニャロメのおもしろ生命科学教室 (1982年、パシフィカ)
  • クイズ&パズル無理難題 (1982年、主婦と生活社)
  • ニャロメのおもしろコンピュータ探検 (1982年、パシフィカ)
  • 「日本国憲法」なのだ! (1983年、草土文化) - 永井憲一との共編著
  • 中国故事つけ漫画 (1983年、集英社)
  • ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言 (1983年、日本棋院
  • ニャロメのおもしろ体の不思議探検 (1983年、パシフィカ)
  • ニャロメのおもしろ性教室 (1983年、西武タイム
  • 落ちこぼれから天才バカボンへ (1984年、ポプラ社)
  • ニャロメのたのしい囲碁入門 (1984年、日本棋院)
  • 変態しながら生きてみないか (1984年、PHP研究所
  • マンガ狂殺人事件 (1984年、作品社
  • ニャロメの血液型大研究 (1984年、池田書店
  • 赤塚不二夫の巨人軍笑撃レポート (1985年、日本文芸社
  • ニャロメのおもしろ将棋入門 (1985年、池田書店)
  • ニャロメの非公式 科学万博おたのしみガイドブック (1985年、学研
  • 宇宙の謎 (1985年、潮出版) - 堀源一郎との共著
  • 心と脳の謎 (1985年、潮出版) - 斎藤茂太との共著
  • ニャロメのおもしろ麻雀入門 (1985年、池田書店)
  • ニャロメの原子力大研究 (1985年、廣済堂
  • ニャロメのスターウォーズ大研究 (1986年、廣済堂)
  • 地球外生命七不思議 (1986年、学研)
  • ニャロメの地震大研究 (1986年、廣済堂)
  • いま来たこの道 帰りゃんせ (1986年、東京新聞出版局
  • ビジネス古典コミックス(ダイヤモンド社
  • ニャロメの異常気象大研究 (1987年、廣済堂)
  • マンガゼミナール古典入門(学研)
  • ビジネス風林火山 (1987年、講談社) - 赤塚不二夫とフジオ・プロ名義
  • ラディカル・ギャグ・セッション (1988年、河出書房新社
  • アドベンチャーノベルズ 赤塚不二夫劇場 (1988年、JICC出版局) - 文:喰始、挿絵:赤塚不二夫
  • まんが「消費税戦略」入門 (1989年、ダイヤモンド社)
  • 赤塚不二夫の名画座・面白館 (1989年、講談社)
  • 地獄の交遊録 (1989年、コア出版
  • 赤塚だァ! 菊千代だァ! (1991年、いんなぁとりっぷ社
  • これでいいのだ (1993年、NHK出版
  • 赤塚不二夫とタモリの西サモアに行ってこれでいいのだ (1994年、講談社)
  • ニャロメのなぞなぞ1 (1994年、岩崎書店
  • ニャロメのなぞなぞ2 (1995年、岩崎書店)
  • ニャロメのおもしろ数学教室 (1995年、新構社
  • ボクの満洲 漫画家たちの敗戦体験 (1995年、亜紀書房) - 中国引揚げ漫画家の会編
  • バカボン線友録 赤塚不二夫の戦後漫画50年史 (1995年、学研)
  • 赤塚不二夫の「これでいいのだ!」人生相談 (1995年、集英社)
  • 赤塚不二夫のハチャメチャ哲学 (1996年、ごま書房
  • 赤塚不二夫の「人生これでいいのだ!?」 (1996年、日本文芸社)
  • 下落合シネマ酔館 (1996年、小学館) - 赤塚不二夫&やまさき十三名義
  • 吾輩は猫なのだ (1997年、扶桑社
  • 友達とは何か? (1997年、ポプラ社)
  • いま来たこの道 帰りゃんせ (1997年、小池書院
  • 赤塚不二夫の特集 (1997年、自由国民社) - 矢崎泰久坂梨由美子
  • 男の哲学 (1998年、ごま書房)
  • 源氏物語 (1998年、学研)
  • 平家物語 (1998年、学研)
  • ニャロメのおもしろ血液型雑学知識 (1998年、三心堂出版社
  • 赤塚不二夫1000ページ (1998年、扶桑社)
  • 人生これでいいのだ!! (1999年、集英社)
  • 赤塚不二夫120% (1999年、アートン
  • これでいいのだ。 赤塚不二夫対談集 (2000年、メディアファクトリー
  • 赤塚不二夫のさわる絵本よーいどん! (2000年、小学館)
  • 人生まるわかり 「バカボングラム」 (2001年、双葉社) - 監修
  • アカツカNo.1 赤塚不二夫の爆笑狂時代 (2001年、イーストプレス
  • バカは死んでもバカなのだ 赤塚不二夫対談集 (2001年、毎日新聞社
  • 赤塚不二夫これでいいのだ (2002年、日本図書センター
  • 赤塚不二夫のさわる絵本 「ニャロメをさがせ」 (2002年、小学館)
  • 赤塚不二夫のおコトバ (2005年、二見書房) - マンガ人生50周年記念出版

代表的なギャグ[編集]

  • シェー!(『おそ松くん』、イヤミ)
  • だよーん(『おそ松くん」、ダヨーン)
  • これでいいのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • 賛成の反対なのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • 不思議だが本当だ。本当だが不思議だ(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • おでかけですか?レレレのレ(『天才バカボン』、レレレのおじさん)
  • タイホする!(『天才バカボン』、おまわりさん)
  • 国会青島幸男が決めたのか?(『天才バカボン』ほか)
  • 忘れようとしても思い出せない(『天才バカボン』ほか)
  • …でやんす(『もーれつア太郎』、ケムンパス)
  • …のココロ?(『もーれつア太郎』、ココロのボス)
  • …べし(『もーれつア太郎』、べし)
  • …だニャロメ!(『もーれつア太郎』、ニャロメ

その他[編集]

  • タモリ - 山下洋輔らに見出され、赤塚が物心両面を支え、後ろ盾となって芸能界デビュー。以来、交友を続けた。弔辞にて「私もあなたの作品の一つ」と述懐した。
  • 山下洋輔トリオ 『ミナのセカンド・テーマ』アルバム内ジャケット (1969年) ※べしを描いた。
  • 映画批評』表紙イラスト (1972年 - 1973年)
  • つボイノリオ怪傑黒頭巾』シングルジャケット (1976年) ※バカボンのパパと目玉つながりのおまわりさんを描いた。[92]
  • 喜納昌吉&チャンプルーズハイサイおじさん』シングルジャケット (1977年)
  • でん六 「赤塚不二夫の鬼の面」(節分用豆製品付録)デザイン(1971年 -) ※1977年を除く。また2003年以降の実質作者はフジオ・プロ。
  • ゲームソフト 『爆伝 アンバランスゾーン』 キャラクターデザイン(1994年)
  • 所ジョージ「チャイニーズ・ホテル・ブルース」(1979年)作詞
  • ぺいざん(赤塚不二夫命名の馴染みの洋食店)[93]

主な出演番組[編集]

「赤塚不二夫」を演じた俳優[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 現・中華人民共和国北京市密雲縣古北口と河北省承德市灤平県との境界線
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  8. ^ 最初、よこたと共に若木書房に持ち込みにいったが、よこたの漫画のみ採用され、二件目に行ったのが曙出版である。
  9. ^ a b c d これでいいのだ!! 赤塚不二夫 伝説”. フジテレビジョン (2010年8月29日). 2010年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  10. ^ 2005年二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.60に「(トキワ荘仲間の中で)オレだけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」という赤塚の発言が、藤子不二雄によって紹介されている。
  11. ^ 藤子不二雄A『78歳いまだまんが道を…』p.68
  12. ^ 原稿提出日を「今日か明日か」と言うことから「泉鏡花」を連想し、そこをもじって「いずみあすか」となった
  13. ^ a b 石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元『少女クラブ』編集長)対談(第2回)”. 石森章太郎プロ. 2008年2月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  14. ^ 3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補となり、そこにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」となり3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)になるようにもじって「U・MIA」、表記をカタカナとし「U・マイア」となった
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  18. ^ ただし赤塚は同社の出版部門のみに属し、アニメーション部門にはノータッチであった。文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、河出書房新社)P.249より。
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  70. ^ ビートたけしも一時的に参加した事があったが(本人の項参照)、グループの雰囲気が肌に合わず離れている。但しその後も赤塚の対談集『これでいいのだ。』へ参加したり、バカボンのパパを思わせる扮装を好んで披露したりしている。共演頻度こそ少ないがタモリとも交流を保っており、また所ジョージとは公私に亘っての盟友関係にある。
  71. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P244~245)に「オレ、由利徹、尊敬しているの。あの人、ずうっと、くだらないことやり続けてるじゃない」「オレは由利徹で行く。死ぬまでくだらない漫画描き続ける」という、赤塚の発言がある。
  72. ^ 1989年5月、あるパーティーで川内と初めて会った際、かつて『天才バカボン』の作中で「月光仮面は誰でしょう」の替え歌(「ウナギイヌの歌」」)を川内に無断で作り、載せていたことに関し、赤塚は「勝手に書いてすみませんでした」と頭を下げ、それを受けて川内は「いいよいいよ」と笑って応えた。それ以来、2人の親交は続いたという(2005年・二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.142~143より、川内の証言)。
  73. ^ コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち〜 第3回 北見けんいちさん”. コミックパーク. 2006年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  74. ^ 1997年・冒険社刊「ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫との漫画格闘記」、2005年・マガジンハウス刊「赤塚不二夫―天才ニャロメ伝」(共に長谷邦夫著)、2005年・辰巳出版刊「赤塚不二夫でいいのだ!!」で、長谷邦夫、高井研一郎がそれぞれ証言。
  75. ^ 赤塚不二夫『ラディカル・ギャグ・セッション』(1988年、河出書房新社刊) 179頁、名和広『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ』的解釈 Book1 」(2011年、社会評論社刊) 75、76頁より。
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外部リンク[編集]