藤子不二雄

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藤子 不二雄
本名 藤本 弘(藤子・F・不二雄、以下「F」)
安孫子 素雄(藤子 不二雄、以下「A」)
生誕 1933年12月1日(F)
1934年3月10日(A)
日本の旗 日本 富山県
高岡市(F)
氷見市(A)
死没 1996年9月23日(満62歳没)(F)
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1951年1987年
代表作 オバケのQ太郎
受賞 第8回小学館漫画賞
(『すすめロボケット』『てぶくろてっちゃん』)
第27回小学館漫画賞児童部門
(『ドラえもん』)
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藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は日本漫画家ユニットで、本名 藤本弘(のちのペンネーム 藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(同 藤子不二雄)の共同ペンネームである。1951年にコンビを結成。足塚不二雄などの名義を経て、1954年から、コンビを解消する1987年まで使用。

コンビ結成時から長らく2人で話を考え2人で絵を描いてきたが、互いの作風に変化が出てきたのちは別々に作品を執筆し、それぞれが共通の「藤子不二雄」名義で発表していた。

コンビ解消後は別々にペンネームを名乗り(藤本→「藤子・F・不二雄」、安孫子→「藤子不二雄」)、コンビ解消前の作品の多くがそれぞれの名義に改められた。

代表作は『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数。

プロフィール[編集]

経歴[編集]

高岡時代[編集]

1944年(昭和19年)9月に、安孫子が、藤本のいる高岡市立定塚小学校に転校してきて、同じクラスになった。安孫子が休み時間にノートに漫画を描いていたところ、それを見た藤本が話し掛けたことで2人は仲良くなり、いつも一緒に遊んでいたという。ただし、漫画を書いているということは「恥ずかしい」ということで他の同級生にはひた隠しにしていた。

中学2年の時に、手塚治虫の「新宝島」に衝撃と大きな影響を受け漫画家を志す。(この時の強い衝撃は著書「まんが道」でも大きく語られる。)この頃、手先の器用な藤本が反射幻燈器を制作。それに使う漫画「天空魔」を共同で描いたのが初めての合作となる。紙芝居屋的な感じで近所の子供たちに読み聞かせていたという。また、同時期に漫画・小説をはじめ広告まで全て手書きという雑誌のパロディ『少太陽』[2]を制作。

中学から高校にかけて『漫画少年』をはじめとした雑誌投稿をはじめた。当初はそれぞれが単独で投稿していたが、入選率は藤本の方が断然よく、安孫子は屈辱感と嫉妬に悩まされたこともあった。しかし合作をはじめるようになると、藤本が才能を発揮してもそうした心理的屈折がなくなったという[3]。高校2年頃から完全に合作に切り替え、共通の郵便貯金口座を作り、原稿料を管理するようになった。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し、一緒に映画を鑑賞するようになった。これがきっかけで藤子不二雄名義で描いたもののギャラは全て二分割というスタイルがコンビ解消時まで貫かれた[4]

彼らは手塚治虫のことを尊敬し手塚に手紙を書いたところ「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と手塚から直筆のハガキを受け取った。これはますます彼らを漫画家になることを決意させた。この頃の二人は手塚治虫の模写ばかりしており、漫画の内容も手塚タッチであった。

1951年(昭和26年)に『毎日小学生新聞』へ手紙と4コマ漫画を送る。手紙の内容は「ぼくたちは富山の高校生です。手塚治虫先生の大ファンで、マァチャンの日記帳からの愛読者です。今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい[5]」というものであった。 そしてひと月が経ち『天使の玉ちゃん』は掲載され、事実上のデビュー作となる(なお、『まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく、安孫子がリメイクしたものである)。またこのことで、二人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。

同年2人は高校卒業後は就職することにしたが、漫画家への夢を諦めきれずに春休みを利用して宝塚手塚治虫の自宅へ訪れた。そこで2人が書いた漫画(『ベン・ハー』)を手塚に見せる。手塚はその際「うん、上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心はあまりの上手さに衝撃を覚え「とんでもない子達が現れた……」と驚いたという。この時2人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた[6]。安孫子は手塚と初めて会った際のエピソードとして「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組で語っている。 また、二人はこの時に大好きだった手塚の『来るべき世界』の生原稿を見せてもらい感激する。しかし、その原稿は1300ページも有り二人が知っている内容ではなかった。手塚が「ああ、それはね、没にした原稿なんだよ」というと、二人は「手塚先生は700ページも没にして漫画を描くのか!」と驚いたという[7]

その後二人は漫画家を目指すにあたり、1人でやるより2人でやった方が力になるだろうということで合作を決意。以後、『新宝島』の手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」足塚不二雄名義になった。

高校卒業後(1952年・昭和27年)、安孫子はおじが経営していた富山新聞社へ入社、藤本は製菓会社へ入社した。しかし、藤本は機械に腕を巻き込まれ大怪我をしてしまい、仕事が合わないと思い数日で辞めてしまう。安孫子は得意の漫画をいかして紙面にイラストを多く取り入れるなどし、順調に会社勤めをこなしていた。一方、藤本は雑誌社へ送る漫画を描き、週末には安孫子も手伝うという状態だった。足塚不二雄にとって初めての連載作品である『四万年漂流』を連載しはじめたが、数回で打ち切られる。その後、最初で最後の書き下ろし単行本であり藤子不二雄(当時は足塚不二雄名義)の初めての単行本の『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)が出版される。これは名義が「足塚不二雄」であり、現存冊数も少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本の一つである。

上京、トキワ荘へ[編集]

1954年(昭和29年)6月10日、藤本が安孫子を誘う形で2人は上京。後がない藤本と違って、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っている。最初に2人が暮らしたのは東京都江東区森下にある安孫子の親戚の家を間借りした2畳の和室であった。東京ではトキワ荘豊島区)に住んでいた寺田ヒロオ、ならびに同じ寺田の弟分である森安なおや永田竹丸坂本三郎と新進児童漫画家のグループである「新漫画党」を結成。この頃描いた『探偵王』の読みきり・『宇宙鉱脈』から、ペンネームを「足塚不二雄」から2人の名前を取って「藤子不二雄」に変更。やがて手塚治虫がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の2人は手塚がいた部屋の後釜に納まる。その時、二人は憧れの手塚治虫がいたトキワ荘14号室で漫画が描けることに喜んだという。またお金のない二人のためにトキワ荘の敷金は手塚が肩代わりしており、手塚が使っていた漫画を描く机もそのままにしておいた。そのため、二人がトキワ荘時代に描いた漫画は手塚が使っていた机と同じ机で描かれたものである。

トキワ荘入居後、読みきり作品や新漫画党メンバーによる合作などをこなしていくうちに仕事が急増し、毎月6本の連載漫画を持つようになる。二人は度々手塚治虫の漫画を手伝うこともあった。

しかし、自己の能力の限界を無視して仕事を引き受け過ぎたため、1955年1月、富山に一時帰省中、連載の〆切をほとんど落とすという大失態を演じてしまう。

以後、一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり、再びトキワ荘に戻る。約1年間は雑誌社から干されて不遇をかこつが、何とか復帰を果たす。またこの頃より合作ではなく、単独で描いた漫画が徐々に増えていく。また、近所のアパートの一室を借りてその部屋を仕事場とした。

漫画を描くかたわらで、当時珍しかったテレビ秋葉原で購入したり、8ミリカメラで映画を製作したりする。テレビの導入は週刊誌での連載が増えて〆切日も短くなったため、時間や話題を知るために役に立ったといい、仕事中はつけっぱなしにしていたという。

1961年、トキワ荘を出る[8]小学館が創刊した『週刊少年サンデー』に「海の王子」(合作)を連載。1960年、光文社の『少年』で「シルバークロス」(安孫子)連載。

スタジオ・ゼロと『オバQ』[編集]

1963年(昭和38年)、鈴木伸一・石森章太郎・つのだじろうらとアニメーション・スタジオであるスタジオ・ゼロを結成。

1964年に藤子不二雄の2人とスタジオ・ゼロの雑誌部によって描かれた『オバケのQ太郎』が大ヒット(連載は「週刊少年サンデー1964年6号からで、同号発売が1月22日、誌面にクレジットの発行日は2月2日)。これまではシリアス志向の作品が多かったが、これにより「ギャグ漫画の藤子不二雄」として広く認知されるようになる。この時期には週刊少年キングフータくんを、週刊少年マガジンわかとの(こちらも藤子不二雄とスタジオゼロ名義)を連載していて、藤子不二雄として週刊三誌同時連載となった。[9]

これに続いて『パーマン』(藤本)・『忍者ハットリくん』(安孫子)・『怪物くん』(安孫子)・『21エモン』(藤本)・『ウメ星デンカ』(藤本)などの現在でもよく知られた漫画が続々と発表され、またアニメ化される。

2人の路線の乖離[編集]

1960年頃から、劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。

1968年(昭和43年)に『ビッグコミック』で安孫子は「黒イせぇるすまん」を発表。それまでもブラックな漫画をしばしば発表していたが、大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。また少年漫画においては1972年に連載を開始した『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』のようなブラックな漫画を描いていた。その他に安孫子の趣味であるゴルフを生かして『プロゴルファー猿』といった大作も生まれた。

一方、藤本は基本的には児童漫画に専念していた。しかし劇画隆盛の中、『ウメ星デンカ』や『モジャ公』など思うように人気が出ず悩んでいたと言われる。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」とこれを拒否している。そんな中、1970年(昭和45年)に連載が開始された『ドラえもん』が小学生の間で徐々に人気が上がっていく。また、『ミノタウロスの皿』はじめSF短篇作品を多数発表しており、こちらは青年漫画雑誌、SF専門誌などでも発表した。

コンビ解消までは、二人が合作を取り止め、それぞれの作品に専念するようになったことは、積極的には公言していなかった。たとえば、1977年初版の自伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、安孫子はどちらの作品も「僕たち」の作品と表現している[10]。また、作中に作者本人が描かれる時は、二人揃って登場した[11]。そのため、実際には自分の執筆では無い作品について取材を受けたり、コメントをすることもあった。しかし、両者の作風の違いは徐々に読者にも知られるようになり[12]、安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されるようになった[13]。安孫子はブラックユーモアを好んだことに加え、藤本より線が太く、絵の感じが黒っぽいことによる。

ドラえもん人気爆発と藤子不二雄旋風[編集]

ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が1977年(昭和52年)に創刊し、また『週刊少年キング』には藤子不二雄の自伝的漫画である『まんが道』(安孫子)も連載された。

1979年に『ドラえもん』がテレビ朝日系列でアニメ化(二度目)。『ドラえもん』人気が不動のものとなり、翌年の1980年には映画化され、今日まで続くシリーズ作品となる。『ドラえもん』に続いて1980年代には『怪物くん』・『忍者ハットリくん』・『パーマン』・『オバケのQ太郎』・『プロゴルファー猿』・『エスパー魔美』・『ウルトラB』・『ビリ犬』・『チンプイ』が、他局でも『キテレツ大百科』・『ポコニャン!』・『モジャ公』が立て続けにテレビ・アニメ化や映画化されるなど藤子不二雄アニメがテレビに溢れ、これらのアニメがまとめて見られる番組(『藤子不二雄ワイド』など)が放送されるほどであった。また藤子不二雄の漫画全集である『藤子不二雄ランド』が創刊された。

一見すると好調に見える時期だが、藤本はしばしば体調を崩し、『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』(1988年公開)は映画原作漫画が描かれなかった。

コンビ解消[編集]

1987年(昭和62年)、コンビを解消する。コンビ解消の理由については藤本が「実際一緒に作品を描いたのは最初の頃だけで、以降はお互いが別々に作品を描いては藤子不二雄の名前で発表していたものですから、もうここらへんで、お互いに藤子不二雄のネーム・バリューに頼らず一本立ちしていってもいいんじゃないか、と話し合い解消しました」などと共同で発表した。安孫子は「藤子スタジオ」に残り、藤本は「藤子プロ」を立ち上げ、藤子スタジオの隣のビルに移った。コンビ解消後は、互いに会う機会は少なくなったが、映画の試写会で顔を合わせるのが常だったという。

コンビ解消後安孫子は藤子不二雄に、藤本は藤子不二雄としたが、1年後に藤子不二雄は「あのね、藤子不二雄Fじゃちょっと語呂が悪いよ。Fを真ん中に持ってきたらどうだ? ミドルネームみたいでかっこいいじゃないか」という石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へと変えた(安孫子は現在も藤子不二雄として執筆活動を続けている)。

後に安孫子はインタビュー(『別冊宝島』409 ザ・マンガ家 / 宝島社)で、コンビ解消の理由として「藤本は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画やるとは思わなかったし、やることはやり尽くして来たので、あとは好きなように気楽にやろうと別れた(以上要約)」と語っている[14]

しかし『笑ゥせぇるすまん』の元となった『黒ィせぇるすまん』はコンビ解消から20年近く前(昭和40年代)に執筆された作品であり、その時期既に安孫子は『黒ベエ』、『ブラック商会変奇郎』など、昭和50年代には『魔太郎がくる!!』などダークな作品群を多く発表している。

安孫子によると、青年漫画を描くようになっていた40歳のころ(1973年ころ)、「先生はこのごろなぜ少年雑誌にマンガをかかないのですか。これからは少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」という子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意した[15]。しかし後年、安孫子は藤本の『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て、「このままだと、藤本氏のマネジャーアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたと振り返っている[16]。安孫子はその後、再び青年・大人向け漫画での活動が多くなるが、ブラックユーモアを描くようになってから、コンビ解消を決断するまで、かなり長い期間を必要とした。

また安孫子は「自分は社交性があるため、ゴルフを覚えたが、藤本はそのようなことは一切しなかった[17]。結果的に藤本は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」とも語っている。

伝記本による[要出典]と、藤本が入院した時にコンビ解消を考えたともいわれる。藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって著作権と金銭で確執が起こると考え(特に実質的に藤本作品である『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想された)、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという[18]。安孫子によると、コンビ解消を切り出したのは、藤本の方であった[19]。また藤本夫人の藤本正子によると、きっかけは1986年、藤本の入院だった。胃癌[20]の手術後、藤本は復帰したが、また体調を崩し、その翌年に「安孫子氏と別れようと思う」と打ち明けた。正子は「(復帰後の)スタジオの雰囲気が違っていたのでしょう」と述懐している[21]

藤子・F・不二雄死去後から現在[編集]

コンビを解消した後、藤子不二雄二人の合作は中央公論社の『藤子不二雄ランド』が絶版すると、遺族の著作権によって完全に読むことが20年近く不可能となってしまった。しかし2009年『藤子・F・不二雄大全集』が刊行され、『オバケのQ太郎』をはじめとした2人の合作が復刊された。2010年には『二人で少年漫画ばかり描いてきた』が復刊され、2011年には『UTOPIA 最後の世界大戦』も復刊され、合作作品を容易に購入することが可能になってきた。一方、安孫子の作品はかつての『藤子不二雄ランド』のうち安孫子の分だけが2002年よりブッキングから『藤子不二雄ランド』として復刊し、全集ではないものの体系的に読めるようになっている。

コンビ解消時は、合作作品は「藤子不二雄」名義のまま発売を続けていた。しかし21世紀に入ってからの復刻では、著者名表記を「藤子・F・不二雄、藤子不二雄」と連名にしており、共同ペンネームである「藤子不二雄」は合作でも使われなくなっている。

また、安孫子のコラボレーション作品である『忍者ハットリくん+パーマン』など、発売の見込みが経っていない作品もいまだに存在する。

受賞歴[編集]

  • 第8回(昭和37年度)小学館漫画賞受賞(『すすめロボケット』『てぶくろてっちゃん』)
  • 第27回(昭和56年度)小学館漫画賞児童部門 受賞(『ドラえもん』)

藤子不二雄の作品[編集]

藤本弘と安孫子素雄の共著。それぞれが単独で執筆した物については藤子・F・不二雄藤子不二雄を参照。

漫画[編集]

初期の作品に、

  • 天使の玉ちゃん(1951-52年)
  • ある日本人留学生からのローマ便り(1954年)
  • 海の王子(1959-61年)
  • 星の子ガン(1961年)
  • 名犬タンタン(1965-68年)
  • チンタラ神ちゃん(1967-68年)
  • 仙べえ(1971-72年)

などがある。

UTOPIA 最後の世界大戦
1953年(昭和28年)に鶴書房から足塚不二雄名義で出版される。藤子不二雄の初の単行本化された作品。
海の王子
1959年 - 1964年に『週刊少年サンデー』などに連載される。 藤子不二雄初の週刊誌連載漫画。
オバケのQ太郎
1964年 - 1966年、1971年 - 1974年に『週刊少年サンデー』などに連載される。
大原家にやってきた一匹のオバケ・Q太郎が起こすいろいろな騒動を面白おかしく描いた生活ギャグ漫画。三度にわたってアニメ化された(1965 - 1967年、1971 - 1972年、1985 - 1987年)。
1965年 - 1967年に連載されたなかで一部合作ではなく藤本のみで描かれた作品もある。1965年 - 1967年の『週刊少年サンデー』連載分は、石森章太郎も一部作画に加わっている。1971年 - 1974年に連載された作品は、藤本が大部分を手がけ、安孫子は一部の作画以外は関与していないとされる。
仙べえ
1971年 - 1972年に『週刊少年サンデー』に連載される。
半人前の仙人・仙べえが100年後の現代に帰ってきて、弟のひ孫である峰野家に居候して騒動を巻き起こすギャグ漫画。ストーリーと背景の作画を藤本が、キャラクターの作画を安孫子が担当した。

自伝[編集]

二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史
TBS調査情報』連載の「僕たちはこの歳になっても、まだ少年漫画を描いている」を元にしている。『調査情報』の今井明編集長に安孫子が勧められて始めた連載であった。
安孫子の『まんが道』とは異なり、純然たる自伝。また、漫画ではない。主に安孫子が書き、各章の冒頭に藤本の「中書き」が付いている。中書きと本文の字数の比が、藤本と安孫子の「普段の口数の比に等しいとお考え下さい」と、藤本は述べている[22]。巻末の年表は、石子順造『戦後マンガ史略年譜』[23]の年表を元に加筆変更したもの。
文春文庫版では、一部の誤字が訂正された。また本文中の図表、巻末の年表が加筆、あるいは変更されている。後書き(安孫子の筆)では『ドラえもん』が大ブームになったことが記され、少年漫画の世界に戻ったのは間違っていなかったこと、また(安孫子作の)『少年時代』の反響について記されている。
日本図書センターの復刻版では著者名表記が「藤子不二雄」から「藤子不二雄」「藤子・F・不二雄」連名に変わった。誤字(「ドラえもん」を「どらえもん」と表記しているなど)などもそのまま復刻している。また、毎日新聞社版の復刻であるため、文春文庫版の加筆部分は収録されていない。

共通の設定[編集]

藤子不二雄の頃、設定したもので、コンビ解消後も、それを受け継いでいる。

藤子不二雄藤子・F・不二雄の両方の漫画に登場するキャラクターとして

などがいる。

カメオ[編集]

全集・選集[編集]

関連項目[編集]

藤子不二雄研究を取り扱った書籍[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、323 - 324頁
  2. ^ 当時製作された『少太陽』は数冊現存し、1995年に『開運!なんでも鑑定団』にて1200万円と鑑定されている(出演・持込をしたのは藤本。また、鑑定士はこの1冊のみが現存すると思って鑑定した値段であったが、鑑定後、藤本が「安孫子も同じ物を所有している」と言うと「なら(1冊だけじゃないなら)値段はちょっと下がる」と答えている。)。
  3. ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版pp.64-65
  4. ^ 阿川佐和子『阿川佐和子のこの人に会いたい』(文春文庫、1997年)P.210 藤子不二雄Aのインタビュー
  5. ^ 毎日新聞社 手塚治虫デビュー作品集 1991年 P.9 冒頭文より
  6. ^ NHKこの人藤子不二雄ショー』 1985年3月14日
  7. ^ 小学館版学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」1997年 P.55
  8. ^ 稲垣高広 『藤子不二雄Aファンはここにいる Book1 座談会編』 社会評論社、2009年、18頁。ISBN 978-4784509386
  9. ^ 幸森軍也『ゼロの肖像』講談社、2012年、82頁。
  10. ^ 藤子不二雄A、藤子・F・不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.250
  11. ^ 藤子・F・不二雄『ドラえもん』てんとう虫コミックス10巻 「見えなくなる目ぐすり」
  12. ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』に序文を寄せた手塚治虫は、「両氏の個性は作品を一目見ればすぐ見分けがつく」と指摘しており、二人が合作を取り止めたことが分かるようになっている。 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.3
  13. ^ 藤子不二雄A『78歳いまだまんが道を…』 p.100
  14. ^ 参考:ドラえもんコラム008
  15. ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版pp.260-263
  16. ^ 讀賣新聞』2010年7月5日号、藤子不二雄『78歳いまだまんが道を』 p.110
  17. ^ 大山のぶ代によると、藤本はアニメ『ドラえもん』関係者によるゴルフコンペ「ドラコン会」には参加していたが、ゴルフをするのは年に1、2度と本人に言われたという。大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。』 小学館文庫、pp.112-113
  18. ^ 安藤健二「封印作品の謎2」太田出版、P181~184
  19. ^ 藤子不二雄 「未来の国からはるばると」『NHKテレビテキスト こだわり人物伝』2010年4-5月号(第6巻3号)、日本放送出版協会、p.22
  20. ^ 藤本は告知を受けていなかった。
  21. ^ 藤本正子 「パパの四次元ポケット」『NHKテレビテキスト こだわり人物伝』2010年4-5月号(第6巻3号)、日本放送出版協会、p.54
  22. ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版p14
  23. ^ 至文堂『現代のエスプリ』108号 「戦後マンガ史略年譜」石子順造、長谷川正信のこと。

外部リンク[編集]