藤子・F・不二雄

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藤子・F・不二雄
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本名 藤本 弘[1]
生誕 1933年12月1日[1]
日本の旗 日本 富山県高岡市[1]
死没 1996年9月23日(満62歳没)[1]
日本の旗 日本 東京都新宿区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1951年 - 1996年
ジャンル 幼年漫画SF漫画
代表作 オバケのQ太郎』(共作)
パーマン
21エモン
ドラえもん
キテレツ大百科
エスパー魔美
チンプイ
受賞 第8回小学館漫画賞
「すすめろぼけっと」「てぶくろてっちゃん」
第27回小学館漫画賞児童部門
第1回手塚治虫文化賞マンガ大賞
(以上『ドラえもん』)
第23回日本漫画家協会賞文部大臣賞
映画特別功労賞
ゴールデングロス賞
アニメーション神戸'96読売賞
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藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)[1]1933年昭和8年)12月1日 - 1996年平成8年)9月23日[1])は、日本漫画家

富山県高岡市定塚町出身。富山県立高岡工芸高等学校電気科卒[1]血液型O型[1]。安孫子素雄(藤子不二雄)と共に”藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表。児童漫画の新時代を築き、第一人者に。代表作は『ドラえもん』、『パーマン』、『キテレツ大百科』、『エスパー魔美』、『21エモン』など。

経歴[編集]

1951年(昭和26年)、安孫子と共に『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が採用され、共に17歳にして漫画家デビューを果たした。製菓会社に就職するが、作業中の不意の事故により漫画が描けなくなることを恐れ3日で退社した。そして自宅で漫画の執筆に専念し、休日は新聞社で働いていた安孫子と合作した。その2年後、安孫子を無理やり誘って上京し「藤子不二雄」の合作ペンネームでプロ漫画家としての活動を始める。2人は博学博識で、そこから生まれるユニークかつユーモア溢れるアイディアは数知れず、低年齢の子供向け作品を中心として、『オバケのQ太郎』、『パーマン』、『ドラえもん』などの国民的な大ヒット作をいくつも生み出した(二人のコンビとしての活動の詳細については、藤子不二雄の略歴を参照)。

1988年(昭和63年)にコンビを解消し、藤本は藤子不二雄として活動を始めたが、約1年後、トキワ荘の仲間だった石ノ森章太郎の助言によって藤子・F・不二雄に改名した。後年になるに従って大人向けのダークな作風が強くなっていった安孫子とやや違って、藤本は時おり大人向きの作品を手がけながらも『ドラえもん』を中心とした子供向け作品をメインに漫画の執筆を続けた。子供向け作品を手がけるその手腕のあざやかさは、「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化する」[2]と評されるように極めて高い評価を得ており、没後も子供漫画の名手としてのその名声は揺らいでいない。

生前
死後

人物[編集]

本人によると、大人しくて真面目で体が弱かった藤本は小学校時代に壮絶ないじめに遭い、番長格の少年から似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せなかったという。その時の気持ちがドラえもん、のび太に活かされているという。また、藤子不二雄の作品『まんが道』にも、その時の描写がある。デビュー後も、社交的でテレビ出演やエッセイ執筆、ゴルフなどもこなす安孫子とは対照的に、コツコツとマンガ執筆に専心していた。

ベレー帽パイプがトレードマークであり、作中に登場する本人の似顔絵にも描かれている。ベレー帽をかぶるきっかけを作った人物は、同じくベレー帽をトレードマークとする手塚治虫ではなく、相棒の安孫子である。ある日、安孫子は知り合いからベレー帽を貰ったが、あまりかぶる気にはならなかったため、それをそのまま藤本に譲った。以来彼のトレードマークになった。なお藤本は「安孫子のほうがおしゃれだから、僕より似合ったはず」と思っていたそうである。

野球好きで、近鉄バファローズファンであった(『小学四年生1971年(昭和46年)1月号で読者の質問に回答)。また鉄道ファンでもあり、鉄道模型が趣味の一つ。1983年(昭和58年)にはテレビ番組『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』にキャラクターと共演している。また鉄道鉄道模型SL等を題材にした作品も多数存在することからも情熱のほどがうかがえる(SF短編『四畳半SL旅行』、『ドラえもん』「SLえんとつ」「のび太の模型鉄道」「天の川鉄道乗車券」、『ポコニャン』「ダイナミックもけい鉄道」など)。

カメラ撮影やジオラマ制作なども趣味であり、ドラえもんのひみつ道具には数多くのカメラが登場するほか、ジオラマ制作について事細かに極意を解いたマニアックな話も登場する。藤本は、ひみつ道具のアイディアをひねり出すヒントの一つに「自分の好きなものをモチーフにする」というのがあり、その一例としてカメラを採り上げていた。その他、特撮、プラモデル、ラジコンなどホビー関連に造詣が深い。

恐竜についての造詣の深さでも知られ、仕事机には始祖鳥の化石のレプリカやティラノサウルスプラモデル、果てには本物のディプロドクスの尾の骨までが飾られていたという。過去にアシスタントのむぎわらしんたろう翼竜のイラストのペン入れを行ったところ、一瞥して即座に「腕の関節がおかしい!」と指摘したこともある[4]。恐竜に関する関心の強さは作品の各所にも現れ、ドラえもん大長編第1作『のび太の恐竜』、第8作『のび太と竜の騎士』や本編の各所、SF短編と『T・Pぼん』などでも恐竜をモチーフにしたエピソードは数多い。

西部劇ガンマンにも関心が強く、それに関した話も少なくない。のび太には射撃の才能があるエピソードが多く描かれており、またドラミとタッグを組んだ後期の話(単行本24巻「ガンファイターのび太」)や『T・Pぼん』やSF短編集(『休日のガンマン』)などで本格的なスタイルのガンマンたちを描いている。藤子不二雄鈴木伸一つのだじろうと共に8mmカメラで西部劇を撮影したこともある。

第二次世界大戦中に小学校時代を過ごした世代であり、大戦終結当時は国民学校(小学校)6年生であった。従って、兵器、軍事、クーデター革命などに関する作品も多くある(『まんが道』では戦艦三面図を描いていたり飛行機の模型がある場面)。作品としてはドラえもんでのスネ夫の戦艦「大和」乗っ取りから潜水艦攻撃までのシーン、大長編『のび太の宇宙小戦争』など。兵器に関しては子供が憧れる格好いいものと描いている描写(スネ夫のセリフなど)があるが、戦争自体への考えは世代に関係なく一貫して虚しいもの、恐るべき物、愚かしい行為として描いている[5]。また、ドラえもん初期には、第二次世界大戦に関するエピソードが幾つか見受けられる(疎開先での児童生活の辛さを描いた「白ゆりのような女の子」、上野動物園での動物の殺処分について触れた「ぞうとおじさん」など)。『T・Pぼん』では主人公たちが特攻隊員に歴史干渉を実施している。

『ドラえもん』など、SF色(特にタイムトラベルを描いた内容)の強い作品の多さなどから解る通り、SFに対しての関心も強かった。SF短編などには、名作SFからの影響や引用が散見できる。『スター・ウォーズ』が大ブームになった時期には、『ドラえもん』の各所に『スター・ウォーズ』にちなんだネタを数多く登場させた(パロディとして描いた「天井うらの宇宙戦争」(姫はアーレ・オッカナ、ロボットはR3-D3、敵はアカンベーダー)の話のほかにも、リザーブマシンで取った映画の席が『スター・ジョーズ』であるなど。SF短編では『ある日…』と『裏町裏通り名画館』に『スター・ウォーズ』のパロディ劇中劇がある)。

落語ファンでもあって、特に古今亭志ん生を好み、ときには落語のネタを自作の中で用いることもあった[6]

初の専属アシスタントとして、『まいっちんぐマチコ先生』で知られるえびはら武司がいる。むぎわらしんたろう(萩原伸一)もアシスタントとして晩年の藤本を支え、一緒に劇を見たり途中でそばを食べるなどとかなり親密な関係だった。また、むぎわらが描いた漫画に細かい部分まで指導を行ったり、『ドラえもん』単行本の表紙を任せるなど、後進としても目をかけていた。

食の面では特にを好み、大根だけは苦手だった[7]。いくつかの作品に登場するキャラクター小池さんと同様に、好きな食べ物は「インスタントラーメン(特にチキンラーメン)」であると語っていた。小池さんのモデルである鈴木伸一は、自分よりも藤本の方がずっとラーメン好きだったと語っている。お湯をかけるだけで食べられるという点が「魔法のよう」であると言い、旧スタジオ・ゼロの屋上でインスタントラーメンを食べているグラフが撮影されたこともある。

アニメ版の制作は畑違いということもあり、細かいチェックや要望などは特に行わなかったとされている。ただしずかについてだけは特別なこだわりを持っていたらしく、絵や性格などに注文を出すときがある。また、『ドラえもん大全集』にて大長編のエンディングテーマで武田鉄矢の降板が持ちかけられたとき、強く拒絶したことが武田本人により明かされている。また、最初の映画『のび太の恐竜』に客が入るのか不安で、公開前日に映画館の向かいのホテルに宿を取った。封切り同時に多くの子供が駆け付け満員になったのを見て安心したという[8]

3人の娘がおり、三女はかつてテレビ東京に勤務していた。娘によれば藤本は、平均睡眠時間4時間という忙しさの中でも、家族と一緒の時間をできるだけ取るように心がけた人だったという。

晩年、小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』などに作品が掲載される際には、「マンガの王様」というクレジットがあった。

手塚治虫との関係[編集]

藤本は安孫子(藤子不二雄A)と同様、手塚治虫新寶島に強い影響を受け漫画家を志し、生涯を通じて手塚を最大の師と尊敬し続けた。 彼は子供の頃、安孫子と毎日のように書店に行き出たばかりの手塚作品の初版本をほぼ全て買い集めていた。 また藤本は手塚の漫画を感激のあまり誰彼となく見せて歩き、必ず相手が読み終わるまでそばにいて反応を見ていた。ただし期待通りに相手が面白がってくれないと「こいつ鈍いんじゃないのか」と不満だったという。[9]

藤本は14歳の頃手塚治虫にファンレターを出す。その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と手塚から直筆のハガキを受け取りますますファンになったという。彼はそのハガキを生涯大事に保管していて、現在は藤子・F・不二雄ミュージアムに展示されている。

高校卒業時には、一旦就職することに決めるが漫画家への夢を諦めきれずに春休みを利用して手塚治虫に会いに行ったこともある。 藤本は高校を卒業して、漫画家としてやっていけるか不安だったが、手塚が「君たちならやっていけると思う」と言ったことでプロでやっていくことを決意したという。その時、藤本は「夢の様な声をかけてくれた」と語っている[10]。 その頃の二人のペンネームは「手塚の足元にも及ばない」として「足塚不二雄」であった。 その後、彼らは憧れの手塚治虫がかつて住んでいたトキワ荘14号室に部屋を借り漫画を描いた。 手塚は二人のためにトキワ荘の敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残した。そのため、トキワ荘時代の作品は手塚が使っていた机で描かれたものである。藤本の初期の絵は手塚に酷似した絵であった。ちなみにこの机は現在安孫子の実家に保管されている。

その後も藤本は漫画の描き方の本や自伝などで頻繁に手塚作品への特別な思いを述べており、「いつか手塚先生のような壮大な作風にも挑戦してみたい気持ちもある」とも語っていた。

手塚を信奉するあまり、『コロコロ』初代編集長の千葉和治が手塚への批判を漏らしたところ、火が出るほど怒り、千葉を1週間近く事務所に出入りさせなかったという[11]

手塚治虫が死去した時に藤本は、「新宝島が世に出た1947年をもって元号は手塚元年にしたいと思っているほどです。」とまで称えた[12]

長年に渡るスランプ[編集]

藤本は『オバケのQ太郎』(1964年)、『パーマン』(1966年)等のヒット作に恵まれるが、それ以降の『21エモン』(1968年)、『ウメ星デンカ』(1968年)、『モジャ公』(1969年)などの作品はあまりヒットせず、短命に終わった。藤子スタジオも、えびはら武司などの一部のアシスタントを除いて、『怪物くん』(1965年)、『黒ィせぇるすまん』(1969年)、『魔太郎がくる!!』(1972年)といったヒット作に当時恵まれていた安孫子中心に手伝うようになった。藤本はスランプに陥り、「週刊少年サンデー」の編集長に「サンデー作家陣から外してほしい。」という手紙を送りつけるようになる。

その後、藤本に青年誌である『ビッグコミック』から執筆依頼が来た。藤本は自分の作調に合っていないという判断で最初は断っていたが、編集者のゴリ押しにより渋々引き受けることにした。そこで描かれたのが短編の『ミノタウロスの皿』である。この作品は編集部でも好評であり、「自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました。」と語っている。

そして間もなく、学年誌にて『ドラえもん』(1969年)を執筆し始めるが、人気は今ひとつであった。藤本は不満げに「もう少し人気が出てもいいのに…。」とぼやいていた。4年後、アニメ化されるも、すぐに終了。それに伴い、編集部やスタジオ側も、漫画のドラえもんの連載終了の雰囲気であった。しかし、その翌年、単行本が全6巻発売され、話題となり、続刊。1978年には1500万部をも売り上げるようになり、日本のみならず海外でも話題となるようになる。

エピソード[編集]

  • 愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペン[7]
  • 好きな女優は白川由美。トキワ荘時代、藤子不二雄から「表の煙草屋の前に白川由美がいるよ」と告げられ、慌てて部屋を飛び出して煙草屋まで駆けつけたが誰もいない。煙草屋のお婆さんに「白川由美さんがここにいませんでしたか」と聞くと、お婆さんは窓ガラスのポスターを指さした。そのポスターの中では、白川由美が微笑んでいた[13]
  • 整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを好まなかった。[要出典]
  • 自作で『南極物語』を暗に非難し(『裏町裏通り名画館』)、『大長編ドラえもん』でも環境保護を早期から唱えていた(『のび太とアニマル惑星』)が、ドラえもんが環境保護の錦旗と化すことを快く思っていなかった。[要出典]
  • 子供による、現実と作品世界が混同した無邪気な質問に対しては、夢を壊さないような答えを返している。以下に例を列挙する。
    • 武田鉄矢がまだ幼い娘を連れて藤子Fに会いに行ったとき、娘が「ドラえもんはどこにいるの?」と藤子Fに尋ねた。すると藤子Fは「ドラえもんはね、今テレビ局にいるんだよ。」と答えた。
    • 『ドラえもん』人気が高かったベトナムを訪れた際、現地の子供が「四次元ポケットは(藤子先生は)持っていないのですか?」という質問をした。それに対し、藤子Fは「ドラえもんが着けているもののほかに、予備(スペアポケット)があるんだけど、この二つしかないから、僕は持っていないんだよ。」と答えた。
  • 藤子Fはイタズラ好きで、トキワ荘の住人にたくさんのイタズラをした。赤塚や石ノ森などから仕返しを喰らうこともたびたびだったという。
  • スタジオ・ゼロの社長を務めた時は、社員数80人を抱える企業に成長していたので、専務が独断で社長専用車として中古のリンカーン・コンチネンタルを購入し、お抱えの運転手も雇った。しかし、小田急での電車通勤に慣れた藤子Fは驚き、送迎を辞退したため、運転手はすぐに辞め、リンカーン・コンチネンタルは年に数回の稼働に留まったという。購入価格は300万円であったが、スタジオ・ゼロ解散時には1/10の価格で手放している。
  • 作中に登場する女の子には強いこだわりがあり、女の子が登場しただけで単行本に収録する際、加筆修正を何重にも行うこともある。(21エモンでのルナ登場シーンや、エスパー魔美ヌードシーンなど)特に「ドラえもん」のアニメ化の際、源静香についての作画には多く注文した。
  • 東京に上京した頃、当時死亡率第1位だった結核にかかったことがあったが、気力で回復したという[14]

死去[編集]

1996年(平成8年)9月20日、家族が夕飯の準備を告げるといつものように仕事部屋から返事があった。だがいつまで経っても食卓にやって来なかったので娘が仕事場へ呼びに行ったところ、机に向かったまま意識を失っているところを発見した。『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の62頁目を描いている最中で、発見されたときは鉛筆を握ったままだったという。そのまま病院に搬送されたが、意識が回復することなく3日後の9月23日午前2時10分にその生涯を閉じた。62歳没。死因は肝不全であった。

自身も以前から先が長くないことを自覚していたようで、『のび太のねじ巻き都市冒険記』の大筋を執筆前に芝山努に教えていたり、死後の自身の作品の行方や、藤子プロの活動などに対して心配を寄せている内容を書いた手紙を残していた。

2006年(平成18年)2月19日放送のテレビ朝日系列『ドラえもん誕生物語 藤子・F・不二雄からの手紙〜』によると、1986年胃がんが見つかり、それ以降何かと体調を崩すようになっていたことが明らかにされている。また、1992年には肝臓がんが見つかり、当時コロコロコミックで連載していた大長編ドラえもん作品「のび太と雲の王国」が中断、藤子プロによる絵物語(ビジュアルストーリー)を掲載する事態となった。

藤子不二雄は仮通夜にて、「気持ちは混乱していまして、正直言って今朝からずっと足ががたがた震えてて、すごく残念でしょうがないんです。彼はたいへんな天才だったと思うんですね、僕なんか彼がいたから漫画家になれたようなものでね。すごくピュアな気持ちの男だったんですね」と語った。また、『愛…しりそめし頃に…』の連載中に亡くなったことを受け、追悼として読切作品「さらば友よ」を執筆した。

1996年(平成8年)9月29日上野寛永寺で挙行された葬儀には、多くの人が参列し、出棺の時には「ありがとう弘さん」と大勢の人に見送られた。大山のぶ代は、葬儀のときに、「本当のお葬式の日、ドラえもん、のび太くん、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫、ママ、パパみんなで先生を送りたいと思います」と涙をこぼしながら語った[15]。葬儀の日9月29日には、追悼特番として『のび太の日本誕生』がテレビ朝日系列で放送された。

なお、訃報に際して、長きにわたって映画ドラえもんシリーズの主題歌を制作していた武田鉄矢は、1996年(平成8年)公開『のび太と銀河超特急』を最後に主題歌制作から外れた[16]

作品[編集]

各作品の主力キャラクター(小田急3000形電車
『パーマン』他(川崎市バス
『ドラえもん』(高岡おとぎの森公園)
『キテレツ大百科』他(川崎市バス)

小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』で児童向け漫画を描く一方、『ビッグコミック』などで大人向けのSF短篇漫画も多く描いた。

藤子・F・不二雄の提唱する「SF」とは「サイエンス・フィクション」ではなく、「すこし・不思議」という意味を示し、日常の中に非日常が飛び込んでくる内容の作品が多い。その一方でSF短編集に収録されている作品には、ハードなサイエンス・フィクションの流れを汲む作品も多く、バラエティに富む。

以下の作品は設定された世界がリンクしていることも多々あり、ある作品のキャラクターが越境して他作品に登場したり、後日談や前史が語られることもある。その詳細は作品別のリンク先で記す。幼年漫画では愛玩動物的なキャラクター性のある不思議な能力を持った主人公と一緒に暮らす平凡な少年、紅一点の女の子1名、ケンカの強いガキ大将と腰巾着の子分という設定が多い。

未発表作[編集]

  • RING(1948年)※肉筆同人誌。
  • 小太陽(1950年)※肉筆回覧誌。
  • ベン・ハー(1952年)

投稿作品[編集]

藤子Fは単独で、中学から高校にかけて『漫画少年』『北日本新聞』『キング』『アサヒグラフ』などにコマ漫画の投稿を行っていた。

  • 種まき奇談(1950年、漫画少年、2頁)※藤本弘名義。
  • 時の記念日(1950年、漫画少年)※藤本弘名義。
  • ダンゴ仙人とたなばた(1950年、漫画少年、4コマ)※藤本弘名義。
  • はかられたか!(1950年、漫画少年)※藤本弘名義。
  • こんな子供に誰がした(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • ああ無情(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • 花咲爺さんの嘆き(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • 幼児の心理(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • りんきおうへん(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • スピード興業(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • 諸行無常(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • コロコロマダム(1950年、北日本新聞、3コマ)※藤本弘名義。
  • 奇禍(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • サンドウィッチマン(1950年、北日本新聞、4コマ)※藤本弘名義。
  • 天狗昇トビキリ(1951年、キング、4コマ)※手塚不二雄名義。
  • 大奇術(1951年、キング、4コマ)※手塚不二雄名義。
  • ギョッ(1951年、サンデー毎日、4コマ)※手塚不二雄名義。
  • 遠近法利己すぎらア(1951年、漫画少年、4コマ)※藤本弘名義。
  • 公正取引(1951年、北日本新聞、4コマ)※手塚不二雄名義。
  • 遺作(1952年、アサヒグラフ、4コマ)※牛塚不二雄名義。

ギャグ、コメディ[編集]

劇画、SF[編集]

など多数

SF短編[編集]

1968年(昭和43年)から1995年(平成7年)にかけて、112作のSF短編読み切りを発表。

[編集]

出演[編集]

映画
テレビ

アシスタント[編集]

参考文献[編集]

  • 藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄) 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 毎日新聞社、1977年、絶版。文庫版・文春文庫、1980年、絶版。復刻版・日本図書センター、2010年1月25日、ISBN 978-4284700412
  • 藤子プロ監修、さいとうはるお[19]黒沢哲哉シナリオ 『小学館版 学習まんが人物館 藤子・F・不二雄』 小学館、1997年10月10日、税抜き850円、ISBN 4-09-270111-X - 子供向けの漫画だが、藤本の肉親にも取材しており[20]一定の史料価値はある。ただし、作中に登場する編集者は煩雑なため、複数の編集者が架空の「小館」という人物に置き換えられている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、323 - 324頁
  2. ^ 呉智英『現代マンガの全体像』双葉社 P241
  3. ^ ドラえもんの誕生日
  4. ^ ドラベース ドラえもん超野球外伝』の巻末おまけ漫画より。
  5. ^ 戦争を批判する価値観が表出している作品としては『のび太の海底鬼岩城』でのポセイドンに関する描写、「階級ワッペン」でののび太の同級生の「昔の軍隊はこんなふうに無茶な命令で無茶な戦争を始めたんだね」、「ラジコン大海戦」でのスネ吉の「戦争は金ばかりかかって むなしいものだなあ」、「ご先祖さまがんばれ」でのドラえもんの「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争ってそんなもんだよ」などといったセリフ、『のび太の創世日記』における宗教戦争の否定、SF短編では『マイシェルター』や『ある日……』など。
  6. ^ 1950年代後半から1960年代前半にかけて、志ん生が枕として使っていた「蛇が血を流してる、ヘービーチーデー (ABCD) 」というだじゃれを『エスパー魔美』の「オロチが夜くる」の中で使ったことなど。
  7. ^ a b 『ぼく、ドラえもん。』6号
  8. ^ 大山のぶ代著「ぼく、ドラえもんでした。」より
  9. ^ DO LIVE 1989年5月号「天才・手塚治虫が遺したもの 藤子・F・不二雄」
  10. ^ 小学館 学習まんが人物館 手塚治虫 解説/藤子・F・不二雄 1996年 ISBN-09-270103-9
  11. ^ 千葉和治 「藤本先生の魂の雑誌『コロコロコミック』」『ミラ・クル・1 宙ポコ / 宙犬トッピ』 小学館藤子・F・不二雄大全集〉、2010年、324頁。ISBN 978-4-09-143445-6
  12. ^ 小学館 学習まんが人物館 手塚治虫 解説/藤子・F・不二雄 1996年 ISBN-09-270103-9
  13. ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』p.71(東京書籍、2011年)
  14. ^ 小学館 学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」
  15. ^ 大山のぶ代著『ぼく、ドラえもんでした。』
  16. ^ ただし、2010年(平成22年)の『のび太の人魚大海戦』のみ例外で、映画30周年を記念して再び武田が挿入歌を制作した。
  17. ^ 『漫画家人名事典』 70頁
  18. ^ 『漫画家人名事典』 101頁
  19. ^ 当初は方倉陽二の予定だったが、方倉の死によりさいとうが代役を務めた。
  20. ^ 黒沢哲哉 小学館版 学習まんが人物館シリーズ こどもの夢をえがき続けた「ドラえもん」の作者 藤子・F・不二雄

関連項目[編集]

外部リンク[編集]