赤瀬川原平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
赤瀬川 原平
(あかせがわ げんぺい)
ペンネーム 赤瀬川 原平
(あかせがわ げんぺい)
尾辻 克彦
(おつじ かつひこ)
誕生 赤瀬川 克彦
(あかせがわ かつひこ)
1937年3月27日
神奈川県横浜市
死没 2014年10月26日(満77歳没)
東京都町田市
職業 作家随筆家美術家
国籍 日本の旗 日本
代表作 『父が消えた』(1981年)
新解さんの謎』(1996年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1981年)
野間文芸新人賞(1983年)
親族 赤瀬川隼(兄)
赤瀬川晴子(姉)
西春彦(はとこ)
藤村由加の一人(姪)
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある[1]神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。

兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人[2]

2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

父親は鹿児島県出身で倉庫会社勤務のサラリーマン。「赤瀬川骨茶」という俳号で俳句も詠んだ。母親は東京府出身。原平は6人兄弟姉妹の下から2番目。兄弟はみな芸術的なことが好きで、原平はとくに絵が好きだった。一家は父親の転勤であちこちに移り、原平は幼稚園時代から大分県大分市で育つ。寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。「おねしょは中学2年生まで毎晩のようにしていて、自分の運命を憎み、死んでしまいたいと思っていた」というコンプレックスが自意識を目覚めさせたと書いている[3]

1945年、大分市立金池小学校3年生の時に敗戦。父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝う。

小学生時代、絵が好きな雪野恭弘(のち画家)と親友になる。雪野とは、大分市立上野ヶ丘中学校時代、そして、武蔵野美術学校でも同窓として交際が続く。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎山村美紗の弟)がいる。

5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立していた絵の同好会「新世紀群」に雪野とともに参加。ここで4歳年上の吉村益信と知り合う。

大分県立大分舞鶴高等学校に進学して2ヶ月後、一家は名古屋に引越しし、愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。油絵を習う。同級生に荒川修作岩田信市(のち画家、演出家)がいた。

吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進む。だが、仕送りは2ヶ月でとまり、サンドイッチマンのアルバイトで食いつなぐ。アルバイト仲間からは、本や映画について学んだ。

1956年には、上京していた姉・晴子と一緒に住み、姉のさそいで、砂川基地反対闘争に参加する。

前衛芸術[編集]

「心はいつもアヴァンギャルド」といい[3]1958年、第10回読売アンデパンダン展に初出品。以後、1964年に同展が終了するまで出品を続ける(詳細は『反芸術アンパン』(ちくま文庫)を参照)。

1959年には、数年来の持病の十二指腸潰瘍の手術のため名古屋に戻る。そこで伊勢湾台風に遭遇し、九死に一生を得る。

1960年、吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。赤瀬川は荒川修作をグループに紹介し、参加させた。篠原有司男の母親に姓名判断をしてもらったところ、「下の名前の画数が足りない」といわれ、「克彦」よりさらに画数が少ない「原平」をペンネームとして採用[4]。赤瀬川は「ヴァギナのシーツ」など、ゴム・チューブを素材としたオブジェを製作した。1962年には、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。

1963年高松次郎中西夏之とともにハイレッド・センター(3名の頭文字により命名)を結成。「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行う(詳細は『東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録』 (ちくま文庫)を参照)。赤瀬川は個人としても、扇風機などの身の回りの品物を包装紙で包む「梱包作品」を制作。このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って宇宙全体を梱包したと称する「宇宙の缶詰」に至る[5]

この頃、ナムジュン・パイクオノ・ヨーコ横尾忠則らとも知り合っている。「とくにパイクは、ハイレッド・センターのよき理解者だった」と赤瀬川は「東京ミキサー計画」で書いている。

千円札を詳細に観察し、肉筆で200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学」(殺す前に相手をよく見る)を発表。赤瀬川はさらに「千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表する。1965年、これが通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。弁護人には瀧口修造といった美術界の重鎮たちが名を連ね、話題となった。1967年6月の東京地裁の一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。上告ののち1970年に執行猶予つきの有罪確定。その後、前衛芸術からは身を引くようにしていく[3]

櫻画報[編集]

1970年代から『朝日ジャーナル』『ガロ』などで漫画家として活動。『ガロ』にはつげ義春の「ねじ式」のパロディである「おざ式」などを発表。

『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。最終回(1971年3月19日号)では、「アカイ/アカイ/アサヒ/アサヒ」という国民学校時代の国語の教科書の例文をパロディ化し、挿絵の水平線から昇る太陽を『朝日新聞』のロゴに描き換えたイラストを描いた。ヌードの表紙と赤瀬川の「櫻画報」が読者に誤解を与えかねないことを理由として、当該号は自主回収された[6][7]。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動がなされ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊した[8]

その後、『櫻画報』の連載は『ガロ』等で復活し、他にも様々な雑誌を「雑誌ジャック」した。また、松田哲夫南伸坊とともに結成した「櫻画報社」で、「論壇の人間関係図」等を発表した。

純文学作家[編集]

篠原勝之の紹介で、中央公論社の文芸雑誌『』の編集者だった村松友視と知り合い、篠原、南伸坊糸井重里らとともに毎月村松宅に押しかけ「ムラマツ宴会」と称する飲み会を行った。そうした縁で、村松から「純文学を書いてほしい」と依頼され、『海』に赤瀬川原平名義で「レンズの下の聖徳太子」を発表。しかし理屈っぽすぎたせいか、あまり反響はなかった。

つづいて、『婦人公論』で赤瀬川にカットの仕事を依頼していた編集者田中耕平に「もっと気楽に書いたら」と助言され、テーマのない身辺小説「肌ざわり」を執筆。名義はペンネームの「尾辻克彦」とする。1979年9月に中央公論新人賞を受賞し、雑誌『中央公論』に掲載された。

文學界』1980年12月号に発表された短編「父が消えた」で、1981年、第84回芥川賞を受賞。「前科持ち・元犯罪者」が一転して「芥川賞作家」となり、周囲の扱いが激変したという。1983年、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞。

裁判の途中に結婚し、裁判の後に赤瀬川は41歳で離婚して幼少の娘と父子家庭を営んでいた(のちに美学校の生徒だった女性と再婚している)。「娘・胡桃子と父親の私」の2人のみが登場する作品が多かったため、中公新人賞の選考委員会では「この作家はホモではないか」という意見がでたという。

この頃嵐山光三郎の紹介で深沢七郎とも交際があり、深沢のラブミー農場で「芥川賞受賞のお祝いパーティー」をしてもらった。

その後、純文学系の文筆活動を尾辻克彦名義で行い、尾辻・赤瀬川の「共著」などを出したりしたが、1994年に発表された小説集『ライカ同盟』を最後に尾辻名を使用することはなくなった。近年、「尾辻克彦」名義で刊行された書籍が、文庫化や再刊時に「赤瀬川原平」名義に変わることも多い。

トマソン・路上観察[編集]

1972年南伸坊松田哲夫とともに四谷を歩行中、ただ昇って降りるだけの意味不明な階段を発見。これは、階段としてきわめて純粋であった(ある意味で純粋芸術に似ており、まるで「もの派のようだと言って赤瀬川らは興奮した)。「四谷の純粋階段」、また「四谷怪談」のしゃれで「四谷階段」と称した。その後、いくつかの類例が見つかり、また「美学校・絵文字工房」で紹介すると、生徒からも同様の発見が多く集まった。当時、読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン選手が役に立たなかったことにちなみ、「超芸術トマソン」と命名された[9]。詳細はトマソンを参照。末井昭編集長の『写真時代』の連載を通じて普及活動を行った。

また、トマソンやマンホールの蓋、看板などを発見し考察する、「路上観察学会」を創設。1987年、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞。後年「路上観察学会」会員の藤森照信建築史家・建築家、東京大学教授)にみずからの住まいの設計を任せ、屋根にを生やした「ニラハウス」を建てた。

その他[編集]

1967年、漫画評論家石子順造の紹介で、当時東京都立大生だった松田哲夫(のちに筑摩書房に入社して編集者となる)と出会って意気投合。松田とは、マッチ箱のラベル絵の収集、宮武外骨の雑誌の収集[10]今和次郎考現学の本の収集などを熱中して行う。松田はのちに筑摩書房でちくま文庫を創刊。赤瀬川の著作も多数収録されている。

松田とは1985年に『学術小説 外骨という人がいた』を白水社から刊行して宮武外骨リバイバルを仕掛けている。1986年には、赤瀬川と吉野孝雄が編集した『滑稽新聞』の再編集復刻版を筑摩書房より刊行した。

「千円札裁判」の事務局長を務めた川仁宏(現代思潮社)が創設した「美学校」では、1970年から1986年まで(1971年は中断)、「絵・文字工房」の講師をつとめた(初期は松田哲夫が助手。のち、元生徒の南伸坊にかわる)。講義内容は赤瀬川がその時点で熱中していたもの-「マッチのラベル絵」「宮武外骨」「考現学」「新聞の尋ね人案内」「トマソン」「1円で何が買えるか」など-であった。その教室からは、平口広美南伸坊渡辺和博泉晴紀久住昌之森伸之上原ゼンジなどのクリエイターが輩出している。なお、南の「伸坊」というペンネーム及び渡辺和博のあだな「ナベゾ」は、宮武外骨の『滑稽新聞』の絵師に由来するものである。

1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年には『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。

1996年新解さんの謎』では、三省堂の『新明解国語辞典』を一人の個性的な人物が著した“読みもの”に見立て、話題を集めた。企画を提案した夏石鈴子はSM嬢として登場している。

1998年老人力』では、高齢化社会が進む中で、老人への新しい視点(「老人力」とは「忘れる力」であり、「耄碌した」「ボケた」と言わないで「老人力がついてきた」といい、古いものを「中古美品」として大切にした)を提供した(「老人力」という言葉は、もともと藤森照信が還暦を過ぎた赤瀬川に対して使った言葉であった)。著作『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞。

弱点を味わいと考え、「貧乏性」研究から『超貧乏ものがたり』を書き、優柔不断も『優柔不断術』を書いている。

その他にも『月刊天文ガイド』で10年以上に渡る連載を行ったり、カメラ(特に中古カメラやステレオカメラ)に関する著作を多数著し、ライカ同盟脳内リゾート開発事業団を結成するなど、その活動は幅広い。「ステレオ茶会」も開いていた。

また、猫好きでもあり、猫についてのエッセイ集、写真集なども刊行している。

死去[編集]

2011年に胃癌による全摘手術が行われて以降、脳出血肺炎などで体調を崩しており、療養中であったが、2014年10月25日夜に容体が悪化[11][12]。翌10月26日、敗血症のため東京都町田市の病院で死去[13][14]。77歳没。

「なるほどそうだったのかと思えるのが死の瞬間」と語っていた[3]

組織[編集]

多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっている。

著書[編集]

赤瀬川原平名義[編集]

  • オブジェを持った無産者 現代思潮社 1970
  • 櫻画報永久保存版 青林堂 1971(のち、『櫻画報大全』新潮文庫)
  • 絵次元 あいまいな海 大門出版美術出版部 1971
  • 追放された野次馬 思想的変質者の十字路 現代評論社 1972
  • 夢泥棒 学芸書林 1975 のち新風舎文庫 
  • 鏡の町皮膚の町 新聞をめぐる奇妙な話 筑摩書房 1976
  • 少年とオブジェ 北宋社 1978 のち角川文庫、ちくま文庫 
  • 虚構の神々 超科学紙芝居 青林堂 1978(再刊時に『円盤伝説 あの世まであと一歩』と改題)
  • 本物そっくりの夢(尾辻克彦共著)筑摩書房 1981.11
  • 純文学の素 白夜書房 1982.8 のちちくま文庫 
  • 妄想映画館 駸々堂出版 1984.4
  • 東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録 PARCO出版局 1984 のちちくま文庫 
  • いまやアクションあるのみ! 読売アンデパンダンという現象 筑摩書房 1985.1(『反芸術アンパン』文庫)[15]
  • 学術小説 外骨という人がいた! 白水社 1985.2 のちちくま文庫 
  • 東京路上探険記(尾辻克彦共著)新潮社 1986.7
  • 超芸術トマソン 白夜書房 1985.5 のち、ちくま文庫 1987.12 
  • ニナの力(絵本 尾辻克彦)ヘキストカプセル 1987
  • 芸術原論 岩波書店 1988 のち同時代ライブラリー、現代文庫  
  • トマソン黙示録 佐谷画廊 1988
  • 超私小説の冒険 岩波書店 1989.3
  • 科学と抒情 青土社 1989 のち新潮文庫 
  • グルメに飽きたら読む本 新潮社 1989 「ごちそう探検隊」ちくま文庫 
  • 千利休 無言の前衛 岩波新書 1990.1
  • ちょっと映画に行ってきます キネマ旬報社 1990.1
  • じろじろ日記 毎日新聞社 1990 のちちくま文庫
  • 東ヨーロッパ 村と森のファンタジー 私のナイーブ・アート館 学習研究社 1991.5
  • ぱくぱく辞典(尾辻克彦)中央公論社 1991(『明解ぱくぱく辞典』文庫)
  • 紙がみの横顔 文藝春秋 1992.7
  • 赤瀬川原平の名画読本 鑑賞のポイントはどこか 光文社カッパ・ブックス 1992 のち知恵の森文庫
  • ステレオ日記 二つ目の哲学 大和書房 1993.4
  • 仙人の桜、俗人の桜 にっぽん解剖紀行 日本交通公社出版事業局 1993 のち平凡社ライブラリー
  • 島の時間 九州・沖縄 謎の始まり 平凡社 1993.8
  • 赤瀬川原平の名画読本 どう味わうか 日本画編 光文社 1993 のち知恵の森文庫 
  • 正体不明 東京書籍 1993
  • イギリス正体不明 東京書籍 1994.10
  • 猫の宇宙 向島からブータンまで 柏書房 1994.10
  • 鵜の目鷹の目 日本カメラ社 1994.12
  • 赤瀬川原平の冒険 脳内リゾート開発大作戦(編)紀伊国屋書店 1995
  • ちょっと触っていいですか 中古カメラのススメ 筑摩書房 1995 のち文庫 
  • 少年とグルメ 講談社文庫 1993
  • ゴムの惑星 誠文堂新光社 1995.3
  • ベルリン正体不明 東京書籍 1995.10
  • 新解さんの謎 文藝春秋 1996 のち文庫 
  • 目利きのヒミツ 岩波書店 1996 のち三笠書房知恵の森文庫 
  • 日本にある世界の名画入門 美術館がもっと楽しくなる 光文社 1996 のち知恵の森文庫 
  • ベトナム低空飛行 ビジネス社 1996
  • トマソン大図鑑 無の巻/空の巻 筑摩書房 1996 のち文庫 
  • 常識論 大和書房 1996.12
  • 金属人類学入門 日本カメラ社 1997.3(文庫化の際に『中古カメラの愉しみ』と改題)
  • 香港頭上観察 小学館 1997.7
  • 我輩は施主である 読売新聞社 1997 のち中公文庫 
  • 赤瀬川原平の名画探険 フェルメールの眼 講談社 1998.3 - のち『[新装版] 赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』として再刊
  • 赤瀬川原平の名画探険 ルソーの夢 講談社 1998 
  • 老人とカメラ 散歩の愉しみ 実業之日本社 1998 のちちくま文庫 
  • 困った人体 マガジンハウス 1998 のち講談社+α文庫 
  • その日の結論 日本放送出版教会 1998.5
  • 赤瀬川原平の名画探険 印象派の水辺 講談社 1998.7
  • 老人力 1-2 筑摩書房 1998-99(『老人力 全一冊』文庫)
  • 老人力のふしぎ 朝日新聞社 1998 のち文庫 
  • 中古カメラ あれも欲しいこれも欲しい 筑摩書房 1999.2
  • こころの話 創刊準備号 朝日出版社 1999.3
  • 優柔不断術 毎日新聞社 1999 のちちくま文庫 
  • 老人力自慢(編著)筑摩書房 1999.6
  • 奥の横道 日本経済新聞社 1999
  • ニャーンズ・コレクション 小学館 1999.12
  • わかってきました。科学の急所 講談社 2000.1
  • 赤瀬川原平の名画探険 広重ベスト百景 講談社 2000.2
  • 赤瀬川原平の今月のタイトルマッチ ギャップ出版 2000.6
  • 中古カメラウィルス図鑑 小学館 2000.6
  • ゼロ発信 中央公論新社 2000 のち文庫
  • 悩ましき買物 フレーベル館 2000 のち知恵の森文庫 
  • 我輩は病気である マキノ出版 2000.4
  • 赤瀬川原平のブータン目撃 淡交社 2000.9
  • よみもの 無目的 光文社 2001.3
  • 地球に向けてアクセルを踏む 誠文堂新光社, 2001.5
  • 全面自供! 松田哲夫聞き手 晶文社 2001.7
  • 中古カメラ大集合 筑摩書房 2001.9
  • 老いてはカメラにしたがえ 実業之日本社 2002.4
  • 猫の文明 毎日新聞社 2002.9
  • 路上の神々 佼成出版社 2002.11
  • ケダモノ時代 毎日新聞社 2002.12
  • 赤瀬川原平の日本美術観察隊 其の1-2 講談社 2003
  • ぼくの昔の東京生活 筑摩書房 2003
  • 背水の陣 日経BP社 2003
  • 中山道俳句でぶらぶら(路上観察学会名義)太田出版 2004.5
  • 新正体不明 東京書籍 2004.10
  • 自分の謎 毎日新聞社 2005.11
  • 目玉の学校 筑摩書房・ちくまプリマー新書 2005
  • 運命の遺伝子UNA 新潮社 2005.6
  • ふしぎなお金 毎日新聞社 2005.9
  • 私の昭和の終わり史 河出書房新社 2006.2
  • 四角形の歴史 毎日新聞社 2006.2
  • 中古カメラの逆襲 筑摩書房 2006.3
  • 祝!中古良品 アカセガワ版養生訓 ベストセラーズ 2006.6
  • 大和魂 新潮社 2006.10
  • NHK知るを楽しむ 人生の歩き方 日本放送出版協会 2006.8
  • 猫から出たマコト 日本出版社 2007.6
  • 日本男児 文藝春秋 2007.6
  • もったいない話です 筑摩書房 2007.8
  • 戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見 岩波書店 2007.9
  • 昭和の玉手箱 東京書籍 2008.6
  • 散歩の学校 毎日新聞社 2008.12
  • 東京随筆 毎日新聞社 2011.3
  • 健康半分 デコ 2011.6
  • 個人美術館の愉しみ 光文社新書 2011.10
  • 「墓活」論 PHP新書 2012.3

共著[編集]

尾辻克彦名義[編集]

  • 肌ざわり 中央公論社 1980 のち文庫、河出文庫
  • 父が消えた 五つの短篇小説 文藝春秋 1981 のち文庫、河出文庫  
  • お伽の国の社会人 PARCO出版 1981.6
  • 本物そっくりの夢 赤瀬川原平 筑摩書房, 1981.11
  • 整理前の玩具箱 大和書房 1982.5(『ピストルとマヨネーズ』と改題、中公文庫、赤瀬川)
  • 国旗が垂れる 中央公論社 1983.1
  • 吾輩は猫の友だちである 中央公論社 1983 のち文庫 
  • 雪野 文藝春秋 1983.6
  • シルバー・ロード 創樹社美術出版 1983.8
  • 明日は明日の今日がくる 廣済堂 1984.2
  • 野次馬を見た! 筑摩書房 1984.2
  • 超貧乏ものがたり PHP研究所 1984.3
  • 超プロ野球 集中力の精神工学 朝日出版社 1985.3
  • 少年とグルメ 講談社 1985 のち文庫、赤瀬川
  • カメラが欲しい 新潮社 1986 のち文庫 
  • 贋金づかい 新潮社 1988.6
  • グルメに飽きたら読む本 新潮社, 1989.2(『ごちそう探検隊』文庫、赤瀬川)
  • 出口 講談社 1991.12
  • 不思議の国の広告(編)福武書店 1993.3
  • ライカ同盟 講談社 1994.4 のちちくま文庫、赤瀬川

路上観察学会名義[編集]

CD付き絵本[編集]

CD-ROM[編集]

  • 超芸術トマソンの冒険

ビデオ[編集]

  • 紀伊國屋セミナー3 老人力VS不良中年 赤瀬川原平(演)嵐山光三郎(演) 紀伊國屋書店 1999.4

映画脚本[編集]

  • 『利休』 監督:勅使河原宏、脚本:赤瀬川原平+勅使河原宏 1989
  • 『豪姫』 監督:勅使河原宏、脚本:赤瀬川原平+勅使河原宏 1992 

ポスター・ジャケット等[編集]

CD[編集]

  • ライヴ・イン・ハトヤ 赤塚不二夫と全日本満足問題研究会

展覧会(回顧展)[編集]

参考文献[編集]

  • 赤瀬川原平の冒険 紀伊国屋書店
  • 全面自供 晶文社

脚注[編集]

  1. ^ 苗字「尾辻」は父方の親戚の苗字に由来。『全面自供』晶文社より。
  2. ^ 川本武ほか『本棚が見たい!2』p.48(ダイヤモンド社1996年
  3. ^ a b c d NHK2006年放送「知るを楽しむ 人生の歩き方」
  4. ^ 著書『全面自供』(晶文社)より。
  5. ^ のちに、梱包美術家として有名なクリストに会ってこの話をしたところ、理解してもらえなかったという
  6. ^ 堀田貢得『何が週刊誌を凋落させたのか!? 体験的出版ジャーナリズム論』大村書店、2006年、p.296。
  7. ^ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、pp.110-111。
  8. ^ 宮森雅照「『朝日ジャーナル』回収事件顛末 ―雑誌にとっての編集権を考える―」『出版の検証 敗戦から現在まで 1945~1995』文化通信社、1996年、pp.116-119。
  9. ^ ちなみに赤瀬川は熱烈なジャイアンツ・ファンとして知られた。
  10. ^ 最初に外骨の雑誌「ハート」を赤瀬川に紹介したのは、美術評論家の榧野八束赤塚行雄)で、1967年に荻窪の古本屋で発見して「この珍本は、赤瀬川が所有すべきものだ」と興奮して、赤瀬川を古本屋に呼寄せ、購入させたという(『赤瀬川原平の冒険』P.174)。
  11. ^ 「老人力」の生みの親 芥川賞作家の赤瀬川原平さん死去 スポニチアネックス 2014年10月27日
  12. ^ 訃報:赤瀬川原平さん77歳=美術家、作家「老人力」 毎日新聞 2014年10月27日
  13. ^ 赤瀬川原平さん死去 「老人力」「超芸術トマソン」 朝日新聞 2014年10月27日
  14. ^ 赤瀬川原平さん死去 少年期大分に 前衛芸術家で芥川賞 大分合同新聞 2014年10月27日
  15. ^ 「今やアクションあるのみ」という題名は、以降の事件に由来する。60年安保の歳に石原慎太郎大江健三郎浅利慶太ら若手文化人が「新しい日本の会」という会を結成した。そこに、美術界から一人、工藤哲巳(または篠原有司男)が参加したが、他の参加者のように理屈がうまくいえず、何か一言しゃべれといわれ、「いまやアクションあるのみです」と言って、大うけした。「全面自供」P.104

関連項目[編集]

外部リンク[編集]