雪舟

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雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館
生誕地に立つ碑文
宝福寺雪舟碑
秋冬山水図(秋景図)

雪舟(せっしゅう、1420年応永27年) - 1506年永正3年))は号で、15世紀後半室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖とも称えられる。日本の水墨画を一変させた。

は「等楊(とうよう)」、もしくは「拙宗(せっしゅう)」と号した。 備中国に生まれ、京都相国寺に入ってから周防国に移る。その後遣明使に随行して中国()に渡って中国の水墨画を学んだ。

作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画花鳥画もよくした。大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風を作り出している。

現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多い。

真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。代表作は、「山水長巻」「夏冬山水図」「天橋立図」「破墨山水」「慧可断臂の図」「秋冬山水」「花鳥屏風」など。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。

目次

[編集] 生涯

1420年備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。

1454年応永28年)ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市)を構える。1465年寛正6年)ごろ、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたと思われるが、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はない。

1468年応仁2年)に遣明使船でへ渡航。約2年間中国で本格的な水墨画に触れ、研究した。1481年(文明13)秋から美濃国へ旅行。没年は、確実な記録はないが1506年とするものが多い。1502年とする説もある。雪舟の生涯には没年以外にも謎とされる部分が多い。

[編集] 涙で描いた鼠

雪舟についてこんな伝説が残っている。

宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。

これは雪舟について最もよく知られた話であると思われる。初出は江戸時代狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)である。

[編集] 神格化

雪舟の神格化は江戸時代から始まった。狩野派が当時画壇を支配していたが、雪舟を師と仰ぎ、諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために雪舟作とされる作品が増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『信仰祇園祭礼記』(人形浄瑠璃歌舞伎作品。宝暦7年12月(1758年1月)初演。雪舟の孫娘、雪姫が活躍する「金閣寺」の場が有名)のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。

天橋立図
秋冬山水図(冬景図)

[編集] 国宝

[編集] 主な重要文化財

※真筆の可能性の高いものを挙げた。

[編集] 参考文献

  • 『雪舟等楊 「雪舟への旅」展研究図録』(山口県立美術館 中央公論美術出版 2006年)
  • 『没後500年特別展「雪舟」』(図録、東京国立博物館、京都国立博物館、2002年)
  • 『雪舟の芸術・水墨画論集』(金沢弘 秀作社出版 2002年)
  • 『画聖雪舟』(沼田頼輔、『論創叢書』1、論創社、2002年3月、ISBN 4-8460-0241-1)古典
  • 『雪舟応援団』(山下裕二、赤瀬川原平 中央公論新社  2002年)
  • 『雪舟はどう語られてきたか』(山下裕二編・監修 平凡社ライブラリー 2002年)
  • 『雪舟 水墨画の巨匠 第1巻』(中島純司ほか 講談社 1994年)
  • 『雪舟 新編名宝日本の美術14』(中島純司 小学館 1991年)

[編集] 外国切手に描かれた日本人第1号

雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人である。1956年に開かれた世界平和会議で世界平和文化人として日本から選ばれたのが雪舟だった。それを記念してソビエト連邦ルーマニアで切手が発行された。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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