砂川事件
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| 最高裁判所判例 | |
|---|---|
| 事件名 | 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件 |
| 事件番号 | 昭和34年(あ)第710号 |
| 1959年(昭和34年)12月16日 | |
| 判例集 | 刑集13巻13号3225頁 |
| 裁判要旨 | |
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| 大法廷 | |
| 裁判長 | 田中耕太郎 |
| 陪席裁判官 | 小谷勝重 島保 斉藤悠輔 藤田八郎 河村又介 入江俊郎 池田克 垂水克己 河村大助 下飯坂潤夫 奥野健一 高橋潔 高木常七 石坂修一 |
| 意見 | |
| 多数意見 | 田中耕太郎 島保 斉藤悠輔 藤田八郎 河村又介 入江俊郎 池田克 垂水克己 河村大助 下飯坂潤夫 高木常七 石坂修一 |
| 意見 | 小谷勝重 奥野健一 高橋潔 |
| 反対意見 | なし |
| 参照法条 | |
| 憲法9条、98条2項、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法 | |
砂川事件(すながわじけん)は、1957年(昭和32年)7月8日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件。
目次 |
[編集] 関連する訴訟
[編集] 第一審(判決)
東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年(昭和34年)3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集)ことで注目された(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。
[編集] 最高裁判所判決
最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)は、1959年(昭和34年)12月16日、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し原審に差し戻した(最大判昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。
[編集] 最終判決
1963年(昭和38年)12月7日、被告人の有罪(罰金2,000円)が確定した。
[編集] 影響
この事件は、安保体制と憲法体制との矛盾を端的に示す政治的に極めて重要なものであることから大いに論議を呼び、特に最高裁判所の判決に対し強い批判が浴びせられたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。
その後、米軍は立川基地から横田基地(東京都福生市)に移転することが決まり、1977年(昭和52年)11月30日、立川基地は日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。
[編集] 最高裁判決の背景事実
2008年4月29日、東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談するなど露骨な介入を行っていたことが、機密指定を解除された米公文書の調査から分かった[1]。
[編集] 脚注
- ^ 「『米軍違憲』破棄へ圧力 砂川事件、公文書で判明]」東京新聞2008年4月29日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 最高裁判決(判例検索システム)

