東慶寺
| 東慶寺 | |
|---|---|
仏殿 |
|
| 所在地 | 神奈川県鎌倉市山ノ内1367 |
| 位置 | 北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 |
| 山号 | 松岡山 |
| 宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
| 寺格 | 鎌倉尼五山二位 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 弘安8年(1285年) |
| 開基 | 北条貞時、覚山尼(開山) |
| 正式名 | 松岡山 東慶総持禅寺 |
| 別称 | 縁切寺、駆け込み寺 |
| 札所等 | 鎌倉三十三観音32番 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉10番 |
| 文化財 | 木造聖観音立像・初音蒔絵火取母・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文) |
東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼(かくさんに)である。
目次 |
歴史 [編集]
鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が、父・北条時宗死去の翌弘安8年(1285年)、覚山尼を開山として建立した寺である。覚山尼は、北条時宗の夫人であり、貞時の母にあたる人物で、時宗の死後、出家して尼となった。なお、当初は真言宗の寺であったものを覚山尼が臨済宗に改宗したとの別伝もある。
東慶寺は現在は男僧の寺であるが、明治36年(1903年)までは代々尼寺であり、尼五山の第二位の寺であった。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。ただし、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が離縁状(いわゆる「三下り半」)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したという。また、実際には離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったという。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続いた。
近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた功労者として著名で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫もある。
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。また、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。
伽藍 [編集]
文化財 [編集]
重要文化財 [編集]
- 木造聖観音立像 - 鎌倉市西御門にあった廃寺・太平寺(尼五山の第一位であった)旧蔵の像。鎌倉時代後期の作。像の表面には土紋(どもん)装飾という、型に詰めた粘土を貼り付けた、鎌倉地方特有の技法が見られる。
- 初音蒔絵火取母(はつねまきえ ひとりも) - 「火取母」は香炉の一種。『源氏物語』に題材をとった蒔絵を施している。室町時代作。本作品をはじめ、東慶寺に伝わる蒔絵遺品は20世住持(豊臣秀頼娘)天秀尼の所持と伝える。
- 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ) - いわゆる「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、なぜ仏教寺院である東慶寺に伝わるかは定かでない。新編相模国風土記の東慶寺寺宝の中に出てこないのでもっと新しい時代に東慶寺に寄贈されたものと考えられる。
- 東慶寺文書 773通20冊(附:文箱1合、鏧子1口) - 離縁関係文書(いわゆる「三下り半」)などを含む。
その他 [編集]
- 木造水月観音菩薩半跏像-神奈川県指定文化財。水月殿に安置する。一般的な仏像と異なり、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。
交通 [編集]
拝観 [編集]
- 3~10月:8:30~17:00 11~2月:8:30~16:00 拝観料100円
- 松ヶ岡宝蔵:9:30~15:00 入館料300円(月曜日は休館)
- 水月観音拝観は電話・ハガキで要予約