古河公方

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古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。第五代鎌倉公方 足利成氏が、享徳の乱勃発時の享徳4年(1455年)に、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。その後も、政氏高基晴氏義氏と、約130年間引き継がれた。御所は主に古河城古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

目次

[編集] 日本史上の位置付け

古河公方が成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件であった[1]。 享徳の乱によって、旧来の政治体制が大きく動揺したことは、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。

一方、関東における戦国時代は、史料が豊富で研究が先行している後北条氏の発展過程を軸として解説されることが多く、後北条氏以前の実態には関心が比較的低かった。しかし、近年の研究により、関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点として、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになっている[2]。 後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。

従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。

[編集] 成立とその背景

[編集] 永享の乱・結城合戦まで

貞和5年(1349年)、室町幕府は関東分国統治のために鎌倉府を設置した。関東分国には、上野国下野国常陸国武蔵国上総国下総国安房国相模国伊豆国甲斐国が含まれ、のちには陸奥国出羽国も追加された。鎌倉府は、鎌倉公方とその補佐役である関東管領、諸国の守護奉行衆奉公衆らで構成された。鎌倉公方は、足利尊氏次男の足利基氏を初代として、氏満満兼と継承されたが、次第に幕府から独立した行動を取り始め、永享11年(1439年)、第四代鎌倉公方足利持氏と、将軍足利義教関東管領上杉憲実とが対立した際に、持氏が討たれて鎌倉府は滅亡した。(永享の乱) その後も永享12年に、幕府と関東管領上杉氏に反発する諸豪族が、持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、下総結城城に立て籠もると、これを上杉清方が鎮圧する(結城合戦)など、不安定な状態が続く。永享の乱・結城合戦の結果、上杉氏は所領を拡大したが、逆に圧迫された伝統的豪族の反発は、後の享徳の乱の遠因ともなった。

[編集] 鎌倉府再興

足利義教の死後、幕府は持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、文安4年(1447年)に持氏遺児の足利成氏が第五代鎌倉公方に就任した。幕閣内では、前管領の畠山持国の支援があった。上杉氏も、新たな鎌倉公方が、対立する諸豪族との仲介になることを期待した。なお、関東管領は上杉憲実の子である憲忠に交替している。

しかし、小山氏結城氏宇都宮氏千葉氏那須氏小田氏等の伝統的豪族と、関東管領山内上杉氏扇谷上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)には、山内上杉家の長尾景仲および扇谷上杉家の太田資清が、鎌倉公方成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生した。難を逃れた成氏は、長尾景仲・太田資清の処分を幕府に訴えたが実現せず、しかも、享徳元年(1452年)に新たな管領になった細川勝元は、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと、成氏に対して言い渡した。[3][4][5]

[編集] 古河公方成立(享徳の乱)

享徳3年(1454年)、成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺をきっかけとして、享徳の乱が勃発した。室町幕府は成氏討伐を決め、今川範忠らを上杉氏の援軍として差し向ける。享徳4年(1455年)、分倍河原の戦い小栗城筑西市)の戦い等、緒戦では成氏勢が有利だったが、上杉勢を追って留守になっていた鎌倉が今川範忠により制圧された。その後、成氏は下総古河を新たな本拠としたため、これを古河公方と呼ぶ。一方、長禄2年(1458年)、室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆の堀越を御所としたため、これを堀越公方と呼ぶ。以後およそ30年間にわたり、おもに下野国常陸国下総国上総国安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国武蔵国相模国伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。

緒戦で不利だった上杉勢は、五十子陣本庄市)を始めとして、河越城岩付城江戸城などの拠点を整備して反撃に転じ、長年に渡って一進一退の戦況が続いた。しかし文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに起因した長尾景春の反乱が発生するなど、上杉氏内部の矛盾が大きくなると、ようやく機運が熟して、成氏と幕府との和睦が成立した。(文明14年11月27日1483年1月6日)・「都鄙合体(とひがったい)」) この和睦の結果、堀越公方は伊豆一国を支配することとなり、実質的に成氏は関東公方の地位をあらためて幕府に承認されたと考えられる[6]。 しかし、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など、不安定な状態は継続しており、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。[3][7][8][6]

[編集] 古河の本拠地化

[編集] 古河移座の背景

享徳の乱の際に、足利成氏が新たな本拠地として古河を選んだ理由としては、以下が指摘されている。

  • 経済的基盤: 鎌倉公方の御料所は、おもに鎌倉周辺の相模国内と、下河辺庄等の関東平野中心部の二か所にあり、鎌倉公方家臣団に経営されて、経済的基盤となっていた。従って、下河辺庄の拠点であった古河は、鎌倉以外の本拠地候補として適当であった。なお、足利家の家臣簗田氏野田氏は、それぞれ下河辺庄の水海・関宿と古河・栗橋を地盤とし、成氏の古河移座後も、関宿城および栗橋城に拠って古河公方を支えた。[9][3]
  • 地理的条件(旗下武家・豪族の結束点): 成氏の古河移座当時、おおまかには、下野国下総国全体、常陸国の大半が古河公方勢力下にあり、上野国武蔵国の大半、相模国伊豆国全体は上杉氏の支配下にあった。上野国東部・武蔵国北東部・常陸国南部が係争地であった。従って、古河は各地に散在した支持勢力の中心にあり、かつ、これらを束ねる扇の要の位置にあった[10]。 古河公方を支持した武家・豪族は、下野の宇都宮氏那須氏小山氏佐野氏、下総の結城氏千葉氏、常陸の佐竹氏小田氏、上野東部の岩松氏等である。特に小山氏は成氏が「兄弟の契盟」関係と呼ぶほど強く信頼していた[11]。 宇都宮氏や千葉氏は、支持派と反支持派との内紛の結果、古河公方側になっている。また、上杉氏の影響力が弱い上総国安房国には、それぞれ武田氏里見氏が入部した。一方、常陸国の筑波郡・稲敷郡・真壁郡では上杉氏の影響力が強かった[10]
  • 水上交通: 古河は水上交通の幹線となる河川が集まっていた。当時の河船は現在の鉄道・自動車に匹敵する最大の物流・交通手段である。渡良瀬川利根川水系では、上流の渡良瀬川・思川が、足利氏ゆかりの下野国足利庄、および、岩松氏・佐野氏や小山氏等の有力豪族拠点と直結した。下流の太日川(現在の江戸川)は、古河公方御料所である下河辺庄を縦断した。(当時の渡良瀬川・利根川河口は東京湾) また、常陸川(現在の利根川下流、茨城・千葉県境部)水系では、印旛沼に面した佐倉と結ばれ、有力豪族である千葉氏の拠点と直結した。[12][6]
  • その他: 利根川や渡良瀬川を始めとする大小河川や湖沼・湿地が、上杉勢に対する天然の堀となり、守りやすい地形であった。また、南北朝時代から、戦略上の要地として整備されてきたことも、よく指摘されている。[3][8]


[編集] 「公方-管領体制」の再構築(山内・扇谷上杉氏)

[編集] 両上杉氏間の抗争(長享の乱)

享徳の乱終結後、今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏との抗争が始まった。(長享の乱) 扇谷上杉定正が家宰の太田道灌を暗殺した直後の長享2年(1488年)に、山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始すると、定正は古河公方成氏政氏らの支援を得て反撃し、相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で優勢に立った。しかし、明応3年(1494年)に定正が陣中で急死した後、家督を継承した上杉朝良は、駿河国今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得る一方で、今度は山内上杉顕定が、第二代古河公方となった政氏らの支援を得て再度対陣し、永正元年(1504年)武蔵立河原で扇谷勢が大勝したにも関わらず、永正2年に山内勢が朝良の本拠河越城を攻撃した際に、朝良は顕定に和睦を申し出て、長享の乱が終結した。

以上は、山内上杉顕定が古河公方との結びつきを強化することで、扇谷上杉氏との抗争を解決していく過程でもあった。旧来の秩序を不安定化させる「堀越公方の滅亡」・「扇谷上杉朝良と外部勢力(伊勢宗瑞等)の結びつき」などの出来事に対応するため、顕定は関東管領として、政氏のもとに出仕し、さらに政氏の弟を養子に迎えて後継者(顕実)とするなど関東管領を古河公方「御一家」と成し、いわゆる「公方-管領体制」の再構築と秩序回復を進めた。[13][14][8]

[編集] 公方家内紛(永正の乱)

永正3年(1506年)、足利政氏の嫡子である高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移座し、公方家を動揺させる内紛が始まった。(永正の乱)。 不和の背景は明らかではないが、宇都宮氏との姻戚関係が指摘されている。正室を周辺の伝統的豪族から迎えた例は他になく、高基自身の特別な意思が関与したと推定される[15]。 他には、高基が山内上杉顕定に対して、異心なきことを誓った起請文を出していることから、顕定の影響も指摘されている[16]

永正6年(1509年)、顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河に帰座したが、翌7年に顕定が越後で戦死した直後、高基は再び古河城を離れて、公方家重臣簗田高助関宿城へ移座した。同時に山内上杉家でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大した。永正9年(1512年)、憲房が顕実本拠の武蔵鉢形城攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。代わりに高基が古河城に入り、第三代古河公方の地位を確立した結果、「公方-管領体制」は、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。のちに、憲房もまた、高基の子を養子に迎えて、関東管領の後継者(憲寛)とする。

さらに、永正13年(1516年)、政氏は小山氏の支持を失ったため、扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移座し、同15年(1518年)の朝良死去後は、武蔵久喜館(甘棠院)にて隠棲した。[17][18]

[編集] 公方権力の分裂(古河・小弓の嫡流争い)

[編集] 小弓公方の成立

足利高基の弟である義明は、当初、雪下殿鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあり、空然と称したが、還俗時に改名した。初代足利成氏の時代にも、弟の定尊が雪下殿として、寺社による地方支配体制、いわゆる「公方-社家体制」を支えて、公方権力の一翼を担っており、義明も同様の立場であった[19]

永正の乱当初、義明は高基に協力したが、高基が古河公方の地位を確立すると、独立して行動し始めた。永正14年(1517年)、上総の真理谷武田氏は、高基側の下総の原氏から小弓城を奪取した後、義明は下河辺庄高柳(栗橋町)から小弓城に移座し[20]、自らを政氏の後継であるとして、嫡流を高基と争ったため、これを小弓公方と呼ぶ。この結果、公方権力は分裂し、その一翼を担った「公方-社家体制」も崩壊した。小弓公方は、扇谷上杉朝良および安房国里見氏常陸国小田氏多賀谷氏らにも支持された大勢力であった。北条氏綱も、真理谷武田氏との関係により、小弓公方を支持した。

永正16年(1519年)、高基は小弓側の拠点である椎津城市原市)を攻撃したが、義明は里見氏の軍勢で反撃した。その後も、古河側の高城氏拠点根木内城と小弓側の名都借城流山市)など各地で激戦が繰り広げられ、古河側重要拠点の関宿城も小弓勢の脅威にさらされた。[17][8]

[編集] 小弓公方の滅亡(国府台合戦)

天文2年(1533年)および天文3年と、小弓公方支持基盤となっていた安房の里見氏および上総の真理谷武田氏において、連続して家督争いが始まった。このとき、義明は里見義豊真里谷信応を支持し、北条氏綱里見義堯真里谷信隆を支持した。この家督争いの結果、特に真理谷武田氏は大きく衰退する。同じころ後北条氏の武蔵侵攻を受けて、扇谷上杉氏の勢力も後退したため、小弓公方をとりまく状況が大きく変化し始める。

古河公方側でも、享禄4年1531年、関東管領が高基次男の上杉憲寛から、嫡流の憲政に代わる一方で、高基と後北条氏が接近し始める。天文4年(1535年)に高基が没し、足利晴氏が第四代古河公方となった後の天文7年(1538年)に、晴氏の上意を得た後北条勢が下総国府台に進出した小弓勢を打ち破った。(国府台合戦) このとき、義明が敗死して小弓公方は滅亡し、古河・小弓分裂状態が解消されたが、後北条氏の影響力が増大する契機ともなった。[17][8]


[編集] 「公方-管領体制」の衰退(後北条氏と上杉謙信)

[編集] 公方体制内の後北条氏台頭

天文8年(1539年)、北条氏綱の娘が足利晴氏のもとに入嫁した。後の芳春院であり、次の古河公方になる足利義氏の母である。この婚姻は高基後北条氏と約束していたが、晴氏は放置していた。しかし、国府台合戦以後、古河城直近にまで勢力を広げた後北条氏の度重なる要請は無視できなくなった。以後、氏綱は自らを古河公方足利氏「御一家」・関東管領であるとし、周辺の伝統的豪族に対して、後北条家による関東支配の正統性を主張するようになった。[21][22]

[編集] 後北条氏への抵抗(河越合戦)

扇谷上杉氏は、度重なる後北条氏の攻勢に耐えきれず、大永4年(1524年)に江戸城岩付城を続けて失い、天文6年(1537年)には本拠の河越城も失陥していた。しかし、天文10年(1541年)、氏綱が没すると、山内上杉氏・扇谷上杉氏は反撃を開始する。扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は、駿河今川義元と計って後北条勢を挟撃し、天文14年(1545年)には河越城を包囲した。

古河公方晴氏は、後北条家を継いだ氏康の要請により当初は静観したが、結局は憲政の求めに応じて、自ら兵を率いて河越城攻撃に参加した。しかし、天文15年(1546年)の河越合戦において、両上杉・古河公方の連合軍は寡兵の後北条勢に敗れ、朝定は敗死・憲政は上野平井城に敗走・晴氏も古河城に敗走した。憲政はその後、さらに越後国に逃れ、上野国も後北条氏の勢力範囲内になる。劣勢になった晴氏は後北条氏の介入を排除できなくなり、足利藤氏を廃嫡し、天文21年(1552年)には自らも退いて、氏康の甥でもある義氏を、第五代古河公方とした。その後、義氏は後北条氏の庇護のもとで公方権力を行使したため、「公方-管領体制」は、後北条氏に従わない関東諸豪族に介入する手段ともなった。

天文23年(1554年)、晴氏と藤氏は古河城に籠城し、後北条氏に抵抗したがかなわず、晴氏は相模秦野に幽閉された。弘治3年(1557年)、晴氏は古河城に戻り再度抵抗を企てるが、後北条氏に近い公方重臣の野田氏によって、栗橋城に幽閉されて永禄3年(1560年)に没した。永禄元年(1558年)、鎌倉にいた義氏は古河に近い関宿城に移座した。これには後北条氏に従わない公方重臣の簗田氏を、弱体化させる目的もあったと考えられている。関宿は簗田氏の基盤であったが、古河公方義氏の命令には、簗田氏も従わざるを得ず、関宿城を明け渡した。[21][23][22][24][8]

[編集] 古河公方の終焉(上杉謙信の関東侵攻)

永禄3年(1560年)、北条氏康が隠居して、氏政が家督を継いだ直後、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東侵攻を始めた。謙信は将軍足利義輝から御内書を得た上で、越後に逃れた上杉憲政を奉じ、三国峠から上野に進出した。永禄4年(1561年)には、足利義氏の関宿城を包囲し、さらに、足利藤氏を正統な古河公方として擁立するために、憲政とともに古河城に入れた。このとき、義氏は後北条側に参陣するように、多数の軍勢催促状を発給したが、結局、古河城に近い関宿城から退去した。同年、謙信はさらに後北条氏本拠の小田原城を攻撃したものの、落城には至らずに撤退する。その直後、謙信は上杉憲政から山内上杉氏の名跡を譲り受けて、関東管領も引き継いだ。従って、謙信と後北条氏は互いに異なる古河公方を奉戴し、自らの関東管領の正統性を争うことになった。その後も、両者は互いに攻防を繰り返し、永禄5年(1562年)には、北条氏照の攻勢を受けて、藤氏・憲政が古河城から退去した。

永禄12年(1569年)、武田信玄の動向を警戒した謙信と氏政との間に越相同盟が成立した。その結果、義氏は古河城に入り、古河公方の地位を確立する。しかし、古河公方および関東管領の正統性争いが妥協によって終結したことは、両者ともに関東管領への関心が低下し、「公方-管領体制」が機能を失ったことを示す[25]。 越相同盟以後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方を擁立する必要性も低下し、天正11年(1583年)、義氏が男子を残さず没した後にも、何ら対策が取られないまま、古河公方は自然に消滅した。[26][21] [23][22] [27][8]

[編集] 末裔(喜連川氏)

天正18年(1590年)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、古河城に残された義氏の娘(氏姫)と、小弓公方の子孫である足利国朝との婚姻を成立させて、下野国喜連川に所領を与えた。秀吉の目的は、名家の血筋が絶えることを惜しんだとする見解が一般的だが、関東公方家の権威には未だ影響力が残っており、新たに関東を支配する徳川家康への牽制効果を期待したとの指摘もある[28]。古河公方の末裔は、江戸時代には喜連川氏となり、明治まで続いた。[23][29]


[編集] 歴代古河公方

名前 在職期間 備考 補佐した関東管領
初代 足利成氏 1455年 - 1497年 第5代鎌倉公方。
憲忠謀殺後は関東管領(房顕顕定)と対立。
(上杉憲忠)
2代 足利政氏 1497年 - 1512年 上杉顕定・顕実(公方家からの養子)
3代 足利高基 1512年 - 1535年 元服時は高氏。のち改名。 上杉憲房憲寛(公方家からの養子)
上杉憲政(憲房の実子)
4代 足利晴氏 1535年 - 1552年 上杉憲政
北条氏綱氏政(自称)
5代 足利義氏 1552年 - 1583年 母は北条氏綱の娘。藤氏と異母兄弟。 北条氏政(自称)
- 足利藤氏 1561年 - 1562年? 義氏の就任を認めない上杉謙信らが擁立。
通常、歴代には数えられない。
上杉謙信
- 氏姫 足利義氏の長女。子孫はのちの喜連川氏

[編集] 脚注

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  1. ^ 峰岸純夫(1989)、233-254頁(東国における十五世紀内乱の意義)。
  2. ^ 例えば、阿部能久(2006)、3-12頁(序章)。市村高男(1994)、3-26頁(序章)。佐藤博信(1989a)、15-36頁」(序論)など。
  3. ^ a b c d 古河市史通史編、163-178頁(古河公方足利氏の成立)。
  4. ^ 佐藤博信(1989a) 、37-53頁(永享の乱後における関東足利氏の動向)。
  5. ^ 阿部能久(2006)、15-35頁(江の島合戦と足利成氏の関東府再建構想)。
  6. ^ a b c 阿部能久(2006)、36-59頁(享徳の乱と関東公方権力の変質)。
  7. ^ 佐藤博信(1989a) 、54-86頁(足利成氏とその時代)。
  8. ^ a b c d e f g 千野原靖方(2006)。
  9. ^ 市村高男『古河市史研究』第11号、19-48頁、1986年。
  10. ^ a b 佐藤博信(1989a)、54-86頁(足利成氏とその時代)。
  11. ^ 例えば、小山市史通史編1、617頁 など。
  12. ^ 千野原靖方(2007)、212-242頁(内乱と水路の掌握)。
  13. ^ 佐藤博信 (1989a)、101-112頁(足利政氏とその時代)。
  14. ^ 佐藤博信(2006a)、55-76頁(足利政氏とその文書)。
  15. ^ 佐藤博信(1996)、50-76頁(東国における永正期の内乱について)。なお、「荒川善夫(2002)、 314頁」によれば、政氏の支持基盤であった小山氏は、当時、宇都宮氏と所領争いをしていた。
  16. ^ 例えば、古河市史通史編、180頁 など。なお、不和の理由として、政氏が山内上杉氏との連携を重視する一方、高基は対立する後北条氏を重視したことを取り上げる見解(「小山市史通史編1、624頁」など)も散見される。
  17. ^ a b c 古河市史通史編、178-188頁(古河公方足利氏の動揺)。
  18. ^ 佐藤博信(1996)、50-76頁(東国における永正期の内乱について)。
  19. ^ 佐藤博信(1989a)、113-150頁(雪下殿に関する考察)。
  20. ^ 佐藤博信(1989b)、106-116頁(雪下殿御座所考)。なお、「快元僧都記」にもとづき、「武田氏が小弓城を攻略するために、奥州から義明を招いて大将とした」とする通説は、「佐藤博信(2006b)、48-52頁」にて、不自然な点があると指摘されている。
  21. ^ a b c 古河市史通史編、188-191頁(足利晴氏と後北条氏)。
  22. ^ a b c 佐藤博信(1989a)、151-174頁(足利晴氏・義氏とその時代)。
  23. ^ a b c 古河市史通史編、207-230頁(古河公方足利氏の終末)。
  24. ^ 佐藤博信(1989b)、117-133頁(足利晴氏についての覚書)。
  25. ^ 例えば、佐藤博信(1989a)、275-278頁(越相同盟成立後の動向)など。
  26. ^ 阿部能久(2006)、60-96頁(関東公方足利義氏の権威)。
  27. ^ 佐藤博信(1989a)、257-281頁(越後上杉謙信と関東進出)。
  28. ^ 阿部能久(2006)、198-274頁(喜連川家の誕生)。
  29. ^ 佐藤博信(1989a) 、175-191頁(古河氏姫に関する考察)。

[編集] 参考文献

  • 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年
  • 荒川善夫 『戦国期東国の権力構造』 岩田書院、2002年
  • 市村高男 「古河公方の権力基盤と領域支配」『古河市史研究』第11号、19-48頁、1986年
  • 市村高男 『戦国期東国の都市と権力』 思文閣、1994年
  • 小山市史編さん委員会 編 『小山市史 通史編1』 小山市、1984年
  • 学習研究社編 『歴史群像シリーズ 戦国合戦大全(上巻)』 学習研究社、1997年、84-87頁(公方権力を背景にした氏康の領国拡大)
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
  • 佐藤博信 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年a
  • 佐藤博信 『中世東国の支配構造』 思文閣、1989年b
  • 佐藤博信 『続中世東国の支配構造』 思文閣、1996年
  • 佐藤博信 『中世東国足利・北条氏の研究』 岩田書院、2006年a
  • 佐藤博信 『中世東国政治史論』 塙書房、2006年b
  • 千野原靖方 『国府台合戦を点検する』 崙書房、1999年
  • 千野原靖方 『関東戦国史(全)』 崙書房、2006年
  • 千野原靖方 『常総内海の世界』 崙書房、2007年
  • 峰岸純夫 『中世の東国 地域と権力』 東京大学出版会、1989年

[編集] 関連項目

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