細川勝元

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細川勝元
Hosokawa Katsumoto.jpg
細川勝元像(龍安寺蔵)
時代 室町時代中期
生誕 永享2年(1430年
死没 文明5年5月11日1473年6月6日
改名 聡明丸(幼名)→勝元
別名 仮名:六郎
戒名 龍安寺殿宗寶仁榮大居士
墓所 大雲山龍安寺京都府京都市
官位 従五位下右京大夫武蔵守従四位下
幕府 室町幕府管領土佐讃岐丹波摂津伊予守護
氏族 細川氏
父母 父:細川持之、母:京極高光の娘[1]
兄弟 勝元成賢(叔父・細川持賢の養子)
正室:春林寺殿山名宗全の養女(山名熙貴の娘))
政元洞松院赤松政則室)
養子:豊久 (山名宗全の子)
猶子:勝之

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代武将守護大名管領土佐讃岐丹波摂津伊予守護。足利氏の支流で三管領の1つである細川氏嫡流京兆家の当主。細川持之の子、政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。

生涯[編集]

家督・管領相続[編集]

永享2年(1430年)、細川持之の嫡男として生まれる。幼名は聡明丸

嘉吉2年(1442年)8月、父が死去したため、13歳で家督を継承した。この時に7代将軍足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となった。

文安2年(1445年)、畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。勝元が管領に就任していたのは、文安2年から宝徳元年(1449年)、享徳元年(1452年)から寛正5年(1464年)、応仁2年(1468年)7月から死去する文明5年(1473年)5月までである[2]

勢力争い[編集]

応仁の乱で敵対関係に至ったため、細川勝元と山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、はじめはそうではなかった。当時、細川家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏赤松氏嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。このため、勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え、文安4年(1447年)に持豊の養女を正室に迎えることで協調することにしていたのである。また、政敵畠山持国に対抗する意味からも持豊と手を組む必要があった。

持国が6代将軍足利義教に家督を追われた元当主の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名・国人を支持、持国は信濃守護に小笠原持長を任命、元加賀守護富樫教家成春父子を支持、大和では元興福寺別当経覚越智家栄古市胤仙小泉重弘豊田頼英を支援した。勝元はこれに対して小笠原宗康光康兄弟や富樫泰高を支持、大和で経覚派と敵対している成身院光宣筒井順永を支援、信濃・加賀・大和で持国と勝元の代理戦争が頻発した。文安2年(1445年)に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼京極持清に鎮圧させた[3]

宝徳2年(1450年)に主君である和泉守護細川常有細川元有の父)と対立して持国と古市胤仙を頼った守護代宇高有光が殺害される事件が起こったが、その件にも勝元の関与の可能性が指摘されている[4]享徳2年(1453年)に伊予守護職を河野教通から河野通春に改替、2年後の享徳4年(1455年)に自分が伊予守護となった。その後伊予守護職は通春に戻されたが、分家の阿波守護細川成之と通春が戦ったため、通春と対立していった。

享徳3年(1454年)、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった時には、持国を失脚させるため、舅にあたる持豊と共に持国の甥弥三郎を支援して持国の推す実子義就を追放に追い込んだ。しかし8代将軍足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ持豊は赤松氏の再興に強硬に反対した。このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元が弁護したため、持豊は追討を免れた(この前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。宗全が赤松則尚討伐のため但馬へ下向した直後に義就が上洛、弥三郎を追放し、翌年の持国の死で義政から当主に認められたため、両者に対抗して畠山氏の引き抜きを図った義政の謀略とされる[5]

義政の側近となった義就だったが、無断で大和へ軍事介入したことから義政の信頼を失い、一方の勝元も弥三郎と反義就派の大和国人への支援を続け、長禄3年(1459年)に弥三郎と成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信の赦免を取り付けた。弥三郎は同年に没したが、弟の政長を支援して翌4年(1460年)に義就から政長に家督が交替、義就が嶽山城の戦いを経て吉野へ没落した後の寛正5年(1464年)に管領職を政長に交替した。

しかし山名氏の勢力が勝元の想像以上に急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則赤松満祐の弟義雅の孫)を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させたのである。

さらに勝元は勘合貿易の問題から大内教弘政弘父子、河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。また、はじめ継嗣がいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしていたが、文正元年(1466年)に実子政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど関係の悪化は明白となった(山名の血を引く政元を遠ざけ、分家の野州家から勝之を猶子に迎えたとも)。寛正3年(1462年)に宗全の次男是豊備後安芸守護に任命、義就討伐に参戦させ、寛正5年に山城守護に任命したことも宗全への対抗とされる[6]

文正元年、義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。この時、義政の側近伊勢貞親季瓊真蘂は義政が当初後継者に指名していた弟の足利義視の廃嫡と義尚の将軍後継を義政に提言した。しかし義視を支持していた勝元はこれに反対、宗全も貞親が幕府内において権勢を強めていたことを苦々しく思っていたことから、この時は勝元に賛同し共に義政に対して貞親と真蘂の追放を訴え、これを強硬に実現させた(文正の政変)。斯波義敏・赤松政則も失脚したが、後に復権している。

これにより将軍家内部で実力者がいなくなると、宗全は12月、追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に仲介して赦免の許しを出させた。さらに宗全は応仁元年(1467年)1月、義政に強請して勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。ここに至って、勝元と宗全の武力衝突は避けられないものとなった[7]

応仁の乱[編集]

応仁の乱における最初の衝突は、畠山義就と畠山政長が争い、上御霊神社で衝突したことから始まった(御霊合戦)。これに対して宗全は後花園上皇後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。

しかし5月25日、天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し、5月26日には山名方に戦いを挑んだ(上京の戦い)。勝元は東軍、宗全は西軍と区別され、勝元は将軍・義政から宗全追討令を受領したものの、戦況は互角であった。また、赤松政則を支援して山名領へ侵攻させたりした。そして一時は宗全に奪われていた上皇・天皇を確保するなど、次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた[8]

応仁2年(1468年)閏10月、義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わるなど戦況も変わり、段々京都の戦闘が行われなくなる一方で地方に戦乱が波及、両軍はそれぞれの有力武将の寝返り工作へと戦略を変化させ、義視が西軍の総大将に祭り上げられ幕府がもう1つ出来上がるまでになった。このような中で文明3年(1471年)に西軍の部将朝倉孝景越前守護に任じて寝返らせ、翌文明4年(1472年)に宗全に和平交渉を試みるが、決裂する[9]

文明5年(1473年)3月に宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように5月11日に死去した。享年44。死因は病死と言われているが、一説では山名派による暗殺説もある。死後、政元が細川政国の後見の下で家督を継承、文明6年(1474年4月3日に宗全の孫・山名政豊と和睦を結んだ[10]

人物[編集]

  • 禅宗を信仰し、龍安寺竜興寺を建立し、料理などにも精通していただけでなく、自ら医術を研究して医書である「霊蘭集」を著しただけではなく、和歌・絵画にも優れた才能を持つ文化人であった[11]
  • 応仁の乱で勝元の下で活躍した4人の重臣、香川景明(元明)・香西元資奈良元安安富盛長の4人を細川四天王と呼ぶことがある。
  • 応仁の乱と並ぶ争乱となった関東の大乱・享徳の乱にも深く関わっている。畠山持国が鎌倉公方足利成氏との協調によって関東地方の安定を図ろうとしたのに対し、代わって管領に就任した勝元はこれに対抗して関東管領上杉氏を支援して成氏を抑圧しようとした。その結果、上杉氏と勝元の圧力によって追い込まれた成氏は関東管領上杉憲忠暗殺し、鎌倉公方と関東管領の全面衝突による大乱へと発展した[12]
  • 義視の後見人を引き受け、富子が対抗して宗全を義尚の後見人に依頼したのが応仁の乱の原因の1つとされているが、応仁記以外に記録されていないこと、義尚の誕生前に宗全・義廉らが諸大名と連携、義視もその中に入っていることから否定説もある[13]
  • 政治的才能には長けていたが、それでも応仁の乱・享徳の乱を勃発させて国人層の台頭を招くなど、結果として戦国時代の幕を開くことになった張本人の1人であることは間違いない人物である。

官職位階履歴[編集]

日付は旧暦

脚注[編集]

  1. ^ 小和田、P197、P204 - P205。
  2. ^ 小川、P56 - P63。
  3. ^ 小川、P63 - P65、石田、P78 - P96、P102 - P108、川岡、P56 - P61。
  4. ^ 田中慶治「和泉国上守護代宇高氏と興福寺官符衆徒棟梁古市氏」(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 所収)
  5. ^ 小川、P65 - P70、石田、P109 - P111、P124 - P125、川岡、P61 - P63。
  6. ^ 小川、P70 - P72、P129 - P141、石田、P141 - P144、P160 - P165、P182 - P189、川岡、P106 - P112、P180 - P182。
  7. ^ 小川、P145 - P157、石田、P191 - P200、川岡、P114 - P125。
  8. ^ 小川、P157 - P186、石田、P200 - P229、川岡、P125 - P137。
  9. ^ 小川、P187 - P216、石田、P232 - P263、川岡、P138 - P143。
  10. ^ 小川、P216 - P223、石田、P265 - P274、川岡、P144 - P147。
  11. ^ 小川、P77 - P82。
  12. ^ 石田、P116 - P120、P125 - P127。
  13. ^ 石田、P3 - P4、P185 - P190。

参考文献[編集]

関連項目[編集]