上杉朝定 (扇谷上杉家)

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上杉 朝定
時代 戦国時代
生誕 大永5年(1525年
死没 天文15年4月20日1546年5月19日
改名 五郎(幼名)→朝定
別名 受領名修理大夫
戒名 仏身院正栄
氏族 上杉氏扇谷上杉家
父母 父:上杉朝興、母:不明

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、武蔵国戦国大名扇谷上杉家の事実上最後の当主である。

経歴[編集]

大永5年(1525年)、上杉朝興の子として生まれる。天文6年(1537年)4月に父が死去したため、家督を継いで当主となる。そして後北条氏に対抗するため、武蔵国府中(現調布市)・深大寺に城(深大寺城)を築いている。ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に、7月には河越城を攻められ、朝定は敗走して、以後は松山城を居城とした。

天文10年(1541年)、長年抗争していた宿敵・山内上杉家上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗する。天文14年(1545年)には駿河今川義元と連携して対北条大包囲網を作る。義元が挙兵して氏康が駿河へ出陣した隙に、憲政や古河公方足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。河越城主北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。しかし翌天文15年(1546年)4月20日、今川との戦いを収めて河越城の後詰にかけつけた氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(いわゆる河越夜戦)で扇谷上杉軍は大敗、当主朝定は討死、他の連合軍は四散し、河越城奪還の夢は砕かれた。享年22。ただし、朝定を誰が討ち取ったかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、朝定の実際の死因は病死の可能性も排除できず不明であり、連合軍の崩壊の原因を北条軍の奇襲ではなく、朝定の突然の死に求める説もある[1]

朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。

脚注[編集]

  1. ^ 城郭研究会(代表:黒嶋敏)「中世の河越城-その成立と景観-」(初出:『史友』31号(青山学院大学史学会、1999年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1