鶴岡八幡宮
| 鶴岡八幡宮 | |
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本宮へと続く参道 |
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| 所在地 | 〒248-8588 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号 |
| 位置 | 北緯35度19分34秒 東経139度33分23秒 |
| 主祭神 | 応神天皇 比売神 神功皇后 |
| 社格等 | 国幣中社 別表神社 |
| 創建 | 康平6年(1063年) |
| 例祭 | 9月15日 |
ウオッちず Google Map 鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定されている。宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられることもある。
目次 |
[編集] 歴史
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。
江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布[1]がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で焼失したが、外国人観光客等が撮影した写真やスケッチが残されている。
[編集] 境内
| 画像 | 概要 | |||
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源平池を横切るように作られている石造の橋。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。現在は柵で締め切られているが昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていた[2]。 |
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下拝殿とも呼ぶ。源頼朝の求めに応じて舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。
ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。 |
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61段あり登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。 |
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建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。しかし、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり現在の樹は二代目であるとする説もある[3]。昭和30年(1955年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボル[3]として親しまれていた。樹齢800年とも1000年余ともいわれていた[3]。 |
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倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された[4]。残る2つは境内に保存される。倒壊から約一ヶ月たち、再生への努力が実を結び、若芽が確認された[5]。画像左が元地点に残った根から生えた蘖、右が移植された幹。 |
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源氏池の島にある。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。明治の神仏分離令で一度は廃れたが、昭和55年(1980年)に文政年間の古図を元とし復元された。 |
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源頼朝と源実朝を祀る。逸話として、豊臣秀吉が小田原攻めの後に参拝したが、その際に祀られていた頼朝像を見て「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」と言うと、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという。 |
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本殿は重要文化財 |
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北条政子が掘らせたと伝わる池。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には旗上弁天社がある。 |
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仁徳天皇など三柱を祀る。 |
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祖霊社は終戦後、氏子崇敬者の「おみたま」(祖霊)と護国の霊を祀る為に、昭和24年に創建された社。祖霊社の運営は、遺族を会員とする「祖霊社維持会」 |
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[編集] 参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
[編集] 文化財
[編集] 国宝・重要文化財
- 建造物
- 工芸品
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- 国宝「古神宝類」(神服類)
- 国宝「古神宝類」(刀剣武具類)
- 国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(まがきにきくらでんまきえ すずりばこ)
- 国宝「太刀 銘正恒」
- 重要文化財「太刀 3口(各銘相州住綱広、綱家作、康国作)・桐鳳凰蒔絵糸巻太刀拵(たちごしらえ)3口」
- 重要文化財「太刀 金銘国吉」
- 重要文化財「太刀 銘長光」
- 彫刻
- 重要文化財「木造舞楽面 陵王、散手、貴徳鯉口 貴徳番子、二ノ舞」
- 重要文化財「木造弁才天坐像」
- 重要文化財「木造菩薩面」
- 古文書
- 重要文化財「紙本墨書鶴岡社務記録」
- 重要文化財「鶴岡八幡宮文書(二百二十四通)」
- 歴史資料
- 重要文化財「紙本墨書鶴岡八幡宮修営目論見絵図」
[編集] 史跡(国指定)
- 「鶴岡八幡宮境内」
[編集] 祭事
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[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] バス
[編集] 自動車道路
[編集] 年表
| 和暦 | 西暦 | 月日 | 事柄 |
|---|---|---|---|
| 康平6年 | 1063年 | 8月 | 源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮) |
| 永保元年 | 1081年 | 2月 | 源義家が修復 |
| 治承4年 | 1180年 | 10月12日 | 源頼朝が現在の小林郷北山に遷座 |
| 建久3年 | 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍に任じられる | |
| 承元2年 | 1208年 | 神宮寺創建 | |
| 建保7年 | 1219年 | 源実朝が甥の公暁に襲われ落命 | |
| 文明10年 | 1479年 | 1月27日 | 江戸城西方の守護として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請 |
| 大永6年 | 1526年 | 11月12日 | 里見義豊・実堯と北条氏綱の間の合戦で社殿が焼失(鶴岡八幡宮の戦い) |
| 天文9年 | 1540年 | 大永の戦乱で焼失にした社殿を北条氏綱が再建 | |
| 文政11年 | 1828年 | 江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿等が造営さる | |
| 明治元年 | 1868年 | 3月 | 神仏分離令により廃仏毀釈が始まる |
| 明治元年 | 1868年 | 4月24日 | 仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府によって禁止された |
| 明治元年 | 1868年 | 7月19日 | 石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に改めさせられた |
| 明治4年 | 1871年 | 5月14日 | 社格制度制定 |
[編集] 八幡神と武家政権
平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった[6] 。
[編集] 注
- ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
- ^ 久美沙織コバルト文庫『ミッキーのおしゃれ読本』より。
- ^ a b c “鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2010年3月10日) 2010年3月11日閲覧。
- ^ 産経ニュース「鶴岡八幡宮の大銀杏、7メートル脇に移植完了「再生を期待」」2010.3.15 16:59
- ^ “倒壊の大イチョウ、根元から若芽 鎌倉・鶴岡八幡宮”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2010年4月2日) 2010年4月11日閲覧。
- ^ 関幸彦『「鎌倉」とはなにか』山川出版、2003年、150頁。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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