坂本龍一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
坂本龍一
Ryuichi Sakamoto
}
基本情報
別名 教授
出生 1952年1月17日(62歳)
出身地 日本の旗 日本東京都中野区
血液型 B型
学歴 東京芸術大学大学院修士課程
ジャンル 映画音楽
クラシック
現代音楽
ニューエイジ
エレクトロニカ
J-POP
テクノポップ
フュージョン
ニュー・ウェイヴ
沖縄音楽
アンビエント
イージーリスニング
ボサノヴァ
ハウスミュージック
ワールドミュージック
ほか…
職業 作曲家演奏家
音楽プロデューサー
担当楽器 キーボード
シンセサイザー
ピアノ
オルガン
ストリングス
ドラム
活動期間 1978年 -
レーベル 日本コロムビア
(1978 - 1979)
アルファレコード
(1978 - 1983)
MIDI
/SCHOOL
(1984 - 1986)
CBSソニー
/TERRAPIN
(1987)
ヴァージン・レコード
(1989 - 1991)
東芝EMI
(1993)
フォーライフ・レコード
/güt
(1994 - 1997)
ワーナーミュージック・ジャパン
(1998 - 2006)
commmons
(2006 - )
共同作業者 りりィ&バイバイセッションバンド
細野晴臣
高橋幸宏
矢野顕子
( - 1993年まで)
忌野清志郎
デヴィッド・シルヴィアン
小山田圭吾
公式サイト sitesakamoto.com

坂本 龍一(さかもと りゅういち、Sakamoto Ryūichi1952年1月17日 - )は、日本ミュージシャン作曲家編曲家音楽プロデューサーピアニストキーボーディスト反原発活動家。東京都出身。

人物[編集]

世界的に活動している日本人ミュージシャンである。その音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にあるものの、民俗音楽現代音楽にも造詣が深く、ヘヴィメタルカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にある[1]

幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。YMO時代にテクノポップニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックテクノの融合、ワールドミュージックヒップホップR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップスオペラの作曲およびプロデュースクラシックボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、近年はアンビエントエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表している。

自身の音楽活動のほか、プロデューサーアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。また、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当したことをきっかけに映画音楽の作曲も手掛けるようになり、1987年公開の『ラストエンペラー[2]では日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し、以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。

代表曲に、エリック・クラプトンマイケル・ジャクソンらにカヴァーされた「ビハインド・ザ・マスク」、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」、覆面ボーカリスト「Sister M」を起用して話題となった「ジ・アザー・サイド・オブ・ラブ」、そしてテレビCMのために書かれたピアノソロ曲「エナジー・フロー」などがある。

音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどとお笑い番組やバラエティ番組に出演する。

近年は各メディアで環境問題平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んだ。また「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。長年喫煙者であったが、針治療を通じて禁煙に成功した[3]。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折している。2008年の9月には作家村上龍との対談で、現代の「夢があるということは素晴らしい、だから君も夢を持て」という風潮に疑問を抱いている発言をしている。

無類の猫好きである。一人っ子だった坂本が生まれたときから15歳の時まで一緒に住んでいた猫と兄弟のように生活していたことが影響している[4]。また無類のジャージ嫌いであり、昔よく遊んでた友達がジャージをはいていた日、その瞬間に絶交したことがあるほどで、「僕の前でみんなはかないでね」と発言している[5]

教授」「世界のサカモト」とあだ名される。左利き血液型はB型。現在はアメリカ合衆国ニューヨーク州在住。歌手坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた娘で、坂本にとっては次女。

来歴[編集]

1952年東京都中野区に生まれる。父は河出書房編集者で、三島由紀夫野間宏中上健次などを担当した坂本一亀。母は帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。祖父は実業家第五高等学校京大とで池田勇人と同級で生涯の親友として付き合い、池田の葬儀に友人代表として弔辞を読んだという[6]。通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳からピアノを習いはじめる。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。10歳で東京藝術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。しかし14歳の頃は「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と半分信じていて、サインの練習までしていた。人生で最も影響を受けた音楽家も、ドビュッシーとバッハである[7]

1959年から東京都世田谷区給田に育つ。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校[8]を経て、1970年東京都立新宿高等学校を卒業[9]。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。また風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。また学生運動にも、のめり込む[10]

1970年東京藝術大学入学[11]。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。また坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる(ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも)。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。1976年修了。

1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。翌1976年竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィマネージャー(現株式会社365代表)が細野晴臣のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。また初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』などにキーボードとして参加。また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいる。

1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博す。またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美矢野顕子小原礼村上秀一本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。

1979年12月、アレンジを手掛けたサーカスのシングル「アメリカンフィーリング」で、日本レコード大賞編曲賞を受賞する[12]

YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた[13]。また、パンクバンドTACO (タコ)のオムニバスにな・い・し・ょのエンペラーマジックで参加。同曲をサウンドストリートで放送したが、放送禁止用語が含まれていたため、すぐにオンエア中止になった。メジャーシーンの活動と平行して、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンとは交流があり、自主レーベルである、パス・レコードフリクションPHEWのプロデュースなど]]などをピアノ演奏。YMOのライブを期待していた観客から野次られると「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等のエピソードもある。またこの頃、立花ハジメ沢村満鈴木さえ子らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年には、RCサクセション忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂'82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。またこの年、矢野顕子と結婚。

1983年公開の映画戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイビートたけしと共演。出演の条件として音楽を担当した。同作がカンヌ国際映画祭に出品された際に、映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会い、これが映画『ラストエンペラー』への布石となる。この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「Forbidden Colours英語版」(禁じられた色彩)をリリースした。同年、YMOは「散開」(解散)する。

1984年、矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する。以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという[14]

1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。

1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。

1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家鈴木行一が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮した。この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサー Pepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。契約金は他の出演者とともに1ドルであった。[15]。このときの楽曲は後に「El Mar Mediterrani」として発表された[16]

1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。

1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。

1995年ダウンタウンの変名音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュース。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、アホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。

1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。

1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケアリゲインCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングルウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。また、自身初となるオペラLIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』(以下、LIFE)を公演。この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんが好きな人はお母さん(矢野顕子)ではない」と告げたというエピソードも披露している。また「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている[17]

2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好に寄与したとして、ブラジル政府より国家勲章を授与される。

2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表。また、小林武史桜井和寿らと非営利組織「ap bank」を設立。

2006年11月6日エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。

2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。9月15日には、浅田彰中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。またこの年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。

2009年7月16日、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス政府から芸術文化勲章「オフィシエ」を授与された。

2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。

2013年2月8日、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞」を授与された[18]

オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。

2014年札幌国際芸術祭のゲストディレクターに就任。

2014年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された。[19]かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。

社会活動[編集]

坂本龍一

政治思想に関しての発言も多い。新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久馬場憲治の3人でバリケード封鎖を決行した。大学時代には武満徹を中傷する過激なビラを配ったこともあった。これについて坂本は、武満は当時音楽界の権力の象徴だったからと、武満の没後語っている。中傷された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と言い寄り興味を覚え、話をするきっかけになった。なお、坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラからインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを少なからず意識していた。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉の著書『風邪の効用』やオペラ『LIFE』の製作のための取材等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家思想家など知識人との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目参照)。

1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った[20]MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAYMr.ChildrenDREAMS COME TRUEDJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE[21]アメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。

2004年には音楽評論家高橋健太郎ピーター・バラカンらの呼び掛けに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていた音楽レコードの還流防止措置(レコード輸入権)に反対を表明した[22]

2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集[23]経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。また、同年5月にはShing02クリスチャン・フェネスらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に反対し、この問題をアート作品の共有と拡散という手法を使って内外に周知するプロジェクトSTOP ROKKASHOをスタートし、河野太郎保坂展人らの政治家、小室哲哉らのミュージシャンからも賛同を得ている[24]

2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震柏崎刈羽原子力発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始めた。東日本大震災後も原発を批判する旨の意見を度々述べている。

2012年1月11日には、自身が代表を務める森林保全団体 more trees による被災地支援プロジェクト「LIFE311」と、サイバーエージェントのソーシャルゲームピグライフと連携する連動企画『LIFE311×ピグライフ』を期間限定(3月31日まで)で立ち上げた[25]。なお、ピグライフに設置された特設エリアには坂本も登場している。

IWJ主催シンポジウムで演説中の坂本龍一

個人の選択の自由を守る観点から選択的夫婦別姓制度導入にも賛同する。

数多くのチャリティーコンサートを実施、無償での被災地の幼稚園・小・中・高校に対し、楽器関連の復興支援を行うための『こどもの音楽再生基金』、被災地支援参加型プロジェクト『kizunaworld.org』、先述の被災地支援プロジェクト『LIFE311』など、様々な側面から復興支援に尽力した。[26]。2012年5月1日、日本財団により、伊勢谷友介EXILE加藤登紀子小林幸子コロッケ坂本龍一サンドウィッチマン杉良太郎伍代夏子中村雅俊はるな愛が「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出され、表彰されている[27]

音楽活動[編集]

坂本のピアノ曲集『AvecPiano』に寄せられた解説文のなかで音楽評論家秋山邦晴は「なかなかピアノも巧い」と評している。また処女作千のナイフでは現代音楽家の高橋悠治との連弾を行っている。加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リストの難曲ラ・カンパネラを藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも本人は発言している。

音楽を担当した映画「ラストエンペラー」においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点を米国に移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌「GOETHE」で述べている。

現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントがある。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行ったが、そのときの作風は20世紀前半の近代和声の段階に「意図的に」留まっている。YMO散開後の1984年、題名のない音楽会においてオーケストラを用いて行われたニューアルバム『音楽図鑑』のプロモーションで用いた技法は1960年代に一世を風靡したフランク・ステラのような単色のミニマリズムではなく、時代遅れのものとされオーケストラの濁った音で奏でられるポスト・ミニマルであった。

学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学ができなくて挫折した。太田出版から出された『坂本龍一・音楽史』に、その試行の膨大なメモが掲載されている。多くの著書でジェルジ・リゲティオリヴィエ・メシアンに言及しているが、自身の音楽語法はフィリップ・グラストム・ジョンソンのような簡明なパターンの羅列を好んでいる。

YMOでの活動は国内外のオーバーグラウンド・ニューウェーヴに革新を起こしたが坂本はそれと平行し、国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。ニューヨーク帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhewのソロデビューシングルでのコラボレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名である。DNAの頃のアートと初めて出会ったときは満足に言葉も交わせず一方的に敵意をむき出されてしまっていたが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーしたらあっさり快諾、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。

J-WAVEにて2004年放送の番組「ゆく都市くる都市・新春放談」では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。

コンサートではほとんど年齢制限を設けたことはなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に対応をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。

歌は上手くないと自認している。ダウンタウンのごっつええ感じに出演した際、『君に、胸キュン。』を歌ったら浜田雅功にツッコまれてしまった程である。坂本自身がボーカルを執った楽曲は極めて少ないが『左うでの夢』『ビューティ』『SMOOCHY』のように、あえて坂本のボーカルを前面に押し出して製作されたアルバムもある。「歌はうまさじゃなく声色、ヘタでも自己表現としては音楽の中で最高のもの」という自身の発言がある。

幅広い音楽ジャンルを分析し、自身の作品に反映しているが、カントリー・ミュージックハワイアンだけはなじめないと発言していた[28][29]が、近年どちらも聴けるようになりハワイアンに関しては「現地に行った際に大好きになった」とのこと。

へヴィメタルは「聴く気がしない」さらに日本のヒップホップに対しては「中身が無い」とし、日本のビジュアル系と呼ばれるものに関しては顔を歪め「大嫌い。音楽がダサいもん」と発言している。一方で、ヘヴィメタルミュージシャンと競演したこともあり、「今夜はブギーバック」リリース当時「ハマった」と言ってミュージシャン小沢健二と対談もしている[30]。ZERO-LANDMINE企画時には日本のビジュアル系と称されるアーティスト達とも共演したり、自分のことを敬愛するLUNA SEASUGIZOのソロアルバムにピアノで参加したこともある。クラシックからダウンタウンのプロデュースに至るまで、いずれもジャンルの垣根を越え音楽を聴き、解析し、プロデュースすることのできる自身の才能について「自分は音楽の鉄人だと思う。(発表されている作品には)いろいろなスタイルの音楽がありますが、全部僕のものですから、安心して下さい」と発言している[31]

出版活動[編集]

1984年から 1989年まで「本本堂」という個人出版社を持ち、自身の著書を中心に、独自の出版活動を行った。 また、1984年に、シリーズ<週刊本>から刊行された『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)も話題となった。その本で予告されたのは、浅田彰著/井上嗣也装幀『煉獄論あるいはゴダール・スペシャル』、南方熊楠著/井上嗣也装幀『男色と免疫疾患』、赤瀬川原平装幀『糸井重里児童文学全集』、武邑光裕編/細野晴臣装幀『往復書簡 ウィリアム・バロウズ-出口王仁三郎』、中沢新一構成/坂本龍一ピアノ/日比野克彦装幀『グルジェフ体操カセットブック』などの、50冊であった。

本本堂から、実際に刊行された書籍は以下のとおり。

「教授」という愛称[編集]

  • 一般に「教授」という愛称で広く親しまれているが、これは高橋幸宏が付けたものである。
    • 高橋がテレビ番組で語ったところによると、坂本と高橋が初めて会った時、坂本が東京藝術大学大学院生だと聞いた高橋が驚いて、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけ。アスペクト刊「イエロー・マジック・オーケストラ」には坂本が大学院生であることを知った高橋が「じゃあ、プロフェッサーだから『教授』」と名付けたとある。イエロー・マジック・オーケストラ結成直後にニューミュージックマガジンから取材を受けた時にはすでに「教授」の愛称が使われている(同誌1978年10月号)。
  • 「教授」と呼ばれる前、当時の坂本の風貌が野球漫画「あぶさん」の主人公である景浦安武に似ていることから「あぶ」と呼ばれていた。

ディスコグラフィー[編集]

坂本龍一が提供、プロデュースした楽曲は坂本龍一提供楽曲一覧を参照。

スタジオアルバム[編集]

シングル[編集]

ミニ・アルバム[編集]

  • オネアミスの翼〈イメージスケッチ〉(1987年)
  • Music For Yoji Yamamoto Collection 1995(1996年)

ベスト・アルバム[編集]

リミックス・アルバム[編集]

  • RYUICHI SAKAMOTO IN THE '90S(1991年)
  • ハートビート 〜リミクシーズ〜(1991年)
  • ハード・リヴェンジHard Revenge, 1994年)
  • スヌーティーSnooty, 1996年)
  • ディスコード グートニンジャ・リミキシーズ(Discord gütninja remixes, 1999年)
  • LIFE IN PROGRESS(1999年)
  • music plans skmt tribute(2005年)
  • ブリコラージュBricolages, 2006年)

ライヴ・アルバム[編集]

セルフカヴァー・アルバム[編集]

  • 1996(1996年)
  • /04(2004年)
  • /05(2005年)
  • THREE(2012年)
  • THREE Deluxe Edition(2013年)海外盤のみのリリース。附属のDVDは日本ツアーの物販のEUツアーのブルーレイディスクと同内容。収録はドイツのHamburg(ハンブルク)とKarlsruhe(カールスルーエ)の2公演から。

非売品レコード・CD・ファイル[編集]

※B面は「インスツルメンタル(表記通り)」7インチシングル

  • LIFE IN JAPAN(日本生命、1983年)※12インチシングル (※後にVocal版が『音楽図鑑 完璧版』、ベストアルバム「CM/TV」と「Works」シリーズに収録。)
  • 空に会おうよ&プロローグ・大地の詩/フェスタ・エリカの夢(国際科学技術博覧会 住友館、1985年)

※「空にあおうよ」はモモの歌入り。作詞は矢野顕子。7インチシングル (※後に「Works」シリーズに収録。)

  • COMPUTE,COMPUTE,COMPUTE(京セラ、1987年)
  • THE GARDEN(TOKIO KUMAGAI、1989年)
  • FLOATING ALONG(日産自動車)
  • YOU DO ME(NEC)※音源は市販されたものと同じ。
  • THE IMAGE MUSIC(鹿島建設)
  • The Fantasy of Light & Life(Expo '90電力館、1990年)
  • The Heart of Asia(Cathay Pacific、1994年) ※「CM/TV」に収録されているテイクはM5のreprise。M1は4:14
  • snooty抜粋3曲入りプロモ(1996年)※短冊7cmシングル
  • COMPLETE INDEX OF GÜT抜粋5曲入りプロモ(1999年)
  • GEM(2002年)※非売品(2002年に発売されたベストアルバム「US」「UF」「CM/TV」の初回盤のみの特典として、応募券3枚を集め送るともらえた”坂本龍一お宝音源”を収録したCD)
  • WORLD CITIZEN - i won't be disappointed(music for J-WAVE、2003年)※坂本本人のナレーションと曲紹介から始まるショートヴァージョン。
  • ASIENCE(花王、2004年)※M2のstring quartet ver.は未発表
  • +33(ルイ・ヴィトン)※後に「/04」に収録された。
  • The Land Song(六本木ヒルズ)※後に無償配信された。
  • 26-Windb theme rev nobell (2005年)※nokia8801に添付されているCD-Rに音楽ファイルとして収録。
  • wind, cypresses & absinthe(2012年)※「メトロポリタン美術館展」テーマ曲。図録に添付。

TVなどのサウンド・トラック[編集]

映画音楽[編集]

バンド・ユニット・コラボ活動[編集]

YMOについてはイエロー・マジック・オーケストラの項を参照。

  • ディスアポイントメント・ハテルマ(Disappointment - Hateruma, 土取利行+坂本龍一, 1976年
  • 東京ジョー(Tokyo Joe, 坂本龍一&渡辺香津美, 1978年)
  • サマー・ナーヴス(SUMMER NERVES, 坂本龍一&カクトウギ・セッション, 1979年
  • い・け・な・いルージュマジック忌野清志郎+坂本龍一, 1982年)※シングル
  • エンド・オブ・エイジア(the End of Asia, 坂本龍一+ダンスリー, 1982年)
  • アレンジメント(THE ARRANGEMENT, 坂本龍一&ロビン・スコット, 1982年)
  • バンブー・ハウス/バンブー・ミュージック(Bamboo Houses/Bamboo Music, デヴィッド・シルヴィアン&リュウイチ・サカモト, 1982年)※シングル
  • 禁じられた色彩(Forbidden Colours, リュウイチ・サカモト&デヴィッド・シルヴィアン, 1983年)※シングル
  • フィールドワークField Work, トーマス・ドルビー&坂本龍一, 1985年)※シングル,12インチシングル
  • ゼロ・ランドマインZERO LANDMINE, N.M.L., 2001年)※シングル
  • カーザ(CASA, モレレンバウム2/サカモト, 2001年)
  • ライヴ・イン・トーキョー・2001(LIVE IN TOKYO 2001, モレレンバウム2/サカモト, 2001年)
  • ア・デイ・イン・ニューヨーク(A DAY IN NEW YORK, モレレンバウム2/サカモト, 2003年)
  • ワールド・シチズン(WORLD CITIZEN - i won't be disappointed, 坂本龍一+デヴィッド・シルヴィアン, 2003年)※シングル
  • vrioon(alva noto+ryuichi sakamoto, 2003年)
  • insen(alva noto+ryuichi sakamoto, 2005年)
  • Sala Santa Cecilia(christian fennesz+ryuichi sakamoto, 2005年)
  • revep(alva noto+ryuichi sakamoto, 2006年)
  • cendre(fennesz+sakamoto(フェネスサカモト), 2007年3月28日)※クリスチャン・フェネスとのユニット
  • Ocean Fire(WILLITS+SAKAMOTO, 2007年10月17日)※クリストファー・ウィリッツとのユニット
  • Ancient Future(WILLITS+SAKAMOTO, 2012年7月31日)※クリストファー・ウィリッツとのユニット
  • UTAU2010年11月10日)– 大貫妙子&坂本龍一
    • ※ 2枚組は坂本龍一のピアノのみの楽曲が収録。
  • flumina(fennesz+sakamoto(フェネスサカモト), 2011年8月3日)※クリスチャン・フェネスとのユニット
  • Disappearance (Ryuichi Sakamoto + Taylor Deupree , 2013年7月10日)
  • Snow, Silence, Partially Sunny (Sachiko M + Ryuichi Sakamoto, 2012年12月19日)

  ※ 山口情報芸術センター(YCAM)のみの限定販売。

その他アーティストとのコラボレーション[編集]

映像作品[編集]

  • 電子の拓本 ALL STAR VIDEO (現代美術家・ナム・ジュン・パイクとのコラボレーション,1984年)
  • Tokyo Melody Ryuichi Sakamoto (フランス公共放送FR3制作のドキュメンタリー映画, 1985年)
  • TV WAR(浅田彰、RADICAL TVとのコラボレーション, 1985年)
  • ADELIE PENGUINS (ビデオアーティスト・キット・フィッツジェラルドポール・ギャリンとのコラボレーション,1986年)
  • ESPERANTO (前衛舞踏家・モリサ・フェンレイとのコラボレーション。アルバムの「エスペラント」はこの作品のサウンドトラック。)
  • MEDIA BAHN LIVE (1986年)
  • NEOGEO LIVE in NEW YORK(1988年)
  • ビューティ・ツアー’90 (1991年)
  • Sweet revenge Tour 1994 (1995年)
  • D&Lライブ・アット武道館11・30・95 坂本龍一ツアー95D&L WITH 原田大三郎(映像作家・原田大三郎とのコラボレーション, 1996年)
  • Ryuichi Sakamoto Trio World Tour 1996 (1997年)
  • PLAYING THE ORCHESTRA 1997“f” (1998年)
  • MORELENBAUM2 / SAKAMOTO / 3 years (DVDのみの1万枚限定生産。プライベートフォトやビデオを日記風に閲覧できる作品, 2003年)
  • PLAYING THE PIANO/05 (2006年)
  • LIFE - fluid, invisible inaudible...(高谷史郎とのコラボレーション, 2008年)
  • utp_ (Alva Notoとのコラボレーション, 2008年)
  • watch-ryuichi sakamoto playing the piano 2009 japan(2009年に行われた東京オペラシティ コンサートホールでのライヴ, 2010年)
  • UTAU LIVE IN TOKYO 2010 A PROJECT OF TAEKO ONUKI & RYUICHI SAKAMOTO (2010年末に開催された大貫妙子とのツアーの模様, 2011年)
  • playing the piano in seoul / korea 2011 (2011年韓国からUstreamによる中継を編集したもの, 2012年)

書籍[編集]

主著[編集]

  • 「アヴェクピアノ」(1983年
  • 「本本堂未刊行図書目録」(1984年朝日出版社
  • 「水牛楽団休業」(浅田彰・坂本龍一協編、1984年)
    • カセットブック。
  • 「長電話」(高橋悠治との共著、1984年)
  • 「音楽図鑑」(1985年
    • アルバム『音楽図鑑』と同時に発刊した書籍。
  • 「EV.Café」(村上龍との共著、1985年、講談社
  • 「音楽機械論」(吉本隆明との共著、1986年
  • 「SELDOM - ILLEGAL - 時には、違法」(1989年角川書店
  • 「友よ、また逢おう」(村上龍との共著、1992年
  • 「ザ・ゲイシャ・ガールズ・ショウ」(Ken&Shoとの共著、1995年幻冬舎
  • 「モニカ」(村上龍との共著、1996年
  • 「Decode 20」(1997年
  • 「アフリカ・ノート」(2000年
  • 「ブラジル・ボックス」(2001年
  • 「少年とアフリカ - 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話 -」(天童荒太との共著、2001年)
  • 「反定義 新たな想像力へ」(辺見庸との共著、2002年
  • 「Life : fluid,invisible,inaudible…」(高谷史郎との共著、2007年
  • 「音楽は自由にする」(2009年
  • 「縄文聖地巡礼」(中沢新一との共著、2010年
    • 雑誌「ソトコト」に掲載された縄文文化に関する旅と対談をまとめた記事をさらに追記したもの。
  • 「LIFE-TEXT」(高谷史郎との共著、2010年
    • 1999年に発表されたオペラ「ライフ」と2007年の「インスタレーション」をまとめたビジュアルブック。

監修・聞き書き等[編集]

  • 「音を視る、時を聴く」(大森荘蔵による哲学講義、1982年
  • 未来派2009」(坂本龍一・細川周平監修、1986年
  • 「気分転換法77」(サワグチ・サイキック・センター著、坂本龍一監修、1987年
  • 「写真集『ラストエンペラー』」(バジル・パオ他写真、坂本龍一編、1988年
  • 「テクノドン」(後藤繁雄編・著、1993年)
  • 「skmt」(後藤繁雄著、1999年
  • 「伝説の編集者坂本一亀とその時代」(田邊園子、2003年
  • 「坂本龍一・全仕事」(山下邦彦編、1991年
  • 「坂本龍一・音楽史」(山下邦彦編、1993年)
  • 「楕円とガイコツ」(山下邦彦著、2000年
  • 「非戦」坂本龍一+sustainability for peace監修、2002年
  • 「SN [静止画資料]」」(後藤繁雄編、2002年)
  • 「エンデの警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来」(坂本龍一+河邑厚徳編著、2004年
  • 「エロコト」(編集長:坂本龍一、ソトコト2006年11月号増刊)
  • 「ラブコト」 (編集長:坂本龍一、ゲストエディター:蝶々、ソトコト2008年8月号増刊)
  • 「坂本龍一の音楽」(山下邦彦編著、2008年
  • 「ユリイカ4月臨時増刊号・総特集坂本龍一」(2009年)
  • 2003―飯野賢治対談集(1999年、 ソニーマガジンISBN 978-4789713597

フォトグラファー[編集]

  • 「エロコト」第1号(ソトコト2006年11月号増刊/責任編集:坂本龍一、アート・ディレクション:信藤三雄
    THE NAKED LUNCH 裸のランチ(写真:坂本龍一、モデル:天海麗

出演[編集]

俳優としての出演作品[編集]

映画[編集]

CM[編集]

ミュージック・ビデオ[編集]

コンピュータゲーム[編集]

TV・ラジオ[編集]

コンサート[編集]

脚注・参照[編集]

  1. ^ ただしヘヴィメタルミュージシャンのスティーブ・ヴァイらと競演したことがある。
  2. ^ 坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャー川崎絵都夫上野耕路野見祐二渡辺蕗子らが分担した
  3. ^ 第9回 「禁煙」について言いきる Web Magazine OPENERS - 坂本龍一の「上から」言いきる.... 2008年7月28日
  4. ^ 2009年3月10日放送TBS「はなまるマーケット」での発言。
  5. ^ ほぼ日刊イトイ新聞-矢野顕子について、坂本龍一くんと話そう。
  6. ^ 坂本龍一著 『音楽は自由にする』 新潮社、2009年、23頁
  7. ^ commmons: schola vol.4 Ravel
  8. ^ バスケットボール部に所属した。
  9. ^ 塩崎恭久野中直子と同期。
  10. ^ この時の闘争仲間に、後に「アクション・カメラマン」になった馬場憲治がいた。
  11. ^ 坂本が東京都立新宿高等学校一年生の時、坂本の作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「このままの実力でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された(当時の東京芸大作曲科の難易度は現在より遙かに高かった)。芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。(「SELDOM - ILLEGAL - 時には、違法」、1989年、角川書店より)
  12. ^ 受賞のコメントで「売れようとか思ってやったわけではないので、自分のやったことが評価されただけ」と述べたという。
  13. ^ この番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ槇原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている。
  14. ^ 夜のヒットスタジオ」より。
  15. ^ 本人は「日本人が外国人に歌舞伎をお願いするようなものだ」と語っている。
  16. ^ 高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。
  17. ^ 4人のうち1人(長男)は矢野顕子が前夫である矢野誠との間にもうけた連れ子で、坂本と養子縁組はしているが血縁関係はない。
  18. ^ 坂本龍一さんに「日本賞」取り組み評価 日刊スポーツ2013年2月10日閲覧
  19. ^ 音楽家 坂本龍一に関するお知らせ http://www.commmons.com/whatsnew/artists/sakamotoryuichi/201407101307.html
  20. ^ A nous, la Liberte!
  21. ^ TBS50周年特別企画 「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」
  22. ^ 先見日記 insight diaries
  23. ^ [1][リンク切れ]
  24. ^ stop-rokkasho.org
  25. ^ 「LIFE311」とピグライフがコラボ 坂本龍一さんの環境団体被災地支援プロジェクト - 産経新聞 2012/01/11 18:27
  26. ^ 日本財団>被災地で活動した芸能人ベストサポート>表彰者一覧
  27. ^ 日本財団会長 笹川陽平ブログ>被災地で活動した芸能人ベストサポート
  28. ^ NHK-FMサウンドストリートでの放送の発言より。
  29. ^ 2011年1月11日WebマガジンOPENERS連載「上から言い切る」より。
  30. ^ 1994年月刊カドカワ「世界の肌ざわり」
  31. ^ Sweet revenge Tour 1994 (1995年)

関連項目・人物[編集]

外部リンク[編集]