奈良ホテル

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奈良ホテル
Nara Hotel
Nara Hotel05s4s4272.jpg
ホテル概要
ホテルチェーン JR西日本ホテルズ
都ホテルズ&リゾーツ
運営 株式会社奈良ホテル
所有者 西日本旅客鉄道
部屋数 129室
開業 1909年10月17日
最寄駅 近鉄奈良駅
最寄IC 天理インターチェンジ
所在地 〒630-8301
奈良県奈良市高畑町1096
位置 北緯34度40分48.1秒
東経135度50分1.8秒
公式サイト 公式サイト
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奈良ホテル(ならホテル)は、奈良県奈良市高畑町にある、1909年明治42年)10月に営業開始したホテルである。

概要[編集]

春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう国道169号(天理街道)沿いにある、荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建っており、興福寺、春日大社奈良公園などの観光地にも近い。

第二次世界大戦前には国営(鉄道院鉄道省直営)の時代が長く、関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。このため「西の迎賓館」とも呼ばれる。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。

現在本ホテルは株式会社奈良ホテルが経営しており、資本金は4億円。後述する歴史的経緯から、うち西日本旅客鉄道株式会社が50%、近鉄ホテルシステムズが50%出資する。このため、JR西日本、近鉄の両系列下にあり、JR西日本ホテルズと都ホテルズ&リゾーツの両方に加盟するホテルである。

設備[編集]

本館2階ホール
中央に赤膚焼の陶製擬宝珠が見える。

宿泊設備としては木造2階建て葺き建築で創業以来の本館と、1984年昭和59年)に営業を開始した鉄筋コンクリート造4階建ての新館よりなり、小高い丘の上に建つ本館1階とその丘の南側斜面を削って建設された新館の屋上が同一平面となる[1]

2010年平成22年)現在の客室数は本館・新館合わせて129で、シングル・ツイン・ダブルの洋室を基本とするが、少数ながら和室も用意されている。木造の本館は全室禁煙である。フロントと、メインダイニングルーム「三笠」、ティーラウンジ、バー、そして売店は本館1階に、日本料理「花菊」は新館4階にあり、宴会場は本館フロント周辺に2室、新館に4室用意されている。また、これらに料理を供する厨房は本館と新館とを連結する区画の地下、つまり新館4階と同一平面に設けられている[2]

歴史[編集]

開業まで[編集]

日露戦争後、日本を来訪する外国人観光客が急増した。これに対して日本政府は外国人宿泊施設整備を支援する政策をとり、これを契機として古都である奈良でも都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた関西鉄道(ホテル建設)の思惑が一致して本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられた。

ところがその直後に関西鉄道は国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の本ホテルは西村仁兵衛、奈良市に代わって奈良県、それに関西鉄道を買収した鉄道院[3]の3者の手によって建設計画が推進された[4]

当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良県によって提示されたが、運営に当たる西村はこれを拒否[5][4]し、彼は1906年(明治39年)7月に現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録した[6][7]

以上のような紆余曲折を経て1909年10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始された。

開業後[編集]

本館の建築にあたっては鉄道院によって35万円という巨費が投じられ、東京駅駅舎を手がけた辰野金吾片岡安のコンビが設計を、関西の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた[4]

本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている[8]

1909年(明治42年)10月17日の営業開始以来、大日本ホテル株式会社によって運営が続けられた本ホテルであるが、経営難から1913年(大正2年)5月に同社は撤退、以後は鉄道院→鉄道省→運輸通信省運輸省の直営で宿泊客について「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」という原則に従って、迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになった[9]

またその経緯ゆえに、鉄道省によって外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的として制作が依頼された、上村松園前田青邨横山大観川合玉堂竹内栖鳳ら当時を代表する日本画家による絵画や、やはり鉄道省の依頼で制作された鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが本ホテルに所蔵・展示されている。

1914年(大正3年)には翌年に京都で挙行される大正天皇即位式典に備え、従来の暖炉による暖房に代えてラジエター式のスチームヒーターによるセントラルヒーティングが1年をかけて全館に導入された。これに伴い、本館屋根上に突き出していた煙突が順次撤去された[9]。もっとも、煙突は撤去されたもののロビーをはじめ各所に設けられていた暖炉のマントルピースは室内装飾として残され、これらは現在に至るまで存続している[10]

1935年(昭和10年)4月に国賓として訪日した満州国皇帝溥儀の宿泊に際しては、高価な調度品や美術品が買い揃えられた。皇族・国賓などの食事の際に供される食器がこの時に新調され、特にディナーセットなどの磁器については当時の最高級品が大倉陶園に特注された[11]

1944年(昭和19年)の金属供出の際には、階段の柱頭に装飾として取り付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出された。そこでその代わりに地元名産の赤膚焼で大家であった7代目大塩正人に依頼して製作された陶製の擬宝珠が取り付けられた。この擬宝珠は代用品ながらその個性的かつ趣のある姿ゆえにむしろ好評を博し、以後本ホテルの名物の一つとして定着した。

戦後[編集]

1945年(昭和20年)の終戦後、同年12月1日に運輸省は本ホテルを日本交通公社に貸し付け、営業も委ねることとしたが、これと前後して同年9月28日、本ホテルはサンフランシスコ講和条約発効後の1952年(昭和27年)6月30日の解除まで連合軍に接収されることとなった。

この際、白木仕上げの内外装が不潔であるとして米兵によって危うく全館ペンキ塗り潰しにされるところであったが、当時の日本側支配人が必死で本ホテルの来歴を米軍担当指揮官[12]に説明して説得し、欄干など直接手が触れる部分を朱塗りとし、従業員スペースの内装をペンキ塗り潰しとすることで由緒ある本館主要部を守った、というエピソードが残された[13]

連合軍による接収解除後、経営難に苦慮した日本交通公社は1954年(昭和29年)4月、運輸省から権利を承継した日本国有鉄道へ本ホテル営業の返還を申し出た。だが、日本国有鉄道法の規定で兼業を事実上禁止されていた当時の国鉄ではホテル直営は不可能であった。そこへ国鉄の特急急行列車で列車食堂の営業を行い、また歴史的にも本ホテル創設に強く関わっていた都ホテルが営業を引き受ける旨申し出を行い、1956年(昭和31年)3月以降は同社によって運営されるようになった。

その後、1960年代末までは複数の部屋で共用する形態となっていた風呂・洗面所を個別化[14]するなどの内装の間取りの変更や、冷房装置の設備などの改修はあったものの概ね創建当時の姿を保っていた。だが、この状況は大阪・千里丘陵で1970年に日本万国博覧会が開催されることが公表されたために一変することとなる。

万博開催に伴う改修・拡張[編集]

海外からの観光客が多数来訪することが予想された日本万国博覧会の開催に備え、本ホテルは1968年(昭和43年)に以下のような大規模な増改築を計画した。

  • 客室98、宴会場2、食堂等3、と大きな収容力を備えた新館を本館食堂南側の斜面に建設。
  • 個別の風呂・洗面所の設置で不要となった本館の共同風呂・洗面所を改装して客室を22室増設。
  • 近鉄奈良駅の地下化に伴い建設される駅ビル6 - 8階に別館を開設。
大和文華館 文華ホール(旧奈良ホテルラウンジ)

ところが、肝心の新館は工期の問題から見切り発車で起工したものの、古都保存法の区域内であることから風致審議会から建設を差し止められ建設中止となった。そのため、本館の拡充については館内の間取り変更による客室増設が予定通り実施される一方で、すでに着工していた新館の基礎部を生かして近代的な外観の半地下式グリル[15]が景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジ[16]が撤去されるに留まった。

近鉄奈良駅ビルに開設された別館[17]は、1970年に予定通り営業開始した。

新館建設[編集]

1970年代末には国鉄の兼業に関する規制が緩和されたことから、安い賃料で他社に営業を委託し続ける状態に甘んじる必要が無くなった国鉄当局は、都ホテルに対し本ホテルを直営としたい旨を通告した。協議の結果、国鉄と都ホテルが株式を折半保有する新会社、株式会社奈良ホテルが設立され、併せて万博以後の状況の変化に対応すべく万博時には断念された新館の建設が再び計画された。

この際、1984年(昭和59年)のわかくさ国体を控えて県下の宿泊施設増強を迫られていた奈良県はこの計画に協力的に対応し[18]、最大の難関であった風致審議会においても条件付きながら新館の建設が承認された。

その間、1983年(昭和58年)1月31日に株式会社奈良ホテルが設立され、本ホテルは同年4月1日からは同社によって運営されるようになった。同年8月には総工費24億円を投じた新館の工事が開始され、1984年8月に竣工、開業した。

この新館は本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で建設された半地下式の鉄筋コンクリート造り4階建てで、客室数65、4つの宴会場と新グリル「ツェダー」[19]を備え、本館を含めた供食設備の大幅強化[20]を伴う大工事となった。

新館の設計・工事監理は日本国有鉄道大阪工事局建築二課、同東京建築工事局建築二課、それに安井設計事務所が共同で担当し、工事は奥村組が担当した。

新館は1階から3階までの客室についてすべて南側を窓とした開放的なレイアウトとしてあり、制約が厳しい中で各階の天井高さ3mを確保し、かつ景観に配慮した吉野造り[21]とするなど、外観・接客設備面ともに既存の本館との調和を図りつつ独自性を発揮した設計となっている。

新館完成後[編集]

1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化の際、本ホテルにかかる資産はJR西日本が承継し、株式会社奈良ホテルも同社と都ホテルの共同出資となった[22]

なら・シルクロード博覧会」閉幕後までは本館・新館と、別館(近鉄奈良駅ビル内)の3館体制で営業が続けられたが、別館は採算性の問題から、1991年に撤退・閉鎖された。

本館では、新館完成後も従来の調度品が修理を重ねつつ長く使用していたが、2006年平成18年)に寝具や家具、空調設備の全面更新が実施されて面目を一新した。翌2007年平成19年)には新館の設備更新も完了し、基本的な接客設備の仕様統一がなされた。

宿泊した著名人[編集]

本館の玄関

宿泊した海外の著名人[編集]

宿泊した日本の著名人[編集]

  • 皇室関係者多数
  • 乃木希典 1911年(明治44年)10月 関西で実施された陸軍師団対抗演習での統裁官の任に当たる際に宿泊。
  • 高浜虚子 1916年(大正5年)11月 国民新聞記者として連載記事『奈良ホテル』取材のため宿泊。
  • 東条英機
  • 宇垣一成
  • 荒木貞夫
  • 堀辰雄 1941年(昭和16年)10月に約20日間滞在。
  • 佐藤栄作 日本国首相。鉄道官僚として大阪鉄道局長を務めていた時代に所轄の本ホテルを度々訪れ、政治家に転身後も最晩年まで何度も宿泊した。
  • 三船敏郎 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影のため宿泊。
  • 京マチ子 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影のため宿泊。
  • 清川虹子 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影のため宿泊。
  • 司馬遼太郎

周辺情報[編集]

参考文献[編集]

  • 『百年のホテル 奈良ホテル物語100周年記念特別号』、奈良ホテル、2009年
  • 『大阪電気軌道営業報告書 自第四十六回~至第六十回(昭和8年4月~昭和15年9月)』、鉄道史資料保存会、1989年

脚注[編集]

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  1. ^ そのため両館の間には本館を模した外観の区画を設け、新館4階と本館1階はエスカレーターとエレベーター、それに階段で連絡する構造となっている。
  2. ^ 厨房は本館建設時から丘の斜面を削って地下1階相当の位置に設けられており、新館建設時にこれを拡張した
  3. ^ 本ホテルの用地は関西鉄道時代に既に西村率いる大日本ホテル株式会社の所有するところとなっていたが、国有化直前の1906年9月27日に同社から関西鉄道が購入したため、以後の建設事業は用地を保有する鉄道院が主体となって実施されることとなった。
  4. ^ a b c 「百年のホテル」p.39。
  5. ^ 眺望と権利関係の複雑さが原因とされる。
  6. ^ このことは鉄道院直営となった1913年大正2年)から1983年(昭和58年)の株式会社奈良ホテル設立に伴う商号登記の際まで完全に忘却されたままとなっていた。そのため、商号使用の承諾を得るべく同社スタッフは西村の子孫を探して全国を行脚する羽目に陥ったという。
  7. ^ 「百年のホテル」p.58
  8. ^ 設計当時の奈良では宮内省匠寮技師の片山東熊によって設計され、奈良公園内に建設された奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館本館:1894年完成)の純洋風建築が「奈良公園の景観にそぐわない」としてはなはだ不評で、奈良県物産陳列所(現・奈良国立博物館付属仏教美術資料研究センター。関野貞設計:1902年完成)をはじめ、風景と調和しつつ新時代に対応する、和洋折衷構造建築の模索が続けられていた。
  9. ^ a b 「百年のホテル」p.42。
  10. ^ 本ホテル本館では木造の建物の内部で火を扱う暖炉を使用することから、壁面に断熱材兼吸音材として難燃性の石炭ガラが詰められていた。そのため、煙突撤去や間取り変更などに苦労を強いられることとなった。なお、1984年竣工の新館においても本館との設備の調和に配慮し、客室に材を組んだマントルピースが設置されている。
  11. ^ その代価は約3,000円で、当時本ホテルの備品調達を担当していた鉄道省大阪鉄道局資材課の課長はそのあまりの高額さに驚愕したという。たとえば同時期の大阪電気軌道クラスの大手私鉄の年間利益が330万円程度、つまり1日あたりの利益が10,000円に満たない時代のことであり、その金額は当時の一般的な住宅が何軒も買えるものだったのである。これらの食器は以後、現在に至るまで皇族・国賓クラスの来館者の食事の際に供され続けている。
  12. ^ キャプテンと呼ばれた。
  13. ^ このことは、本ホテルを描いたカラー絵はがきでも確認できる。戦前発行の絵はがきでは外部の手すりが白木であるが、戦後のものは朱に着色されている。
  14. ^ このような事情から、本館客室の風呂・洗面所の配置は一部で変則的なものとなっている。
  15. ^ 2階建てであったが、本館側からは1階建てに見える位置関係にあった。
  16. ^ 本館入り口東南の現在駐車場として使用されているエリアにあった。この部分は撤去後も分解状態で部材が保管され、1985年大和文華館に移築されて同館の文華ホールとして現存する。
  17. ^ 真正面に若草山が見える絶好のロケーションであったため、若草山の山焼きの前後は東側の客室が常に満室となることで知られていた。
  18. ^ この時期の県下宿泊施設拡充は、続く1988年の「ならシルクロード博覧会」開催においても威力を発揮した。
  19. ^ 1999年に日本料理「花菊」に改装、以後、グリルはメインダイニングルームが肩代わりするように変更された。
  20. ^ この新館建設に伴う客室数大幅増加に対し、食堂はメインダイニングルーム北東に隣接する既存の宴会場1室を開放しメインダイニングルームと連結しL字状のフロア構成に拡大することで対応した。だが、供食設備の強化はそれでは済まず、本館と新館を連結する宴会場・ロビー区画からメインダイニングルームにかけての地下にまたがって広大な厨房・ベーカリー・冷蔵庫群が整備された。
  21. ^ ただし、本館との結合部分となる旧グリル跡の宴会場区画については本館に準じて瓦屋根に鴟尾を載せた白壁の和洋折衷様式とされ、本館とのデザインの連続性について配慮されている。
  22. ^ 都ホテル出資分は後に近鉄ホテルシステムズに引き継がれた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]