園祭

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長刀鉾

園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区八坂神社園社)の祭礼で、明治までは「園御霊会御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。

祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日16日・後祭:7月21日23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や神輿洗(7月10日7月28日)などが著名で、「花笠連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。

宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭'の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。

園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市高山祭埼玉県秩父市秩父夜祭)、日本三大山車祭(他は前述の高山祭、滋賀県長浜市長浜曳山祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。

歴史[編集]

疫病の流行により朝廷は863年貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

869年(貞観11年)、全国のの数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身とされた牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年の御霊会が園祭の起源とされている。

御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。真夏の祭となったのは、上水道冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

中世の一時期、園社(現・八坂神社)は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、園社は日吉神社末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に園御霊会も中止・延期させられる原因となった。

さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。応仁の乱の中断後の1533年天文2年)には、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを伺わせる。応仁の乱での33年の中断や第二次世界大戦での中断等はあるものの、廃絶することなく現在まで続けられており、1000年を超える歴史がある。

園祭という名称は、八坂神社がかつては神仏習合園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたので、園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も園御霊会となったのである。

その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「園祭」に変更された(ただし「園」という名称自体は前述のとおり仏教由来である)。

室町時代以来、園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。

第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を条件付けるところが多くなっている。近年は住居の都心回帰が進み、マンションの新設により多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。

園祭の第二次大戦後の歴史[編集]

大船鉾
  • 1947年昭和22年) 長刀鉾と月鉾が戦後初めて建てられる。長刀鉾のみ四条寺町までの往復という形での戦後初の巡行を復活させる。
  • 1948年昭和23年) 北観音山と船鉾が戦後初めて建てられ、四条寺町までの往復巡行を行う。
  • 1949年昭和24年) 復活した山鉾が9基になり、戦後初めてくじ取り式を行う。
  • 1950年(昭和25年) 山鉾が16基まで復活し、後祭巡行が戦後初めて行われる。
  • 1952年(昭和27年) 当時の全山鉾の巡行が復活する。菊水鉾が仮鉾で復興。
  • 1953年(昭和28年) 菊水鉾が本鉾で巡行。88年ぶりの復興。
  • 1956年(昭和31年) それまで四条烏丸出発、四条寺町で南下、寺町松原で西行していた前祭巡行のコースが、四条寺町で北上、寺町御池で西行し、烏丸御池で解散するコースに変更される。初めて御池通に有料観覧席が設置される。
  • 1960年(昭和35年) 町会所が借金トラブルで人手に渡った岩戸山が、蔵から山の部材を出す許可を新所有者から得られず、この年から2年間祭に参加できなくなる。
  • 1961年(昭和36年) 前祭のコースが四条河原町で北上、河原町御池で西行のコースに変更される。
  • 1962年(昭和37年)5月23日 山鉾29基が重要有形民俗文化財に指定される。京阪神急行電鉄の地下線延伸工事のため、四条通の山鉾の通行が困難となったため、宵山は行われたが、この年の巡行は中止される。
  • 1963年(昭和38年) 保昌山が舁山として初めて車輪を取り付ける。
  • 1966年(昭和41年) 後祭が前祭と合同され、後祭巡行は前祭巡行の直後に続く形となる。なお、それまでの後祭の巡行コースは三条烏丸出発、三条寺町南下、四条寺町西行だった。後祭の巡行日だった24日には花傘巡行が創設される。なお、この年は鈴鹿山が巡行の合同に抗議し、宵山には参加したが巡行は不参加。
  • 1970年(昭和45年)円山公園内に作られた山鉾の部材倉庫である「祇園祭山鉾館」が使用開始。9基の舁山と1基の曳山が使用している。
  • 1972年(昭和47年)舁山で最後まで車輪をつけていなかった郭巨山に車輪が付き、これですべての舁山に車輪が取り付けられる。
  • 1977年(昭和52年) 地下鉄烏丸線工事により、烏丸通の山鉾の通過が困難になったため、烏丸御池解散を御池新町解散に変更し、有料観覧席を新町通まで拡大。この年以降、解散後の山鉾はすべて新町通を通過することになる。
  • 1979年(昭和54年)2月3日 「京都園祭の山鉾行事」が、重要無形民俗文化財に指定される。7月の巡行から綾傘鉾が115年ぶりに復興。
  • 1981年(昭和56年) 蟷螂山が117年ぶりに復興。
  • 1985年(昭和60年) 四条傘鉾の本体が再建。居祭に参加。
  • 1988年(昭和63年) 四条傘鉾が117年ぶりに巡行に参加。
  • 2009年平成21年)9月30日 国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産に登録される。
  • 2012年(平成24年) 大船鉾が唐櫃巡行の形で巡行に参加する。後祭巡行列のくじ取らずの山鉾の順行順が変更される。
  • 2014年(平成26年) 7月24日の後祭が復活する。大船鉾が150年ぶりに復興する。花傘巡行のルートが変更され、寺町御池から四条河原町までは後祭山鉾巡行の直後を行くことになる。

祭礼などの行事が国の重要無形民俗文化財に指定され、それとともに屋台・山鉾などの用具が重要有形民俗文化財に指定されているものは日本全国で5例のみで、そのなかの1つが園祭である。

後祭の復活[編集]

1965年(昭和40年)まで7月24日に巡行を行なっていた後祭を、大船鉾の再建にあわせて復活させる気運が高まり[1]2012年(平成24年)になって、2014年(平成26年)の巡行から大船鉾を巡行に参加させ、同時に後祭を復活させる方針を決めた。ただし、実際の復活には警察や地元町会等との調整が必要で正式の復活発表が遅れていたが、2013年(平成25年)8月に2014年(平成26年)の巡行から前祭の23基と後祭の10基に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことになった[2]

巡行コースは現在の巡行コースの逆ルートとなった。これは、かつての後祭のコースが三条烏丸をスタートして、三条寺町から寺町通を南下し、四条寺町から四条通を西行し、四条烏丸で解散するという時計回りのルートであったことに倣ったものである(そのために、後祭の南北に走る通りに建てられる山は北を正面にして山を建てる。前祭と合同巡行の2013年(平成25年)までは、曳山は四条通まで一旦バックしていた)。現在の三条通や寺町通は曳山の巡行が不可能な構造である(低い位置に電線が通っていたり、アーケードがあったりする)。ため、既に巡行に対応済みの現在のルートを使用することになったが、将来的には三条通の巡行を検討する。

山鉾の飾り付けは先祭と同様に宵々々山から開始するが、前祭同様その前日夕刻から飾り付けを開始する山鉾もある。有料観覧席は前祭は寺町御池から新町御池に至るまで設置されるが、後祭では京都市役所前に相当する河原町御池から寺町御池の間だけに設置される。ただ、この区間は山鉾巡行に引き続き花傘巡行が観覧できる場所である。寺町御池〜河原町御池〜四条河原町の間は山鉾巡行のコースと花傘巡行のコースが重複しており、両方の巡行が一度に観覧できる。

後祭の復活は、祭を本来の姿に戻すという意味のほか、多くの問題の解決策という面もある。山鉾の復興が進んで33基にまで増加した山鉾の巡行は、最後の鉾が解散地点である御池新町交差点に到着するのが13時30分前後までかかり、交通規制が長時間になったことや、先頭から最後までの山鉾を全部見ると2時間を越え、後祭巡行列が来る頃には有料観覧席に空席が目立つようになるなどの弊害が目立っていた。宵山期間の人出の多さも問題となっており、後祭の日程追加により人出の分散が期待された。ただ、2014年(平成26年)の前祭巡行は前年度の山鉾巡行よりも9基も山鉾の数が減ったのに、巡行の終了は逆に20分増加した。また、宵山期間の人出も14日(宵々々山)の露店出店・歩行者天国を中止したところ、7月14日の人出は半分以下の8万6000人になり、7月15日・16日に人出が集中した。特に7月16日(宵山)は前年の27万人の人出から34万人へと大幅に増加するなど、課題を多く残した。なお、後祭の21日から23日までの宵山期間の人出はそれぞれ4万人・2万人・5万人で、前祭に比べればかなり少なかったが、落ち着いた雰囲気を評価する声も多かった。巡行は前祭の11万人に対し後祭は6万人を集め、半分以下の規模であることを考慮するとまずまずの集客であった。

なお、諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」という。この語源は異説もあるが、前祭では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、後祭では山鉾の数が少なく小規模であることから、前祭を見逃して残るは後祭しかないような状況を指すようになったという説もある。

日程[編集]

かつては、旧暦6月に行われていたが、現在ではグレゴリオ暦7月に行われている。新暦移行後も幾度も日程の変遷があるが、以下に示すものは2014年(平成26年)からの後祭復活後のものである。

鉾建て中の函谷鉾
  • 6月中~下旬
    • 長刀鉾稚児結納(稚児自宅・一般非公開)稚児役の少年が長刀鉾町の代表者と形式的に養子縁組する。

ここからが園祭

  • 7月1日から
    • 吉符入(きっぷいり・各山鉾町ごとに日付が異なるが5日までに行われる。・多くが一般非公開)。祭りの始まり。各山鉾町関係者が町会所に集まって祭の無事を祈願する。
    • 長刀鉾町お千度 稚児がたくさんの関係者を従えて3回本殿を回ったあと登殿参拝し、稚児に選ばれたことを奉告し、祭の無事を祈る。3回本殿を回っただけで、300人以上の人を従えているので、延べ千度回ったと解釈し「お千度」という。ただし、現在は300人もの供を従えないが旧例に従っている(10時・八坂神社)。
  • 7月2日
    • くじ取り式(10時・京都市役所)。下記参照。
    • 山鉾町社参(11時30分・八坂神社)くじ取り式を終えた山鉾町の代表者が八坂神社に向かい本殿でお祓いを受ける。
  • 7月3日
    • 船鉾神面改め(10時・船鉾町町会所・一般非公開)本面と写し面の2つの神面を出して無事を確認する。
  • 7月4日から9日までの不定日(日曜以外・祇園祭の公式な行事ではない)
    • みやび会お千度(10時・八坂神社)京舞井上流家元・井上八千代を筆頭に、芸妓舞妓が揃いの新しい浴衣を着用して本殿を3周した後、本殿でお祓いを受ける。80人ほどの参加であるが、稚児のお千度に習い本殿3周だけで「お千度」とする。浴衣は例年白地に紺色の模様という簡素な柄になる。
  • 7月5日頃の不定日
    • 函谷鉾町龍源寺墓参(宇多野龍源寺・祇園祭の公式な行事ではない)1872年(明治5年)、旧巡行路を解散後に鉾町に戻る途中、烏丸仏光寺上ルあたりで15才の少年が粽を拾おうとして鉾に足を轢かれ死亡した。少年側の過失ではあるが、鉾側で補償をし葬儀・墓の費用も出した。以来1回も休まず祇園祭期間に墓参を行い巡行の安全を誓う行事。
  • 7月5日
    • 長刀鉾町稚児舞披露(15時30分頃・長刀鉾町町会所)稚児が長刀鉾町の関係者の前で稚児舞を披露し、これでよい旨の了承が得られると町会所2階の窓を鉾の前面に見立てて、大衆に稚児舞を披露する。
  • 7月7日
    • 綾傘鉾稚児社参(14時・八坂神社)。長刀鉾町お千度と同様に、正副6人の稚児がたくさんの関係者を従えて3回本殿を回る「お千度」を行う。また、この時に稚児役の少年は山鉾町と形式的に養子縁組する。
  • 7月10日
    • 神用水清祓式(10時・四条大橋)四条大橋のすぐ南の東岸に作られた祭壇で神事を行ったあと、四条大橋の上から桶を使って夜の神輿洗いで使う水を鴨川から汲み上げる。
    • お迎え提灯。(16時30分)提灯に加え、児武者、鷺踊、小町踊らの子供たちを中心に、各山鉾町からの代表者らも加わり八坂神社から、2013年までの花傘巡行と同一コースを提灯行列を作って巡行する。京都市役所前で各種芸能を奉納し、八坂神社西門下に戻って神輿洗いに向かう前の神輿を迎える。
    • 神輿洗い(20時頃・四条大橋)。大松明が八坂神社から四条大橋のういだの四条通を清めたあと、3基ある神輿のうち、中御座だけが代表して四条大橋まで行く。朝汲んだ水を榊に含ませて大きく振りかざし、神輿に振り掛けることにより清める(「洗う」訳ではない)。この際榊に含まれた神用水は見物人を含めた周囲の人にも掛かる。飛沫を浴びると厄除けになるという。
  • 7月10日〜13日(一部14日まで) - 前祭の山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
  • 7月12日 - 鉾の曳き初め。
    • 14時・函谷鉾(四条通)。
    • 14時30分・鶏鉾(室町通)。
    • 15時・月鉾と菊水鉾(四条通と室町通)。
    • 15時30分・長刀鉾(四条通)。
  • 7月13日
    • 12時、舁山の舁き初め - 蟷螂山(西洞院通)。
    • 15時、鉾・曳山の曳き初め - 放下鉾・船鉾・岩戸山(すべて新町通)。
    • 長刀鉾稚児社参(11時頃・八坂神社)。下記参照。
    • 久世駒形稚児社参(14時頃・八坂神社)。下記参照。
      • この日から一部の山鉾に駒形提灯が取り付けられ、宵々々山と同様の飾り付けや山鉾の拝観が始まる。
  • 7月14日
    • 前祭・宵々々山。2013年まではこの日から露店が出たが、2014年からは露店が出ず、そのため比較的落ち着いた人出となっている。
    • 古式一里塚松飾式(14時頃・松原中之町町会所(旧・祇園床)・行事そのものは非公開・祇園祭の公式な行事ではない)1955年まで前祭巡行は松原通を通っていたが、その際に長刀鉾の稚児が休憩した際に、町内の祠に詣でた場所は現在は巡行路ではないので、この日に稚児や八坂神社・長刀鉾町関係者が出向いて神事を行い、その後氷水で出した薄茶を稚児ら関係者に振る舞い、その後付近にいる一般人にも振る舞う。八坂神社側の行事ではなく松原中之町側の行事で、八坂神社や稚児等は招待客という扱い。この日の稚児や禿は化粧をしない。また、稚児社参後ではあるが稚児は普通に地上を歩く。
  • 7月15日
    • 4時30分・高橋町斎竹建(四条麩屋町交差点・巡行時、稚児が切断する注連縄を渡す竹を建てる)。
    • 前祭・宵々山(この日と16日の宵山の深夜までの両日、出店・夜店が立ち並び、四条通と烏丸通が歩行者天国になる)。
    • 伝統芸能奉納(15時〜18時八坂神社 日本舞踊尺八などを奉納)。
    • 宵宮祭(遷霊祭とも 20時・八坂神社)本殿から神輿に神霊を移す神事。クライマックスの5分間ほどは境内のすべての明かりが消され、闇の中を神霊が遷る。
  • 7月16日
    • 前祭・宵山。14日〜16日をまとめて「宵山」と総称することもある。
    • 献茶祭(9時・八坂神社)表千家裏千家が隔年交代で、神社境内の井戸水で茶を点てて神前に供える。
    • 宵宮神賑奉納神事(18時・四条通園商店街)八坂神社近くの路上に作られた臨時ステージで舞楽・京舞・鷺踊などが奉納される)。
    • 石見神楽 (18時半・八坂神社)祭神にちなむ石見神楽が奉納される。
    • 前祭・日和神楽(22時頃・各山鉾町〜八坂神社御旅所往復)次の日の巡行の安全と好天を祈願して、囃子方を持つ山鉾町の人々が園囃子を演奏しながら四条寺町の御旅所まで往復し、御旅所では囃子を奉納する。
    • 船鉾神功皇后御神体腹帯巻き(23時30分・船鉾町町会所・一般非公開)宵山期間に町会所で授与された安産の腹帯は、普通はすぐに祈願者側に手渡さず御神体に何重も巻かれる。巡行後外したあと初めて祈願者に渡される。
  • 7月17日
    • 前祭・山鉾巡行。9時出発。下記参照。
    • 神幸祭(神輿渡御)。通称「おいで」。下記参照。
  • 7月19日〜20日 後祭の山鉾建て。(一部21日まで。大船鉾は17日から。)
  • 7月19日 - 松取式 (13時頃・六角町)北観音山と南観音山の2本の真松は市内鳴滝で伐採され、運ばれてくる。両町の代表者がくじ引きをして勝った町が先に松を選ぶことができる。勝った方は「良い松を選べた」負けた方は「良い松を残してもらった」と言うのが通例。
  • 7月20日
    • 14時・鉾の曳き初め - 大船鉾(新町通)。
    • 15時・曳山の曳き初め - 北観音山・南観音山(新町通)。
    • 15時・花傘巡行馬長稚児・児武者宣状式(15時・八坂神社)
  • 7月21日
    • 11時、舁山の舁き初め - 橋弁慶山(蛸薬師通)。
    • 後祭・宵々々山。
  • 7月22日
    • 後祭・宵々山。
  • 7月23日
    • 後祭・宵山。
    • 琵琶奉納(13時 八坂神社)
    • 役行者山護摩焚き(14時頃 役行者町路上)。聖護院からやって来た山伏たちが宵山期間に奉納された護摩木を路上に作られた護摩壇で焚き上げ、護摩を奉納した人の祈願成就と、明日の巡行の安全を祈る。
    • オハケ清祓(14時・境外末社又旅社)翌日の還幸祭の時に神輿に乗った神霊は、又旅社(御供社)のオハケと言う御幣に宿って休憩すると言われる。そのオハケを予め清める儀式。
    • 後祭・日和神楽(22時頃・各山鉾町〜八坂神社御旅所往復)。
    • 南観音山あばれ観音(要員が日和神楽から戻り次第、23時〜23時30分頃開始)。本尊の楊柳観音像を蓮台にぐるぐる巻にして町内を激しく担ぎまわる。
  • 7月24日
    • 後祭・山鉾巡行。9時30分出発。
    • 花傘巡行。下記参照。この日に行われていた後祭の代わりに始められたものだが、後祭復活後も継続。一部区間では後祭・山鉾巡行に続いて巡行する。
    • 還幸祭(神輿渡御)。通称「おかえり」。下記参照。22時頃から順次神輿が八坂神社に到着し、宵宮祭と同様に照明を消した中で神霊が本殿に移される。
    • 丹波八坂太鼓奉納(八坂神社等)。八坂神社の分社である京丹波町の「尾長野八坂神社」(八坂神社の御神田がある)に伝わる太鼓を八坂神社境内や還幸祭の神輿渡御途中で奉納する。
  • 7月25日
    • 狂言奉納(13時・八坂神社)境内の能舞台で茂山狂言が奉納される。
    • 千団子(14時・境外末社又旅社)還幸祭の際に神輿に供えられた団子を、この日お下がりとして参拝者に配布する。食べると厄除けの効果があるとされる。
  • 7月28日
    • 神用水清祓式(10時・四条大橋)夜の神輿洗いで使う水を鴨川から汲み上げる。
    • 神輿洗い(20時頃・四条大橋)。鴨川の水で清められたあと神輿は蔵に収納される。
  • 7月29日
    • 神事済奉告祭(16時・八坂神社・一般非公開)園祭の終了を神に奉告する行事で、かつてはこの神事が園祭の最後とされていた。旧暦時代は6月が年により29日までの場合と30日までの場合があったため、必ずある29日を祭の最後の日としたものである。
  • 7月31日
    • 疫神社夏越祭(10時・八坂神社境内摂社 疫神社)。関係者に続いて一般参拝者が鳥居に取り付けられた茅輪をくぐり、護符を受ける。茅輪の一部を切り取って護符を結びつけ、お守りとする。現在は園祭の最終行事とされている。

各種行事[編集]

くじ取り式[編集]

山鉾のその年の巡行順をくじ引きによって決める儀式。激化した順番争いを収めるために、室町時代の1500年明応9年)頃から行われている。元々は六角堂で開催されてきたが、1953年(昭和28年)から京都市役所市会議場で開かれるようになり現在に至る。一般の傍聴席での見学は往復はがきで申し込み当選した人に限られている。

神輿洗い[編集]

鴨川の水で神輿を清める神事。飾りを解いた状態の中御座を夕刻四条大橋へ運び出して行う。神幸祭に先立つ7月10日(先の神輿洗い)と還幸祭の後の7月28日(後の神輿洗い)の2度ある。

これに関連する慣わしとして、「お迎え提灯」がある。これは町衆が神輿の到来を祝して自主的に始めた行列で、先の神輿洗いの日(7月10日)の夕方より行われ、後の神輿洗い(7月28日)には行われない。

この神輿洗いで担がれる神輿は四基全ての神輿ではなく、素戔嗚尊をお載せする中御座(三若)、一基である。担ぎ手は神幸祭で東御座(四若)を担がれる四若神輿会が担当する。

まず、大松明が八坂神社から四条大橋のういだの四条通を清めたあと、3基ある神輿のうち、中御座だけが代表して四条大橋まで行く。朝の神用水清祓式で汲んだ水を榊に含ませて大きく振りかざし、神輿に振り掛けることにより清める。神輿洗いの名であるが、一般的に言うところの「洗う」訳ではない。この際榊に含まれた神用水は見物人を含めた周囲の人にも掛かる。飛沫を浴びると厄除けになるという。

鉾建て・山建て・曳き初め[編集]

放下鉾の曳き初め

山鉾は普段は各町が所有あるいは賃借している蔵に解体して収められている。高さの高い鉾や曳山と、小規模な舁山では建て方が異なるが、いずれにせよ釘を一切使わず、縄だけで組み立てていくのは共通している。大規模な鉾の組み立ては普通3日間かかる。初日は基礎部分の組み立てが行われる。

2日目は基礎部分を横倒しにし、20メートル以上の高さがある真木や、曳山の場合は高い松の木が取り付けられ、梃子の原理を利用して引き起こされる。昼前後に行われる鉾の引き起こしは鉾建て最大の見どころである。引き起こしには山鉾によりウィンチを使ったり、昔ながらにロープを人力で引いたりするが、関係者だけで作業を行う山鉾が多い中、北観音山は周囲の観客にロープを引いてもらって山を引き起こす。鉾の場合、真木を取り付けたあとに御神体である天王人形の取り付けが行われる。ほとんどの鉾では群衆に御神体が間近で見えないように布で隠して取り付ける。布には紐がついており、鉾を引き起こして天王人形がある程度地上が離れてから紐を引いて布を取り外す。

3日目は、屋根の取り付け、車輪の取り付け、飾り付けなどが行われる。曳山建ては岩戸山は3日間掛けるが、後祭の曳山(北観音山・南観音山)は2日で完成させる。この場合曳山の引き起こしは初日の15時〜16時頃に行われる。

3日目の15時前後には「曳き初め」が行われる。これは、数百メートルの往復を行って巡行のテストを行うのであるが、曳き手に女人禁制のある鉾であっても、この時ばかりは付近にいる人なら、男女・老若・国籍に関係なく誰でも鉾や曳山を曳くことができる。ただし、悪天候時は幼児の参加を断る場合がある。一部の鉾・曳山では最後まで曳き初めに参加した人にお礼を渡す。鉾・曳山により、無料登鉾券であったり、厄除けのお札であったりする。子供限定で菓子が渡されることもある。山鉾町にある企業や短期大学の女性が浴衣姿で参加したり、幼稚園児や小学校の生徒が団体で参加したり、外国人観光客が飛び入りしたりと、山鉾巡行とは違った姿が見られるが、囃子方や音頭方等が乗り込み、長刀鉾には稚児も乗り込むことは本番と変わらない。観客が本格的に祭に参加できるほぼ唯一の行事である。これが終わると鉾・曳山の前後に駒形提灯が取り付けられて灯が入れられ、園囃子の演奏が始まる。

前祭の四条通・室町通に位置する鉾の鉾建ては7月10日から、新町通に位置する鉾・曳山の鉾建て・山建ては7月11日から行われる。後祭の鉾・曳山は7月17日の前祭巡行直後から船鉾建てが、7月19日から曳き山建てが開始される。

舁山の組み立ては鉾の基礎部分だけの組み立てに似ており、一日で組み立てが完了することが多い。一部を除き宵々々山の前日に山建が始められ、一日で完成する。もちろん2日かけるところもあるし、孟宗山のように宵々々山の日の午前に山建てを開始し、夕刻までに完成させて宵々々山に参加するようにしている所や、橋弁慶山のように宵々々山の日の早朝に山建てを開始し、11時までに懸装品や御神体人形の飾り付けも全て済ませる所もある。

前祭の蟷螂山と後祭の橋弁慶山は「舁き初め」が行われる。長らく橋弁慶山だけが舁山の舁き初めを行ってきたが、町内住民の増加により、2012年(平成24年)に蟷螂山も約140年ぶりの舁き初めを再開した。他の舁山でも非公式に組み立て終わった山を動かしてみる所もあるが、両山のように山を本番同様に飾り付けて舁き初めするところはない。橋弁慶山の舁き初めは関係者だけで行うが、蟷螂山の舁き初めは鉾のように引き綱を臨時に取り付けるので、鉾の曳き初めと同様に観客であっても参加できる。

傘鉾は基本的には傘を開くだけなので、設置は簡単である。四条傘鉾は前祭の宵々々山である7月14日の朝に設置される。

宵山[編集]

山鉾からは園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また、ゴブラン織をはじめとする豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つである。

山鉾の飾り付けは巡行の3日前から始まり、この日を宵々々山という。ただし、近年は宵々々山の前日の夕刻から飾り付けを開始するところが多くなっている。2日前が宵々山といい、前日だけが本来の宵山である。山鉾の前後には駒形提灯という提灯群が取り付けられ、夜に提灯に明かりが灯る様子は、巡行と並ぶ園祭の象徴的な光景である。

宵山期間は、昼間から各山鉾町の町会所に展示されている宝物を無料で見学できる。ここでは各山鉾の御神体人形に因んだ利益があるとされるお守りや御札、粽を販売している。また、各町会所にはスタンプや朱印が設置されており、朱印集めをする人も多い。町会所は表通りに面したところもあれば、細い路地の奥にある所もある。町会所の中には100年以上前から伝えられた建物もある。祭の期間、一般の家や会社は白い提灯を掲げているが、町会所の入口だけには赤い提灯が設置されており、町会所の目印となっている。町会所には町の人々や関係者が詰めている。孟宗山のように町内居住住民がほとんどいないため、町内のオフィスビルの会社や銀行から従業員が浴衣姿で応援に出るところもあれば、蟷螂山のように近年町内に新しいマンションが次々に建ち、新住民の増加で町会所や粽売場が賑やかな所もある。

重要文化財のベルギー製タペストリーを伝える鯉山の町会所飾りなどは人気が高く、時間帯により入場に長い時間がかかる所もある。また多くの山では小学生以下の少女が童歌を歌うのが名物となっている。歌の内容は「○○のお守りはここで発売しています。いつも売っているものではありません。宵山期間だけです。信心の皆さんは買って行って下さいな。蝋燭も一本どうぞ。」といった、お守り・蝋燭等の販売促進を目的としてた内容であるが、素朴な雰囲気が人気となっている。昼間は少女たちが小学校に行っているため大人しかおらず、童歌はエンドレステープを流しているだけのことが多いが、夕方以降には少女たちが待機しており、随時歌い出す。土・日曜日は昼から待機することが多い。山によっては少年も歌に加わることがある。童歌の元祖は霰天神山と言われている。

一部の山鉾町では、「南観音山あばれ観音」や「役行者山護摩焚き」などの伝統行事が宵山期間に行われる。巡行中に行われる両傘鉾の棒振り踊りは宵山でも披露される。また、前祭期間の宵々山と宵山の両日のみ露天商の夜店が出る。この両日の18時以降23時までは四条通と烏丸通の一部が歩行者天国となる。後祭期間は全日とも露天商の出店も歩行者天国もないが、その代わり宵々々山からの3日間、17時から22時の間「エコ屋台村」が5箇所に設けられれ、地元のレストランのテイクアウト食品やスイーツ・地ビールの店などが出店する。後祭は前祭よりも人出が少ないことが予想されるため、2014年(平成26年)はスタンプラリーを行い、大人は手ぬぐい・子供はクリアファイルを貰える企画を行った。

この期間は北観音山を除く鉾・曳山に搭乗することができる。ただし、長刀鉾と放下鉾では女人禁制を今日に伝えているため、女性の搭乗はできない。搭乗料金は金額が決まっているところ・粽やガイドブックなど何かを買えばサービスとして搭乗できるところ・前述の曳き初めに参加した人は無料搭乗できるところなどがある。

宵山期間、一部の旧家や商店では伝来の屏風等の家宝を通りから見えるように展示する。「屏風祭」と呼ばれる。

山鉾巡行[編集]

四条通を東へと進む北観音山

園祭のハイライト。7月17日の神幸祭で街中の御旅所に神輿でお出ましに、7月24日の還幸祭で神社にお帰りになる神体の通行の前に、町衆が予め町・通りを清めるために始められた。そのために7月17日の前祭と7月24日の後祭の2つの巡行が生まれた。元々は付け祭りだったが、町単位で山鉾が出されたため、各町が贅を競い合うようになり、京の町衆の財力を背景にこちらの方がはるかに大規模で豪華になった。

山鉾巡行は、交通規制の都合により1966年(昭和41年)より後祭巡行も17日に統合されたものの、2014年(平成26年)に旧に復した。山鉾の数は現在は33基(前祭の鉾9基・前祭の山14基・後祭の鉾1基・後祭の山9基)で、これも時代によって変化している。

前祭の山鉾は長刀鉾を先頭に9時に四条烏丸を出発し、午前中から昼過ぎにかけてコースを回る。

四条烏丸交差点で稚児の長刀鉾への乗り込みがある。鉾のそばまでハイヤーでやって来た稚児は、既に神の使いとなっており地上を歩かないことになっているため、男性強力の肩に乗せられて長刀鉾に掛けられた梯子で鉾に乗り込む。

四条堺町交差点ではくじ改めが行われる。奉行に扮した京都市長に対し、山鉾町の代表者(町行司)が7月2日のくじ取り式で受けたくじ札を見せ、くじ順に巡行していることを確認する。町行司役は子供のこともある。いかに格好良く文箱の紐を解き、いかに粋な格好で奉行にくじ札を見せるかを各山鉾町が競い合う。確認が終了すると町行司は扇子を使って山鉾に通行して良い旨の合図を送るが、これも山鉾により異なる型がある。舁山は奉行に山の全面の懸装品を見てもらうために、山の回転を行う。くじ取らずの山鉾は奉行に挨拶だけを行う。

四条麩屋町交差点では稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切りがある。神の使いである稚児が太刀を使って注連縄を切断して結界を開放し、神域への山鉾の進入を神に代わって許可する。太刀の使用には危険も伴うので、実際は稚児の後方の大人が二人羽織のように太刀を扱う。なお、現在の形での稚児によるの注連縄切りは1956年(昭和31年)から始まったものであるが、古い文献に見える注連縄切りを復活させたものとされる。

その他にも傘鉾の棒振り踊りなど見所は多岐に渡るが、最も目を引く見所は辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため、路面に青竹(一部では丸太)を敷き、それに水を掛け、その上に車輪を乗せて引き綱を横から曳くことにより車輪を滑らせて向きを変える。3回から4回ほどかけて90度の方向転換を行う。この時音頭方は通常の2人に加えて、前輪を股で挟んで固定する役の2人も加えて計4人となる。音頭方の掛け声は通常の進行時の「エンヤラヤー」ではなく、「ヨイヨイヨイトセ ヨイトセ」という。

長刀鉾の稚児は新町御池で鉾から降りる。

後祭の山鉾は7月24日の9時30分に烏丸御池を出発し、前祭の逆コースを行く。生稚児の乗る鉾がないため、注連縄切りはない。くじ改めは京都市役所前で行われる。

以前は巡行時に鉾の上から囃し方が(ちまき)を観衆に投げていたが、粽を取り合った観客が怪我をしてからは危険とされ現在は禁止されている。この粽は厄除け用として作られており、笹の葉の中に餅は入っていない。近年になって一部の鉾町が食用の粽も販売しているが極一部に留まっている。なお、園祭に由来する祭である大津祭では、現在でも粽投げが行われる。

囃子方になるためには(一部例外はあるものの)鉾町の住民の男子であるか、または鉾町以外でも現役の囃子方の推薦を受けた子供に限られている。2011年(平成23年)現在では学区の統廃合で一部の学校は無くなってしまったが、昭和の時代には明倫小学校や本能小学校等の地元の男子児童で鉾の囃子方であることも普通に見られる光景であった。

山鉾巡行時の山鉾の曳き手は町内の住人であったり、学生アルバイト、留学生、ボランテイアなど多岐に渡る。元々舁山(かきやま・担ぐ山の意味)には車輪がついておらず神輿のように肩に担いでいたが、都市化により担ぎ役となっていた力自慢の近隣農家が減少し担ぎ手の確保が困難となったため、1963年(昭和38年)に保昌山が初めて車輪を取り付け、郭巨山を最後に現在はすべて車輪付きとなっている。それでも巡行の要所では今でも山を担いで回転させるパフォーマンスが見られる。

巡行終了後、各山鉾町に戻った山鉾は、即座に解体・収納される。巡行中に疫神を引き受けた山鉾を即座に封印するためという説がある。

神幸祭・還幸祭(神輿渡御)[編集]

こちらが本来の神社の中心行事。八坂神社から中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の大神輿3基に召した神々が各氏子町を通って渡る神事。7月10日に鴨川で神輿洗いの神事の行われた後、八坂神社の舞殿に神輿三基は安置される。7月15日の宵宮祭で神輿に御霊が移され、7月17日に神幸祭が行われて(山鉾巡行で浄められた)四条寺町にある御旅所(平時は土産物を売っている「四条センター」)に還幸祭の行われる7月24日まで神輿が滞在する。974年天延2年)に御旅所(現在と所在地は異なる)を朝廷より賜り、行われるようになった。また、子供神輿である東若御座神輿も参加する。

神幸祭は朝の雅やかな山鉾巡行とは打って変わって、夕刻より行われる神輿渡御は勇壮豪快で荒々しいのが特徴である。3基の大神輿を総勢1000人以上もの勇猛な男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う様は圧巻である。いわゆる暴れ神輿というものである。神社からの宮出しを完了した3基の大神輿と1基の子供神輿は祇園石段下交差点の楼門前に集結しての揃い踏みにて神輿全基連合で勇壮に担ぎ上げられ練り暴れて、楼門前は歓声に涌きかえる。その後は神輿はそれぞれ別ルートにて御旅所へ向かう。朝に山鉾が動く美術館の名をほしいままに巡行した都大路を今度は神輿が勇壮に練り暴れながらの渡御を行い、四条寺町の御旅所宮入りにて神幸祭での最後の豪快な練りを披露する。山鉾巡行を園祭のハイライトと呼ぶならば、神輿渡御はまさしく園祭のクライマックスと呼ぶにふさわしいものである。

神輿の御旅所駐輿(ちゅうれん)中に、誰とも言葉を交わすことなく一晩で七度、御旅所に参詣すれば、願いが叶うという。無言参りという。

還幸祭は神輿と神々が御旅所から各氏子町を通り、園祭発祥の地である御供社(又旅社)に立ち寄って八坂神社へ還る神事。今度は山鉾町をも含めた八坂神社の広大な氏子地域を練り暴れながら八坂神社に宮入を行う。八坂神社での宮入では、舞殿の周囲を3周する拝殿回しを行い、神輿3基がここぞとばかりに力を振り絞りながらの勇壮豪快な最後の練りを披露する。

舞殿前にて神輿の最後の暴れながらの揉みが終わり、神輿が舞殿に上げられ安置されると境内は消灯され漆黒の闇となり御霊遷しが行われ、神輿に乗せられた祭神が本殿に戻され、神輿渡御は静かに終了するのである。7月28日の神輿洗では神社に戻ったあと神輿は神輿庫に収められる。

尚、園祭の神輿を担ぐ時の掛け声は「わっしょい」ではなく「ほいっと、ほいっと」である。慎重に担ぐ場面では「よーさー」に変わる。神輿を担ぎ終えた(置いた)時には「よーさの チャチャチャ(拍手3回)」である。又、神輿を担ぐ時は通常時は肩に乗せるが腕を伸ばして神輿を持ち上げた状態を「差し上げ」、差し上げた状態で右回りに神輿を回転させる事を「差し回し」と言う。

花傘巡行[編集]

1966年(昭和44年)に後祭の山鉾巡行が7月17日に統合されたあと、代替として初められた行事。約1000人からなる行列である。子供神輿を先導とし、山鉾の古い形態を現代に再現したものとされる花傘(傘鉾)のほか、獅子舞・鷺舞・万灯踊等の芸能や、子供太鼓・馬長(うまおさ)稚児・児武者(こむしゃ)等の多くの子供の参加、舞妓芸妓や「ミスきもの」、花笠娘等の女性の参加も多いことが、山鉾巡行との最大の違いである。

鷺舞や舞・芸姑は八坂神社に到着後、芸能の奉納を行う。八坂神社の氏子地域には4つの花街があるが2つの花街が交代で参加する。西暦奇数年は先斗町が歌舞伎踊り・祇園東が小町踊りを、偶数年は宮川町がコンチキ音頭・祇園甲部が雀踊りを奉納する。

京都織物卸商業組合が中心となって、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会や八坂神社の諸組織、山鉾保存会などが共同で「花笠連合会」を作って行っている行事である。

当初の巡行コースは八坂神社〜四条河原町〜河原町御池〜寺町御池〜四条寺町〜八坂神社であった。

2014年(平成26年)から後祭の山鉾巡行が復活したあとも継続され、巡行ルートを変更し、八坂神社〜四条寺町〜寺町御池〜河原町御池〜四条河原町〜八坂神社となった。寺町御池から四条河原町の間は後祭山鉾巡行のあとに連続して巡行するようになる。

神輿一覧[編集]

本社神輿の3基については元禄年間ごろより三条台村の有志が三条台若中を組織し神輿渡御を行ったものに由来するが、後に中御座神輿(三若神輿)を除く2基の神輿渡御は他の地域により行うようになった[3]

2000年(平成12年)に中御座神輿(三若神輿)の金箔が貼り直されたほか、翌年には東御座神輿(四若神輿)、さらにその翌年に西御座神輿(錦神輿)もそれぞれ金箔が新調された。

  • 本社神輿(宮神輿)
    • 中御座神輿(なかござみこし、通称「三若神輿」)
    八坂神社の主祭神である素戔嗚尊を載せる神輿である。屋根は六角形で鳳凰が飾られ、胴の袈裟懸けは四基の神輿の中で唯一の紫色であり、このことは中御座神輿には男神、すなわち素戔嗚尊が乗ることを意味する。
    • 東御座神輿(ひがしござみこし、通称「四若神輿」)
    素戔嗚尊の本妻である櫛稲田姫命を載せる神輿である。屋根は四角形で擬宝珠が飾られ、胴の袈裟懸けは朱色(赤)であり、このことは中御座神輿と同様に女神が乗ることを意味する。
    • 東若御座神輿(ひがしわかござみこし)
    東御座神輿の子供神輿。
    • 西御座神輿(にしござみこし、通称「錦神輿」)
    素戔嗚尊の8人の子供(八柱御子神)を載せる神輿である。屋根は八角形で鳳凰が飾られ、胴の袈裟懸けは朱色(赤色)である。実際に担がれている神輿の中では最も重い3.2トンといわれている。昭和40年代から50年代にかけては担ぎ手不足のため台車(二輪)を使用していたが、近年は担ぎ手に恵まれたことによりこの台車は見なくなった[要出典]ほか、担ぎ手が増えたことにより神輿渡御本番に増設する担ぎ柱も新調された。
  • 町会神輿(氏地神輿)
    • 開智子供神輿(かいちこどもみこし)

山鉾[編集]

蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)

山鉾はその形から5つに分類される。数の多い順に、「舁山(かきやま)」「鉾(ほこ)」「曳山(ひきやま)」「船鉾(ふねほこ)」「傘鉾(かさほこ)」である。

2008年(平成20年)に行われた重量測定によると、巡行中の山鉾の総重量(懸装品・乗員を含む)は月鉾で12トン弱。その他の鉾・曳山は10トン前後。曳山としては小型の岩戸山で8トン余り。舁山は最重量が蟷螂山で1.2トン、最軽量が占出山で510Kgほどであった。傘鉾は台車を含めて400Kgほどのの重量であった[4]。胴体は巡行の時だけ最も高級な懸想品で飾られ、宵山期間は比較的安価な懸装品で飾られるか、全く何も飾らず骨組みのままの場合がある。山の御神体人形や懸装品は宵山期間は町会所内に飾られる。

山鉾の源流は大嘗祭で曳かれていた標山であろうと考えられている。

舁山[編集]

御神体人形(祠に御神体を祀る所もある)を乗せ、それによって中国や日本の故事・謡曲などの一場面を見せる趣向を主とし(町内に祀られている神仏を乗せる所もある)、人が舁いて(担いで)巡行する(現在は人出不足を理由に補助輪を付けて押している)。御神体人形には橋弁慶山の御神体を除き朱傘が掛けられるが、郭巨山のみ油紙の屋根が掛けられる。山の上には布で覆った籠を伏せて置き、「山」に見立て、そこから松(真松という・太子山のみ杉)を立てて疫神の依代とする。山には前面に穴をあけて洞に見立て、中に御神体人形等を入れることもある。真松には山ごとに異なる数の鈴を吊るす事が多いが、月・日に見立てた金属板を吊るす山もある。孟宗山は積雪を表現した綿を松に乗せており、保昌山は宵山期間に町会所で販売され願い事を書いて奉納された恋愛成就の絵馬が多数吊るされる。山の胴体には、染織品・刺繍・タペストリー等の懸装品で飾られる。

なお、上に山を作らず、真松も立てない橋弁慶山・浄妙山・蟷螂山は厳密には「屋台」という形式になる。

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真木(しんぎ)という中心の柱を疫神の依代とし(これ自体がいわゆる“鉾”)、それが大型化して乗り物となり、稚児や囃子方を乗せる形となったものである。真木の先端には「鉾頭」という鉾ごとに異なる形のシンボルが取り付けられている。その下方には「天王人形」という小さな御神体人形が取り付けられている。その下方には「しゃぐま」という縄で作った突起状のものが作られ、鉾により数が決まっている。しゃぐまの中間に榊が取り付けられる。多くの鉾は真木の両側に突き出るように取り付けられるが、函谷鉾のみ円形に取り付けられる。大屋根は千鳥破風状に作られるが菊水鉾のみ唐破風である。

乗員搭乗部は50人ほどが詰めあって乗り込め、囃子方などが乗り込む。最前部には長刀鉾のみ生稚児が、それ以外の鉾は稚児人形が乗る。胴体は懸装品で飾られる。胴体の下方には「石持」という巨大な角材がある。石持により鉾の重心を下げている。車輪にはクッションに相当するものがなく、縄で結ぶだけの柔構造により衝撃を少しは吸収している。乗員搭乗部の床には蓋があり、開けると基礎部の内部に出ることができ、巡行中に鉾の乗り降りをする急用ができた際に使われる。屋根にも穴が開けられており、屋根方の乗り降りに使われる。

曳山[編集]

鉾同様に車輪を付け綱で引いて動かし、鉾のように囃子方も乗せている。鉾との最大の違いは屋根の上に舁山同様に真松を立てていることである。後祭の曳山の松には木彫の鳥が取り付けられる。

初期の曳山には屋根がなく、大きめの舁山に車輪が付いているような形で、山の上は舁山と同じように御神体人形にちなむ一場面を見せる趣向であった。

囃子方を雨や夏の日差しから守るために、岩戸山が屋根付きに改造されたのをきっかけに、他の曳山も次々と屋根付きに改造された。現在の曳山は鉾同様の姿であるが、巡行中に鉾のように稚児人形を乗せず、御神体人形を乗員搭乗部に乗せている。岩戸山は屋根の上にも御神体人形を安置する。

船鉾[編集]

鉾というが真木を立てない点で他の鉾と一線を画し、形が船という独特の構造をしている。独特な形の複雑な屋根を持つ。巡行中は鉾上に御神体人形を安置するところは鉾よりも曳山に近いが真松を持たないので「山」ではない。

傘鉾[編集]

踊りの列や囃子方を有し、それらが大きな傘である鉾と一体で歩く行列である。鉾に乗ることはできないが鉾の古い形態と言われる。但し、綾傘鉾は過去に「曳鉾」型だった時代がある。また、綾傘鉾には稚児も参加するが、長刀鉾の稚児と異なり地上を歩く。

山鉾一覧[編集]

前祭[編集]

舁山
  • 保昌山(ほうしょうやま)/東洞院松原上ル燈籠町。別名“花盗人山”。平井保昌和泉式部のために紫宸殿の紅梅を手折り恋を叶えた伝説に因む。縁結びのお守りを授与する。
  • 孟宗山(もうそうやま)/烏丸四条上ル笋町。別名“筍山”。二十四孝に取材。孟宗が病気の母を想う一心で季節外れの筍を掘り当てた場面を表す。積雪の演出が特徴。
  • 占出山(うらでやま)/錦小路室町東入ル占出山町。別名“鮎釣り山”。神功皇后が鮎を釣って戦勝を確信した故事に因む。安産のお守り・腹帯を授与。巡行順が早いとその年のお産が軽いという。
  • 山伏山(やまぶしやま)/室町蛸薬師下ル山伏山町。八坂の法観寺の傾きを直すべく大峯入りする浄蔵貴所がご神体。宵山には聖護院山伏らが巡拝に訪れる。
  • 霰天神山(あられてんじんやま)/錦小路室町西入ル天神山町。かつて霰が降って大火が鎮まった際に、その霰と共に降ってきた天神像を祀る。雷除け・火除けのお守りを授与し、自らも多くの大火で無傷だった山。お守りを売る時に歌う童歌の元祖の山と言われる。
  • 郭巨山(かっきょやま)/四条西洞院東入ル郭巨山町。別名“釜堀り山”。二十四孝に取材。郭巨と童子が黄金の釜を掘り当てた場面を表す。舁山唯一ある屋根が特徴。
  • 伯牙山(はくがやま)綾小路新町西入ル矢田町。別名“破琴(ことわり)山”。真の友を失い悲しむ愈伯牙が愛用の琴を壊すべく斧を構える場面。
  • 芦刈山(あしかりやま)/綾小路西洞院西入ル芦刈山町。謡曲「芦刈」に因み、老翁が芦を刈る場面を表現。夫婦和合が主題。
  • 油天神山(あぶらてんじんやま)/油小路綾小路下ル風早町。別名“牛天神山”。町内の天神様を勧請。
  • 木賊山(とくさやま)/仏光寺西洞院西入ル木賊山町。謡曲「木賊」に取材。我が子をさらわれた翁が木賊を刈る場面。迷子除けを授与する。
  • 太子山(たいしやま)/油小路仏光寺下ル太子山町。聖徳太子四天王寺建立のため良材を探す場面。この山のみ松ではなく杉を立てる。知恵のお守りを授与。
  • 白楽天山(はくらくてんやま)/室町綾小路下ル白楽天山町。白居易が樹上の道林禅師に仏法の大意を問う場面。
  • 蟷螂山(とうろうやま)/西洞院四条上ル蟷螂山町。からくりを仕込む唯一の山で御所車の車輪とその上のかまきりが巡行中に動く。町内の住民が多く、オリジナルの手造り授与品が多い。
  • 長刀鉾(なぎなたほこ)/四条烏丸東入ル長刀鉾町。鉾頭が長刀。山鉾の中で唯一生稚児が乗り、巡行で先頭を行く。※
  • 函谷鉾(凾谷鉾)(かんこほこ/かんこくほこ)/四条烏丸西入ル凾谷鉾町。鉾頭は山上に掛かる三日月。稚児人形を採用した最初の鉾。※
  • 鶏鉾(にわとりほこ)/室町四条下ル鶏鉾町。鉾頭は三角形の枠とその中の金の卵。
  • 菊水鉾(きくすいほこ)/室町四条上ル菊水鉾町。鉾頭が菊花。鉾で唯一屋根が唐破風
  • 月鉾(つきほこ)/四条室町西入ル月鉾町。鉾頭が三日月。
  • 放下鉾(ほうかほこ)/新町四条上ル小結棚町。鉾頭は日・月・星の三光を表すといい、その形から“すはま鉾”とも呼ぶ。榊の形が唯一丸い。稚児人形は人形遣いの手で稚児舞を舞う。※
曳山
  • 岩戸山(いわとやま)/新町仏光寺下ル岩戸山町。記紀神話に因み、ご神体として男神の姿をした天照大神手力雄神を囃子方の中央に、また伊弉諾尊を屋根の上に乗せる。天照大神は女神でなく美男神として作られる。※
傘鉾
  • 綾傘鉾(あやがさほこ)/綾小路新町東入ル善長寺町。傘の上に鶏を戴く。棒振りと太鼓持ち・太鼓打ちの踊りが付く。
  • 四条傘鉾(しじょうかさほこ)/四条西洞院西入ル傘鉾町。傘の上に赤幣と若松を戴く。ケンケト踊りが付く。
船鉾
  • 船鉾(舩鉾)(ふねほこ)/新町綾小路下ル船鉾町。ご神体として神功皇后と住吉明神、鹿島明神、安曇磯良を乗せる。船首は鷁(げき)という架空の鳥。戦に向かう姿なので“出陣の船鉾”とされる。神功皇后の神面改めの儀式を7月3日に行う。※

後祭[編集]

舁山
  • 橋弁慶山(はしべんけいやま)/蛸薬師室町東入ル橋弁慶山町。牛若丸弁慶五条大橋で闘う場面を表現する。舁山唯一のくじ取らず。※
  • 鯉山(こいやま)/室町六角下ル鯉山町。登竜門の故事に由来。滝登りする鯉と素戔嗚尊の社を乗せる。全面の懸装品が1600年頃にベルギーで作られた1枚のタペストリーを裁断して作られている。立身出世のお守りを授与する。
  • 浄妙山(じょうみょうやま)/六角烏丸西入ル骨屋町。宇治川の合戦において筒井浄妙の頭上を一来法師が飛び越した一瞬を再現している。「勝守」を授与する。
  • 黒主山(くろぬしやま)/室町三条下ル烏帽子屋町。謡曲「志賀」に因む。大伴黒主が桜を見上げている。桜の造花は魔除けになるとされ、翌年の粽に添えて授与される。
  • 役行者山(えんのぎょうじゃやま)/室町三条上ル役行者町。役小角が一言主神と葛城神の力を得て葛城と大峰の間に橋を架けた伝説に因む。
  • 鈴鹿山(すずかやま)/烏丸三条上ル場之町。鈴鹿山で悪鬼を退治した瀬織津姫がご神体。真松に絵馬が吊り下げられ、巡行後には盗難除けとして関係者に授与される。
  • 八幡山(はちまんやま)/新町三条下ル三条町。町内に古くからある八幡宮に総金箔を施して勧請した。
曳山
  • 北観音山(きたかんのんやま)/新町六角下ル六角町。ご神体として楊柳観音韋駄天を乗せる。元々南観音山との隔年巡行だったが、明治から毎年出るようになった。真松の枝に木彫の青い尾長鳥を取り付ける。※
  • 南観音山(みなみかんのんやま)新町錦小路上ル百足屋町。ご神体として楊柳観音と善財童子を乗せる。元々隔年巡行だったが、明治から毎年出ている。宵山の最後には楊柳観音を運び出して町内を回る「あばれ観音」を行う。真松の枝に木彫の鳩を取り付ける。※
船鉾
  • 大船鉾(おおふねほこ・大舩鉾)/新町四条下ル四条町。戦からの帰りを表すため、かつては“凱旋船鉾”と称したが、京都を訪問した韓国大統領に配慮して大船鉾と改称した。船首は大御幣(かつては龍頭もあった)。1864年元治元年)の禁門の変による大火で罹災後巡行を休止していたが、2012年(平成24年)より御神体を木箱に納めて運ぶ「唐櫃(からびつ)巡行」として山鉾巡行に復帰。2014年(平成26年)から鉾を巡行[5]。安産のお守りを授与する。車輪と石持は菊水鉾の中古品の寄贈を受けている。※

※印は、くじ取らず。

休み山[編集]

度重なる大火や各山鉾町の事情によって現在は巡行していないが、宵山期間に残された御神体や宝物等を展示する「居祭」を行う山鉾。大火で木造部や宝物を焼失したり、町の借金返済のために宝物を売却したりして、巡行ができなくなり休山が発生する。なお、かつて存在したことが記録に残されているだけで、居祭を行っていない山は休み山とは言わない。かつては焼山(やけやま)と言った。第二次世界大戦後、菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾・大船鉾が相次ぎ復興したことにより現在は2つの山だけが残されている。

  • 布袋山(ほていやま)/蛸薬師通新町東入ル姥柳町。前祭の舁山。1500年(明応9年)に巡行に参加したという記録があるが、江戸中期の宝暦年間(1751年1763年)より不参加と言われ、1788年天明8年)の「天明の大火」で御神体の布袋尊と二童子を残し焼失。どんな趣向の山であったか分からず、謎に包まれている山である。現在は、7月13日の夕刻から宵山までの4日間、御神体を祀る居祭を行い、粽やお守りの販売や朱印の押印などを行う。2005年(平成17年)に安政年間(1854年1859年)作製とみられる護符の版木が確認された。また、2006年(平成18年)には懸装品と伝わる織物が地元企業に保管されているのが確認され宵山に実物大の模造品が同山の町内で展示された。
  • 鷹山(たかやま)/三条通室町西入ル衣棚町。後祭の曳山。応仁の乱以前に起源を持ち、大船鉾の直前を巡行したくじ取らずの曳山だったが、1826年文政9年)に激しい夕立に遭って懸装品に甚だしい汚損を被ってしまい、休山していたところに1864年(元治元年)の禁門の変による大火で御神体と一部の懸装品を残して焼失。現在は宵々山と宵山の両日の夕刻以降に限って残された御神体と懸装品を同山の町内で展示(居祭)する。スタンプの押印もできるが、粽の一般への販売は行わない。2014年(平成26年)にはおよそ190年ぶりに祇園囃子が復活した。
    • 両山とも山を再建し、巡行参加を復活させる構想があるが、布袋山はかつての資料が全く残っておらず、現存する他の山を参照した全く新しい形の山の再建が検討されている。資金や技術伝承の問題があり、実際の復活が具体化している段階ではないが、布袋山は基本的な木組みが2012年(平成24年)に作られている。鷹山は最後の巡行から200年目の2026年までの復興を目指している。

山鉾の巡行順[編集]

太字は「くじ取らず」。

前祭[編集]

  • 1番目:長刀鉾
  • 2番目:山一番
  • 3番目:山二番
  • 4番目:山三番
  • 5番目:函谷鉾
  • 6番目:山四番
  • 7番目:傘鉾一番(四条傘鉾・綾傘鉾のいずれか)
  • 8番目:山五番
  • 9番目:鉾一番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)
  • 10番目:山六番
  • 11番目:山七番
  • 12番目:山八番
  • 13番目:鉾二番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)
  • 14番目:山九番
  • 15番目:傘鉾二番(四条傘鉾・綾傘鉾のいずれか)
  • 16番目:山十番
  • 17番目:鉾三番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)
  • 18番目:山十一番
  • 19番目:山十二番
  • 20番目:山十三番
  • 21番目:放下鉾
  • 22番目:岩戸山
  • 23番目:船鉾

後祭[編集]

  • 1番目:橋弁慶山
  • 2番目:北観音山
  • 3番目:山(後)一番
  • 4番目:山(後)二番
  • 5番目:山(後)三番
  • 6番目:南観音山
  • 7番目:山(後)四番
  • 8番目:山(後)五番
  • 9番目:山(後)六番
  • 10番目:大船鉾
2012年(平成24年)・2013年(平成25年)の両年
  • 24番目:橋弁慶山
  • 25番目:北観音山
  • 26番目:山(後)一番
  • 27番目:山(後)二番
  • 28番目:山(後)三番
  • 29番目:南観音山
  • 30番目:山(後)四番
  • 31番目:山(後)五番
  • 32番目:山(後)六番
  • 33番目:大船鉾(唐櫃巡行)
2011年(平成23年)以前
  • 24番目:北観音山
  • 25番目:橋弁慶山
  • 26番目:山(後)一番
  • 27番目:山(後)二番
  • 28番目:山(後)三番
  • 29番目:山(後)四番
  • 30番目:山(後)五番
  • 31番目:山(後)六番
  • 32番目:南観音山

2013年(平成25年)までの先祭と後祭の合同巡行時は、先祭の行列の終了後に引き続いて後祭の巡行を行っていた。そのため、後祭の山鉾が全体の23番目より前に巡行することはなく、逆に先祭の山鉾の巡行順が全体の24番目以降になることもなかった。

くじ取らず[編集]

くじは全ての山鉾が引くわけでなく、くじを引かないでも予め順番が決まっているものもある。これを「くじ取らず」という。時代と共にその数と順序に変遷があるが、現在「前祭」に5基、「後祭」に4基のくじ取らずがある。

前祭においては、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目の船鉾(前祭巡行の最後)、後祭においては、先頭の橋弁慶山、2番目の北観音山、6番目の南観音山、10番目の大船鉾(後祭巡行の最後)が「くじ取らず」である。

後祭は従来、先頭の橋弁慶山、最後尾の大船鉾、その一つ手前の鷹山だけがくじ取らずであったが、隔年で出る申し合わせだった2基の観音山の内、南観音山が大火の被害甚だしく不出となった折、北観音山が連続して巡行に出で、その後南観音山が復帰した後も両観音山は同時に参加することとなった1872年明治5年)以降、先頭に北観音山(必然的に橋弁慶山は2番に後退)、最後尾に南観音山を配置し、これらをくじ取らずに加えた。

しかし、142年ぶりに大船鉾が唐櫃で巡行に復帰した2012年(平成24年)に、くじ取らずの順序の見直しがなされ、後祭の先頭は140年ぶりに橋弁慶山に戻り、2番目が北観音山、最後だった南観音山は6番目に移り、かつて後祭の最後に巡行していた大船鉾が、復活後も最終に巡行することになった。将来鷹山が復活した時は、大船鉾の直前を行くくじ取らずとなる予定である。

また、くじ取らずではないものの、限られた巡行順の中でのみくじによって位置を入れ替えるものもある。すなわち、月鉾・菊水鉾・鶏鉾の3基の鉾は巡行順が9番目・13番目・17番目と決められており、仮に「鉾1番」のくじだと全体の9番目を行く事になる。同様に綾傘鉾・四条傘鉾の2つの「傘鉾」は、巡行順が全体の7番目と15番目と決められており、「傘鉾1番」のくじだと全体の7番目ということになる。傘鉾の場合は古来舁山と同じ扱いでくじを引き、その度不規則に位置を変える慣わしであったが、1996年(平成8年)に「傘鉾」のくじが新設され、以来現在の形となった。

以上よりくじ順の実際を整理すると、例えば「山7番」を引いた場合でいえば、先頭を行く長刀鉾の次に「山1番」の舁山が全体でいう2番めに巡行し、その後にくじ取らずの函谷鉾と「鉾1番」の鉾・「傘鉾1番」の傘鉾が入るため、全体では11番目の巡行ということになる。

稚児[編集]

園祭には稚児が参加する。

長刀鉾の稚児[編集]

現在では唯一、生身の稚児(生稚児)が乗る。かつては船鉾・大船鉾を除くすべての鉾に10歳前後の少年が稚児として乗っていたが、現在は長刀鉾以外は人形になっている。

2000万円とも言われる費用がかかるため、京都市内の資産家等の家庭から禿(かむろ)と呼ばれる家来役の少年2名と共に選ばれ、祭りの年の6月頃に発表される。非常に費用がかかるため誰でも稚児になることが困難であるため、特定の資産家に役割が集中し、稚児と禿が兄弟であったり、稚児の親も何十年も前に稚児であったり、兄弟が数年をおいて稚児になったりする例がある。このような例は葵祭の斎王代役にも見られる。かつては長刀鉾町の町内から稚児は選ばれたが、現在は大抵町外の資産家の子息であるため、形式的に町内の代表と養子縁組をする。

7月1日の「お千度」(おせんど)を皮切りに数多くの行事に舞台化粧と同様の厚化粧で登場、7月13日午前中の「稚児社参」では狩衣に金の烏帽子で登場、「正五位少将」・十万石大名の位を授かる。これは高い鉾の上から貴人を見下ろしても不遜にならないようにするためと言われる。これ以降は神の使いとされ、食事の用意などに女子の手を一切借りず、食事も他の人とは別の火で作ったものを摂る。また、公式には地面を一切歩かないことになっており、人前では絶対に地上を歩かない。巡行当日に長刀鉾に乗降する際は男性の肩に乗せられて長刀鉾に取り付けられた梯子で乗降する。ただし、14日の一里塚松飾式は八坂神社側の公式行事でないため、稚児・禿は化粧をしない素顔で現れ、かつ稚児社参後であるが地上を歩く。

7月17日の山鉾巡行では金襴の振袖に紋織りの、鳳凰の天冠で登場、禿を両脇に従え、鉾の中央で稚児舞を披露する。巡行後はすぐにハイヤーで八坂神社に向かい、正五位少将・十万石大名の位を返上する。お位返しと呼ばれる儀式である。

綾傘鉾の稚児[編集]

正副6人出る。社参と巡行が主な仕事。巡行では各自朱傘を差しかけられ、一列になって囃子方の前を歩く。近世以前の画像資料によっては強力の肩に担われているものも見られるが、現在は終始徒歩で参列する。7月7日の稚児社参の時に「宣状」を受けて神の使いの認証を受ける。

四条傘鉾の稚児[編集]

かつては綾傘鉾と同様に稚児が出たが、現在は途絶えている。道中で踊る児童らは傘鉾特有の棒振り囃子をする踊り方であって、稚児ではない。

久世駒形稚児[編集]

綾戸国中神社(南区久世上久世町)の氏子から毎年2人が選ばれる。こちらも、舞台化粧と同様の厚化粧で登場、額に黒と白の点を付ける。

7月13日午後の「稚児社参」では2名揃って白の狩衣に紫紋入りの括り、金の烏帽子で登場する。

神幸祭・還幸祭では1名ずつ登場、衣装は同じだが稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の首(駒形)を胸に掛け、馬に乗って素戔嗚尊(すさのおのみこと)の和御魂(にぎみたま)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務める。

神幸祭に先立ち八坂神社で行われる神事により駒形稚児は素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、稚児自身が神の化身として役目を終えるまで一切地に足を着けずに務める。(長刀鉾の稚児は神の使いであり、化身ではない。)通常は神社の境内では長刀鉾の稚児はもとより皇族であっても下馬しなければならない(皇族下馬)が、久世駒形稚児は八坂神社境内に入っても下馬せず騎馬のまま本殿に乗りつける。

馬長稚児[編集]

お迎え提灯と花傘巡行には舞台化粧と同様の厚化粧をしてカラフルな水干を着た少年3名が馬長稚児(うまおさちご)として馬に乗って登場する。

各種の郷土芸能[編集]

園祭の中では様々な郷土芸能も上演される。

鷺舞[編集]

鷺舞(さぎまい)は白絹の羽を纏い、雌雄の鷺に扮した成人男性の舞い手2人が囃子に合わせて優雅に舞い踊る郷土芸能。約600年前に存在した「笠鷺鉾」の周りで舞われていたが、江戸時代中期に途絶えた。1956年(昭和31年)に鷺舞保存会が、園祭の鷺舞を伝えていた島根県津和野町から舞を逆輸入して復活させ、経費を氏子組織(清々講社)が負担して八坂神社境内で奉納されていた。鷺舞は山口市潟上市にもある。浅草寺台東区)の「白鷺の舞」も、これを参考にした。

通常は、宵山の7月16日と山鉾巡行・神幸祭の7月17日、花傘巡行・還幸祭の7月24日の3日間八坂神社境内で奉納されるが、2006年(平成18年)以降は鷺舞保存会と神社、氏子組織の対立が深まったために行われず、代りに、次項の子鷺踊りが奉納された。

子鷺踊り[編集]

上記の鷺舞をアレンジした新しい郷土芸能。上記と同様の白絹の羽を纏い、舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少年少女6名が優雅に可憐に舞い踊る。通常は、7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事と7月24日の花傘巡行に登場、2006年(平成18年)以降は上記の事情により大人の鷺舞の代役を務めるようになった。子鷺踊りは津和野町潟上市にもある。

小町踊り[編集]

元禄時代に起源を持つ少女の踊り。近代に入って中絶したが、1962年(昭和37年)に白峯神宮で復活した。園祭では、7月10日のお迎え提灯では小学生位の少女が、7月24日の花傘巡行では祇園東舞妓が、いずれも元禄風の衣装、髪型、舞台化粧並みの厚化粧で、典雅に可憐に舞い踊る。

園祭音頭[編集]

1957年(昭和32年)に園祭復活10周年を記念して創作。7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事に、一般的なお揃いの浴衣を着て舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。

石見神楽[編集]

石見神楽は、石見地方に伝わるエンターテインメント性の高い神楽1973年(昭和48年)以降毎年、通常7月16日の宵山に八坂神社境内で奉納され、御祭神・スサノオヤマタノオロチ退治をはじめ八坂神社や京都にも所縁ある神話劇が演じられる。

万灯踊り[編集]

当時の八坂神社の名誉宮司作詞の歌詞を元に1968年(昭和43年)に創作。7月24日の花傘巡行に、一般的なお揃いの浴衣を着て舞台化粧並みの厚化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。

花街の踊り[編集]

市内には花街(かがい)が6か所あるが、その内の神社に近い4か所のうち、2か所ずつが交互で花傘巡行で踊りを披露する。

西暦奇数年
  • 園東
    • 小町踊り
    上記を参照。
  • 先斗町
    • 歌舞伎踊り
    出雲の阿国の故事に因む。白い着物に赤い袴、白い千早で、塗り笠を被る。
西暦偶数年
  • 園甲部
    • 雀踊り
    童話「舌切りすずめ」をテーマとした唄にあわせて舞う。赤の襦袢の上にお揃いの浴衣を着用。編み笠を被る。
  • 宮川町
    • コンチキ音頭
    白地の薄物の着物に白地に赤の博多帯を後見結びにする。うちわを持って踊る。

園田楽[編集]

六斉念仏踊り[編集]

7月24日の花傘巡行に久世六斎保存会が参加している。

女人禁制とその緩和[編集]

町家より長刀鉾を望む。婦人並びに忌中の者は鉾上には上がれない。

江戸時代初期まで女性が参加していたことを示す資料が残っているが、江戸時代中期以降は女人禁制とされてきた。これは女人禁制を解いて女性が鉾に登った際に鉾が倒れて怪我人が出たり巡行不可能になった事が何度かあったためとされる。現在も、ほとんどの山鉾は巡行時の搭乗者や曳き手の女人禁制を守っている。宵山期間の鉾の拝観搭乗は女人禁制の解除が進み、現在は長刀鉾と放下鉾を除き女性も搭乗できる。また、女性の参加を希望する山鉾町(保存会)がいくつかあり、2001年(平成13年)に各山鉾町の判断で園祭山鉾連合会に届け出るという形で女性の参加を容認する方針が決まり、南観音山で2名・函谷鉾で3名の女性囃子方の巡行参加が認められた。

テレビ放送[編集]

園祭山鉾巡行』
京都放送(KBS京都)制作。BSフジを通じて全国に放送されている(KBS京都はフジテレビ系列ではないが資本提携関係にある)。

映画[編集]

日本全国の園祭[編集]

各地の祭礼への影響伝播[編集]

園祭のうち、とりわけ(広義の)山車囃子といった山鉾巡行に関する要素は、これがにおいて町衆町人階層が執り行う最も華やかな祭礼行事であるところから、その強い影響が全国各地の祭礼、とりわけ城下町などの町人が行う祭礼に広く伝播している。また、園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王スサノオを祀る各地の社寺祭礼の名称として、また、単に夏祭りの名称としても全国各地で広く用いられている。

全国各地の主な園祭[編集]

同一祭神を祭る祭礼や、園祭の影響がみられる祭礼を網羅的にここに列挙することは、その数があまりにも多すぎて現実的ではないので、ここでは、園祭という名称をもつ各地の祭礼の一部、および明らかに園祭の極めて強い影響を受けている各地の祭礼の一部を例示することとする。牛頭天王、スサノオを祀る祭礼については天王祭も参照のこと。また、園祭の具体的影響については、各地の祭礼の記事を参照のこと。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 京の夏、園祭!(らくたび文庫 別冊、コトコト)
  • 京都園祭手帳(河原書店の手帳ブック)
  • 写真で見る園祭のすべて(島田崇志著、光村推古書院)
  • 月刊誌「太陽」1985年(昭和60年)7月号(特集・園祭、平凡社)
  • 園祭(植木行宣・中田昭共著、保育社カラーブックス)

関連文献[編集]

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]