松田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

松田氏(まつだし)は、相模国足柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷波多野氏一族の氏族。室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、室町時代に幕臣として京都に存在した家系、また、小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系がある。

鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。

備前松田氏[編集]

経歴[編集]

出自については、藤原秀郷の末裔・波多野氏の一族であるとも相模国の御家人の出とも言われ、実際系図が何通りもあり定説化されていない。ここでは、相模国の御家人説に則り記載することにする。

御家人説では、松田元保の子松田元国後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府討伐の功により備前国御野郡伊福郡を与えられ、彼の地に富山城を築き本拠地にした。一方、この時期に備前国守護として松田盛明がいた事が記録で確認されているが、元保らとの関係は不明である。時代が下り、松田元澄の代になり応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると東軍の赤松氏方につき、西軍の山名氏の追い落としに功績があり、赤松氏の被官になり、伊福郷の守護代に相当する地位になった。文明15年(1483年)頃には備前国西部に確固とした力を築いていたためか、守護の赤松氏から警戒され、赤松政則の追討の命を受けた浦上則宗の一族の浦上則国に攻め込まれることとなり、松田元成は山名氏に援軍を要請すると同時に、文明12年(1480年)に新しい本拠地とした金川城を出撃し、赤松方の小鴨大和守の居る備前福岡城を文明16年(1484年)正月に落とした。勢いに乗った元成は備前国を掌中に収めるため、文明16年(1484年)2月、浦上則国の居城三石城を落とすため東へ進撃するが、途中の吉井川東の天王原で浦上勢と遭遇し合戦に及ぶも大敗し、退却する途中、浦上勢に追いつかれ磐梨郡弥上村山で自害する。

その後も松田氏は西備前に君臨し浦上氏と対立した。時が下り、松田元隆の代には、足利義晴のもと大永2年(1522年)京の都で所司代に就任するなどしていたが、享禄4年(1531年)、天王寺合戦で味方の浦上村宗とともに討死。孫の松田元輝の代になると宇喜多直家の力が強大になり、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ、更には当時美作・備中への影響力が強かった尼子晴久が浦上氏を攻撃すべく備前へ侵攻してきた際には、尼子方に属するなどによって勢力の維持を図ろうとしたが、永禄11年(1568年)、宇喜多直家に主力の重臣である宇垣与右衛門を謀殺され、さらに直家の調略により虎倉城主の伊賀久隆に寝返られ、同年7月、宇喜多勢に金川城を攻撃され元輝は伊賀久隆の鉄砲隊により討死。元賢も金川城落城により落ち延びる途中、伊賀勢の伏兵により討死。元賢の弟の松田元脩は備中に逃れ(一説には因幡山名豊国に仕えたという)、備前松田氏の宗家流は滅亡した。

ただ、庶流家である西谷城主の新庄松田氏は浦上氏に従う事で宗家滅亡後も存続し、主に美作南部の戦線で功を挙げた。天正2年(1574年)から表面化した浦上宗景と宇喜多直家の抗争の際には新庄松田氏は宗景方について戦い、翌天正3年(1575年)に浦上宗景が追放され宇喜多直家が実権を握ると新庄松田氏は浦上方だった事もあって所領を削られたものの存続は許された。以後、宇喜多政権でも新庄松田氏は在地の土豪として小さいながら勢力を保っていたが、宇喜多氏の改易後は帰農を余儀なくされた。

松田氏と日蓮宗[編集]

また、松田氏は仏教史においては上総酒井氏と並ぶ日蓮宗の熱心な信奉者として名を残している。建武暦応年間頃に備前において布教活動をしていた大覚日像門人)に宗論を挑んで敗れた松田元喬(蓮昌院)がこれを保護して以後、代々の当主が同派寺院に保護を与えただけでなく、進出した先の他宗の寺院を強制的に改宗させたといわれている。このため、松田氏滅亡後も「備前法華」と称される強力な門徒団が形成され、後に備前は不受不施派の拠点として知られるようになる。

系図(御家人説により)[編集]

松田元保-元国-元喬-元泰-元房=元方(元房弟)-元運-元澄-元成-元勝-元隆-元盛-元輝-元賢

室町幕臣 松田氏[編集]

室町時代に二階堂氏・波多野氏と並んで室町幕府評定衆に列した松田氏がいた。応永年間には政所執事代として史上に現れる者もおり、松田満秀・松田秀興・松田数秀らは奉行人の筆頭の公人奉行に任じられる。応仁・文明の乱以後、松田数秀・松田長秀・松田清秀・松田晴秀らが政所寄人の筆頭である政所執事代に任じられ、飯尾氏清氏らとともに幕府奉行人として永禄年間(1558~1570)に至るまで活動していた。

小田原北条氏臣 松田氏[編集]

相模松田氏は藤原鎌足を遠祖とし、その13代目藤原公光の時に相模となり相模国秦野に土着した。14代藤原経範は波多野に改姓し、波多野氏の開祖となった。

19代義常は松田郷に住む。その子有常は松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となった。当時波多野氏から分かれた一族は松田の他に河村、広沢、大友、菖蒲、沼田、大槻、小磯、宇治等がある。

当初波多野、松田一族は源氏方であり、波多野義通は京都に上って源義朝に仕えていたが、1156年保元の乱後、旧主である義朝の父・源為義を殺さなければならない羽目になって義朝との間が不和になり、相模国に帰国。こうした経緯により、源氏の没落と共に平家方に付いた。

義常は1180年石橋山の合戦では大庭景親と共に頼朝軍を破り、頼朝の鎌倉入りの際にも一族と共に松田城に籠り抗戦をしたが、義常は頼朝に追われ自害をした。義常の嫡男松田有常はこの時、大庭景義の懐島の屋敷にいて難を逃れた。源頼朝の腹違いの兄・源朝長の母(坊門姫)は義常の叔母でもあり、大庭景義は頼朝の父義朝の重臣で、鎌倉幕府の長老であった。松田有常は大庭景義の外甥でもあったので、景義は義常誅伐の事を事前に察知していて、密かに保護を加えたものである。後に大庭景義は松田有常を伴って頼朝の元に参上して許され、後に松田郷を与えられ、松田次郎を名乗り松田氏が起こった。

1213年和田合戦では和田義盛に味方した者が松田一族より多数見受けられる。

1333年新田義貞が鎌倉幕府を討つ為に武蔵国に入り分倍河原の戦いで鎌倉北条軍に敗れた後、松田一族は相模国の同志軍と共に新田義貞軍に参陣。

南北朝時代に於いては南朝方の後醍醐天皇に味方し、新田義貞軍に組した。新田義貞の没後、新田義興脇屋義治軍総勢6,000騎が松田城、河村城や西丹沢の諸城に移り、これを足利尊氏自ら大軍を率いて攻め込んできたので、足柄の地は一大戦場と化した。この頃松田一族は各地に分散し、備前松田氏は北朝方の室町幕府に属していた。

室町時代の後半になると関東公方足利氏が衰微しており、8代松田頼秀は京都に居住していたが、将軍の命で関東に下向した。その頃、相模国では大森氏小田原城を占拠して諸家を征服、松田氏にも攻略の手を加えてきた。扇谷上杉氏と大森氏の進攻に苦戦をしていたが、1495年北条早雲大森藤頼を倒して小田原城に入城した時に松田頼秀が協力した。備前松田氏、室町幕臣松田氏と相模松田氏とは緊密な脈絡があり、この時に備前松田氏と室町幕臣松田氏からは松田数秀松田長秀松田頼亮松田秀致松田晴秀等が応援に駆け付けた。

相模松田氏は北条家家臣団として御由緒家七家に列し、家老職を勤める。北条氏家臣団中最高の2798貫110文(松田一族では3922貫995文)の所領高であった。

10代松田憲秀に至って松田氏は全盛に達し、北条家の重代の筆頭家老として権勢並ぶものが無かったという。[1]

1590年豊臣秀吉小田原征伐の時に際し、憲秀は「豊臣方22万に対し北条方は5万と劣勢にあって勝ち目の無い野戦は無謀である」と、小田原城中の評定に於いて籠城策を主張する。これに対して北条氏照北条氏邦は野戦を主張したが、憲秀の籠城策が採られた。一方憲秀は「北条家に相模の国と伊豆二国の安堵と全員の助命を条件」として開城する事で独自に前田利家堀秀政と戦後処理についての駆け引きをしていた。ところが、豊臣秀吉は小田原城内の混乱を狙って憲秀内通との戦略的噂を吹聴した。この事があって間もなく小田原城は開城した。

北条氏滅亡後、松田氏は交渉をしていた前田氏に4,000石で召抱えられた。その後石高に変化はあるが、1871年廃藩置県まで加賀藩臣として存在した。

憲秀の弟松田康定の後裔は徳川家康に仕え旗本として存続した。

系譜[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]