早良親王

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早良親王
皇太子
在位 天応元年4月4日781年5月1日)- 延暦4年(785年)9月

時代 奈良時代
生誕 天平勝宝2年(750年)?
死没 延暦4年9月28日785年11月8日
別名 親王禅師
尊号 崇道天皇
墓所 八島陵奈良県奈良市八島町
淡路国津名郡から大和国へ移葬)
父母 父:光仁天皇、母:高野新笠
兄弟 能登内親王開成桓武天皇早良親王薭田親王酒人内親王他戸親王弥努摩内親王広根諸勝
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早良親王を祀った崇道天皇社(奈良市西紀寺町)

早良親王(さわらしんのう)は、光仁天皇皇子、母は高野新笠桓武天皇能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太子に立てられたが、藤原種継暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

経歴[編集]

母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた[1]天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている[2]

しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使藤原種継の暗殺事件に連座して廃され乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市高瀬神社付近)で憤死した(『日本紀略』前編13、桓武天皇、延暦4年〈785年〉9月23-24日)とする。だが、親王の死は次の各説がある。

  • 抗議の絶食による死とする説[3]
  • 桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説[4][2]

種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする[5]。一方で、早良親王主導による東大寺の修繕事業に関わった技術者や職人が長岡京の造営事業に転用されており、少なくても遷都事業を推進する立場に立っていたとする反論があり[6]、桓武天皇と藤原乙牟漏の子である第一皇子・安殿親王の成長につれて、親王周辺の人々が、天皇や種継(乙牟漏の従兄)が皇太子の交替を画策しているのではないかと疑念を抱いたことが原因とする説もある(ただし、天皇や種継が実際に廃太子を画策していたかは不明)[7]

その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。

東大寺では毎年二月堂修二会のおり神名帳を奉読し法会の加護を願い、最終段で十一柱の「御霊」の名前を読み上げられるがその冒頭には八嶋ノ御霊と記され早良親王の怨念を慰めている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 高田淳「早良親王と長岡遷都:遷都事情の再検討」『日本古代の政治と制度』続群書類従会成、1985年
  2. ^ a b 長谷部将司「〈崇道天皇〉の成立とその展開―九世紀における〈天皇〉の位相―」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』、岩田書院、2015年
  3. ^ 北山茂夫「藤原種継事件の前後」『日本古代内乱史論』
  4. ^ 西本昌弘 2022, p. 14-23.
  5. ^ 永村眞 1989, p. 54-55.
  6. ^ 西本昌弘 2022, p. 34-43.
  7. ^ 西本昌弘 2022, p. 30-31.
  8. ^ 牧野英三「東大寺二月堂声明(Ⅹ)神名帳」『奈良教育大学紀要 人文・社会科学』第29巻第1号、奈良教育大学、1980年11月、115-136頁、ISSN 05472393NAID 120001885585  p.119 より

参考文献[編集]

  • 『【新制版】日本史辞典』(数研出版、1994年)
  • 『旺文社日本史事典』(旺文社、2000年)
  • 北山茂夫「藤原種継事件の前後」『日本古代内乱史論』 岩波現代文庫 2000年
  • 永村眞中世東大寺の組織と経営』塙書房〈早稲田大学 博士論文(文学) 32689乙第787号〉、1989年。ISBN 482731036XNAID 500000076625NCID BN03220483全国書誌番号:89029269https://hdl.handle.net/2065/49364 
  • 西本昌弘『平安前期の政変と皇位継承』吉川弘文館、2022年。ISBN 9784642046671 
    • 「早良親王薨去の周辺」初出:日本歴史学会 編『日本歴史』629号、2000年10月 p.69-74
    • 「藤原種継事件の再検討」初出:大阪歴史科学協議会 編『歴史科学』165号、2001年
  • 高田淳「早良親王と長岡遷都-遷都事情の再検討」『日本古代の政治と制度』(続群書類従完成会、1985年)
  • 長谷部将司「〈崇道天皇〉の成立とその展開―九世紀における〈天皇〉の位相―」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』、岩田書院、2015年

関連項目[編集]

  • 三入八幡神社 - 早良親王の終焉の地とされる石積みが残る
  • 崇道天皇神社 - 各地にある早良親王を祀る神社
  • 御霊信仰
  • 承和の変 - 天皇の実子の成長に伴って、実子ではない皇太子の周辺に不穏な動きがあったとして廃太子に至った事件