能登内親王

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能登内親王
時代 奈良時代
生誕 天平7年(733年
薨去 天応元年2月17日781年3月16日
位階 三品、贈一品
父母 父:光仁天皇、母:高野新笠
兄弟 能登内親王開成桓武天皇早良親王薭田親王酒人内親王他戸親王弥努摩内親王広根諸勝
市原王
五百井女王春原五百枝
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能登内親王(のとのひめみこ、のとないしんのう)は、光仁天皇第一皇女。母は高野新笠桓武天皇早良親王の同母姉にあたる。

生涯[編集]

天平3年(733年)、白壁王(後の光仁天皇)の王女として平城京に誕生。母は百済渡来系氏族の高野新笠(『続日本紀延暦9年(790)正月15日条による。『本朝皇胤紹運録』では母を井上内親王と記しているが誤伝)。

天智天皇の女系の玄孫であり自身の従甥にあたる市原王(いちはらのおおきみ、いちはらおう)に嫁し、五百井女王、五百枝王(のち春原五百枝)を生む[1]

その後、市原王と死別。宝亀元年(770年)、父・白壁王が即位すると、内親王となり四品に叙せられる[2]。宝亀7年(776年)、三品に昇叙[3]

天応元年(781年)2月17日、薨去。一品の位を贈られる。内親王の薨去を悲しんだ光仁天皇は、孫の五百井女王・五百枝王を二世王として優遇する詔を発した(本来は五世王であるが、天皇の外孫のため格別に二世王(皇孫)として処遇することにした)[4]。なお、その死後に父の光仁天皇も俄かに病気がちとなり、同年4月に譲位、12月に崩御した。

脚注[編集]

  1. ^ 続日本紀』天応元年(781)2月17日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀元年(770)11月6日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀7年(776)正月7日条
  4. ^ 『続日本紀』天応元年(781)2月17日条