神輿

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日吉大社の神輿
敏馬神社の神輿
東京・深川の富岡八幡宮の境内に飾られている日本一の大きさの神輿

神輿御輿(みこし、しんよ)は、神道の際に、普段神社にいる神霊が御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である[1]。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが[1]、それを台車に乗せて曳くものなど、別形態のものを指すこともある。

祭りによっては、御輿の巡行に、山車(山)、(ほこ)、だんじり、屋台が随行する場合もある。

「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「神輿」とも書かれる。なお、鳳を屋形に頂き神輿の原型とされる輿を特に鳳輦という。[要出典]

形状・構造[編集]

小ぶりな神殿をかたどったものが多く(鳥居などまでついているものも)[2]鳳輦にも採用されている屋根の上の鳳凰または擬宝珠など、多くの意匠・装飾が凝らされる[3]。屋根は通常その御輿が属す神社の神殿を模した物となる[4]。この為寺社に多い唐破風屋根、もしくは延屋根が採用される場合が多い[5]。繊細な意匠が凝らされているため、通常は台輪と担ぎ棒以外には触れるべきではない[6]。また一口に神輿と言ってもその格や製造の手間暇はピンキリで、質素な白木のものから、漆塗り・極彩色のものまで様々である[7]。使用時以外は分解して保管されている場合が多い[8]

大きさの単位は、普通「台輪」と呼ばれる部位の幅で測られる[9]。標準的なものでも、幼児用の台輪寸法24cm(最大幅42cm)、担ぎ棒(一番長い親棒で180cm[10])を含む総重量18kgと言った小さなものから、台輪寸法105cm(最大幅177cm)、総重量550kg程度のものまである[9](このクラスだと、親棒の長さは630cm程度にもなる[10])。ただし意匠などにより重量は多少異なってくる[7]。なお台輪寸法が60cmの場合、担ぎ棒を一度に担げる人数は50人となる(参照した文献によれば3交代制として、担ぎ手は150人必要としている)[7]

日本で一番大きな神輿は東京都富岡八幡宮の御本社一の宮神輿と言われてはいるが、現在では担いで渡御する事が出来ない。また、台輪幅だけで言うと東京文京区にある根津神社の宮神輿の方が大きい。

重量は500キログラム、担ぎ棒込みで1トンを越えるものも珍しくなく[11]、下部には担ぎ棒を通す穴、もしくは金具がある[12]

担ぎ棒については前後方向に親棒だけ付いたものが最もシンプルであるが(神輿本体とは別のパーツであり、組み合わせ時には楔を打ち込み固定、さらに釘で楔を固定する[13])、担ぎ手を増やしたい場合などでは、親棒から左右方向にトンボと呼ばれる棒を2本伸ばし、その先に前後方向を向いた脇棒を加え、合計で前後方向の担ぎ棒が4本となる場合もある[13]。これらはダボとダボ穴で組み合わせた上に縄で厳重に縛り上げ、さらに水をかけて強固に固定する[13]

また、通常は主要部分は木製であり[14]、その製作には20種類の職人が携わり[15]、パーツは3000程度[15]は使われずに製作される[16]。神輿は担いで超時間荒々しく揺さぶられる場合が多いため、細かなパーツを組み合わせす升組み構造で、その震動・衝撃を吸収する[17]。また製作工程を統括する者を「神輿師」と呼ぶ[15]

他に、神木(諏訪大社・長野県諏訪市)、人の性器(田縣神社・愛知県小牧市)をかたどったもの、人形を置いたものなどもある。

祭り方[編集]

2種類に大別される。

例:京都石清水八幡宮、東京日枝神社神幸祭など。
  • 2つ目は神輿を激しく振り立て、神輿振りを強調する「日吉型渡御祭」で、神輿を激しく振り動かすことによって神の霊威を高め、豊作や大漁を願うものである。
例:滋賀日吉大社山王祭、京都八坂神社祇園祭、東京浅草神社三社祭鳥越神社・鳥越祭りなど全国各所。いわゆる暴れ神輿である。平安時代後期、比叡山延暦寺の僧兵等は日吉神社の神輿をもって強訴し、白河法皇に「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言わしめた。

運行形態(神輿の担ぎ方)[編集]

総論[編集]

単に町を歩いてお旅所(神酒所)と呼ばれる目的地を回るだけのものや、荒々しく揺らしたり神輿同士をぶつけ合ったりするものなど様々で、祭りの中でそれが果たす役割は多種多様である。荒々しく揺らすのは、神の霊を揺り動かして活性化させる(魂振り)という意味がある。

各論[編集]

担ぎ方[編集]

『神輿大全』によれば、担ぎ方としては、 東京で良くみられる担ぎ棒を深く肩で受け止めリズムを取りながら進む江戸前担ぎ[6]富岡八幡宮などで見られる、神輿を膝元まで下げて一気に担ぎ上げると言うダイナミックなわっしょ担ぎ[6]千住品川地域で見られる、神輿を左右に振る'横田担ぎ[6]湘南地方で見られる、ゆるやかに大きく上下させるどっこい担ぎ[6]新宿十二荘熊野神社で見られる、担ぎ棒の先端を首の後ろの付け根で担ぐ千鳥担ぎ(非常に珍しいと言う)[6]、が紹介されている。

なお、神輿を担ぐ時担ぎ手はかけ声をかけながら担ぐが、伝統的なかけ声は「ワッショイ」である[18]

その他の担ぎ方[編集]

  • 東京都内では「えっさ、えっさ」の江戸前担ぎが有名であるが、近年は神輿同好会等の影響で「オイサ」「セイヤ」「ソイヤ」の掛け声が増えている。浅草三社祭・鳥越祭り・神田明神祭など、東京の祭礼の殆どはこの担ぎ方となっている。[19]
  • 同じ都内でも漁師町であった品川大田近辺ではちょいちょい担ぎという小波に揺れる舟のように小刻みに神輿を振る城南神輿羽田では大波に揺れる舟のように左右に大きく振るヨコタ担ぎがある。どちらも神輿を振りやすいように2本の芯棒に数本の横棒をつけただけの棒組となっているが城南神輿には大拍子という太鼓が付いているのが大きな特徴である[20]
  • 深川担ぎは平担ぎ「わっしょい」の他に神輿を揉み、次に差し上げる担ぎ方が有る。 掛け声は「もーめ もーめ」「さーせ さーせ」。
    • 中央区の担ぎかたは(他地区では佃担ぎと云われている) 「おりゃ、おりゃ」の、掛け声で神輿を一切揺らさず担ぐ。揺らす時は地面すれすれでの上下に揉む時で、揉んでから一気に差し上げる
  • 湘南地方では、湘南甚句と共に「どっこいどっこい、どっこいそりゃ」の掛け声で担ぐどっこい担ぎ が一般的である。極みとして、茅ヶ崎「暁の祭典浜降祭」7月20日前後開催がある[21]
  • 小田原では他の神輿と合体したり、木遣りとともに駆ける(走る)小田原担ぎがあり、ゴールデンウィークの5月3日-5日の五社連合例大祭(居神神社山王神社下府中神社大稲荷神社松原神社松原神社例大祭などで見られる[22]
  • 行徳近辺では神輿を差し上げ、空中に放ったり、地面にギリギリまで降ろしたりする行徳担ぎなどがある。
  • 千葉では房州神輿があり、掛け声は「よいさー、ほいさー、そーりゃ等々」である。ニ点棒なので神輿振りである横振が見られ、一部神社では小田原担ぎのように走る神輿もある。
  • 関西方面では京都などで八坂神社祇園祭を中心に「ホイットー、ホイットー」と掛け声を掛けながら、前進したままでシーソー状に激しく神輿を振り回す。ナリカンと呼ばれる金具の鳴り物を激しく打ち鳴らすのが特徴である。また神社拝殿の回りを練り暴れる拝殿回しでは、ひたすらカーブを切りながら上記のようにシーソー状に激しく振りながら前進する。境内が狭い場合などは神輿を軸にしてグルグル旋回しながら暴れることもある。
  • 愛媛県などでは、神事として神輿同士を激しくぶつけ合う喧嘩神輿が見られる。祭によって、ぶつけ合うこと自体を目的とする場合もあれば、相手の神輿を落とした側を勝ちとする試合形式で行う場合もある。また地域を問わず、同じ祭で複数の神輿が鉢合わせた際、自然発生的に互いの威勢を競い合うような状況となった場合も喧嘩神輿と呼ばれることがある。

寺院の神輿[編集]

以上のように「みこし」は神道、神社の物であるが、特殊な例として寺院が所有するもある。


掛け声[編集]

担ぐ時の掛け声は「わっしょい」や「エッサ」「ソイヤ」などと言うところが多い。

例:岡山県新見市の岩山神社

それぞれの語源については諸説があり、「和上同慶」「和を背負う」「和と一緒」「輪を背負う」という意味からきているという説や、「エッサ」は古代ヘブライ語(古代ヘブライ語で「エッサ」とは「運ぶ」と言う意味である)から来ていると言う説、又は単なる「えっさほいさ」といった掛け声であるという説など様々である。

江戸の祭りの掛け声は「わっしょい」が正統で、「ソイヤ」は他の地域から祭りにのみ参加する者によって伝播したものであるという。

ワッソ説という嘘[編集]

「わっしょい」の掛け声が、朝鮮半島からの渡来人(帰化人)の使用した古代朝鮮語の「ワッソ」(来た)に由来するという説が、近年になって在日朝鮮人を中心に唱えられている。しかし古代朝鮮語はほとんど解明されておらず、野平俊水こと水野俊平氏の検証によって、「ワッソ」が使われるようになったのは16世紀~19世紀末と、中期朝鮮語の後半以降であることが判明している。そうした合理的、科学的根拠の無い説を基に、「四天王寺ワッソ」という祭りが現在行われている(韓国起源説韓国起源説の一覧も参照せよ)。

以下、日本海新聞(2005年11月28日)より一部を抜粋して引用。

『 聖徳太子の時代「ワッソ、ワッソ」(韓国語で「来た」)とやってきた古代朝鮮半島の人々。 この故事に源を発する「四天王寺ワッソ」は当時の様子を巡行で再現する。

(略)「みこしの“ワッショイ”の掛け声は、韓国語の語源の“ワッソ”が日本語的に変化したと考えて名付けたんです」。

(略)「山陰は海を渡ればすぐに韓国。韓国からの影響を当然受けているはずだし、町に伝わる『打吹天女伝説』は中国から韓国を経て伝わった可能性がある」と話す。』

引用終わり。

このように厳密な学問的裏づけの無い、駄洒落程度の思いつき、思い込みに過ぎないことを主催者達自身が認めている。

近年の問題と注意事項[編集]

神輿は本来、その神社の氏子によって担がれるものであるが、担ぎ手の不足や町おこしなどの理由により氏子以外の参加を認めるケースが都市部を中心に増えている。そのため、外部の応援団体(有志の神輿会)が地元のルールを知らない・軽んじる、などの一因で問題が生じないよう留意すべきである。

また、三社祭の宮出し等で見られる、担ぎ棒に乗るという行為も「神様が鎮座する神輿の上に人が乗るとは何事だ」という否定的意見と、「神輿渡御を安全に誘導する為には仕方がない」「祭礼運営への貢献のお礼」などといった肯定的意見の論争が見られるが、概ね世間の評価は否定的である。東京都では迷惑防止条例で神輿に乗る行為は禁止されており、6ヶ月未満の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。

神輿の扱いは地域によって違い、上から見下ろすことさえ禁じられている所もあるので、参加する場合はその地域の規則を熟知するということが大切である(逆に、神輿をわざと高い位置から落とす祭礼もある)。

神輿の起源[編集]

諸説あるが、そのうちの1つとして以下のような説がある。

狩猟と採集による移住を繰り返した時代に行われた収穫祭の祭壇が起源で、このときは祭りが終わると神輿は取り壊され、毎年新たな神輿を作って天上の神を招いていた。農耕が始まり人々が定住するようになると、神に対しても定住が求められるようになり、居所としての神社が誕生した。そして神の乗り物として神輿が継承され現在のような形になった。

この説を採用した観光協会等において、外国人に対し神輿を"Portable Shrine"(持ち運び可能な神社)との説明がされるようになり、"Mikoshi"の英訳として一般化するに至っている。

文献上での初出は、奈良時代元正天皇の御世、養老4年(720年)九州で起こった「隼人の乱」にあるという。同年2月九州南部の大隅・日向に住む隼人族は、大隅国守を殺害して反乱を起こした。朝廷は歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万を超す軍隊を派兵した。この時、朝廷は宇佐八幡宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を祈願した。当時は、今の大分県宇佐市小倉山でなく、近くの小山田に鎮座していた八幡神は、この願いに応じ、「われ征きて降し伏すべし。みずから神軍を率いて隼人討伐に赴く」と託宣を下した。朝廷は豊前国司(ぶぜんこくし)宇努首男人(うぬのおびとおひと)に命じ、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた。『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、「豊前国司に仰せつけられ、初めて神輿を作らしむ」とある[要出典]

聖武天皇奈良東大寺を建て、毘盧舎那仏奈良の大仏)を建立して国の象徴として建設にあたる時、天平勝宝元年(749年)に、これを助ける為に、宇佐八幡神は、屋根に金色の鳳凰が輝く天皇の乗り物(鳳輦)に乗って奈良の都へと渡御した。この鳳輦こそが、1300年の歳月を経て今に伝わる神輿の原型である。

平安時代になると、近江日吉大社京都の祇園社(現・八坂神社)・今宮神社北野天満宮や、大阪大阪天満宮などでも神輿が作られた。鳳輦をもとにして、これに魔除け巴紋神紋を飾り、ミニチュアの神社のように鳥居や玉垣、高欄などが付けられた。こうして、主に奈良・京都を中心にして神輿が一般化された。

フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱
豪華装飾写本ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた契約の箱

中には、更に古い紀元前13世紀に由来する契約の箱と神輿の類似点から、ユダヤ教徒あるいはその文化が日本に伝来したものとする説もある。具体的には、古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。ヘブライの秘宝、「契約の箱」(契約の聖櫃(アーク))は、現在に至るまで行方不明であるため、「失われたアーク伝説」として、広く公式に知られている。アーク(聖櫃)とはモーセ(紀元前13世紀)が神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱で、全体に黄金が貼られており、『旧約聖書』の『出エジプト記』には、そのアークの作り方が克明に記されているのだが、その記載を見る限り、日本の神輿(みこし)にそっくりである。アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿も金で覆われていて、神輿の上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が作られており、大きく羽を広げている。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。しかも、かつぐための2本の棒は絶対に、アークから抜いてはならなかったように、神輿の棒も抜かれることはない。祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されているのである。このように、日本の神輿と聖櫃(アーク)との類似性が高い[23]

各地方の神輿[編集]

江戸(東京)の神輿[編集]

以下は江戸(東京)の話であるが、本来神輿は神社から1台が(宮神輿)、山車は町内から出るもので、通常、神輿のいち形態ではなく、神輿とは別物である[24]。また山車は市中に電線が貼られた都合などから明治中期以降は運用が難しくなった[25]。このため神社より町神輿へ分祀を行い、山車の代わりに町神輿が巡行するようになった[25]。この風習は近隣地域にも広がった[25]。なお太平洋戦争中は兵員の召集による担ぎ手不足や金属供出などのため、そして戦後は空襲による焼失などのために一度神輿は減少したものの[26]、その後1953年-1960年にかけて神輿の新調ブームが起こったと言う[27]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 宮本, 卯之助 (2011), 全通企画; 岩間靖典, eds., 誠文堂新光社  - 神輿の構造、製作、保管、メンテナンスに詳しい。町神輿についても言及が多い。文化・風俗的な記述は少なく、あくまで神輿と言う「物体」について掘り下げた資料。 ISBN 978-4416811436

関連項目[編集]