三社祭

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本社神輿各町渡御の様子(2006年5月撮影)

三社祭(さんじゃさい)は、毎年5月に行われる東京都台東区浅草浅草神社の例大祭。正式名称は浅草神社例大祭(あさくさじんじゃ れいたいさい)、一般には「さんじゃまつり」として知られている。

かつては観音祭・船祭・示現会に分かれていたが、1872年から5月17・18日に行われるようになった。現在は5月第3週の金・土・日曜日に行われる。

浅草神社は明治に入るまでは浅草寺と一体であり、この時代には浅草寺の祭りとして行なわれていた。神仏分離によって浅草寺と分離してからは浅草神社単体での祭りとなり発展したが、これは明治に入って以降のことである。

目次

[編集] 概要

江戸文化の中心であった神田とも、隅田川以東の下町文化圏とも浅草は別個であるが巧妙に両者のイメージを利用してきた背景がある。文化圏について鈍感な行政やマスコミの影響もあり、その中心部は土地持ちの富裕層が多かったにも関わらず下町イメージで語られる不思議な町である。

但し、「観光宣伝色が強い」「浅草の内部での結束が悪すぎる」「各町神輿連合をヤクザ[1]が組の宣伝に利用している[2]」など問題点も多く、地元民の全面的支持は受けているわけではない。2007年7月13日には、「三社祭でみこしを担ぐ同好会30数団体のうち、約7割で暴力団員が代表になって」いると報じられた[3]。祭りが暴力団の資金源になっているものとみられている。祭りには刺青をした男性が多く参加している。

[編集] 問題点

明治の、蔵前、鳥越、鶯谷、今戸の下町は地域ごとに職種や住宅事情などが明確で住民にある種のカラーがあった。区画整理や地番変更の行われた今日でもそれは少なからず残っているともいわれる。神仏習合で一体化していた浅草寺と浅草神社は明治以後神仏分離によって分離した。明治以降に住宅に入った人間たちは彼らの父祖の地に神社を置いてきてしまった宗教的浮遊層である。

「その道」の本場とされてきた浅草の親分は戦前から戦後にかけて「的屋」の山春や益久、数珠辰の名が挙げられる。猪野健治の書籍に見られるようにヒラビにおける特権は闇市の解体により的屋より取り上げられた。その結果としてタカマチのための「ハレ」を求めたと見方がある[4]。しかし、この浅草神社を取り巻く環境は多層的であり、その中心の"真空"こそ三社祭を東京で最も大きい祭りとしている要因の一つでもある点は最も重要である。

[編集] 本社御輿

一方で祭り好きの人々が同好会を結成し、各所の祭りを担ぎ回るようになった。現在は人員は足りているが、神輿同好会が参加している。ふんどしを締めている担ぎ手も結構多い。また、神輿に担ぎ手が乗ることは禁止されているものの、担ぎ棒の上にふんどし一丁、又はふんどしに半天だけの人が乗る例が後を絶たなかった。2006年(平成18年)には本社神輿二之宮が毀損するに至り、浅草神社と奉賛会の連名で改めて通達が2007年1月に出された。しかし2007年(平成19年)においても神輿に乗る担ぎ手が確認され、都迷惑防止条例違反の疑いで逮捕者5人も出た事から、神社と奉賛会は2008年(平成20年)の祭での本社神輿の「宮出し」と「本社神輿各町渡御」「宮入り」を中止する事を決定した[5]。このため来客数の激減が予想されたが、前年より増加して終了した。雷門通り・馬道通りの迂回は継続される。2009年(平成21年)は、「神輿に担ぎ手が乗ると再び中止にする」という合意の下、再開された。

[編集] 祭りの構成

[編集] 現在の構成

  • 1日目(金):名物大行列(浅草芸者田楽手古舞白鷺の舞、等が登場)ただし、雨天中止
  • 2日目(土):氏子各町神輿連合渡御
  • 最終日(日):宮出し、本社神輿各町渡御、宮入り

[編集] 2008年の構成

  • 1日目(金):上に同じ
  • 2日目(土):上に同じ
  • 最終日(日):野点、お囃子奉演、太鼓奉演、奉納舞踊、本社神輿神霊返しの儀(浅草神社内)お祭り広場(浅草神社外)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ 指定暴力団住吉会系の浅草高橋組や中村会など。
  2. ^ 昔は酒をタカリにしか来なかったが、現在では同好会を主宰。
  3. ^ 暴力団に10万払った」=みこし乗り同好会員が供述−浅草三社祭・警視庁
  4. ^ 昭和27年前後に浅草の旦那衆と益久親分に意見の対立があり、深川から神輿を丁子家の若い衆が運んできたという伝説など。
  5. ^ 平成20年度浅草神社例大祭 本社神輿渡御中止のお知らせ 平成19年7月24日

[編集] 外部リンク