安来市

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やすぎし
安来市
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
中国・四国地方
都道府県 島根県
団体コード 32206-7
面積 420.97km²
総人口 39,981
推計人口、2014年7月1日)
人口密度 95人/km²
隣接自治体 松江市雲南市仁多郡奥出雲町
鳥取県米子市西伯郡南部町
日野郡日南町
市の木
市の花 さくら
市の鳥
市の魚
白鳥
どじょう
安来市役所
所在地 692-8686
島根県安来市安来町878番地2
北緯35度25分53.2秒東経133度15分3.2秒
安来市役所
外部リンク 安来市

安来市位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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足立美術館庭園
和鋼博物館

安来市(やすぎし)は、島根県(旧出雲国東部)の[1]。出雲国風土記よりスサノオノミコトより安来と命名されたと伝えられている。旧能義郡(『出雲国風土記』:意宇郡)。

地理[編集]

安来市は島根県の東端に位置し、鳥取県と県境である。かつては神聖な地であったらしく、この地区の土地名を冠している神社名が全国に散見される例が他所よりも甚だ多い特徴を持つ。砥神(十神)、加茂(下鴨)、安来(八杉、安居)、伯太(博多)、広瀬、月山、能義(乃木)、磐船(岩舟)、意多伎(おだき=愛宕あたご)、伊勢、楯縫(風土記に残る郷の名称)宇賀(荘)、車山、飯生(稲荷)、比婆、久米、諏訪、吉佐、八幡、母里、桑名、社日などである。

隣接する自治体[編集]

歴史[編集]

弥生/古墳時代の間にかけて出雲に強力な王権が発生するが(古代出雲参照)、その中心地(東部出雲王朝)だったという説がある。全国最大級の方墳である造山古墳群や出雲文化圏特有の四隅突出型墳丘墓(国内最大級の集中地帯)などを含む多くの古墳が発掘されており、弥生から古墳時代にかけて約500年の間、連綿と栄えた地域である。当時の出雲筑紫大和毛野と並ぶかそれ以上の古代日本の有力な地方政権で、弥生後期においては北陸まで及ぶ日本海沿岸には四隅突出型墳墓形式で規格化された連合政体のようなものがあった。ヤマトとともに抜きん出た勢力を誇り意宇王の指導のもとで一時は独立王朝をなしたという説がある。

山陰では鉄器も北九州に準ずる量が発掘されており、安来でも弥生期の製鐵遺構が竹ヶ崎・柳遺跡で見つかっているため、これらの鉄が当時鉄不足であった大和地方へ供給されヤマト朝廷建国の原動力となったという説がある。実際前近代的な野だたらは弥生時代以降、連綿と続いていたようで製鉄遺跡として認知されている。

そのためか、『記紀』への登場も早期からであり、『古事記』、『日本書紀』においては根之堅州国(ねのかたすくに)あるいは根之国(大和島根、島根県の語源とされており、イザナミノミコトの御神陵と言われているところも存在することから修理固成の源郷という見方をするものもいる。黄泉国参照。)と呼ばれスサノオノミコトが統治していた地方に該当するのではないかとも言われており、市内には出雲神道の流れを汲む古社も多い。地名が文献上登場したのは天平6年(西暦733年)の『出雲国風土記』に「出雲国意宇(おう)郡安來郷」とでている。おそらく神代からの名称であり、都市名では最古の部類の属す。この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺ではたたら吹き(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためスサノオノミコトのヤマタノオロチ伝説が生まれたとされている。このヤマタノオロチは退治され埋められた後、八本杉を植えた伝承が隣接する奥出雲町雲南市鳥取県日野郡をはじめとするオロチ河川群の周辺地方等に残っているがこの八本杉(八杉)が安来の語源とする説もある。そのため市内だけでも数十以上(伯太町、広瀬町)も存在するたたら製鉄の遺跡や、周辺地方には日本刀の最古の刀匠であり、宮本武蔵の愛刀「童子切」の作者である伯耆国大原の安綱の工房跡碑(鳥取県西伯郡)などがあり、また近接する伯耆国大原は安綱が活躍した地であることから、古くから冶金技術が発達していた雲伯地方一帯(旧名;意宇郡、能義郡)の中心都市であったことが伺える。このような背景から映画『もののけ姫』の舞台のモデルともなった。

月山富田城

古代より中海(錦海)に面した天然の良港、安来の港はふるくは朝鮮半島との交易も盛んであり、『万葉集』では於保の浦、時代が下ると金ヶ浦、錦ヶ浦という名などで登場している。そのため市内に数多くある古墳からは当時の出雲地方としては珍しい天叢雲剣を髣髴させるような鉄製の刀剣、鉄器類が出土している。そのため、神在月には出雲を目指す神様が安来湊にまず集結し、鉄の買い付けを行うというような伝説も残っており、古代出雲の海の玄関口として反映したことが伺える。戦国時代に至っては尼子氏の物資輸送、海戦拠点ともなり、中国地方の戦国両雄である尼子氏対毛利氏の激烈な戦いが繰り広げられた。この中で有名な悲運の武将山中幸盛らが活躍しその模範的ともいえる武士道精神は池波正太郎著『黒幕』等の数々の小説、物語の題材となっている。江戸期に入ると尼子・毛利両氏が営んだ月山富田城から松江城に出雲支配の中心が移り繁栄に一時翳りがあった。

しかし江戸中期より日本の商品経済が発展し北前船による交易が盛んになり、鉄資源を求めて奥出雲側に移動していった製鉄地帯ではそれまでの野だたら法から量産型の永代たたらへ移行する。と、安来湊が重要港となり山陰地区の和鉄和鋼を一手に取り扱う一大商都と成長した。当時の国内の鉄生産量の実に90%以上にものぼる素鉄・素鋼品の製造・流通を取り扱い繁栄を極めた。

明治時代後期に入ると、たたら製鉄法は衰退の危機に直面する。たたら師たちが日本初の民間鉄鋼会社「雲伯鉄鋼合資会社」を1899年(明治32年)に設立した(製鉄業と一線を画し、近代鉄鋼産業の発祥と定義する説もある)。その後、その会社は安来鉄鋼合資会社(1909年設立)、株式会社安来製鋼所(1916年設立)を経て日産コンツェルン総帥鮎川義介による近代技術の導入、その後の伝統製鋼法の近代的画期、高級特殊鋼へ特化し現在も鋼都としての存在をゆるぎないものにしている。この地で生産された鋼は安来鋼ヤスキハガネ)というブランド名で日立金属株式会社が製造を続けており、日本有数の鉄鋼開発拠点の一つとなっている。

文芸面では大正時代に、それまでの華やかな安来文化の蓄積である安来節を全国に広めた渡部お糸、その後は陶芸家、河井寛次郎や、彫刻家、米原雲海など日本文化の伝統を主軸にした近代芸術家を多く輩出した。特に、河井寛次郎らが行った、民芸品への美術的価値を見いだす柳宗悦が中心になった「用の美」の美学は大正・昭和期に渡り日本人の工芸、料理、産業人の精神的なバックボーンを形成した。

沿革[編集]

  • 1889年明治22年)4月1日 町村制施行により、能義郡安来町が発足。
  • 1951年昭和26年)4月1日 能義郡安来町、能義村、宇賀荘村が新設合併。旧・安来町を廃して新・安来町となる。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 能義郡安来町、赤江村、荒島村、飯梨村、大塚村が新設合併。島根県下で6番目に市制を施行して安来市となる(江津市と同日施行)。
  • 1955年(昭和30年)1月10日 安来市石原町が能義郡広瀬町に編入される。
  • 2004年平成16年)10月1日 安来市、能義郡広瀬町、伯太町が新設合併。旧・安来市を廃して新・安来市となる。

行政[編集]

官公庁[編集]

安来警察署

経済[編集]

産業[編集]

  • 安来鋼(ヤスキハガネ)
  • 安来織
  • 出雲織
  • 八幡焼
  • 錦山焼
  • 月山鼓窯
  • 母里焼
  • 安来節人形
  • 民芸木工家具
  • 武者のぼり
  • 広瀬和紙
  • 安来米(安来どじょう米)
  • 尼子そば
  • ドジョウ
  • 安来和牛(安来牛(広瀬牛、伯太牛))

商業施設[編集]

ショッピングセンター[編集]

  • 安来ショッパーズ
  • 安来プラーナ
  • 広瀬ショッピングセンター

スーパーマーケット[編集]

家電量販店[編集]

コンビニエンスストア[編集]

ホームセンター[編集]

ドラッグストア[編集]

姉妹都市・提携都市[編集]

地域[編集]

人口[編集]

Demography32206.svg
安来市と全国の年齢別人口分布(2005年) 安来市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 安来市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
安来市(に該当する地域)の人口の推移
1970年 48,382人
1975年 48,800人
1980年 49,321人
1985年 49,616人
1990年 48,492人
1995年 46,934人
2000年 45,255人
2005年 43,839人
2010年 41,604人
総務省統計局 国勢調査より

教育[編集]

小学校[編集]

  • 安来市立十神小学校(とかみ)
  • 安来市立社日小学校(しゃにち)
  • 安来市立島田小学校(しまた)
  • 安来市立宇賀荘小学校(うかしょう)
  • 安来市立南小学校(みなみ)
  • 安来市立能義小学校(のき)
  • 安来市立飯梨小学校(いいなし)
  • 安来市立荒島小学校(あらしま)
  • 安来市立赤江小学校(あかえ)
  • 安来市立広瀬小学校(ひろせ)
  • 安来市立比田小学校(ひだ)
  • 安来市立山佐小学校(やまさ)
  • 安来市立布部小学校(ふべ)
  • 安来市立安田小学校(やすだ)
  • 安来市立母里小学校(もり)
  • 安来市立井尻小学校(いじり)
  • 安来市立赤屋小学校(あかや)

中学校[編集]

  • 安来市立第一中学校
  • 安来市立第二中学校
  • 安来市立第三中学校
  • 安来市立広瀬中学校
  • 安来市立伯太中学校

高等学校[編集]

専門学校[編集]

医療[編集]

  • 安来市立病院
  • 昌林会安来第一病院
  • 日立記念病院
  • 安来市医師会病院

交通[編集]

安来駅

鉄道[編集]

西日本旅客鉄道[編集]

道路[編集]

バス[編集]

道の駅[編集]

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]

観光[編集]

連続テレビ小説ゲゲゲの女房』の影響で、武良布枝の故郷に多くの観光客が訪れている。

博物館・美術館[編集]

温泉[編集]

名所・旧跡[編集]

寺院[編集]

  • 巌倉寺
  • 城安寺
  • 岩舟山印珠寺
  • 洞光寺
  • 西方寺

神社[編集]

  • 比婆山久米神社[2]
  • 能義神社(野木、野城とも)[3]
  • 意多伎神社
  • 支布佐神社
  • 安来神社(旧名 八雲神社)
  • 出雲路幸神社(弁慶伝説)
  • 山狭神社
  • 嘉羅久利神社
  • 都辨志呂神社
  • 金屋子神社(金屋子神を奉祀)
  • 磐船神社[4]
  • 比太神社
  • 布弁神社
  • 富田八幡宮
  • 田面神社(境内社;日御碕神社あり)
  • 縄久利神社
  • 志保美神社
  • 荒島八幡
  • 赤江八幡
  • 賀茂神社
  • 貴布禰神社
  • 川根神社
  • 塩津山神社
  • 須賀神社(スサノオの須賀の宮から命名された。)
  • 大塚大神宮
  • 住吉神社
  • 鹿島神社
  • 香取神社
  • 伊勢神社

城跡[編集]

古墳[編集]

  • 矢田古墳群
  • 岩舟古墳[8]
  • 宮山古墳群
  • 塩津山古墳群
  • 毘売塚古墳
  • 糺神社古墳群

祭・芸能[編集]

  • 月の輪神事
  • 広瀬祇園祭り
  • チューリップ祭り
  • 安来節

レジャー[編集]

  • 鷹入の滝(名水百選)
  • 社日公園(安来公園)
  • 太鼓壇公園
  • 十神山なぎさ公園
  • 母里チューリップ畑
  • 野だたらと椿の里
  • 上の台緑の村(日向尾根古墳)
  • 山佐ダムキャンプ場

出身人物[編集]

政治家[編集]

実業家[編集]

スポーツ[編集]

芸能人[編集]

歴史上の人物[編集]

その他[編集]

ゆかりの人物[編集]

その他[編集]

市外局番は、0854(20~39) となっている。但し、天気予報は0852-177である。(市外局番0854の地域が島根県東部と西部に複数存在するため。)

  • 0854(20~39) エリア
    • 安来電話交換所管轄(21,22,23)
    • 大塚電話交換所管轄(27)
    • 荒島電話交換所管轄(28)
    • 広瀬電話交換所管轄(32)
    • 比田電話交換所管轄(34)
    • 山佐電話交換所管轄(35)
    • 布部電話交換所管轄(36)
    • 伯太電話交換所管轄(37)
    • 赤屋電話交換所管轄(38)

郵便番号は以下の通りとなっている。2006年10月16日の再編に伴い、変更された。

  • 安来郵便局:692-00xx、692-85xx、692-86xx、692-87xx、692-02xx
  • 広瀬郵便局:692-04xx、692-06xx、692-07xx
  • 赤屋郵便局:692-03xx

脚注[編集]

  1. ^ 慣用的には安来は「ヤスギ」と発音されているが、風土記伝承から考えると古代においては「ヤスキ」と読まれていたとの指摘がある(関和彦著『出雲国風土記註論』 明石書店、1996)。
  2. ^ 別名熊野神社:『古事記』記載イザナミノミコト神陵地:関連神蹟 松江市東出雲町黄泉比良坂、揖夜神社
  3. ^ 出雲四大神の一つ、天穂日〔アメノホヒ〕命を祭る。
  4. ^ 日本一の陰陽石がある、スサノオノミコトが高天原から天磐船で降り立った地。
  5. ^ 古代出雲王陵の丘:出雲地方最大級の墳墓・古墳群。
  6. ^ 古墳時代前期の、全国最大級の大型方墳。
  7. ^ 四隅突出型墳丘墓。古墳時代以前の代表的な大型墳丘墓の一つで古墳時代を先取りした精巧なもので、ここ安来は四隅突出型墳丘墓の全国一の集積された地域とも位置付けられる。
  8. ^ 出雲地方の古墳文化の特徴の一つである石棺式石室、1948年(昭和23年)国の史跡に指定される。7世紀前半の築造。封土が失われているので明らかでないが、径十数メートルの円墳か。

外部リンク[編集]