宮崎駿
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宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )は、日本のアニメーション作家・映画監督・漫画家。出身は墨田区という説もある。学習院大学政治経済学部卒。血液型O型。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は二馬力で、主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、自身は代表取締役社長である。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 初期
宮崎駿は、一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男に生まれ、太平洋戦争中であっても何不自由なく幼年時代を過ごした[1]。
幼少時は身体が弱かった[2]ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『砂漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[3]、アニメーションにも関心を持つようになる。
学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志して漫画を描き続けていたが、漫画かアニメーションかを悩んだ末に、アニメーションの世界へ進む事を決断する[4]。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に入社した。
その後しばらくは東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[4]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。たちまち才能を現してメインスタッフとなると共に、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任する。激しい組合活動を行いながら高畑勲・森康二・大塚康生らと共に『太陽の王子ホルスの大冒険』を作り上げた。その後も、さまざまなスタジオで優れた作品を作り続けた。1971年にはTVアニメ、『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』を途中から演出の仕事を担当した。視聴率は芳しくなかったものの、宮崎は高畑・大塚とともにその後のルパンの基礎となる部分を作り上げた。(詳しくはルパンの項を参照)1974年にはTVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。主要スタッフとして1年半番組を引っ張った。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。
[編集] 未来少年コナンからナウシカまで
1978年、『未来少年コナン』(NHK)で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。演出を行いながら、キャラクターデザイン、メカデザイン、絵コンテ、レイアウトをこなし、脚本家が書いた脚本や他のコンテマンが作成した絵コンテ、作画にまで手を入れるという超人的な仕事量をこなした。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後にアニメーターやアニメ演出家となった者はかなり多い(未来少年コナン#本作の影響を参照)。
その後テレコム・アニメーションフィルムに移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。同作は業界関係者やコアなアニメファンからは熱狂的に支持を受ける。しかし、本来のルパンのイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』で最終回含め2話の制作に演出として携わっている。
テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。
『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫が、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼にもちかける。これが後に『風の谷のナウシカ』として開花する。企画は短編の筈だったが次第に拡大していった為、「原作付き企画」のハクをつけるべく『風の谷のナウシカ』の連載が始まる[5]。尾形の尽力によって、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[6]、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟って大ヒットとなり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[7]
[編集] スタジオジブリ発足
その後は徳間書店の出資を得て創設したスタジオジブリを舞台に、ほぼ2〜4年おきに長編作品を製作している。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を下支えすることができた。
ジブリ作品が興行的に成功し、また宮崎駿が国民的映像作家としての地位を確立したのは1989年公開の『魔女の宅急便』以降である。また、宮崎作品は今でこそ国際的にも高い評価を受けているが、欧米では1996年に徳間書店とディズニーが業務提携するまで本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたために、欧米諸国で知られるのは遅れた。それでも、日本アニメファン達は日本語版の宮崎アニメを見ることで宮崎駿の作品に接し、熱心なファン層が広がっていった。
1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。
2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。海外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。
2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネチア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様海外においても高く評価された。
2005年には、ヴェネチア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。
2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネチア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。
『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[8]。そして、その次回作は自分ではなく周りの意思によるものだろうと語っていた。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあるという[9]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[10][11]。
マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。
[編集] 略歴
- 1941年 1月5日東京都文京区生まれ。なお、同年生まれのアニメ監督には、りんたろう、芝山努、富野由悠季、鳥海永行がいる。杉並区立永福小学校、杉並区立大宮中学校、東京都立豊多摩高等学校卒。
- 1963年 学習院大学政治経済学部卒業。東映動画入社。なお、同年の政治経済学部卒業生には、麻生太郎(内閣総理大臣、自民党総裁)、高島肇久(現外務省参与、元NHK解説委員長)、三枝輝行(阪神百貨店相談役)、有薗憲一(ベスト電器社長)らがいる。
- 1964年 東映動画労働組合の第2代書記長に就任。なお、初代書記長は大塚康生。
- 1965年 同僚の太田朱美と結婚[12]。なお、式の司会は大塚康生。
- 1967年 長男(宮崎吾朗・(財)徳間記念アニメーション文化財団理事)誕生。
- 1970年 次男(宮崎敬介・木口木版画家)誕生。
- 1971年 高畑勲、小田部羊一と共にAプロダクション(現シンエイ動画)に移籍。
- 1973年 高畑勲、小田部羊一と共にズイヨー映像 (後に日本アニメーションに改組)に移籍。
- 1978年 『未来少年コナン』で演出家に転向。
- 1979年 東京ムービーの子会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。
- 1982年 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『リトル・ニモ』の準備に携わったが企画への疑問から製作から降り、11月22日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。
- 1984年 4月、個人事務所二馬力を設立。
- 1985年 スタジオジブリを設立。
- 1990年 東京都民文化栄誉章を受章。
- 1998年 スタジオジブリを退社し、「豚屋」を設立。第26回アニー賞・生涯功労賞、山路ふみ子文化賞、淀川長治賞を受賞。
- 1999年 スタジオジブリに所長として復帰。
- 2000年 第3回司馬遼太郎賞を受賞。
- 2001年 三鷹の森ジブリ美術館を創立し、初代館主に就任。第49回菊池寛賞を受賞。
- 2002年 朝日賞、フランス国家功労賞、パリ市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。
- 2003年 埼玉県民栄誉賞を受賞。『TIME』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。
- 2004年 12月、パリ造幣局美術館にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。
- 2005年 徳間書店より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回ベネチア国際映画祭・栄誉金獅子賞、国際交流基金賞を受賞。『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。
- 2006年 日本テレビ2階・マイスタ外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。
- 2008年 スタジオジブリ社内保育園『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都小金井市名誉市民に選出。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。
[編集] 作風
- 子供の視点
- 一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[13]。児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、悪役を大人にすることが多い。ただし、多くの作品は単純明快な勧善懲悪ものではなく、「悪役」もまた、重層的で複雑なキャラクターであることが多い。主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからだと話している。
- 宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて成長するにつれて、対象年齢を上げて作品を作っており[14]、息子が成長しきると今度は友人など子供を対象にして、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明していた[15]。常に子供が観客であった。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた[16]。
- エコロジカルな世界観
- 世界観の描き方から、メディアでは自然主義やエコロジーの視点で評価されることも多い。ただし宮崎はそれを好ましく思っていない。また多くの作品で空を舞うシーンが描かれることが多いが、宮崎もそれを意識している。観客に作品世界の空間の広がりを意識させるためだという。
- 脚本なしでの制作
- 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。
- 戦史・軍事マニア
- 戦史・軍事マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器・AFVに造詣が深い。作中で登場する兵器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としては『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。途中からタイトルは『妄想ノート』に変更され、現在は中断しているが趣味としては執筆している模様である。
- 声優の起用
- 主要なキャストの声の役にアニメ声優の起用を避ける傾向がある。ジブリでも『魔女の宅急便』以前はアニメ声優を中心に起用していたが、『紅の豚』以降は実写俳優や、洋画の吹替え声優、歌手、タレント、文化人などを主要な役柄に声優として起用することが増えている[17]、『もののけ姫』以降は、主役・準主役に、アニメ声優を本業とするものを起用することが減っており、俳優、女優を起用することが多い。この点に関して一部の実写俳優・タレントの演技力などについて否定的な意見がある。もっとも、近年の実写俳優、タレント起用に関しては、宮崎以外のジブリ作品も同様であり、興行的側面を優先するプロデューサーの鈴木敏夫の意向が強いとされている[18]。ただし今日では、日本やハリウッドで制作されるアニメーション映画の主要なキャストに実写俳優を起用することは普通のことになっており、スタジオジブリの制作上の際立った特徴であるとは言えなくなっている[19]。
- 作品名の共通点
- 監督を担当した長編アニメーション映画の作品名には、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョなど、どれも平仮名の「の」が含まれているのが特徴。ある国語学者によると、この手の物はヒットしやすいという[20]
- ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ聶記』を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない[21]。
- 手塚治虫の評価
- 1989年、手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーションに携わる人間の立場から、アニメーション作家としての手塚が日本のアニメーション史に残した影響に批判を加えた。特にテレビアニメーション草創期に、手塚が市場優位性を確立させるため、『鉄腕アトム』など自ら経営する虫プロダクションの制作番組を原価を割り込むほどの低価格で売り込んだことが、現在に至るまで日本のアニメーション製作費が極めて低く抑えられる要因となったとして批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚がアニメーション作家として自主制作していた作品に対しても否定的評価を下した[22]。
- 東映入社以来、映画アニメに携わっていた宮崎も低賃金、非人間的労働環境がまかり通っていたTVアニメの方に回され、そこから映画アニメ専門の世界に移るまでには長い期間を要した。
- 日本のアニメ界への危機感
- 2002年のベルリン映画祭金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューで「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語った。1985年2月号のアニメ雑誌『アニメージュ』の押井守、河森正治との対談で「どんづまり」、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見[23]でも「崖っぷち」と表現するなど、以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して、危機感を抱き続けており、スタジオジブリのスタジオ運営では月給制を取っていたこともあった。イギリスのBBCなど日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず海外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった[24]。なお、西島克彦が「アニメージュ」に載せた『プロジェクトA子』のコメントを取り上げて、「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言したのは、上記のうち1986年の会見でのことである。
[編集] 政治的・思想的スタンス
- 反戦
- 一貫して戦争の悲惨さ、愚かさを描き、『風の谷のナウシカ』以降は環境保全を主題とした作品を作り続け、湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明していた[要出典]。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛の方丈記私記をイメージしたものだという[25]。ただし『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などには、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。
- 思想的転向
- 大学時代から社会主義思想に傾倒するようになり、東映動画入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされた[26]。また昭和天皇の自然観に対して共感を示したこともある。
- 宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、作家の堀田善衛や司馬遼太郎らとの交流から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
- 本質的な思想的転向はないという見方
- 宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[27]と発言するなど、労働運動や革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。:更に2008年11月19日、ジョージ・オーウェル原作のアニメーション映画作品『動物農場』の日本公開に先立って行われたインタビューの中で宮崎は「いまこそ民主的な社会主義が見直されるべきではないか」と発言した[28]。こうした点から根本的な思想転向はないとする見方もある。
- 中尾佐助の思想
- 宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。
- ナショナリズムへの批判
- 閉塞感漂う日本の現状について尋ねられた際、「ナショナリズムからの解放」を主張するなど民族主義への批判を展開しており[29]、「世界の問題は多民族にある」とも語っている。最近では、問題になった新しい歴史教科書をつくる会の教科書を、「民族の『誇り』は、歴史を歪曲することで得られるものではない」と語ったことがある[要出典]。一方で司馬遼太郎や堀田善衛との鼎談で日本の被害国にもナショナリズムの行き過ぎが見られると批判しており[要出典]、コスモポリタン的な立場で各国の偏狭なナショナリズムを批判しているという主張もある[要出典]。
- 憲法九条
- 宮崎は憲法改定に関して9条の支持を表明[要出典]しているが、同時にもし国民が9条改定を選択したならそれを尊重するといった趣旨の発言もしており[要出典]、政治的リアリストとしての一面も持っている。
- 『もののけ姫』における歴史観
- 『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、らい病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。[30]もっとも、いわゆる「網野史観」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される。
- 「白人中心主義」について
- J・R・R・トールキンの作品『指輪物語』がピーター・ジャクソン監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「白人中心主義のアジア人差別映画」であると批判した[要出典]。
- 多神教優越主義
- 宮崎は常々多神教優越主義者として知られており、日本の『多神教』は『一神教』より寛容であると主張し、とりわけもののけ姫以降の作品には、多神教優越主義的なモチーフが用いられ、また自身も対談などで一神教を攻撃している。
[編集] 作品
[編集] 監督作品
[編集] 長編アニメーション映画
- 1979年 ルパン三世 カリオストロの城(脚本)
- (大藤信郎賞、第23回日本漫画家協会賞・大賞)
- (大藤信郎賞)
- (毎日映画コンクール・アニメーション映画賞)
- (毎日映画コンクール・アニメーション映画賞、アヌシー国際アニメーションフェスティバル・長編部門賞)
- (毎日映画コンクール日本映画大賞・大藤信郎賞、第2回アニメーション神戸・部門賞・演出部門、日本アカデミー賞・最優秀作品賞、第1回文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞)
- (毎日映画コンクール・日本映画大賞・監督賞・アニメーション映画賞、第5回文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞、第52回ベルリン国際映画祭・金熊賞、第68回ニューヨーク映画批評家協会・最優秀アニメ賞、ボストン映画批評家協会・特別賞、第30回アニー賞・長編アニメ映画賞・監督賞・脚本賞・音楽賞、第75回アカデミー賞・長編アニメーション映画賞)
- (第61回ベネチア国際映画祭・金のオゼッラ賞、第37回シッチェス・カタロニア国際映画祭・観客賞、第16回ザグレブ国際アニメーションフェスティバル・功労賞、第9回ハリウッド映画祭・ベストアニメーション賞、ニューヨーク映画批評家協会・最優秀アニメ賞、アメリカSFファンタジー作家協会 (SFWA) ・ネビュラ賞(脚本部門))
- (第8回ミンモ・ロテッラ財団賞、フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰、東京国際アニメフェア2009・第8回東京アニメアワード・アニメーションオブザイヤー・国内劇場部門優秀作品賞・原作賞・監督賞、第32回日本アカデミー賞・最優秀アニメーション作品賞、大藤信郎賞)
[編集] 短編アニメーション映画
- (大藤信郎賞)
- 2002年 コロの大さんぽ(原作・脚本)
- 2002年 めいとこねこバス(原作・脚本・トトロ役)
- 2002年 空想の空飛ぶ機械達(原作・脚本・ナレーション)
- 2006年 水グモもんもん(原作・脚本)
- 2006年 星をかった日(脚本)
- 2006年 やどさがし(原作・脚本)
[編集] テレビアニメーション
- 1971年 ルパン三世 (TV第1シリーズ)(第4話以降のAプロ演出グループ名義)
- 1978年 未来少年コナン
- 1980年 ルパン三世 (TV第2シリーズ)
- 第145話「死の翼アルバトロス」(照樹務名義)
- 第155話「さらば愛しきルパンよ」(照樹務名義)
- 1985年 名探偵ホームズ
- 第3話「小さなマーサの大事件!?」
- 第4話「ミセス・ハドソン人質事件」
- 第5話「青い紅玉」
- 第9話「海底の財宝」
- 第10話「ドーバー海峡の大空中戦!」
- 第11話「ねらわれた巨大貯金箱」
[編集] 参加作品
[編集] 劇場用アニメーション映画
- 1965年 ガリバーの宇宙旅行(動画・原画)
- 1968年 太陽の王子ホルスの大冒険 (場面設計・原画)
- 1969年 長靴をはいた猫(原画)
- 1969年 空飛ぶゆうれい船(原画)
- 1971年 どうぶつ宝島(アイデア構成・原画)
- 1972年 パンダコパンダ(原案・脚本・場面設定・原画)
- 1973年 パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻(脚本・美術設定・画面構成・原画)
- 1977年 草原の子テングリ(画面レイアウト(部分))(ノンクレジット)
- 1991年 おもひでぽろぽろ(製作プロデュース)
- 1994年 平成狸合戦ぽんぽこ(企画)
- 1995年 耳をすませば(脚本・絵コンテ・制作プロデュース。一部演出も)
- 2002年 猫の恩返し(企画)
- 2006年 ゲド戦記(原案)
[編集] テレビアニメーション
- 1969年 ひみつのアッコちゃん(原画)
- 1972年 赤胴鈴之助(26、27、41話の絵コンテ)
- 1973年 侍ジャイアンツ(原画)
- 1973年 ジャングル黒べえ(キャラクター原案)
- 1974年 アルプスの少女ハイジ(場面設定・画面構成)
- 1975年 フランダースの犬(15話作画)
- 1976年 母を訪ねて三千里(場面設定・画面構成)
- 1977年 あらいぐまラスカル(原画)
- 1979年 赤毛のアン(場面設定・画面構成)(1〜15話まで)
[編集] 実写作品
- 2002年 オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(出演)
[編集] その他の作品
[編集] 漫画・絵物語など
- 長靴をはいた猫
- 砂漠の民(秋津三朗名義)
- どうぶつ宝島
- 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収録)
- 風の谷のナウシカ(全7巻)
- 宮崎駿イメージボード集
- シュナの旅
- 走れ二馬力、風より疾く(NAVI1989年12月号に収録)
- 空中でお食事(JALWINDS1994年6月号に収録)
- 「風の谷のナウシカ」-宮崎駿水彩画集
- 宮崎駿の雑想ノート
- 知られざる巨人の末弟
- 甲鉄の意気地
- 多砲塔の出番
- 農夫の眼
- 竜の甲鉄
- 九州上空の重轟炸機
- 高射砲塔
- Q.ship
- 特設空母安松丸物語
- ロンドン上空1918年
- 最貧前線
- 飛行艇時代
- 豚の虎
- 宮崎駿の妄想ノート
- ハンスの帰還
- 泥まみれの虎
- 『ブラッカムの爆撃機』 ロバート・ウェストール・作、宮崎駿・編、金原瑞人訳 (児童書) 岩波書店 2006年10月 ISBN 4-00-024632-1
- 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加えて、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併録。
- 『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作 金原瑞人、野沢佳織訳、岩波書店、2009年3月
- ※続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語
[編集] デザインワーク
- TVCM『日立マクセル・ニューゴールド・ビデオテープ』の「ワンダーシップ号」
- TVCM『日立パソコンH2』の「ポシェット竜」
- 実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
- 日本テレビ放送網のシンボルキャラクター「なんだろう」
- 神奈川県「かながわ・ゆめ国体」のマスコットキャラクター「かなべえ」
- 三鷹の森ジブリ美術館
- 三鷹市のみたかモールのマスコットキャラクター「POKI」
- 江戸東京たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる」
- 読売新聞のシンボルキャラクター「どれどれ」
- 中日ドラゴンズ公式ファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ」
- 日本テレビ社屋外壁の大からくり時計「日テレ大時計」
- 広島県福山市鞆町の坂本竜馬のゆかりの宿「御舟宿いろは」
- 小金井市のイメージキャラクター「こきんちゃん」
[編集] 作詞
- 『君をのせて』(『天空の城ラピュタ』挿入歌)
- 『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
- 『となりのトトロ』(『となりのトトロ』エンディング)
- 『カントリー・ロード』(日本語訳詞の補作)(『耳をすませば』エンディング)
- 『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
- 『もののけ姫』(『もののけ姫』主題歌)
- 『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
- 『神々さま』
- 『油屋』
- 『さみしい さみしい』
- 『白い竜』
- 『お母さんの写真』(CMソング)
- 『崖の上のポニョ』イメージアルバム
- 『崖の上のポニョ』(補作詞)(『崖の上のポニョ』主題歌)
- 『いもうと達』
- 『ポニョの子守唄』
- 『ひまわりの家の輪舞曲』
[編集] 著書(対談・インタビューなど)
- 『トトロの住む家』(画文集)朝日新聞社
- 『時代の風音』(司馬遼太郎、堀田善衛との鼎談集)朝日文芸文庫
- 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(黒澤明との対談集) スタジオジブリ
- 『時には昔の話を』(加藤登紀子との共著、絵本、対談)徳間書店
- 『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著)講談社カルチャーブックス
- 『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集)徳間書店
- 『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集)岩波書店
- 『教育について』(共著、インタビュー集)旬報社
- 『虫眼とアニ眼』(養老孟司との対談集)新潮文庫
- 『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン
[編集] カバー・イラスト
- 『惑星カレスの魔女』(ジェイムズ・ヘンリー・シュミッツ著、新潮文庫、創元推理文庫)
- 『夜間飛行』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、新潮文庫)
- 『人間の土地』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、新潮文庫)
- 『チェスタトンの1984年/新ナポレオン奇譚』(ギルバート・ケイス・チェスタートン著、春秋社)
[編集] 絵コンテ集
[編集] 劇場用アニメーション映画
- パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
- ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
- 風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)
- 天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)
- となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3 (徳間書店)
- 魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)
- 紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
- 耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
- もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
- 千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
- ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)
- 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)
- これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。
[編集] テレビアニメーション
- ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
- 名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
- 名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
[編集] 幻の作品一覧
宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。
- 長くつ下のピッピ
- 1971年ころ、アストリッド・リンドグレーン原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『パンダコパンダ』や『魔女の宅急便』で活かされている。
- ユキの太陽
- ちばてつやの漫画。パイロットフィルムのみ製作された。
- もののけ姫
- 1980年ころ、『美女と野獣』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
- ルパンの娘
- 1981年ころ、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
- ロルフ
- 1981年ころ、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ』の原型とも言える作品。
- 戦国魔城
- 1981年ころ。日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここでナウシカやラピュタへ繋がる設定が多く生み出された。
- NEMO
- 1981-1982年、ウィンザー・マッケイ原作の『リトル・ニモ』の企画にテレコム・アニメーションフィルムのスタッフとして当初からかかわって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
- 風の谷の一日
- 1983年ころ、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
- アンカー
- 1980年代半ば、夢枕獏との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守、プロデューサー高畑勲で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想は、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険もの。舞台は当時の東京。しかし、宮崎と押井の意見が対立し、企画は消滅した。「押井守の世界 2008年2月16日」より。
- 突撃!アイアンポーク
- 1985年ころ、「宮崎駿の雑想ノート」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
- 大東京物語
- ふくやまけいこの漫画。後に現代には合わないと判断している。
- 墨攻
- 古代中国が舞台の酒見賢一原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
- 東京汚穢合戦
- 宮崎が1997年、NHK番組『トップランナー』に出演した時に語ったもの。
- ゴチャガチャ通りのリナ
- 柏葉幸子原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』
- 煙突描きのリン
- 震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館でそのプロットが見られる。この物語のために作られた木村弓の『いつも何度でも』が、後に『千と千尋の神隠し』の主題歌となった。
- 毛虫のボロ
- 長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。「もののけ姫」の前にボツになったが、後に『水グモもんもん』として実現した。
- 旅のラゴス
- 筒井康隆原作のSFファンタジー小説
- ジョナサンと宇宙クジラ
- ロバート・F・ヤングのSF小説
- 名探偵芥川龍之介対夏目漱石
- 明治の文豪が出てくる探偵モノ。
[編集] 脚注
- ^ 会社が中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、疎開先の宇都宮が空襲を受け、親類の運転するトラックで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走りだした。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))
- ^ 医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
- ^ 宮崎駿「日本のアニメーションについて」『日本映画の現在』岩波書店、1988年。宮崎駿『出発点 1979~1996』徳間書店、1996年にも所収
- ^ a b 『THIS IS ANIMATION 1』小学館(1982年)。この時期、何本かの社会派の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「時代物は扱っていない」と編集者に門前払いされている。
- ^ 漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の1994年に完結。アニメ版の結末の思想を、自ら否定するような内容となった。
- ^ 尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年
- ^ 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
- ^ 監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日
- ^ 第65回ヴェネツィア国際映画祭 記者会見時のインタビュー
- ^ (東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日)
- ^ 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日)
- ^ なお、妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。
- ^ 富沢洋子編『また、会えたね!』アニメージュ文庫 徳間書店、1983年
- ^ 宮崎駿『出発点 1979~1996』岩波書店、1996年、pp.83,88
- ^ 「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド』ニュータイプ編、角川書店、2001年、p.35
- ^ 宮崎駿『出発点 1979~1996』岩波書店、1996年、p.123
- ^ 『天空の城ラピュタ』でも主人公の少年パズー役に実際の少年を起用しようとしたといい、実写俳優の採用は早くから検討されていた。『天空の城ラピュタ』でパズー役の田中真弓などプロの成人女性声優を起用したのは演技力の問題であったという(『アニメージュ』徳間書店、1986年8月号)。
- ^ 宮崎も、海外メディアとのインタビューの中で「我々が欲しいのはコケティッシュな声ではない」という旨を述べている[1]。また2008年のヴェネツィア国際映画祭では、「アニメとかじゃなく、映画を作っていると思ってます。」と語っている。
- ^ なお、虫プロダクションで1969年に製作された「千夜一夜物語」を皮切りとする「アニメラマ」シリーズで、話題性を重視して文化人やコメディアンを中心にキャストを起用しており、ジブリアニメが非声優中心のキャスティングの先駆けというわけではない。
- ^ 世界一受けたい授業より。
- ^ 鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波新書、2008年、p.86
- ^ 「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」「コミックボックス」ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979~1996』に所収)。
- ^ 『コミックボックス』に全録、『月刊OUT』みのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。
- ^ 「アニメージュ」2002年5月号において、宮崎の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮崎駿の仕事 1979~2004』(鳥影社、2004年)では宮崎発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮崎発言を論じる。
- ^ 『NEWS ZERO』(日本テレビ系)ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)
- ^ これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては久美薫『宮崎駿の仕事 1979~2004』(鳥影社、2004年)、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている
- ^ 「動物農場を語る 宮崎駿インタビュー」 映画『動物農場』公式サイト
- ^ 「動物農場を語る 宮崎駿インタビュー」 映画『動物農場』公式サイト
- ^ 「宮崎駿監督、映画哲学を語る」
- ^ 網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』(岩波書店、2003年)p.31 - 34
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
[編集] 関連書籍
- 高畑勲
- 『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)(ISBN 4-19-554639-7)
- 『映画を作りながら考えたこと2』(徳間書店、1999年)(ISBN 4-19-861047-9)
- 大塚康生
- 『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店、2001年)(ISBN 4-19-861361-3)
- 『リトル・ニモの野望』(徳間書店、2004年)(ISBN 4-19-861890-9)
- 大泉実成『宮崎駿の原点 母と子の物語』(潮出版社、2002年)(ISBN 4-267-01653-4)
- 尾形英夫『あの旗を撃て!「アニメージュ」血風録』(オークラ出版、2004年)(ISBN 4-7755-0480-0)
- 鈴木敏夫
- 『映画道楽』(ぴあ、2005年)(ISBN 4-8356-1540-9)
- 『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(岩波新書、2008年)(ISBN 4004311438)
- 叶精二『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)(ISBN 4845906872)
- 久美薫 『宮崎駿の時代 1941~2008』(鳥影社 2008年)
[編集] 関連DVD
- 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2001年)
- 『柳川堀割物語』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
- 『ラセターさんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
- 『世界・わが心の旅 (2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
- 『宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
- 『宮崎駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)
[編集] 外部リンク
- スタジオジブリ
- The Internet Movie Database: Hayao Miyazaki (英語)
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