宮崎駿

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みやざき はやお
宮﨑 駿
宮﨑 駿
2008年8月31日ヴェネツィア国際映画祭にて
別名義 秋津 三朗(あきつ さぶろう)
照樹 務(てるき つとむ 又は てれこむ)
生年月日 1941年1月5日(73歳)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市
国籍 日本の旗 日本
血液型 O型[1]
職業 映画監督
アニメーション作家
漫画家
ジャンル 映画テレビアニメ
活動期間 1963年 -
配偶者 宮﨑朱美
著名な家族 宮﨑吾朗長男
宮﨑敬介二男
事務所 スタジオジブリ
公式サイト スタジオジブリ
主な作品
アニメーション映画
パンダコパンダ』(原案脚本
ルパン三世 カリオストロの城』(脚本・監督
風の谷のナウシカ』(原作・脚本・監督)
天空の城ラピュタ』(原作・脚本・監督)
となりのトトロ』(原作・脚本・監督)
魔女の宅急便』(脚本・プロデュース・監督)
紅の豚』(原作・脚本・監督)
もののけ姫』(原作・脚本・監督)
千と千尋の神隠し』(原作・脚本・監督)
ハウルの動く城』(脚本・監督)
崖の上のポニョ』(原作・脚本・監督)
風立ちぬ』(原作・脚本・監督)

実写映画
柳川堀割物語』(製作


テレビアニメ
未来少年コナン』(演出


漫画
風の谷のナウシカ』(作)
宮崎駿の雑想ノート』(作)
風立ちぬ』(作)


絵物語
シュナの旅』(作)
もののけ姫』(作)


小説
天空の城ラピュタ』(原作・


音楽
君をのせて』(作詞
となりのトトロ』(作詞)
もののけ姫』(作詞)
崖の上のポニョ』(補作詞)

宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年昭和16年〉1月5日 - )は、日本映画監督アニメーター漫画家。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。株式会社スタジオジブリ取締役公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長三鷹市立アニメーション美術館館主。愛煙家

概要[編集]

東京府東京市出身(出生地は現在の墨田区文京区という説もある)。学習院大学政経学部卒。埼玉県所沢市在住。東京都小金井市三鷹市名誉市民。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は株式会社二馬力で、主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていた。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

宮崎駿は、一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた[2]。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。

幼少時は身体が弱かった[3]ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫杉浦茂の漫画、特に福島鉄次絵物語沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[4]アニメーションにも関心を持つようになる。

学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが[5]、漫画かアニメーションかを悩んだ末、アニメーションの世界へ進む事を決断する[6]

アニメ会社への入社[編集]

学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社[7]、入社後、動画などを手がける。

その後、しばらくは東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[8]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。たちまち才能を現してメインスタッフとなると共に、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。激しい組合活動を行いながら高畑勲森康二大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。

1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社、新企画「長靴下のピッピ」を制作するためにAプロダクションに移籍したが、版権の問題で立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ、『ルパン三世』を途中から演出の仕事を引き受けることになった。大きく視聴率は回復しなかったものの、宮崎は高畑・大塚とともにその後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくはルパンの項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。

高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。主要スタッフとして1年半番組を引っ張った。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。

未来少年コナンからナウシカまで[編集]

1978年、『未来少年コナン』(NHK)で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナル・スケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした[9]。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後にアニメーターやアニメ演出家となった者はかなり多い(未来少年コナン#本作の影響を参照)。

その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為テレコム・アニメーションフィルム東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた[10][11] [12]。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。

テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。が、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる[13]。さらに自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[14]、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[15]

スタジオジブリ発足から長編監督引退まで[編集]

その後は1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを創立した。ほぼ2-4年おきに長編作品を製作している。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。

ジブリ作品が興行的に成功し、また宮崎駿が国民的映像作家としての地位を確立したのは、1989年の邦画興行成績1位を獲得した『魔女の宅急便』以降である。宮崎本人は「カリオストロ」、「ナウシカ」、「ラピュタ」、「トトロ」という元からやりたかったものを全て作り終えてしまったこともありやる気ではなかったが、鈴木プロデューサーが当時にスポンサーとしてクロネコヤマトのヤマト運輸を起用して、作らざるを得ない状況を作った。この大ヒットにより宮崎はジブリの労働環境を整えるため社員化を決定。後にこの段階で解散するのも一つの手だったと振り返っている。また、宮崎作品は今でこそ国際的にも高い評価を受けているが、欧米では1996年に徳間書店とディズニーが業務提携するまで本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたために、欧米諸国で知られるのは遅れた。それでも、日本アニメファン達は日本語版の宮崎アニメを見ることで宮崎駿の作品に接し、熱心なファン層が広がっていった。

1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、引退してシニアジブリを立ち上げると発言し、実際に二馬力を立ち上げているが、翌年に引退宣言は撤回した。

2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞 を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。

2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。

2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネツィア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[16]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[17][18]。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した[19]。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという[20]。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化勲章に次ぐ栄誉である文化功労者に選ばれた。

2013年に、自身の『同名漫画』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表[21]

上記の通り何度かの引退宣言と現役復帰を繰り返しているが、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは2003年のインタビューにおいて「毎回、全身全霊を打ち込むから、そうなってしまうのですよ」「本人には、だます気などさらさらない」と説明している[22]

同年、戦国時代を舞台にした漫画を執筆中と報じられた。『月刊モデルグラフィックス』誌上で連載予定だが時期は未定[23]

2014年、三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた[24]。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる[25]モーリン・オハラに会えたことに感動した[26]

同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。

略歴[編集]

作風[編集]

子供の視点
一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[28]児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、悪役を大人にすることが多い。ただし宮崎作品では悪役もまた、多くの場合重層的で複雑なキャラクターであり、どこかしら憎めない存在として描かれる[29]。さらに、『千と千尋の神隠し』以降の作品ではそうした悪役が登場することもなくなっている。主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて悲観的な物語にしかならないとも語っている。
宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り[30]、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している[31]。常に子供が観客であった。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた[32]。最も本人の趣味が反映された『紅の豚』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から開放されたと述べている[33]
エコロジカルな世界観
世界観の描き方から、メディアではエコロジーの視点で評価されることが多い。ただし宮崎はそれを好ましく思っていない。また多くの作品で空を舞うシーンが描かれることが多いが、宮崎もそれを意識している。観客に作品世界の空間の広がりを意識させるためだという。
脚本なしでの制作
制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。
軍事マニア
戦史兵器マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両軍用機など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている[34]。現在はモデルグラフィックス誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日を描く『風立ちぬ』を2009年4月号より連載しているほか、一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した、戦史家梅本弘(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている[35]。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。
声優の起用方針
主要なキャストに職業声優の起用を避ける傾向がある。例えば、ジブリでも『魔女の宅急便』以前は職業声優を中心に起用していたが、『紅の豚』以降は実写俳優や、洋画の吹替え声優、歌手、タレント、文化人などを主要な役柄に声優として起用することが増えている[36]。『もののけ姫』以降は、主役・準主役に、声優を本業とするものを起用することが減っており、俳優女優を起用することが多い。
これに関して宮崎は、外国メディアからのインタビューの中で「日本の女性声優はコケティッシュな声の持ち主しかいないし、男性的な視点が欠けている。我々は全く必要としていない」と述べている[37]。また2008年ヴェネツィア国際映画祭では、「アニメとかじゃなく、映画を作っていると思ってます。」と語っている。
これについては宮崎が初期に関わった東映動画作品(「太陽の王子 ホルスの大冒険」等)や日本のテレビアニメでも、舞台や映画の俳優が多く出演している事でも分かるように、アニメーション映画の声の配役に舞台や映画などの俳優を起用することは元々変わったことではない。かつては歌手や映画演劇、タレント志望者の副業として、あるいは多くの仕事の一つであるのが普通で、アニメ専門の声優の存在の方が元々は珍しいことであった。
作品名の共通点
監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋神隠し、崖の上ポニョなど、平仮名の「」が含まれている[38]
ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカせっ記[39]』を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない[40]
作風の変化
作品には常に新しい試みを盛り込み、「昔のような作品を見たいなら、昔のやつを見てればいい。同じものを作って何の意味がある?」という旨の発言を度々行っている。特に『千と千尋の神隠し』以降からは劇的に作風が変化し、ストーリーの一貫性を放棄したとも見えるプロットを用いている。彼自身も『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕はもう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。

アニメ界への意見[編集]

日本のアニメ界への危機感
以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けていおり、1985年2月号のアニメ雑誌『アニメージュ』の押井守河森正治との対談で「どんづまり」、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見[41]で「崖っぷち」、(西島克彦が『アニメージュ』に載せた『プロジェクトA子』のコメントを取り上げて)「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言していた。2002年のベルリン映画祭金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューでは「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリスのBBCなど、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず日本国外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった[42]
手塚治虫の評価
1989年手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した[43]
それ以降は、手塚について語る事は殆ど無かったが、2009年に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた[44]
ディズニーの評価
前述の手塚治虫に対する批判の1年程前にディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」[45]。その一方で、近年は賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている[46]

政治的・思想的スタンス[編集]

反戦[編集]

一貫して戦争の悲惨さ、愚かさを描き、湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明していた[47]。また『紅の豚』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという[48]。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛の方丈記私記をイメージしたものだという[49]。ただし『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などには、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。
最新作の「風立ちぬ」では、「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として二郎を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」と発言している[50]
また「二郎を祭り上げる動き」に関しては、「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」と発言している[51]
「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」[52]
日本が第二次世界大戦に参加したことについては、子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたとスタジオジブリ出版の小冊子『烈風』の寄稿文で述べている[53][54]
このほか、
「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって「最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?」と言うのもおかしい」
「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです」
「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている[53][54]

憲法[編集]

憲法改正についての見解をスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正」で示した。この中で「憲法を変えるなどもってのほか」という題の寄稿文で宮崎は憲法改正に反対の立場であることを闡明にした[53][54]
寄稿文の中で憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。
具体的に言及している条文には96条と9条とがある。
96条については「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためにはちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。
9条については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないからすぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。
また、同寄稿文においては、自衛隊の活動について触れており、災害時の活動については「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」と評価、海外派遣の活動では「イラクに行かざるを得なくなっても、一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました。僕は立派だったと思います。」という評価をしている[55]

社会主義に対する考え[編集]

東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書[56]で述べている。実際に入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされたとする向きもある[57]
宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の堀田善衛司馬遼太郎らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
しかし、これに対しては別の見方もある。宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[58]と発言するなど、労働運動革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。またインタビューでマルクス主義について問われた際、「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言をしている[59]

サン=テグジュペリの思想[編集]

フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。後述のNHKのテレビ番組の中でははっきりと「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。NHK『世界わが心の旅』(1998年放送分)の企画でサン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。

中尾佐助の思想[編集]

宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。

ナショナリズムへの批判[編集]

閉塞感漂う日本の現状について尋ねられた際、「ナショナリズムからの解放」を主張するなど民族主義への批判を展開しており[60]、「世界の問題は多民族にある」とも語っている。

『もののけ姫』における歴史観[編集]

『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、網野善彦中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する[61]。もっとも、いわゆる「網野史観」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される(ただし、蒸気機関等の動力が存在しない環境で周囲を禿山にした踏鞴場を維持し続けることは不可能で、資源の採取が困難になれば踏鞴場の移転もありうる。物語の都合上割愛されているわけだが、この点をもって網野の世界と対立するとは言い切れない)。

欧米世界への批判[編集]

J・R・R・トールキンの作品『指輪物語』がピーター・ジャクソン監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った[62]。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争での誤爆と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した[63]

反原発[編集]

スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫河野太郎大西健丞川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[64]。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている[65][66]

作品[編集]

長編映画[編集]

公開年 作品名 制作(配給) 役職
1963年 12月21日 わんわん忠臣蔵 東映動画
東映
動画
1965年 3月20日 ガリバーの宇宙旅行 原画
動画
ラストの演出
1968年 7月21日 太陽の王子ホルスの大冒険 場面設計
原画
1969年 3月18日 長靴をはいた猫 原画
7月20日 空飛ぶゆうれい船 原画
1971年 3月20日 どうぶつ宝島 アイデア構成
原画
7月18日 アリババと40匹の盗賊 原画
1972年 12月17日 パンダコパンダ 東京ムービー
東宝
原案
脚本
場面設定
原画
1973年 3月17日 パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 脚本
美術設定
画面構成
原画
1979年 12月15日 ルパン三世 カリオストロの城 東京ムービー新社
(東宝)
脚本(山崎晴哉と共同)
監督
1984年 3月11日 風の谷のナウシカ 徳間書店
博報堂
トップクラフト
(東映)
原作
脚本
監督
1986年 8月2日 天空の城ラピュタ 徳間書店
スタジオジブリ
(東映)
原作
脚本
監督
EDテーマ『君をのせて』作詞
1987年 8月15日 柳川堀割物語 二馬力 製作
1988年 4月16日 となりのトトロ 徳間書店
スタジオジブリ
(東宝)
原作
脚本
監督
EDテーマ『となりのトトロ』作詞
1989年 7月29日 魔女の宅急便 徳間書店
ヤマト運輸
日テレ
スタジオジブリ
(東映)
プロデューサー
脚本
絵コンテ(近藤喜文と共同)
監督
1991年 7月20日 おもひでぽろぽろ 徳間書店
日テレ
博報堂
スタジオジブリ
(東宝)
製作プロデューサー
1992年 7月18日 紅の豚 徳間書店
JAL
日テレ
スタジオジブリ
(東宝)
原作
脚本
監督
1994年 7月16日 平成狸合戦ぽんぽこ 徳間書店
日テレ
博報堂
スタジオジブリ
(東宝)
企画
1995年 7月15日 耳をすませば 製作プロデューサー
脚本
絵コンテ(近藤喜文と共同)
EDテーマ『カントリー・ロード』補作詞
On Your Mark〜ジブリ実験劇場 原作
脚本
監督
1997年 7月12日 もののけ姫 徳間書店
日テレ
電通
スタジオジブリ
(東宝)
原作
脚本
監督
主題歌『もののけ姫』作詞
1999年 7月17日 ホーホケキョ となりの山田くん 徳間書店
スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
博報堂
松竹
制作
2001年 7月20日 千と千尋の神隠し 徳間書店
スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
東北新社
三菱商事
(東宝)
原作
脚本
監督
2002年 7月20日 猫の恩返し 徳間書店
スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
博報堂
三菱商事
(東宝)
企画
2004年 11月20日 ハウルの動く城 徳間書店
スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
三菱商事
(東宝)
企画
脚本
監督
2006年 7月29日 ゲド戦記 スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
博報堂DYメディアパートナーズ
三菱商事
(東宝)
原案
2008年 7月19日 崖の上のポニョ 原作
脚本
監督
OPテーマ『海のおかあさん』作詞(共同)
EDテーマ『崖の上のポニョ』補作詞
2010年 6月18日 トイ・ストーリー3 ピクサー・アニメーション・スタジオ スペシャルサンクス
7月17日 借りぐらしのアリエッティ スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
博報堂DYメディアパートナーズ
三菱商事
ワイルドバンチ
(東宝)
企画
脚本
美術設定
2011年 7月16日 コクリコ坂から スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
博報堂DYメディアパートナーズ
三菱商事
(東宝)
企画
脚本
2013年 7月20日 風立ちぬ スタジオジブリ
ウォルト・ディズニー・カンパニー
日テレ
電通
博報堂DYメディアパートナーズ
三菱商事
KDDI
(東宝)
原作
脚本
監督

短編映画[編集]

公開年月日 作品名 制作(配給) 役職
1977年4月23日 草原の子テングリ 雪印乳業
桜映画社
シンエイ動画
レイアウト
2001年10月1日 フィルムぐるぐる スタジオジブリ 絵コンテ、監督
くじらとり 脚本、監督
2002年10月2日 空想の機械達の中の破壊の発明 企画
2002年 コロの大さんぽ 原作、脚本、監督
2002年 めいとこねこバス 原作、脚本、監督、トトロ役
2002年 空想の空飛ぶ機械達 原作、脚本、監督、ナレーション
2006年1月3日 水グモもんもん 原作、脚本、監督
やどさがし
2006年 星をかった日 脚本、監督
2010年 パン種とタマゴ姫 原作、脚本、監督
2010年1月3日 ちゅうずもう 企画、脚本
2011年 たからさがし 企画、構成

テレビ[編集]

期間 番組名 制作(放送局) 役職 放送タイトル
1964年6月7日 1965年8月31日 少年忍者風のフジ丸 テレビ朝日
東映アニメーション
原画(手伝い)
1966年4月23日 1967年3月24日 レインボー戦隊ロビン
1969年1月6日 1970年10月26日 ひみつのアッコちゃん
1969年10月5日 1970年12月27日 ムーミン フジテレビ
瑞鷹
シンエイ動画
トムス・エンタテインメント
原画 第23話
1971年10月24日 1972年3月26日 ルパン三世 よみうりテレビ
トムス・エンタテインメント
演出(高畑勲と共同) 第4話以降
原画 第9話「殺し屋はブルースを歌う」
第14話「エメラルドの秘密」
第15話「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」
第16話「宝石横取り作戦」
第17話「罠にかかったルパン」
第18話「美人コンテストをマークせよ」
第19話「どっちが勝つか三代目」
第21話「ジャジャ馬娘を助けだせ!」
第23話「黄金の大勝負!」
1972年4月5日 1973年3月28日 赤胴鈴之助 フジテレビ
トムス・エンタテインメント
絵コンテ 第26話「やったぞ!赤胴真空斬り」
第27話「大暴れ!真空斬り」
第41話「キリシタンの秘宝」
1973年3月2日 1973年9月28日 ジャングル黒べえ 毎日放送
トムス・エンタテインメント
キャラクター原案 全話
1973年10月7日 1974年9月29日 侍ジャイアンツ よみうりテレビ
トムス・エンタテインメント
原画 第1話「ほえろ!バンババン」
1974年1月6日 1974年12月29日 アルプスの少女ハイジ フジテレビ
瑞鷹
場面設定
画面構成
全話
1975年1月5日 1975年12月28日 フランダースの犬 フジテレビ
瑞鷹
日本アニメーション
原画 第15話「古い帳簿」
1976年1月4日 1976年12月26日 母をたずねて三千里 フジテレビ
日本アニメーション
場面設定
レイアウト
全話
原画 第2話「ジェノバの少年マルコ」
1977年1月2日 1977年12月25日 あらいぐまラスカル 第4話「ミルウォーキーのお月さま」
第5話「オスカーへの贈り物」
第6話「さようならスカンクたち」
第10話「はじめての探検」
第12話「本と1セント銅貨」
第13話「夏休みの第一日」
第14話「母のない子」
第15話「アリスと友達になれたらなあ」
第16話「楽しいパーティの夜」
第17話「ラスカルの冒険」
第18話「森で会った不思議な青年」
第19話「ラスカルとトウモロコシ」
第20話「スターリングの悲しみ」
第21話「あぶないラスカル」
第22話「森と湖と動物たち」
第24話「走れ走れぼくらのカヌー」
第25話「森で見つけた仔鹿」
第26話「森と湖の夏まつり」
第28話「檻の中」
1977年10月3日 1980年10月6日 ルパン三世 日テレ
トムス・エンタテインメント
脚本
絵コンテ
演出
第145話「死の翼アルバトロス
第155話「さらば愛しきルパンよ
1978年4月4日 1978年10月31日 未来少年コナン NHK
日本アニメーション
キャラクターデザイン
メカニックデザイン
場面設定
演出
監督
全話
絵コンテ 第1話「のこされ島」
第2話「旅立ち」
第3話「はじめての仲間」
第4話「バラクーダ号」
第8話「逃亡」
第15話「荒地」
第16話「二人の小屋」
第17話「戦闘」
第18話「ガンボート」
第19話「大津波」
第22話「救出」
第23話「太陽塔」
第24話「ギガント」
第25話「インダストリアの最期」
第26話「大団円」
1979年1月7日 1979年12月30日 赤毛のアン フジテレビ
日本アニメーション
場面設定
画面構成
第1話「マシュウ・カスバート驚く」
第2話「マリラ・カスバート驚く」
第3話「グリーン・ゲイブルズの朝」
第4話「アン・生立ちを語る」
第5話「マリラ決心する」
第6話「グリーン・ゲイブルズのアン」
第7話「レイチェル夫人恐れをなす」
第8話「アン日曜学校へ行く」
第9話「おごそかな誓い」
第10話「アン・心の友と遊ぶ」
第11話「マリラ・ブローチをなくす」
第12話「アン・告白をする」
第13話「アン・学校へ行く」
第14話「教室騒動」
第15話「秋の訪れ」
1980年10月3日 1981年9月25日 太陽の使者 鉄人28号 日テレ
トムス・エンタテインメント
原画(Aパート担当) 第8話「恐怖の殺人合体ロボ」
1984年11月6日 1985年5月20日 名探偵ホームズ テレビ朝日
トムス・エンタテインメント
RAI
REVER
脚本 第3話「小さなマーサの大事件!?」
絵コンテ
演出
第3話「小さなマーサの大事件!?」
第4話「ミセス・ハドソン人質事件」
第5話「青い紅玉」
第9話「海底の財宝」
第10話「ドーバー海峡の大空中戦!」
監督 第3話「小さなマーサの大事件!?」
第5話「青い紅玉」
第9話「海底の財宝」
第11話「ねらわれた巨大貯金箱」

実写作品[編集]

その他の作品[編集]

漫画・絵物語・イメージボードなど[編集]

  • 長靴をはいた猫
  • 砂漠の民(秋津三朗名義)
  • どうぶつ宝島 ※以上は初期作品
  • 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む)
  • 風の谷のナウシカ(全7巻)、※第23回日本漫画家協会賞・大賞作品
  • シュナの旅 徳間書店アニメージュ文庫(原話は、君島久子の書いたチベットの民話「犬になった王子」、岩波書店
  • 駆けろ二馬力 風より疾く(『NAVI』1989年12月号、『CAR GRAPHIC』2010年8月号、各二玄社
  • 空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む)
  • 「風の谷のナウシカ-宮崎駿水彩画集」 徳間書店
  • もののけ姫
  • 飛行艇時代 「紅の豚」原作 大日本絵画 1992年、新装版2004年
  • 宮崎駿の雑想ノート 大日本絵画 1997年
    • 知られざる巨人の末弟
    • 甲鉄の意気地
    • 多砲塔の出番
    • 農夫の眼
    • 竜の甲鉄
    • 九州上空の重轟炸機
    • 高射砲塔
    • Q.ship
    • 特設空母安松丸物語
    • ロンドン上空1918年
    • 最貧前線
    • 飛行艇時代
    • 豚の虎
  • 宮崎駿の妄想ノート 大日本絵画 2002年
    • ハンスの帰還
    • 泥まみれの虎
  • 妄想カムバック 『モデルグラフィックス』に連載 大日本絵画
    • 風立ちぬ(単行本未収録)
  • ブラッカムの爆撃機ロバート・ウェストール・作、宮崎駿・編、金原瑞人訳 (児童書、岩波書店2006年
    • 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。
  • 『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作、金原瑞人・野沢佳織訳(岩波書店、2009年3月)
    • 続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語

デザインワーク[編集]

  • TVCM『日立マクセル・ニューゴールド・ビデオテープ』の「ワンダーシップ号
  • TVCM『日立パソコンH2』の「ポシェット竜
  • 実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
  • 日本テレビ放送網のシンボルキャラクター「なんだろう」(TVCMのアニメでは演出も担当)
  • 神奈川県かながわ・ゆめ国体」のマスコットキャラクター「かなべえ
  • 三鷹の森ジブリ美術館
  • 三鷹市のみたかモールのマスコットキャラクター「POKI
  • 江戸東京たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる
  • 読売新聞のシンボルキャラクター「どれどれ
  • 中日ドラゴンズ公式ファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ
    • 1991年、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる2006年、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・鈴木敏夫の橋渡しによって採用されることとなった。
  • 日本テレビ社屋外壁(マイスタジオ上)の大からくり時計「日テレ大時計
  • 広島県福山市鞆町の坂本龍馬のゆかりの宿「御舟宿いろは
  • 小金井市のイメージキャラクター「こきんちゃん

作詞[編集]

  • 『君をのせて』(『天空の城ラピュタ』主題歌)
  • となりのトトロ』(『となりのトトロ』主題歌)
  • 『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
  • 『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
  • 『もののけ姫』 (『もののけ姫』 主題歌)
  • 『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)
  • 『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
    • 『神々さま』
    • 油屋
    • 『さみしい さみしい』
    • 『白い竜』
  • 『崖の上のポニョ』イメージアルバム
    • 崖の上のポニョ』(『崖の上のポニョ』主題歌)※補作詞
    • 『いもうと達』
    • 『ポニョの子守唄』
    • 『ひまわりの家の輪舞曲』
  • 『お母さんの写真』(CMソング)

著書(対談・インタビュー・共著も含む)[編集]

  • 『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) 朝日新聞社(1991年)/増補改訂版 岩波書店(2011年1月)
  • 『時には昔の話を』(加藤登紀子との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)
  • 『時代の風音』(司馬遼太郎堀田善衛との鼎談) UPU(1992年)。 朝日文芸文庫(1997年)
  • 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(黒澤明との対談集) スタジオジブリ(1993年)
  • 『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著) 講談社カルチャーブックス(1994年)
  • 『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)
  • 『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)
  • 『虫眼とアニ眼』(養老孟司との対談) スタジオジブリ(2002年)。新潮文庫(2008年2月)
  • 『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン(2002年)。文春ジブリ文庫(2013年11月)
  • 『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)
  • 『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』(お薦め本50冊の紹介) 岩波新書カラー版(2011年10月)
  • 『腰ぬけ愛国談義』(半藤一利との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)
  • 『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン(2013年)

カバー・イラスト[編集]

絵コンテ集[編集]

劇場用アニメーション映画[編集]

  • パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)
  • 天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)
  • となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3 (徳間書店)
  • 魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)
  • 紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
  • 耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
  • もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
  • 千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
  • ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)
  • 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)
  • 風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店)
    • これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。

テレビアニメーション[編集]

  • ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)

幻の作品一覧[編集]

宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。

長くつ下のピッピ
1971年頃、アストリッド・リンドグレーン原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『パンダコパンダ』や『魔女の宅急便』で活かされている。『幻の「長くつ下のピッピ」』がある(岩波書店、2014年10月。高畑勲・小田部羊一共著、宮崎によるイメージとストーリーボードを収録)。
ユキの太陽
ちばてつやの漫画。パイロットフィルムのみ製作された。(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)
もののけ姫
1980年頃、『美女と野獣』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
ルパンの娘
1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
ロルフ
1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ』の原型とも言える作品。
戦国魔城
1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。
NEMO
1981-1982年、ウィンザー・マッケイ原作の『リトル・ニモ』の企画にテレコム・アニメーションフィルムのスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
風の谷の一日
1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
アンカー
1980年代半ば、夢枕獏との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守、プロデューサー高畑勲で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した(「押井守の世界 2008年2月16日」より説)。
突撃!アイアンポーク
1985年頃、「宮崎駿の雑想ノート」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
大東京物語
ふくやまけいこの漫画。後に現代には合わないと判断している。
墨攻
古代中国が舞台の酒見賢一原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
東京汚穢合戦
宮崎が1997年、NHK番組『トップランナー』に出演した時に語ったもの。
ゴチャガチャ通りのリナ
柏葉幸子原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』
煙突描きのリン
架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館でそのプロットが見られる。かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。この物語のために作られた木村弓の『いつも何度でも』が、後に『千と千尋の神隠し』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。
毛虫のボロ
長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。『もののけ姫』の前にボツになったが、後に『水グモもんもん』として実現した。
旅のラゴス
筒井康隆原作のSFファンタジー小説
ジョナサンと宇宙クジラ
ロバート・F・ヤングのSF小説
名探偵芥川龍之介夏目漱石
明治の文豪が出てくる探偵モノ。
ポルコ・ロッソ 最後の出撃
紅の豚の続編
宮﨑駿版ゲド戦記
宮崎は本作の古くからのファンであり、1980~90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の五郎により映画化された。

受賞歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 宮﨑駿”. タレントデータベース deta house aiba. 2014年10月4日閲覧。
  2. ^ 会社が中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が空襲を受け、親類の運転するトラックで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))
  3. ^ 医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
  4. ^ 宮崎駿「日本のアニメーションについて」『日本映画の現在』岩波書店、1988年。宮崎駿『出発点 1979〜1996』徳間書店、1996年にも所収。
  5. ^ この時期、何本かの社会主義革命の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「ウチは時代劇扱ってないんですけど」と編集者に門前払いされている。『風の帰り道』(pp.251)
  6. ^ 「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)
  7. ^ 岡田斗司夫著 オタク学入門 太田出版(1996年)のち新潮文庫によると、志望動機は「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」であったという。
  8. ^ 「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)なお、実線を描かずに白で目を表現するという手法は、この作品の影響である。
  9. ^ NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』168頁
  10. ^ 宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 2013年09月06日 毎日新聞
  11. ^ (「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」 2013年09月06日 産経新聞
  12. ^ 宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし 2013年09月07日 マイナビニュース
  13. ^ 。漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の1994年に完結。アニメ版の結末の思想を、自ら否定するような内容となった。
  14. ^ 尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年
  15. ^ 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
  16. ^ 監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日
  17. ^ (東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日)
  18. ^ 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日)
  19. ^ 第65回ヴェネツィア国際映画祭 記者会見時のインタビュー
  20. ^ 「フレデリック・バック展」のトークイベント「話をする二人」での、鈴木敏夫の発言
  21. ^ a b “宮崎駿:長編映画製作から引退へ 「風立ちぬ」が最後の作品に”. 毎日jp(毎日新聞). (2013年9月1日). http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html 2013年9月2日閲覧。 
  22. ^ “宮崎駿監督の「引退宣言」は本当なのか ネットでは「これで何度目?」「引退後の新作楽しみ」”. J-CASTニュース ビジネス&メディアウォッチ. (2013年9月2日). http://www.j-cast.com/2013/09/02182759.html?p=all 2013年9月3日閲覧。 
  23. ^ 月刊モデルグラフィックス 2014年1月号 p5
  24. ^ 「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18p。
  25. ^ 宮崎駿監督にアカデミー名誉賞 「クロサワ」以来時事通信(2014年8月)
  26. ^ “宮崎駿監督にアカデミー名誉賞授与 「やれることをやっていく」笑顔で会見”. (2014年11月9日). http://www.cinematoday.jp/page/N0068020 2014年11月23日閲覧。 
  27. ^ なお、妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。
  28. ^ 富沢洋子編『また、会えたね!』アニメージュ文庫 徳間書店、1983年
  29. ^ 『天空の城ラピュタ』のムスカは例外。
  30. ^ 宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、pp.83,88
  31. ^ 「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド』ニュータイプ編、角川書店、2001年、p.35
  32. ^ 宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、p.123
  33. ^ CUT誌2009/11/19号
  34. ^ 一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。
  35. ^ MODELKASTEN 第二次大戦の隼のエース
  36. ^ 天空の城ラピュタ』でも主人公の少年パズー役に実際の少年を起用しようとしたといい、実写俳優の採用は早くから検討されていた。『天空の城ラピュタ』でパズー役の田中真弓などプロの女性声優を起用したのは演技力の問題であったという(『アニメージュ』徳間書店、1986年8月号)
  37. ^ “A god among animators”. guardian.co.uk. http://film.guardian.co.uk/interview/interviewpages/0,6737,1569689,00.html 2010年9月3日閲覧。 
  38. ^ 世界一受けたい授業より。のの法則も参照。
  39. ^ せっ記は、「聶記」と書かれることもあるが、厳密にはに「」ではなく「」をあしらった、「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する宮崎による造語
  40. ^ 鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波新書、2008年、p.86
  41. ^ コミックボックス』に全録、『月刊OUT』みのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。
  42. ^ 『アニメージュ』2002年5月号において、宮崎の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)では宮崎発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮崎発言を論じる。
  43. ^ 「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『コミックボックス』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)
  44. ^ 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」(2009年4月)
  45. ^ 岩波書店『講座日本映画』第7巻『日本映画の現在』宮崎駿『日本のアニメーションについて』1988年1月
  46. ^ 日本テレビ系『知られざるディズニーの魔法~ディズニー・アート展を100倍楽しく見る方法~』2006年7月15日
  47. ^ 「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『朝日新聞1991年3月16日朝刊31面
    小田実を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「ニューヨーク・タイムズに湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じた。
  48. ^ 『CUT』誌2009年11月19日号
  49. ^ NEWS ZERO』(日本テレビ系)ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)
  50. ^ 2013年7月16日 朝日新聞
  51. ^ (インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん 2013年7月20日 朝日新聞DIGITAL
  52. ^ 2013年8月11日号 しんぶん赤旗
  53. ^ a b c 小冊子『熱風』2013年7月号の特集は「憲法改正」です。
  54. ^ a b c 『熱風』2013年7月号特集「憲法改正」
  55. ^ http://www.ghibli.jp/10info/009354.html 2013年7月18日小冊子『熱風』7月号特集 緊急PDF配信のお知らせ
  56. ^ オタク学入門 太田出版(1996年)のち新潮文庫
  57. ^ これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている
  58. ^ 動物農場を語る 宮崎駿インタビュー映画『動物農場』公式サイト
  59. ^ 『CUT』誌2009年11月19日号
  60. ^ 宮崎駿監督、映画哲学を語る
  61. ^ 網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』(岩波書店2003年)p.31 - 34
  62. ^ 2002年10月号『フィギュア王』でのインタビュー
  63. ^ 2002年10月号『フィギュア王』でのインタビュー
  64. ^ スタジオジブリ『熱風』2011年8号
  65. ^ ジブリ屋上に幕「原発抜きで映画を」 - ビジネス情報誌オルタナ
  66. ^ ジブリ横断幕は宮崎駿監督が考案!「攻撃的な意味はありません」とスタジオジブリがコメント - シネマトゥデイ
  67. ^ 2014年2月3日中日新聞朝刊27面
  68. ^ 「宮崎駿「漫画のアカデミー賞」で殿堂入り!日本人5人目」シネマトゥデイ(2014年8月)

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

関連DVD[編集]

  • 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2001年)
  • 柳川堀割物語』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
  • ラセターさんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
  • 『世界・わが心の旅(2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
  • 『宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
  • 『宮崎駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)
  • 『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2009年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

ビジネス
先代:
(新設)
二馬力社長
1984年 -
次代:
(現職)
文化
先代:
氏家齊一郎
徳間記念アニメーション文化財団理事長
2011年 -
次代:
(現職)
先代:
(新設)
三鷹市立アニメーション美術館館主
2001年 -
次代:
(現職)