鈴木敏夫

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すずき としお
鈴木 敏夫
生年月日 1948年8月19日(66歳)
出生地 日本の旗 愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
血液型 A
職業 編集者映画プロデューサー
ジャンル 映画
主な作品
アニメーション映画
おもひでぽろぽろ』(プロデューサー
紅の豚』(プロデューサー)
平成狸合戦ぽんぽこ』(プロデューサー)
耳をすませば』(プロデューサー)
もののけ姫』(プロデューサー)
サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS』(製作
千と千尋の神隠し』(プロデューサー)
猫の恩返し』(製作プロデューサー)
イノセンス』(プロデューサー)
ハウルの動く城』(プロデューサー)
ゲド戦記 』(プロデューサー)
崖の上のポニョ』(プロデューサー)
借りぐらしのアリエッティ』(プロデューサー)
コクリコ坂から』(プロデューサー)

実写映画
立喰師列伝』(冷やしタヌキの政役)
真・女立喰師列伝』(題字・「戦後思想」編集長役・坂崎一の声)


テレビアニメ
海がきこえる』(企画)
ギブリーズ』(キャラクター原案


ラジオ
『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(パーソナリティ)

鈴木 敏夫(すずき としお、1948年8月19日 - )は、日本編集者映画プロデューサー株式会社スタジオジブリ代表取締役公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団副理事長。

株式会社徳間書店取締役、株式会社徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント、株式会社徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長東京大学大学院情報学環特任教授、株式会社スタジオジブリ代表取締役社長などを歴任した。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1948年、愛知県名古屋市にて生まれる[1][2]。私立東海高校を卒業後、上京、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻に入学[2]。在学中は多くのアルバイトを経験した。

徳間書店[編集]

大学卒業後の1972年徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される[2]1973年黒崎出版より刊行されていた、児童向けテレビ番組雑誌『テレビランド』がオイルショックのあおりを受けて徳間書店へ売却され、編集スタッフごと移ったのを機に自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。

1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。1981年には宮崎駿を初特集する。宮崎とは共同で『戦国魔城』と題した映画を企画し、徳間書店社長徳間康快に提出した[3]。結果は不採用であったが、1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力する[4]。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう高畑勲を説得し[5]、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。

その後、『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。『風の谷のナウシカ』映画化後は徳間書店側の制作委員も務めた。

スタジオジブリ[編集]

1989年にスタジオジブリへ移籍して以降は、同スタジオ全作品の映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』・『火垂るの墓』等の興行成績は振るわず、『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であった。そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた。』では、爆発的なヒットを仕掛けた宣伝プロデューサーとしての一面が収められている。しかし『ホーホケキョ となりの山田くん』や『イノセンス』では興行目標がクリアされなかった。

1997年、スタジオジブリが徳間書店に吸収合併され、社内カンパニーとして発足した「スタジオジブリ・カンパニー」のプレジデントに就任した。1999年、同書店が事業本部制を導入し、「スタジオジブリ事業本部」が設立されると、本部長に就任した。2005年、スタジオジブリが徳間書店から再独立した際には、代表取締役社長に就任した。2008年2月1日付でスタジオジブリ代表取締役社長を退任し(後任は星野康二)、以降は代表取締役を務めている。

本業以外に『耳をすませば』、『もののけ姫』に端役で出演している。『ハウルの動く城』では宮崎監督に代わり、公式ポスターの原画を、『ゲド戦記』では題字を担当している。押井守監督作品の実写映画では短編『KILLERS キラーズ』で「悪徳アニメプロデューサー」役、2006年公開の『立喰師列伝』では立喰師役の一人として出演している(これは本人の懇願によって実現した)。最近ではDVDノンちゃん雲に乗る』の中で、大橋のぞみに付く二枚目風運転手役で出演しその横顔を決めている。2004年には東京大学大学院の情報学環にて特任教授に就任し、「コンテンツ創造プログラム」などを講じた[6]

また、キャスティングの特徴として、本業の声優ではなく、俳優やタレントを起用する傾向がある[7]

対人関係[編集]

高畑勲
アニメーション監督の高畑勲とは、『アニメージュ』の取材を通じて知り合った。プロデューサーの役割や映画の作り方について、高畑から学んだと語っている。高畑が『風の谷のナウシカ』で初めてプロデューサーを務めた際、鈴木も高畑とともに映画製作に携わっていた。高畑が勉強しながら手探りでプロデューサーを務める様を見て、鈴木は「非常に具体的かつ分かりやすくアニメーション映画の作り方を学べた」[8]としている。
宮崎駿と鈴木が企画した『風の谷のナウシカ』の映画化が決定すると、宮崎の要望に基づき、鈴木は高畑勲にプロデューサーを引き受けるよう要請した[5]。高畑が慎重な姿勢を崩さないため、鈴木は高畑の自宅に日参し1か月に渡って延々と説得を繰り返した[5]。ところが、高畑は1か月かけて日本におけるプロデューサーの役割を分析しており、それを大学ノート1冊を費やして『プロデューサーとは何か?』と題した論文に纏め、「だから僕はプロデューサーに向いていない」[5]と主張した。呆れた鈴木が「理屈ではそうかもしれないですけれど、高畑さん、あなたは宮崎さんの友人でしょ。その友人が困っているんですよ。そんなときに、あなたは力を貸そうとしないんですか」[5]と声を荒げたため、高畑は『風の谷のナウシカ』のプロデューサーに就任することを諒承した。しかし、アニメーション制作の拠点をどうするのか鈴木に目算がなかったため、高畑から「何を作るか、どうやって作るか。それを全部、宮崎駿におんぶに抱っこか?」[9]と叱責された。以降は、高畑と鈴木が2人で制作拠点となるアニメーションスタジオの選定や人材の確保に奔走した[9]。『風の谷のナウシカ』製作当時を振り返り、鈴木は「僕はプロデューサーという仕事を、このときプロデューサー初体験だった高畑さんから学んでいくんです」[9]と述懐している。
宮崎吾朗
ランドスケープコンサルタントランドスケープアーキテクトとして働いていた宮崎吾朗に声をかけ、三鷹の森ジブリ美術館のデザイナーとしてスタジオジブリに入社させた。ジブリ美術館の仕事を通じて「自分の考えを実行に移す彼のパワー」を評価した鈴木は、宮崎吾朗を『ゲド戦記』の企画に参加させ、宮崎駿の猛烈な反対を押し切って監督に据える[10]
宮崎吾朗は、ニコニコ生放送での対談で「親父(宮崎駿)のコネがなかったら、アニメを作ってないと思いますか?」という視聴者からの質問に 「コネというより、そこに鈴木敏夫がいたことのほうが問題だと思う」 と述べている。鈴木は宮崎吾朗のこの発言を遮る形で「宮崎駿を父に持ち、父のもとで映画を作る。大変な逆境に置かれているわけで、 誰も味わえない。それをやれるのは吾朗君だけ。日々、生きているという実感があるでしょう?」 とコメントした[11]

人物[編集]

  • スタジオジブリは日本テレビ読売新聞社系列のテレビ局)との縁が深いが、鈴木自身は大の中日ドラゴンズファンである。家では朝日新聞東京中日スポーツを購読し、なかでも東京中日スポーツは創刊時より読み続けている。
  • 選手では落合博満のファンで、自身のラジオ番組にゲスト出演してもらったことがある。1991年には宮崎駿に落合博満と竜をモデルにしたキャラクターをデザインしてもらっている。2006年に中日ドラゴンズ公式ファンクラブが球団設立70周年を記念して創設された際、マスコットとして採用され、ガブリと名付けられた。自身もクラブより名誉会員1号の称号を贈られた。
  • 実の娘の鈴木麻実子は、『耳をすませば』の主題歌の和訳や『千と千尋の神隠し』の楽曲「ふたたび」の作詞を手がけている。
  • 喫煙者。『ゲド戦記』の公開前に受けたJT(日本たばこ産業)のインタビューにおいて、彼にとってはタバコが嗜好品であり、タバコ以外には特になく、タバコを吸っているため(鈴木自身の)ストレスが少ないのであると笑って答えた[12]

略歴[編集]

  • 1948年 - 愛知県名古屋市にて誕生。
  • 1967年 - 慶應義塾大学文学部入学。
  • 1972年 - 徳間書店入社。
  • 1982年 - 徳間書店『月刊アニメージュ』副編集長。
  • 1986年 - 徳間書店『月刊アニメージュ』編集長。
  • 1989年 - 徳間書店退社。
  • 1989年 - スタジオジブリ入社。
  • 1989年 - スタジオジブリ製作部部長。
  • 1990年 - スタジオジブリ取締役。
  • 1997年 - 徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント。
  • 1999年 - 徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長。
  • 2004年 - 東京大学大学院情報学環特任教授。
  • 2004年 - スタジオジブリ社長。
  • 2008年 - スタジオジブリ取締役。

賞歴[編集]

  • 1992年 - 第11回藤本賞特別賞。
  • 1997年 - 第14回山路ふみ子文化賞。
  • 1998年 - 第17回藤本賞。
  • 2002年 - AMD Award / Digital Contents of the Year '01 特別賞。
  • 2002年 - デジタルコンテンツグランプリ2001 DCAj会長賞。
  • 2002年 - 2002年度エランドール賞プロデューサー賞。
  • 2002年 - 第21回藤本賞。
  • 2002年 - 第1回日本イノベーター大賞。
  • 2007年 - 第2回渡辺晋賞。
  • 2014年 - 第64回芸術選奨文部科学大臣賞。

作品[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

CM[編集]

出演[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

OV[編集]

  • 「もののけ姫」はこうして生まれた。(1998年)
  • ラセターさん、ありがとう(2003年)
  • ポニョはこうして生まれた。~宮崎駿の思考過程~(2009年)

著書[編集]

  • 映画道楽(ぴあ、2005年4月刊/角川文庫、2012年11月刊)
  • 仕事道楽 スタジオジブリの現場(岩波新書、2008年7月刊/新版2014年5月刊)
  • ジブリの哲学(岩波書店、2011年8月刊)、ドキュメントエッセイ
  • 鈴木敏夫のジブリ汗まみれ(復刊ドットコム)、各対談本
  1. 2013年3月刊、ISBN 9784835449258
  2. 2013年7月刊、ISBN 9784835449265
  3. 2013年11月刊、ISBN 9784835449272

脚注[編集]

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  1. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、10頁。
  2. ^ a b c 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、246頁。
  3. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、64頁。
  4. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、66頁。
  5. ^ a b c d e 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、72頁。
  6. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、247頁。
  7. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、60頁。
  8. ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、78頁。
  9. ^ a b c 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ2005年、73頁。
  10. ^ 世界一早い「ゲド戦記」インタビュー 鈴木敏夫プロデューサーに聞く : 100人のジブリ : ジブリをいっぱい : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  11. ^ 「神回だああああああああ」 宮崎駿&鈴木敏夫がニコ生にサプライズ出演:ガジェット通信
  12. ^ vol.62 スタジオジブリ プロデューサー 鈴木敏夫”. 『たばこワールド』STYLE CAFE. 日本たばこ産業株式会社(JT) (2006年6月3日). 2009年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

鈴木敏夫


1948年8月19日 - 存命中

ビジネス
先代:
(新設)
スタジオジブリ社長
初代:2005年 - 2008年
次代:
星野康二
先代:
(新設)
徳間書店
スタジオジブリ事業本部本部長

初代:1999年 - 2005年
次代:
(廃止)
先代:
(新設)
徳間書店
スタジオジブリ・カンパニープレジデント

初代:1997年 - 1999年
次代:
(廃止)