宮崎吾朗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 本来の表記は「宮﨑吾朗」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
| この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。 |
| みやざき ごろう 宮﨑 吾朗 |
|||||||||||
![]() 2007年1月、パリにて |
|||||||||||
| 本名 | 宮﨑 吾朗(みやざき ごろう) | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 別名 | 宮崎 吾朗(みやざき ごろう) | ||||||||||
| 生年月日 | 1967年1月21日(42歳) | ||||||||||
| 出生地 | |||||||||||
| 国籍 | |||||||||||
| 民族 | 大和民族 | ||||||||||
| 職業 | 建設コンサルタント、映画監督 | ||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||
| 活動内容 | 2006年 - | ||||||||||
| 家族 | 宮﨑駿(父) 宮﨑敬介(弟) |
||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||
| 『ゲド戦記』(2006年) | |||||||||||
|
|||||||||||
宮﨑 吾朗(みやざき ごろう、1967年1月21日 - )は、日本の建設コンサルタント、映画監督。財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。映画などのクレジットでは宮崎 吾朗(みやざき ごろう)とも表記する。
株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリ代表取締役、三鷹市立アニメーション美術館館長、株式会社マンマユート団社長などを歴任した。
目次 |
[編集] 来歴
1967年、宮﨑駿の長男として東京都にて生まれた[1]。子供の頃から父のアニメーション企画などを見学していて、押井守とは度々顔を合わせており、現在でも交流がある。このせいか父親の作品よりも押井守の作品を評価することが多い。幼少時は藤子不二雄の漫画などを好んで読んでいた。その後、埼玉県立所沢高等学校、信州大学農学部森林工学科を卒業した。
卒業後、株式会社森緑地設計事務所に入社し、建設コンサルタントとして公園緑地や都市緑化などの計画・設計に従事した。その後、三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけ、運営会社である株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリの代表取締役に就任した。三鷹の森ジブリ美術館竣工後は、2001年10月1日から2005年6月23日まで三鷹市立アニメーション美術館の初代館長を務めた。また、2001年10月には株式会社マンマユート団の初代社長にも就任した。2004年度の芸術選奨にて、芸術振興部門の文部科学大臣新人賞を受賞した[2]。
2006年7月に公開されたスタジオジブリの長編アニメーション映画作品『ゲド戦記』では、挿入歌『テルーの唄』の作詞とともに、脚本・監督を務めた。アニメーション、劇場用映画、ともに初監督作品となった。
また、2008年、父が長年アニメ化を希望していて果たせなかった堀田善衛の『方丈記私記』等の作品について、アニメ化するとの仮定の基でのイメージボードを、吾朗を中心としたスタジオジブリ・スタッフが制作した。このイメージボードは、「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」として神奈川近代文学館に展示された。
[編集] 家族
吾朗の父は、アニメーション作家、映画監督として活躍した宮﨑駿である。また、版画家の宮﨑敬介は、吾朗の弟にあたる。2008年8月、吾朗に長男が誕生した。
[編集] 略歴
- 1967年1月 - 誕生。
- 2001年10月 - 三鷹市立アニメーション美術館館長。
- 2001年10月 - 株式会社マンマユート団社長。
- 2006年7月 - 『ゲド戦記』公開。
- 2008年10月 - 「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」公開。
[編集] 賞歴
[編集] 作品
[編集] 脚注
- ^ 「プロフィール」『映画「ゲド戦記」監督日誌 - 30profile』スタジオジブリ、2005年12月13日。
- ^ 「芸術選奨文部科学大臣新人賞」『平成16年度芸術選奨 受賞者及び贈賞理由』文化庁。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
||||||||||||||||||||


