ジョン・フォード

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John Ford
ジョン・フォード
ジョン・フォード
本名 Sean Aloysius O'Feeney
生年月日 1894年2月1日
没年月日 1973年8月31日(満79歳没)
出生地 メイン州
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
民族 アイルランド系アメリカ人
職業 映画監督
主な作品
駅馬車
怒りの葡萄
わが谷は緑なりき
静かなる男
捜索者

ジョン・フォードJohn Ford1894年2月1日 - 1973年8月31日)は、1930年代 - 1960年代を代表するアメリカ合衆国映画監督。本名ジョン・マーティン・フィーニーだが後年しばしば本名のゲール語形であるショーン・アロイシャス・オフィーニーあるいはオファーナを名乗った。1923年からジョン・フォードと名乗る。アメリカのメイン州出身。

西部劇や自身のルーツであるアイリッシュを好んで描き、詩情豊かな映像の詩人と評された。

人物・生涯[編集]

アイルランド系の3人兄弟の末っ子。1914年に兄フランシスの働くユニヴァーサル映画に入社。小道具係など様々な職を経験する。俳優としてもジャック・フォード名義でD・W・グリフィスの『國民の創生』などに出演。

初期[編集]

1917年、二日酔いで仕事が出来なくなった兄に代わって助監督を務めるが、彼の演出シーンをユニヴァーサルの重役カール・レムリが気に入り、フォードは監督に昇進し、同年に『颱風』で監督デビュー。

初期の頃は、西部劇専門の映画監督として活躍しハリー・ケリー主演の映画を26本手がける。低予算の西部劇を製作した後、フォックス社(後の20世紀フォックス)に移籍。また1923年からジョン・フォードと改名し、1924年に発表した大作『アイアン・ホース』で大きな評価を得る。1927年、ドイツのベルリンを訪れ、F・W・ムルナウに直接映画技法を学ぶ。後の映画に大きく影響する照明や撮影は、この頃から出てくる。

1930年代にはシリアスなドラマにも取り組み、1935年にアイルランド独立運動に命を賭けた男たちを描いた『男の敵』を発表。

『駅馬車』[編集]

1939年にはヘンリー・フォンダを起用した『モホークの太鼓』と『若き日のリンカン』を次々に発表。そして同年、西部劇の金字塔『駅馬車』を発表。低予算映画ながらスピーディーなアクション・シーンと馬車に乗り合わせた登場人物たちの群像劇が見事に観客の心を掴んで大ヒットを記録した。B級映画俳優だったジョン・ウェインを『駅馬車』に抜擢、以降、ウェインはフォード作品に数多く主演することになる。ウェインはスターになってからもフォードから木偶の坊扱いされていたが、最後までフォードを尊敬していたといわれる。

オーソン・ウェルズは『市民ケーン』を撮る際に、映写室で『駅馬車』を繰り返し観て映画を勉強したという。『駅馬車』の日本での公開当時、当時日本で配給を担当したユナイテッド・アーティスツ社に勤務していた淀川長治が宣伝を担当し、彼は38回も観賞したという。

『駅馬車』までしばらく西部劇のジャンルから距離をとっていたフォードだったが、本作で屋外ロケを行ったユタ州のモニュメント・ヴァレーは、フォードのお気に入りの撮影場所となり、以降、フォード西部劇のおなじみの風景となった。

その後も西部劇のみならず、1940年、ジョン・スタインベックピュリツァー賞作品『怒りの葡萄』と、1941年、19世紀イギリス・ウェールズ地方の炭鉱地帯を舞台にした家庭劇『わが谷は緑なりき』では、貧しくとも前向きに生きようとする家族の姿を力強く叙情豊かに描いて絶賛を浴びる。

海軍入隊と太平洋戦争記録映画[編集]

元々、海軍贔屓だったフォードは第二次世界大戦が勃発すると軍隊入りを志願、『怒りの葡萄』の撮影監督グレッグ・トーランドらと共に野戦撮影班OSSを結成。ミッドウェイ海戦ではゼロ戦の空爆を受けて負傷したものの、海軍少佐として太平洋戦線やヨーロッパ戦線へ赴いて戦争ドキュメンタリー映画の製作や構成に尽力し、OSSを率いて撮影したドキュメンタリー映画(42年『ミッドウェイ海戦』と43年『真珠湾攻撃』)はアカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞した。

なお、2008年8月14日、米国立公文書館が公開した資料によって、モー・バーグや、俳優のスターリング・ヘイドンなどと同様に、フォードが中央情報局(CIA)の前身であるアメリカ軍の戦略諜報局(OSS)の工作員であったことがわかった[1]

戦後[編集]

戦後は『コレヒドール戦記』をはじめ、1946年にはOK牧場の決闘を描いた『荒野の決闘』を監督する。フォードは晩年のワイアット・アープと面識があり、本作は彼から聞いた話に着想を得たといわれる。これはその後たびたびリメイクされて、西部劇映画の定番テーマとなった。

男の敵』(1935)、『怒りの葡萄』(1940)、『わが谷は緑なりき』(1941)、『静かなる男』(1952)で4度もアカデミー監督賞を受賞。これは監督賞受賞最多記録で未だに破られていない。

移動撮影をあまり好まず、三脚の上にカメラが乗っていると機嫌が良かったという逸話があり、また後輩の監督などにもそういった指示を度々していた。ハリー・ケリーの息子ハリー・ケリー・ジュニアもフォード作品の常連俳優である。

1950年代後半から、それまで懐疑的だった「ヒッチコック=ホークス主義」の「カイエ」派が晩年期のフォード作品に高い評価を与え、映画作家としてのフォード評が高まるようになる。

1966年『荒野の女たち』を最後に映画から引退。1973年8月31日、胃ガンで死去。

生涯に136本の監督作品があるという。本人は、自分も自分のクルーも馬車馬のように働いてきたと語っている。[2]

その作品は、黒澤明ジャン=リュック・ゴダールリンゼイ・アンダーソンヴィクトル・エリセなど世界の映画関係者に数多くの影響を与えている。黒澤は、終世、ジョンフォードを尊敬していたという。

作風[編集]

西部劇映画では、荒野に生きる男の心情を男の詩に高めたり、自分の仕事を史実に遂行する人間に愛情を注ぐように撮影し、映画を通じて正義感を訴え続けた。

また、『静かなる男』など故郷であるアイルランドへの郷愁を謳い、心境作家としての一面も覗かせていた。

エピソード[編集]

アイルランド系であることに強いこだわりを持っていた。ジョン・ウェインをはじめ彼が好んで起用した役者の多くはアイルランド系である。

静かなる男』で4度目のオスカー受賞となったが、赤狩り当時のハリウッドの反動的雰囲気を嫌っており、授賞式は欠席している。また赤狩りを支持していたセシル・B・デミルを嫌い、公然と「君(デミル)が大嫌いだし、君が支持しているものも大嫌いだ」と批判している。

西部劇を代表する名作となった『駅馬車』だが、当時の制作側は、西部劇は時代遅れであるとして全員が製作に反対していたという。

女優のキャサリン・ヘップバーンとは、1936年の『メアリー・オブ・スコットランド』で初めて仕事をし、恋仲になるが、やがて別れている。ジョン・フォードが亡くなる直前にも見舞いにきている。

ジョンフォードは、生涯インタビューにはほとんど応じなかったという。 [3]

主な作品[編集]

『ハリケーン』(1937年)のスクリーン・ショット
『捜索者』(1956年)のスクリーン・ショット
『捜索者』(The Searchers、1956年)のスクリーン・ショット
多数の西部劇映画を撮影したジョン・フォード監督が好んでカメラを設置した場所はジョン・フォードポイントと呼ばれ、モニュメント・バレーを一望できる有名なビューポイントとなっている

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞
1936年 アカデミー監督賞:『男の敵
1941年 アカデミー監督賞:『怒りの葡萄
1942年 アカデミー監督賞:『わが谷は緑なりき
1953年 アカデミー監督賞:『静かなる男
ノミネート
1940年 アカデミー監督賞:『駅馬車
1953年 アカデミー作品賞:『静かなる男』

ゴールデングローブ賞[編集]

ノミネート
1953年 監督賞:『静かなる男』

ニューヨーク映画批評家協会賞[編集]

受賞
1936年 監督賞:『男の敵』
1939年 監督賞:『[駅馬車』
1940年 監督賞:『怒りの葡萄』、『果てなき航路
1941年 監督賞:『わが谷は緑なりき』

ブルーリボン賞[編集]

受賞
1963年 外国映画賞:『怒りの葡萄』

脚注[編集]

  1. ^ 読売新聞 2008年8月15日「J・フォード監督の名も、米CIA前身の工作員名公開」記事
  2. ^ 『ジョンフォード伝 親父と呼ばれた映画監督』ダンフォード文藝春秋刊
  3. ^ 『ジョン・フォード伝 親父と呼ばれた映画監督』/ダン・フォード著/文藝春秋

関連項目[編集]

外部リンク[編集]