クエンティン・タランティーノ

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クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino
Quentin Tarantino
本名 Quentin Jerome Tarantino
生年月日 1963年3月27日(48歳)
出生地 テネシー州ノックスビル
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
活動期間 1988年 -
主な作品
レザボア・ドッグス
トゥルー・ロマンス』(脚本)
パルプ・フィクション
キル・ビル Vol.1
キル・ビル Vol.2
イングロリアス・バスターズ

クエンティン・タランティーノ: Quentin Tarantino/ 本名クエンティン・ジェローム・タランティーノ : Quentin Jerome Tarantino, 1963年3月27日 - )はアメリカ合衆国映画監督アカデミー脚本賞カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞している。脚本も書き、自身の作品に俳優として出演もする。

1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。現在までに『レザボア・ドッグス』(1992年)、『トゥルー・ロマンス』(脚本、1993年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『ジャッキー・ブラウン』(1997年)、『キル・ビル』(2003年『Vol.1』、2004年『Vol.2』)、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007年)および、『イングロリアス・バスターズ』(2009年)を発表している。

1998年には舞台『暗くなるまで待って』に俳優として出演した[1]

目次

[編集] 経歴

[編集] 幼年期 - 青年期

タランティーノはテネシー州ノックスビル(Knoxville, Tennessee)で生まれた。母親は看護師のコニー・ザツピル(Connie Zastoupil / 旧姓マヒュー / McHugh)、父親はニューヨーククイーンズ(Queens, New York)生まれの俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ[2]。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人チェロキー族の血も引いていた[3][4][5]。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生んだ。タランティーノが生まれてから間もなく母親は音楽家のカーティス・ザツピル(Curtis Zastoupil)と結婚し、継父の人脈はのちのタランティーノにとって大きな強みとなった。

母子家庭で育つ。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。

1971年、タランティーノ一家はロサンゼルスのサウスベイ地区、セグンド(Segundo)に引っ越し、タランティーノはそこでホーソン・クリスチャン・スクール(Hawthorne Christian School)に通った。14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書いた。16歳の時にハーバー・シティー(Harbour City)のナーボン高校(Narbornne High School)を中退し、ジェームス・ベスト(James Best)劇団に加わり、そこで演技を学んだ。このときの経験は後の監督脚本家・俳優人生において大きな意味を持つことになった。22歳の時、タランティーノはマンハッタン・ビーチ(Manhattan Beach)のビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、ロジャー・エイヴァリー(Roger Avary)や客と様々な映画について語る日々を送った[6]

レンタルビデオショップ店員として大量の映画に埋もれ働きながら脚本を書いた。この当時に培った映画の知識が後の映画制作に役立っている。主にアジアを中心としたマニアックな映画・日本のアニメ・音楽に精通しており、自身の監督作品の随所に独特のセンスがうかがえる。シネ・フィルを自称する。

タランティーノが現役の監督で初めて夢中になった監督はブライアン・デ・パルマである。

[編集] 映画人として

ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められる。タランティーノは1987年に"My Best Friend's Birthday"という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった[7]

タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演とプロデュースを受けて[8]カンヌ国際映画祭にも出品され、カルト的ヒットとなった。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中に次回作『パルプ・フィクション』を執筆。

世界的にも配給されタランティーノはデビュー作にして注目されることとなる。監督二作目『パルプ・フィクション』では早くもカンヌ国際映画祭・パルムドール(最優秀作品賞)を始め数々の賞に輝き、米アカデミー賞脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。エルモア・レナード原作の『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価された。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。

タランティーノの作風は、自身の映画趣味が随所に見受けられる。パロディオマージュ・引用のほか、千葉真一(Sonny chiba)パム・グリアなどタランティーノが熱狂的なファンである俳優を出演させている。レンタルビデオショップ店員時代に日本映画にもどっぷりハマっており、脚本を担当した映画『トゥルー・ロマンス』でも、主人公のサブカルチャー・ショップの店員が「Sonny chibaの空手映画のファン」という設定にしている。『パルプ・フィクション』では、ブルース・ウィリス日本刀での殺陣を行わせた。三隅研次・『修羅雪姫』(梶芽衣子版)の影響を強く受けたとされる『キル・ビル Vol.1』では大葉健二を起用したり、ファンである日本人映画監督が石井輝男石井聰亙石井隆石井克人と、石井姓が多いことにちなみ、敵のヤクザの名前を「イシイ」としたりなど、タランティーノの感性を垣間見ることができる。『キル・ビル Vol.1』は、アジア監督の中ではジョン・ウーと並んで彼に大きな影響を及ぼした深作欣二に捧げられている[9]

映画監督エド・ウッドのファンでもある。このため演出においても徹底したアナログ主義で、CG嫌いを公言している。ただし、盟友のロバート・ロドリゲスが手がけた『シン・シティ』の一部シーンを監督した際には、「CGの利点も知ってほしい」というロドリゲスの意図を汲み、初めてのCG合成の演出に臨んでいる。

近年の作品には目立たないが、『意味のない話』を延々と続ける演出にはファンが多い(なお、2007年の『デス・プルーフ in グラインドハウス』では復活。ストーリーの半分を占めている)。

彼の映画製作会社「A Band Apart」は彼自身の映画を製作するほか、長年埋もれていた中国のB級アクション映画を米国内で配給するなどしている。この社名は彼の偏愛する映画『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1964年)にちなんでいる。

2004年度カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めた。毎回、カンヌ国際映画祭は審査委員長の統括を受けることが多く、審査員大賞を受けた韓国映画『オールド・ボーイ』はタランティーノの嗜好を表すものといえる、バイオレンス作品であった。

[編集] 受賞

[編集] 作品

[編集] 監督

[編集] 長編映画

公開年 邦題 原題
1992年 レザボア・ドッグス Reservoir Dogs
1994年 パルプ・フィクション Pulp Fiction
1997年 ジャッキー・ブラウン Jackie Brown
2003年 キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol. 1
2004年 キル・ビル Vol.2 Kill Bill: Vol. 2
2007年 デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse
2009年 イングロリアス・バスターズ Inglorious Bastards
2012年 Django Unchained
2014年 Kill Bill: Vol. 3

[編集] その他

公開年 邦題 原題
1987年 マイ・ベスト・フレンズ・バースデー(未公開) My Best Friend's Birthday
1995年 フォー・ルームス(4話からなるオムニバスの第4話「ハリウッドから来た男」) Four Rooms (segment "The Man from Hollywood")
ER緊急救命室(第1シーズン 第24話「母親」) ER(Season 1; Episode 24: "Motherhood")
2004年4月20日 ジミー・キンメル・ライブ! Jimmy Kimmel Live
2005年 CSI:科学捜査班シーズン5(CSI"12時間"の死闘 [前・後編]) CSI: Crime Scene Investigation ("Grave Danger: Vols. I & II")
シン・シティ(特別ゲスト監督) Sin City

[編集] 脚本

[編集] 出演

[編集] CM

  • 関西デジタルホン(現・ソフトバンクモバイル)にて、千葉真一と共演。「シャベリタランティーノ」というダジャレコピーがキャッチフレーズで、いかなる状況においても延々と電話でしゃべり続ける男を演じた。
  • ソフトバンクモバイルの白戸家シリーズCMに出演(2009年11月10日以降)。

[編集] 製作

[編集] エピソード

  • タランティーノは無類の足フェチ、拷問フェチとしても知られる。『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のダンスシーンで、脚本を急遽書き換えた。
  • 初めて会った深作にサインを求めたのが『ガンマー第3号 宇宙大作戦』のLDであったとされる。
  • 無名時代には履歴書に『ゴダールのリア王』(ジャン=リュック・ゴダール監督 1987年)や『ゾンビ』(ジョージ・A・ロメロ監督 1978年)に端役として出演したと嘘の経歴を書いていたらしい。ちなみに、2008年公開のジョージ・A・ロメロ監督作品のゾンビ映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』でようやく端役(ラジオの声)としてスティーブン・キングらと共に出演した。
  • 実の父親であるトニー・タランティーノは俳優である。トニーが22歳の時に生まれたのがクエンティンだが、実の息子を見ずに離婚。この二人は一度も顔を合わせた事がない。クエンティンが30歳の時に突然、トニーは息子にコンタクトを取ろうとしたが、「30年間も時間があったのに、アイツは一度として俺に電話をよこさなかった。俺が有名になった今頃、連絡を取ろうと浅ましい根性が気に食わない」と、日本の雑誌に語っている。40年以上経った今も本人は無視し続けている。
  • 作家エルモア・レナードを敬愛、小説を愛読しており。電話で会話した際には「俺は、あなたの小説を映画化するために監督になった」と述べる。後にレナードの小説を原作に『ジャッキー・ブラウン』を制作。
  • 『キル・ビル』でもオマージュしているように梶芽衣子の大ファンで、『キル・ビル Vol.1』の日本公開に当たっての舞台挨拶の際には、来日の条件として映画会社に「梶芽衣子と二人で会える時間を設ける」ことを要求していたほど。ちなみに映画会社は梶の承諾を取らずにこの条件を飲んでしまい、当時『あなたの隣に誰かいる』の撮影中だった梶は一度この話を断ったが、同ドラマのプロデューサー・鈴木吉弘がタランティーノファンだったため特別の配慮でスケジュールを空けてもらい対面を果たした[10]

[編集] 日本語吹き替え

[編集] 書籍

[編集] 関連項目

[編集] 参照

  1. ^ Wait Until Dark (1998)” (英語). Internet Broadway Database. 2011年6月24日閲覧。
  2. ^ Quentin Tarantino Biography (1963-)”. filmreference.com. 2008年1月9日閲覧。
  3. ^ Faces of the week”. BBC (2004年5月14日). 2008年10月17日閲覧。
  4. ^ “3 Quentin Tarantino”. Entertainment Weekly. (1994年12月30日). http://www.ew.com/ew/article/0,,305084,00.html 
  5. ^ “The Man and His Movies”. New York: Harper Perennial. pp. pg. 12. ISBN 978-006095161-0 
  6. ^ Strong, Danny (2003年5月19日). “An Interview with Danny Strong”. IGN.com. http://movies.ign.com/articles/403/403660p1.html 2008年10月23日閲覧。 
  7. ^ http://www.imdb.com/title/tt0359715/trivia
  8. ^ Keitel heard of the script through his wife, who attended a class with Lawrence Bender (see Reservoir Dogs special edition DVD commentary)
  9. ^ 本当は深作欣二と合作映画にするはずが、深作欣二が急逝したためできなかった。
  10. ^ 東京スポーツ・2011年6月30日付 連載「梶芽衣子 あんたの好きそなブルース」

[編集] 外部リンク

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