クエンティン・タランティーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino

本名 Quentin Jerome Tarantino
生年月日 1963年3月27日(46歳)
出生地 テネシー州ノックスビル
国籍 アメリカ合衆国

クエンティン・タランティーノ: Quentin Tarantino/ 本名クエンティン・ジェローム・タランティーノ : Quentin Jerome Tarantino1963年3月27日 - )はアメリカ人映画監督アカデミー脚本賞カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞している。映画を監督すると同時に脚本も書き、自身の作品に俳優として出演もする。1990年代前半、犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。現在までに『レザボア・ドッグス』(1992年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『ジャッキー・ブラウン』(1997年)、『キル・ビル』(2003年『Vol.1』、2004年『Vol.2』)および、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007年)を発表している。

目次

[編集] 経歴

[編集] 幼年期~青年期

タランティーノはテネシー州ノックスビル(Knoxville, Tennessee)で生まれた。母親は看護師のコニー・ザツピル(Connie Zastoupil / 旧姓マヒュー / McHugh)、父親はニューヨーククイーンズ(Queens, New York)生まれの俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ[1]。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人で、母親はチェロキー族の血を引いている[2][3][4]。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生んだ。タランティーノが生まれてから間もなく母親は音楽家のカーティス・ザツピル(Curtis Zastoupil)と結婚し、継父の人脈はのちのタランティーノにとって大きな強みとなった。

母子家庭で育つ。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。

1971年、タランティーノ一家はロサンゼルスのサウスベイ地区、セグンド(Segundo)に引っ越し、タランティーノはそこでハウスロン・クリスチャン・スクール(Hawthorne Christian School)に通った。14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書いた。16歳の時にハーバー・シティー(Harbour City)のナーボン高校(Narbornne Hish School)を中退し、ジェームス・ベスト(James Best)劇団に加わり、そこで演技を学んだ。このときの経験は後の監督脚本家・俳優人生において大きな意味を持つことになった。22歳の時、タランティーノはマンハッタン・ビーチ(Manhattan Beach)のビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、ロジャー・アバリー(Roger Avary)のように客と様々な映画について語る日々を送った[5]

レンタルビデオショップ店員として大量の映画に埋もれ働きながら脚本を書いた。この当時に培った映画の知識が後の映画制作に役立っている。主にアジアを中心としたマニアックな映画・日本のアニメ・音楽に精通しており、自身の監督作品の随所に独特のセンスがうかがえる。シネ・フィルを自称する。

[編集] 映画人として

ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められる。タランティーノは1987年に"My Best Friend's Birthday"という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』の元ともなった[6]

タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演とプロデュースを受けて[7]カンヌ国際映画祭にも出品され、カルト的ヒットとなった。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中に次回作『パルプ・フィクション』を執筆。

世界的にも配給されタランティーノはデビュー作にして注目されることとなる。監督二作目『パルプ・フィクション』では早くもカンヌ国際映画祭・パルムドール(最優秀作品賞)を始め数々の賞に輝き、米アカデミー賞脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。エルモア・レナード原作の『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価された。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。

タランティーノの作風は、彼自身の映画趣味が随所に見受けられ、パロディオマージュ、引用などが特徴とされる。レンタルビデオショップ店員時代に、日本映画にもどっぷりハマっており、『パルプ・フィクション』ではブルース・ウィリス日本刀での殺陣を行わせたり、三隅研次・『修羅雪姫』(梶芽衣子版)の影響を強く受けたとされる『キル・ビル Vol.1』では千葉真一(ソニー千葉)や大葉健二らを起用するなどタランティーノの独特の感性を垣間見ることができる。『キル・ビル Vol.1』は、アジア監督の中ではジョン・ウーと並んで彼に大きな影響を及ぼした故・深作欣二に捧げられている(本当は深作欣二と合作映画にするはずが、深作欣二が急逝したためできなかった)。敵のヤクザの名前がイシイであり、脚本を担当した映画『トゥルーロマンス』(トニー・スコット監督)でも、主人公のサブカルチャー・ショップの店員がソニー千葉の空手映画のファンという設定であるところから、石井輝男ファンであるのは明らかである。映画監督エド・ウッドのファンでもある。近年の作品には目立たないが、『意味のない話』を延々と続ける演出にはファンが多い(なお、2007年の『デス・プルーフ in グラインドハウス』では復活。ストーリーの半分を占めている)。

彼の映画製作会社「A Band Apart」は彼自身の映画を製作するほか、長年埋もれていた中国のB級アクション映画を米国内で配給するなどしている。この社名は彼の偏愛する映画『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1964年)にちなんでいる。

2004年度カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めた。毎回、カンヌ国際映画祭は審査委員長の統括を受けることが多く、審査員大賞を受けた韓国映画『オールド・ボーイ』はタランティーノの趣向を表すものといえる、バイオレンス作品であった。

[編集] 受賞

[編集] 作品

[編集] 監督

[編集] フィーチャー映画

公開年 邦題 原題
1992年 レザボア・ドッグス Reservoir Dogs
1994年 パルプ・フィクション Pulp Fiction
1997年 ジャッキー・ブラウン Jackie Brown
2003年 キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol. 1
2004年 キル・ビル Vol.2 Kill Bill: Vol. 2
2007年 デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse
2009年 イングロリアス・バスターズ Inglorious Bastards

[編集] その他

公開年 邦題 原題
1987年 (未公開) My Best Friend's Birthday
1995年 フォー・ルームス(4話からなるオムニバスの第4話「ハリウッドから来た男」) Four Rooms (segment "The Man from Hollywood")
ER緊急救命室(第1シーズン 第24話「母親」) ER(Season 1; Episode 24: "Motherhood")
2004年4月20日 ジミー・キンメル・ライブ! Jimmy Kimmel Live
2005年 CSI:科学捜査班シーズン5(CSI"12時間"の死闘 [前・後編]) CSI: Crime Scene Investigation ("Grave Danger: Vols. I & II")
シン・シティ(特別ゲスト監督) Sin City

[編集] 脚本

[編集] 出演

[編集] CM

[編集] 製作

[編集] エピソード

  • タランティーノは無類の足フェチ、拷問フェチとしても知られる。『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のダンスシーンで、脚本を急遽書き換えた。
  • 初めて会った深作にサインを求めたのが『ガンマー第3号 宇宙大作戦』のLDであったとされる。
  • 無名時代には履歴書に『ゴダールのリア王』(ジャン=リュック・ゴダール監督 1987年)や『ゾンビ』(ジョージ・A・ロメロ監督 1978年)に端役として出演したと嘘の経歴を書いていたらしい。ちなみに、2008年公開のジョージ・A・ロメロ監督作品のゾンビ映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』でようやく端役(ラジオの声)としてスティーブン・キングらと共に出演した。
  • 実の父親であるトニー・タランティーノは俳優である。トニーが17歳の時に生まれたのがクエンティンだが、実の息子を見ずに離婚。この二人は一度も顔を合わせた事がない。クエンティンが30歳の時に突然、トニーは息子にコンタクトを取ろうとしたが、「30年間も時間があったのに、アイツは一度として俺に電話をよこさなかった。俺が有名になった今頃、連絡を取ろうと浅ましい根性が気に食わない」と、日本の雑誌に語っている。40年以上経った今も本人は無視し続けている。
  • 作家エルモア・レナードを敬愛、小説を愛読しており。電話で会話した際には「俺は、あなたの小説を映画化するために監督になった」と述べる。後にレナードの小説を原作に『ジャッキー・ブラウン』を制作。
  • 映画『キル・ビル vo.1』公開の際、井筒和幸監督に「おれの『キル・ビル』見てくれよな!」と猛アピールしたものの、作品鑑賞後の井筒に「映画の根本的なことが足りない。ちょっと頭、足らんティー……No!や。」と言われてしまった。もっともカメラに向けてのタランティーノの口調は、明らかにそれまで井筒の映画を観た事がない(恐らく名前すら知らない)物で、アピールも「友達になってやってもいいぜ!」とのたまうなど完全な冗談だった。この時は他にも多くの日本の番組に登場して、サービス精神旺盛なところを見せていたが、中には完全に酔っ払って出演したものもあった。

[編集] 吹き替え

[編集] 書籍

[編集] 関連項目

[編集] 参照

  1. ^ "Quentin Tarantino Biography (1963-)". filmreference.com. 2008-01-09 閲覧。
  2. ^ "Faces of the week". BBC (2004-05-14). 2008-10-17 閲覧。
  3. ^ “3 Quentin Tarantino”. Entertainment Weekly(. 1994-12-30). http://www.ew.com/ew/article/0,,305084,00.html. 
  4. ^ “The Man and His Movies”. New York: Harper Perennial(). pp. pg. 12. ISBN 978-006095161-0. 
  5. ^ Strong, Danny (2003-05-19). “An Interview with Danny Strong”. IGN.com. http://movies.ign.com/articles/403/403660p1.html 2008-10-23 閲覧。. 
  6. ^ http://www.imdb.com/title/tt0359715/trivia
  7. ^ Keitel heard of the script through his wife, who attended a class with Lawrence Bender (see Reservoir Dogs special edition DVD commentary)

[編集] 外部リンク