プレストン・スタージェス

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プレストン・スタージェス
Preston Sturges
本名 Edmund Preston Biden
生年月日 1898年8月29日
没年月日 1959年8月6日(満60歳没)
出生地 USAイリノイ州シカゴ
死没地 USAニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 映画監督
脚本家
ジャンル スクリューボール・コメディ
配偶者 Estelle de Wolf Mudge
(1923–1928)
Eleanor Close Hutton (1930–1932)
Louise Sargent Tevis (1938–1947)
Anne Margaret "Sandy" Nagle(1951–1959)

プレストン・スタージェスPreston Sturges, 本名:Edmund Preston Biden, 1898年8月29日 - 1959年8月6日)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身の映画監督脚本家

脚本家から映画監督に転向して成功した初めての人物とされる。監督作は生涯に13本で、そのほとんどがスクリューボール・コメディだった。

目次

人物・経歴 [編集]

祖父母はアイルランドからの移民[1]。裕福な家庭に生まれ、幼年期はアメリカヨーロッパを行き来して過ごす。母親が経営する化粧品会社のニューヨーク支店で働くが、会社をやめて発明家に転向する。やがて演劇に興味を覚え、劇作家としてスタートする。1929年に発表した戯曲『紳士酒場』が大好評を博し、才能に目をつけたハリウッドから脚本家としてオファーされる。そもそもハリウッドに転向したのは1931年に『紳士酒場』がジョン・M・スタールによって映画化された際、映画の出来に満足出来ないスタージェスが製作元のユニバーサル映画に抗議したのがきっかけだった。

1930年代は才気あふれる名脚本家として確固たる地位を築く。特に1933年に脚本を担当した『力と栄光』(別名『権力と栄光』)では主人公の人生を知人の回想形式で語るという新しい手法(ナラタージュ)を確立、その後の映画脚本に大きな影響を与える。特に『市民ケーン』はこの映画の影響を大きく受けているとされる。その後もミッチェル・ライゼンウィリアム・ワイラーといった当時の第一線の映画監督たちの作品の脚本を手がける。

しかしスタージェス本人はこれだけに満足せず、1940年にはパラマウント映画の上層部を「脚本料は1ドルでかまわないから」と根気強く説得して自ら脚本を書いた政治コメディ『偉大なるマッギンティ』で映画監督としてデビュー。脚本家出身の映画監督第1号となる。当初は今まで前例のない脚本家出身の監督ということで不安の声もあったが、本作は大ヒットを記録し、またアカデミー脚本賞オリジナル部門を受賞するなど快挙を成し遂げる。

これによって勢いに乗ったスタージェスは立て続けに『七月のクリスマス』、『レディ・イヴ』と傑作コメディを世に送り出し、ハリウッドに旋風を巻き起こす。スタージェスの作品はそれまでの映画にはあって当たり前だった感傷的な場面、社会的メッセージをすべて排除し、スラップスティック・コメディソフィスティケーティッド・コメディの要素をそれぞれ合わせた唐突なストーリー展開であった。

また監督のみならず、今度は製作にも手を伸ばし、『サリヴァンの旅』、『結婚五年目(再公開時題名:パーム・ビーチ・ストーリー)』とまたもやヒットを飛ばす。1942年フランスから亡命してきたルネ・クレール監督のハリウッド映画『奥様は魔女』ではプロデューサーを務める。

この当時、パラマウントではスタージェスとセシル・B・デミルが2大看板監督だったが、デミルは次々と大作を発表して大ヒットを飛ばしたが、制作費は膨大な上、撮影スケジュールを守らず、独裁的なスタイルだったために会社の上層部からは好意的に見られなかった一方、スタージェスは対照的に経済的に仕事を進めていた事から信頼も厚かった。またサービス精神旺盛な性格から撮影現場も打ち解けた雰囲気があり、多くの俳優はデミルよりスタージェスの仕事を選んだという。

1944年の『凱旋の英雄万歳』と『モーガンズ・クリークの奇跡』は共にアカデミー脚本賞にノミネートされるが、この頃から製作費が高騰しはじめ、批評と興行面での失敗も続いて、製作条件は次第に悪化、『偉大なる瞬間』を最後にパラマウントを離れる。

同年、ハワード・ヒューズの招きでカリフォルニア・スタジオを創立して、引退していたハロルド・ロイドの復帰作として『ハロルド・ディドルボックの罪』を作るが、映画の出来を気に入らなかったヒューズと対立、結局、映画はお蔵入りとなり、1950年に再編集して『Mad Wednesday』と改題されて公開するまで日の目を見ることはなかった。また脚本を手掛けた『血の復讐』の監督の座も途中で追われてしまい、映画はスチュアート・ヘイスラー監督の手に移ってしまう。

1947年には、当時としては最高額の給料で20世紀フォックスに移籍。『殺人幻想曲』を手掛けるも、続く『バシュフル盆地のブロンド美人』が興行的に失敗したことでフォックスをクビにされる。

また裕福な家庭で育ってしまった所為か、浪費家として有名で、パラマウント時代から撮影所の食堂ではスタッフ全員の分を自腹を切って払ったり、また撮影中にいい台詞とアイデアを提案したキャストやスタッフにはその度にポケットマネーで50セントを払うなどの浪費癖がもとで結局、ハリウッドでの仕事場を失ってしまう。

破産も経験し、失意のままヨーロッパに渡り、幼い頃からフランス語が堪能だったことから、フランスを拠点にして1950年代は幾つかの脚本を執筆する。この頃のスタージェスの姿を目撃した後輩の映画監督ビリー・ワイルダーの話によると、彼はカフェの前で通行人にブランデーをねだっていたほど困窮していたという。

1956年にフランスで最後の監督作『トンプソン少佐の手帳』を手掛けるも、1959年ニューヨーク市にて心筋梗塞で亡くなる。ハリウッドの黄金時代を華やかに生きた映画人であるにもかかわらず、長い間忘れられた存在だった。事実、日本では『結婚五年目』と『殺人幻想曲』が戦後すぐに公開されただけであり、1990年代に大規模なスタージェス作品の回顧展が組まれるまでは極端に知名度は低かった。

スタージェスが脚本家兼監督という先例を作ったおかげで、その後、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー、ジョセフ・L・マンキーウィッツといった多くのすぐれた脚本家出身の映画監督を世に出した功績ははかりしれない。ワイルダーはのちにスタージェスの才能を讃えながら「彼が死んだ時、我々は敬愛する一人の人間を失っただけではなく、映画の一部分をそっくり失ったんです。ああいう独創的精神の持ち主はざらにはいません。彼が逝って、ひとつの種族が全部絶えたんです」とコメントを残している。

監督作品 [編集]

全作で脚本も担当している。

脚注 [編集]

  1. ^ Genealogy of Edmund Preston Biden ("Preston Sturges")”. RootsWeb. 2008年12月17日閲覧。

外部リンク [編集]