パラマウント映画

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かつてのロゴ

パラマウント映画(Paramount Pictures)は、アメリカ映画会社映画スタジオのひとつ。1912年に設立された「フェーマス・プレーヤーズ」を前身とし、現在はバイアコムの傘下にある。

概要[編集]

アメリカ映画界で設立当初から大手メジャー会社として君臨し、徹底したスターシステムと豪華主義でサイレント時代から隆盛したが、大恐慌時には破産宣告を受ける。しかし1935年頃に再建して後には都会派コメディーに力を入れて復活した。1966年には石油資本のガルフ-ウェスタンの傘下となり、1994年には大手ケーブル会社バイアコム(現・CBSコーポレーション)に買収されて今日に至っている。大型画面が盛んとなった1950年代に独自にワイドスクリーンのビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発したことでも知られる[1]

沿革[編集]

  • 1912年 - アドルフ・ズーカーがフェーマス・プレーヤーズを設立する。
  • 1916年 - 映画製作会社「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー(1913年に設立)」と合併し、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となる。
  • 1927年 - 社名をパラマウントに改称する。
  • 1933年 - 財政難で破産宣告。
  • 1935年 - 会社再建。
  • 1948年 - 最高裁から独占禁止法に触れるとする判決を受ける。
  • 1949年 - 前年の最高裁判決を受けて興行部門を分離する。
  • 1957年 - 1948年以前の大部分のトーキー作品の版権(『我輩はカモである』、『誰が為に鐘は鳴る』、『失われた週末』等)をEMKAMCAレコードの子会社)に売却。これらの版権は現在、ユニバーサル映画が保有する。
  • 1966年 - コングロマリットのガルフ-ウェスタン社に買収される。
  • 1994年 - バイアコム(現・CBSコーポレーション)に買収される。
  • 2003年 - 福岡市の遊戯施設運営会社・日本トレイドが、福岡県久山町にパラマウント・ムービー・スタジオ・パーク・ジャパンの建設計画を発表。しかし、立ち消えとなる。
  • 2005年 - バイアコムは会社分割により、パラマウントやMTVなどを新しいバイアコムとして分離。この際、テレビ番組製作会社のCBSパラマウントテレビジョン(旧:パラマウントテレビジョン)はCBSコーポレーション傘下に残る。
  • 2009年 - 大阪の不動産ファンドがパラマウント・ピクチャーズと共同で、吹田市エキスポランド跡地にリゾート施設「パラマウント・リゾート大阪」を構想する計画を発表(但しこの土地は三井不動産が落札したため計画は白紙[2]となった)。

創業者アドルフ・ズーカーの逸話[編集]

東欧系ユダヤ人としてハンガリーで生まれたアドルフ・ズーカーen:Adolph Zukor)は移民労働者からハリウッドのタイクーンになった人物である[3]

彼は若くして新大陸に渡り、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、そして後に劇場王となる同業者の親友、マーカス・ロウに触発され、ボードビル会社を設立[4]。次いでニッケルオデオン興行から映画配給、映画製作へと進出した。

1912年、製作プロダクションの乱立で作品の質の低下に行き詰まりを感じたズーカーは、1906年頃にフランスに起こった、文学や戯曲の名作を当時の人気舞台俳優たちに演じさせて映画を作る芸術映画運動に注目して、フランスに行き、当時舞台での大女優サラ・ベルナールを口説き落として全財産を注ぎ込んで製作したのがサイレント映画の大作「エリザベス女王」で、これをアメリカに逆輸入して大ヒットさせた。ズーカーはこれに力を得て同年映画スタジオを設立、「・・有名な戯曲を有名な俳優によって映画に・・」をキャッチフレーズにフェーマス・プレーヤーズと名付けた[5]

この時ボードビリアンのジェシー・ラスキー、手袋商のサミュエル・ゴールドフィッシュ[6](後にゴールドウィンと改名)、当時脚本家で後に大プロデューサーとなるセシル・B・デミルらと組んで、翌1913年にハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作する[7]

さらには、D・W・グリフィスが『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)を次々発表。ズーカーの経営手腕は凄まじいもので、人気スターの出演作を次々購入・製作し、市場を奪われた興業者たちの間では「ズーカーを止めろ!」が合言葉になる程であった。20年半ばでの収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍に及んだ[8]。やがて、ズーカーとラスキーはそれぞれの会社と新興の配給会社パラマウントを併合して、それが今日のパラマウント・ピクチャーズの源流となった。

パラマウント訴訟[編集]

アメリカの映画史を語る場合に、1948年の「パラマウント訴訟」を外すことはできない。パラマウントの創業者のズーカー、フォックスの創業者ウイリアム・フォックス、ユニバーサルの創業者カール・リームル、MGMの創業者のルイス・B・メイヤーとマーカス・ロウ、そしてワーナー兄弟らは最初は映画興行者としてこの世界に入った。そして彼らはやがて映画興行の分野から配給業者として配給の分野を抑えて、やがて映画製作の分野に進出した。そして製作・配給・興行の三部門をいずれも自社で賄い、特に映画館をそれぞれが自社の傘下に入れて、ほぼ市場を独占して寡占化の状態となった。

こうした製作・配給・上映を垂直に統合した構造的連携は前例のない競争力を発揮して、製作者は作っても上映されない不安はなく、映画館は毎週のプログラムに穴があくような作品不足を心配することはなく[9]、配給者は製作側と上映側との調整で効率的に宣伝活動が行える体制が出来上がった。こうした製作・配給・上映を連結させた垂直統合構造[10]が主流となり、これに最も尽力したのがアドルフ・ズーカーでパラマウントは早い時期からアメリカの映画会社のメジャーとなった[11]

1940年代にはアメリカ映画界のメジャー会社としてパラマウント、MGM、ワーナー・ブラザーズ、RKO、20世紀フォックスのビッグ5と、ユニバーサル、コロンビア、ユナイトのリトル3を合わせて8社が挙げられていた。この当時パラマウントは破産と再建を経て筆頭会社に挙げられていたのである[12]。それは一方で、ビッグ5と呼ばれた各社が独自の配給網を使って傘下の映画館には自社のA級作品を優先的に卸して独立系の映画館には人気の無い作品を高額で卸し、また独立系プロの製作した作品は自社の映画館には卸さない差別的な商法[13]でもあったので、このことで苦情や抗議が相次ぎ、1938年に司法省がビッグ5のメジャー5社に対して独占禁止法に触れるとして訴えを起した。これが筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」と今日では呼ばれているものである。

訴訟は戦時下でもあったので裁判が長引き、地裁、高裁を経て1948年に最高裁が独占禁止法に触れるとする最終判決が出されて、各社とも自社で抑えていた劇場網である映画館を手放さざるを得なくなった[14]。これによってメジャー各社は最大の収益源であった劇場を手放すことになり、興行側が自由に競争できるフリー・ブッキング制に移り、またテレビの登場で観客数の減少傾向になったことで、映画会社は余裕があった時代には製作できた「B級映画」を削減せざるを得なくなり、1本の作品にかける大作主義をとるようになった。それは当然製作本数の激減を生み、監督やスタッフ、俳優の需要が減り、やがて映画製作の本拠地であったハリウッドのスタジオが閑古鳥に泣く事態となり、ハリウッドが生まれてから続いた「スタジオシステム」を崩壊させて、映画の都ハリウッドの変貌をもたらすことになった。

次世代ディスクへの対応[編集]

HD DVDBlu-ray Disc(以下“Blu-ray”)がDVDの後継フォーマットを巡って争った、いわゆる“ 次世代ディスク(次世代DVD)戦争 ”では、パラマウントは、当初HD DVDのみを支持していた[15]が、Blu-rayの生産コストがDVDとほとんど変わらなくなったことを受け、2005年10月には、ワーナー・ブラザーズと共に両フォーマットを支持する方針に転換して、Blu-ray版ソフトのリリースを開始。その結果もあり、フォーマット争いはBlu-ray有利で進んでいた。

2007年8月20日、パラマウントは突如として再びHD DVD版のみをリリースする方針に転換する事を発表、発売を控えていた複数のBlu-rayタイトルが発売中止。既発売のBlu-ray版ソフトも出荷が停止された[16]。俗に“パラマウントショック”などと呼ばれた本件に対して、当時パラマウントのヒット作である『トランスフォーマー』の監督・マイケル・ベイなどを筆頭とした各クリエーターや識者は、パラマウントの方針を強く非難した。[17] また、規格争い終結後、ドリームワークスのCEOが、「皆さんがご存知のように、我々はHD DVDのみを独占的にサポートすることで多額の補償を受けていた」と、ロイターの取材で公言している。[18][19]

その後、2008年1月4日に、ワーナーがソフトリリースをBlu-rayに限定すると発表したことで、HD DVD市場が急速に終息化、2月19日には、東芝がHD DVD事業を全て終了すると発表。パラマウントも、2月21日にBlu-ray Discに再参入することを発表し[20]、“ パラマウントショック ”から始まった迷走は、終焉を迎えた。

日本市場でもパラマウント本社の意向を受ける形で日本法人が動いた事もあり、概ね同じ経緯でHD DVD/Blu-ray版ダブルリリース → 既発売Blu-ray版ソフトのリリース停止 → HD DVD版生産終了 → Blu-ray版ソフトリリース復活、という流れになった。
2008年7月25日には、BOXを含む6タイトル、8作品のBlu-ray版ソフトが再リリースされ、HD DVDのみで発売されていたタイトルも相次いでBlu-ray化された。

日本法人[編集]

パラマウント ジャパン合同会社
Paramount Japan G.K.
種類 合同会社
本社所在地 日本の旗 日本
105-6006
東京都港区虎ノ門4-3-1
城山トラストタワー6階
設立 1984年1月20日
業種 情報・通信業
事業内容 ビデオソフト事業、映画配給、放映権取得・販売
代表者 職務執行者 鈴木順一郎
職務執行者 岡崎市朗
資本金 6000万円
従業員数 60名(2013年11月)
決算期 9月
外部リンク http://www.paramount.jp/
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米国外ではユニバーサルと提携関係にあったことから、日本では、映画配給はユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ(UIP)、ビデオソフト販売はユニバーサル、日本ビクターとの合弁会社として1984年に設立されたCIC・ビクターによって行われてきた。

しかし、ユニバーサルがユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン(UPJ、現ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)を設立、ビデオソフト部門を移管したため、2002年にパラマウントがCIC・ビクターを子会社化。さらにUIP日本法人の解散(2007年12月末)に伴い、2008年より自社による映画配給を開始した。

ビデオソフト部門は「パラマウント ジャパン ホームメディアディストリビューション部門」(PHMDJ)、映画配給部門は「パラマウント ピクチャーズ ジャパン」の名称を用いる

沿革[編集]

  • 1984年1月20日 - シーアイシー・ビクタービデオ株式会社(CIC・ビクター)を設立。
  • 2002年6月 - パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン株式会社(PHEJ)に社名変更。パラマウント作品のコンテンツ配給・ビデオソフトの製造、販売に特化。
  • 2007年9月1日 - 映画配給部門を設立。社名をパラマウント ジャパン株式会社に再度変更。
  • 2008年1月 - 映画配給を開始。
  • 2010年11月13日 - 初の日本映画配給作品『ゴースト もういちど抱きしめたい』が公開される。
  • 2012年10月 - 社名をパラマウント ジャパン合同会社に変更。

主な映画[編集]

ドリームワークスアニメーション[編集]

主なテレビドラマ[編集]

オープニングロゴ[編集]

パラマウントスタジオが75周年を迎えた際、画家のDario Campanile(写真右)によって、ロゴが手直しされた。この原画はパラマウントスタジオに展示されている。
  • 雪が残るピラミッド形の山頂を、22個の五芒星蹄鉄形に囲んだロゴが使用されている。
  • 星はかつての専属スターの数を表す。元々は24個だったが、1974年に現在の22個となった。
  • 描かれている山は実在するものではない。パラマウントの社名の元となった配給会社を作ったウィリアム・ホドキンソン (en:William Wadsworth Hodkinson) が、ユタ州の山をイメージして描いたため、ワサッチ山脈のベン・ローモンド山 (en:Ben Lomond Mountain (Utah)) がモデルと言われている。[21]
  • 以前は山に雲が通り過ぎ、ブルーの絵に変わる平面アニメーションであったが、現在は3DCGアニメーションとなっている(CGアニメーション版は1984年頃にピクサー・アニメーション・スタジオが製作したとされる)。また、ロゴ中の文字も以前は「A Paramount Picture」もしくは「A Paramount Release」が同一書体で書かれていたが、現在は「Paramount」のみが残され、その下に「A VIACOM COMPANY」の文字が配されている。

脚注[編集]

  1. ^ MOOK21「20世紀の映画」7P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  2. ^ 大阪・万博公園に日本最大級の観覧車計画 三井不動産[1]
  3. ^ MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  4. ^ 当時は映画専門館はなく、演芸のボードビリアンの興行の合間に映画を上映する形態が普通で、したがって映画は屋外のテントや芝居小屋で上映されていた。そしてこのボードビル興行を請け負った人々がやがて映画興行に移り、ニッケルオデオンと呼ばれる映画小屋の経営に乗り出すことが多かった。
  5. ^ MOOK21「20世紀の映画」47P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  6. ^ 後にゴールドウィン社を設立し、やがて合併してMGMとなる。
  7. ^ MOOK21「20世紀の映画」9P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  8. ^ MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  9. ^ こうした同じ製作会社からの作品を一手に引き受けて上映する固定したシステムをブロック・ブッキングという。これとは違って別の会社の作品をも上映するシステムをフリー・ブッキングといい、要は映画館側の興行者が自由に作品を選べる選択権の有無の違いである。日本はずっとブロック・ブッキング制が続いている。
  10. ^ 日本は現在でもこの構造は残っている。
  11. ^ 「ハリウッド100年史講義」81~83P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  12. ^ 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  13. ^ MOOK21「20世紀の映画」13P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  14. ^ 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  15. ^ パラマウントの代表的コンテンツ製作子会社であるドリームワークス社も当時パラマウントと同時にHD DVD支持の意向を示した。
  16. ^ スティーヴン・スピルバーグ監督作品は対象外となったが、限定的なBlu-ray発売はされなかった。
  17. ^ この直後、「HD DVDのリーダーメーカーであった東芝がパラマウントと18ヶ月間の独占供給契約を結び、同時に1.5億ドルの“ 奨励金 ”が東芝から支払われた」との報道もあった。[2][3]
    独占契約について、東芝及びパラマウントは、現在に至るまで公式にコメントしていないが、東芝のHD DVD撤退後に、当時のドリームワークス社CEOが「東芝との間で結んだHD-DVD方式のみのDVDを販売する契約に依然拘束されている[4]とコメントしている事や様々な事象から、これらの契約や報奨金の授受はあったとの見方が一般的である。
  18. ^ HD DVDに縛られるドリームワークス2008年2月26日 IT+media(日本語版・期限切れ)
  19. ^ DreamWorks waiting for cue from Toshiba on Blu-ray2008年2月26日ロイター(元記事・英語)
  20. ^ この時点でHD DVDソフトの去就は未定であったが、最終的にはHD DVDソフトは全て生産終了となった。
  21. ^ Paramount Film Preservation / STUDIO HISTORY / THE HISTORY OF THE PARAMOUNT LOGO

関連項目[編集]

外部リンク[編集]