復活
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日本語における復活(ふっかつ)は、活力が復帰すること、負の状態から陽に転換すること、またはいったん廃止・消失したものが元の状態にもどることを意味する言葉。また、死んだものが再びよみがえることもいう。
この項目では、死者に魂が再び入り蘇る宗教(主にキリスト教)的な意味での復活を扱う。
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[編集] キリスト教での復活
キリスト教においては、十字架上で死んだイエス・キリストがよみがえったことが本来的な意味での復活である。キリスト教の最も中心的な信仰内容であり、また同時に、さまざまな議論の中心ともなる観点である(他の蘇生譚については後述)。
キリストの死者の中からの復活は初期キリスト教において、すでに中核をなす教義であった。復活についての現存する最古の記述はパウロ書簡中にある。パウロ書簡最古のものと考えられているテサロニケ人への第一の手紙において、パウロは「死者のうちから甦った神の子」(Iテサ1:10)に言及している。パウロにおいてキリストは「死人のうちから最初に甦った」「初穂」であり、キリストとの神秘的一致によって、信じるものはその復活にも与ることができるとされる。
復活後のキリストは500人以上の信者に会ったと信じられている(I コリント書15章6節)。パウロは第1コリントにおいて、復活後のキリストにあった人々の名を挙げている。ペトロ、ついで十二使徒、主の兄弟ヤコブなどである。4つの福音書はそれぞれキリストの復活について記しているが、一般に最古の福音書と考えられるマルコ福音書では、最初復活のキリストは登場していなかったようである(「短い結び」にはキリストは登場せず、女たちが空の墓を見つけるのみである)。それら福音書の記述は、キリストの処刑後第三日、すなわち日曜日の早朝、女たちが墓をたずねていくと、墓が空になっていたと述べるが、その後の記述はかならずしも相互に一致してはいない。伝統的教会は、この矛盾を復活のキリストが時間と空間を越えた存在(光栄の主)になっていたためであるとする。またマリヤという名前の登場人物が別の2名であったとして合理的に理解できるという解釈もある。一方、近代以降の啓蒙主義の合理主義の影響を受けた自由主義神学に立つ解釈では、この矛盾を、復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたためと考える。
キリスト教神学においては、復活は「第二の創造」のはじまりである。キリストの復活はアダムの罪によって頽落した被造世界の更新の始まりであり、人間性の本来的回復である。ここで重要なのは「身体」をもったキリストが甦ったという考え方である。なるほどこの身体は、われわれがもっている可変的な「朽ちる身体」ではないのだが、身体をまったく失った霊的存在として復活のキリストが考えられているわけではない。キリスト教正統教義における復活のキリストは、それ以前とはまったく異質ながら、しかしなお「朽ちない身体」をもった存在である。このような考え方は、ユダヤ教徒の一部からもギリシア人からも異様なものと考えられた。サドカイ派は復活を否定していたし、また「身体は魂の牢獄である」というギリシア的観点からは、死は身体という劣った存在様態からの開放であり、「身体の復活」という思想自体が受け入れがたいものであった。キリスト教が発展していくなかで、内部からもキリストの復活についての異説が生じた。グノーシス派はその最大のものである。これは身体を忌避することから、復活をも否定するものであった。またキリストはそもそも身体をもった存在ではなく、身体の幻をまとっていたにすぎなかった(したがって十字架上で苦しんだわけではなかった)とする化幻説も生じた。こうした考え方は異端とされ、教会の主流からは排斥されたが、しかしその後何百年にもわたり、たびたび現れた。
なお伝統的教義においては、死んだのは人としてのキリストのみであり、従って復活するのも人としてのキリストである。神としてのキリストが死んだわけではないと考えている。
[編集] キリスト以外の復活
新約聖書には、キリストの復活のほかにもいくつかのよみがえりの記事がある。福音書はイエスが行った甦りの奇跡として、会堂司の娘(マタ9:18-26)、ラザロ(ヨハ11)の甦りに言及している。使徒行伝になると、使徒たちが甦りの奇跡を起こしている。ペトロがタビタを甦らせた記事、パウロが転落した若者を甦らせた記事がある。しかし伝統的なキリスト教では、これらの記事とキリストの復活とを分けて考える。これら甦った人々は、その後また自然の死を迎えたと考えるのである。正教会におけるラザロの甦りのイコンは、そのことをよく図示している。墓から出てきたラザロの前にいる人々は鼻を手で覆っているが、これは死臭を避けているのであるといわれる。ラザロは、自分の身体、それも死後4日間経って腐りかけている肉体のうちに意識を取り戻したのであり、この肉体自体は、またいつか朽ちて眠りにつくのである。
[編集] 典礼のなかの復活
日曜日、すなわち主日の礼拝は、第一に復活を記念するためのものである。主日ごとに礼拝を行う習慣は、比較的早くから確立したらしい。
年一度の復活祭も、もちろん復活を記念する祭である。多くの教派にとって、復活祭はもっとも重要な祭である(降誕祭をより重視する教派もある)。
[編集] 正教会における復活
正教会では、主日(日曜日)の早課(スラヴ系の正教会では徹夜祷の一部として土曜日の晩に行われる事が多い)において、特別な祭日による指定の無い限り、必ず福音書のうちハリストス(キリスト)の復活について記述された箇所が朗誦される。11種類の指定があるので、これを「十一福音」と言う。土曜日の夜から日曜日の夕方にかけて(教会暦は日没を以て一日の始まりとするので、教会暦においてはこれは全て主日:日曜日と位置付けられる)の奉神礼はハリストスの復活に関連付けられ、この時の聖歌の多くがハリストスの復活を記憶するものとなっている。
また、正教会で行われる祭のうち、復活大祭はハリストスの復活を記憶する祭であり、正教会における最大の祭典である。
復活大祭は、多くの場合深夜からその奉神礼(礼拝)が始められ、早朝にかけて聖体礼儀が行われる。普段の奉神礼では頻繁に誦経される部分であっても誦経されることは殆どなく、ほぼ全て詠隊が聖歌を歌うことで実施される。また、イコノスタスの全ての門は開放され、蝋燭等の照明は全てが灯される。視覚面にも聴覚面でも壮麗な式典となる。
ハリストスの復活のイコンは、黄泉降りと呼ばれるものが多く用いられる。これは正教会において、復活したハリストスが黄泉に降り、アダムとイヴをはじめとした旧約時代の人々を黄泉から引き上げ復活させたとされる伝承に由来する。
[編集] 復活をテーマとした作品
[編集] 関連項目
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