田中栄三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
たなか えいぞう
田中 栄三
生年月日 1886年11月3日
没年月日 1968年6月13日(満81歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京都
死没地 東京都
職業 映画監督脚本家俳優
ジャンル サイレント映画の演出、トーキーへの出演
活動期間 1911年 - 1955年
主な作品
京屋襟店
髑髏の舞

田中 栄三(たなか えいぞう、1886年11月3日 - 1968年6月13日)は、日本の映画監督脚本家俳優である。著書も多い[1]

人物・来歴[編集]

1886年(明治19年)11月3日東京都に生まれる[2]

1911年(明治44年)6月、東京俳優学校卒業公演で佐藤紅緑作『廃馬』の舞台に岩田祐吉らとともに立ち、新劇俳優となる。1913年(大正2年)、『近代劇精通』を上梓する[1]

同年10月に開業した日活向島撮影所に、1917年(大正6年)に入社、演出に転向し、1918年(大正7年)3月16日公開の『』で映画監督としてデビューした[2]レフ・トルストイ原作、細山喜代松監督の『カチューシャ』(1914年)のヒットをモデルとして、1918年(大正7年)、『カチューシャ』と同じ桝本清の脚本を得て、同じトルストイ原作の『生ける屍』を映画化した[3]。同作は、日活向島の「革新映画」の第1作とされ、成功を収めた[3]。田中は、つづく1919年(大正7年)には、『カチューシャ』をリメイクして、『復活』を監督した。

1920年(大正9年)12月31日、赤坂の葵館で公開された『朝日さす前』に始まる「向島第三部」作品を監督する。病気で半年休業の後、1922年(大正11年)12月30日公開の『京屋襟店』、1923年(大正12年)3月15日公開の『髑髏の舞』で注目された[2]。同年5月、同撮影所を退社した[4]。同年、ウィル・カールトンOver the Hill to the Poorhouse(1872年)を翻訳し、『オーバー、ゼ、ヒル物語』として上梓する[1]。同年5月にM・パテー商会出身の岩藤思雪が個人事業として輸入して公開したハリー・ミラード監督の『オーヴァー・ゼ・ヒル』(別題『あの丘越えて』[5]、1920年)[6]の原作である。

同年9月1日の関東大震災で首都は壊滅、11月に同撮影所が閉鎖になると、日活大将軍撮影所で、脚本を書いた。阿部豊監督の『彼を繞る五人の女』ほかの作品がある[2]日本映画俳優学校日本大学芸術学部等でも講師として、後進を育てた[2]

第二次世界大戦後、還暦を越えた1949年(昭和24年)以降は、各社で俳優として映画に出演した[7]。その傍ら、1937年(昭和12年)に上梓した『トーキー俳優読本』以降、「俳優読本」シリーズを執筆、上梓し続けた[1]

1968年(昭和43年)6月13日、東京都で死去した[2]。満81歳没。

おもなフィルモグラフィ[編集]

監督[編集]

Category:田中栄三の監督映画

脚本[編集]

出演[編集]

ビブリオグラフィ[編集]

国立国会図書館蔵書[1]

  • 『全終』、著・出版古畑積善、1969年 - 「古稀のお祝い」収録
  • 『日本シナリオ大系 第1巻』、編・シナリオ作家協会、マルヨンプロダクションシナリオ文庫、1973年 - 脚本『京屋襟店』収録
  • 『最尖端民衆娯楽映画文献資料集 7』、編・牧野守ゆまに書房、2006年6月 ISBN 484332096X - 『彼を繞る五人の女』(1927年)の再版

[編集]

  1. ^ a b c d e OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2009年12月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f コトバンクサイト内の記事「田中栄三」の記述を参照。
  3. ^ a b 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎中央公論社、1968年、p.274-277.
  4. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.370.
  5. ^ あの丘越えてキネマ旬報、2009年12月4日閲覧。
  6. ^ オーヴァー・ゼ・ヒルallcinema ONLINE、2009年12月4日閲覧。
  7. ^ #外部リンク欄の日本映画データベース「田中栄三」の項の記述を参照。二重リンクは省く。
  8. ^ ある映画監督の生涯 溝口健二の記録日本映画データベース、2009年12月4日閲覧。

外部リンク[編集]