市民ケーン
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| 市民ケーン Citizen Kane |
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| 監督 | オーソン・ウェルズ |
|---|---|
| 製作 | オーソン・ウェルズ |
| 脚本 | ハーマン・J・マンキウィッツ オーソン・ウェルズ |
| 出演者 | オーソン・ウェルズ ジョセフ・コットン ドロシー・カミンゴア |
| 音楽 | バーナード・ハーマン |
| 撮影 | グレッグ・トーランド |
| 編集 | ロバート・ワイズ |
| 配給 | RKO |
| 公開 | 1941年5月1日 |
| 上映時間 | 119分 |
| 製作国 | アメリカ合衆国 |
| 言語 | 英語 |
| 制作費 | 68万ドル(当時) |
| 興行収入 | 50万ドル(全米) |
| allcinema | |
| Variety Japan | |
| allmovie | |
| IMDb | |
『市民ケーン』(Citizen Kane)は、1941年に公開されたRKO製作のアメリカ映画。製作時25歳のオーソン・ウェルズの処女作で、制作・監督・脚本・主演を務めている。アカデミー賞において脚本賞を受賞した。
目次 |
[編集] 世界一の映画?
BFI(英国映画協会)が10年毎に全世界の映画批評家の意見を集約して世界映画史上作品ベスト10を選出しているが、この作品は1962年、1972年、1982年、1992年、2002年と、この40年間連続第1位に選出されている。(The Sight & Sound Top Ten Poll 2002) また、AFI(米国映画協会)も米国製作映画ベスト100の作品中第1位(AFI's 100 YEARS...100 MOVIES)として選出しており、また10周年記念ベスト100(AFI'S 100 YEARS...100 MOVIES 10TH ANNIVERSARY EDITION、リストを見るためには要登録)でも再び第1位であった。
[編集] ストーリー
暗く荒廃した大邸宅ザナドゥの主、かつての新聞王ケーンが「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して死ぬ。彼の生涯をまとめたニュース映画の製作が進行していたが経営者ロールストンは、謎に焦点を絞るよう指示、編集のトムスンは、ケーンに近かった人間を歴訪する。2度目の妻で歌手のスーザン・アレクサンダー、後見人の銀行家サッチャー、ケーンの新聞「インクワイラー」のブレーン、バーンステインとリーランド、邸宅の執事の5人である。
ケーンは幼少の頃、戸外で雪だるまを作って遊んでいたところ、突如として金持ちとなった。宿泊客から料金のかたに得た金鉱の権利書があった。母親は教育と財産の管理のためケーンを田舎から離す事に決め、そしてニューヨークに移った。
青年ケーンは、友人のバーンステイン、リーランドと共に、新聞経営に乗り出す。センセーショナリズムによってケーンの新聞は売上を伸ばすが、友人たちは遣り口を批判する。しかし、彼は耳を貸さず、大統領の姪と結婚し、さらに上の権力を求めた。圧勝を予想された知事選挙の前日、歌手の愛人の存在をライバルにすっぱ抜かれたケーンは落選し、妻も彼のもとを去った。
彼は愛人スーザンのために巨大なオペラ劇場を建設し、自分の新聞で大々的に宣伝したが、他社の不評は覆うべくもなく悩んだ末に自殺未遂を引き起こした。回復したスーザンは大邸宅に幽閉されたが、やがてケーンの元を去った。死の間際もっとも近くにいた執事にも「バラのつぼみ」の意味は分からなかった。
整理されて燃やされる遺品の中、幼少のケーンが遊んだ橇があった…。
[編集] キャスト
- Orson Welles オーソン・ウェルズ (Charles Foster Kane)
- Joseph Cotten ジョゼフ・コットン (Leland)
- Ruth Warrick ルース・ウォリック (Emily Norton)
- Dorothy Commingore ドロシー・カミンゴア (Susan Alexander)
- Agnes Moorehead アグネス・ムーアヘッド (Mrs. Kane)
- George Coulouris ジョージ・クールリス (Walter Thatcher)
- William Alland ウィリアム・アランド (Thompson)
- Everett Sloane エヴェレット・スローン (Bernstein)
- Ray Collins レイ・コリンズ (James W. Gettys)
[編集] スタッフ
- 監督 : オーソン・ウェルズ Orson Welles
- 脚本 : オーソン・ウェルズ
- 脚本 : ハーマン・J・マンキーウィッツ Herman J. Mankiewicz
- 撮影 : グレッグ・トーランド Gregg Toland
- 音楽 : バーナード・ハーマン Bernard Herrmann
- 編集 : ロバート・ワイズ Robert Wise
- アート・ディレクター: ヴァン・ボスト・ボルグレイス Van Nest Polglase
- 美術 : ペリー・ファーガソン Perry Ferguson
- 特撮 : ヴァーノン・L・ウォーカー (特殊効果)Vernon L. Walker
- 衣装 : エドワード・スティーヴンソン Edward Stevenson
[編集] 分析
時間配列を解体した重層的な劇構造の面白さ、ディープ・フォーカス撮影等の造形美、マット合成を始めとする見事な特殊撮影、当時26歳だったオーソン・ウェルズの第一作である。
なお、この映画のマスター・ネガは、現在消失している。そのため、現行の見られる版(特に日本国内で見られる版)は、上映用のポジ・フィルムを再編集した、あまり階調度の良くない素材で作成されていることも考慮に入れたい。
[編集] 撮影
撮影監督のグレッグ・トーランドは『市民ケーン』の撮影を引き受けることは、彼のキャリアにおいて、最高の仕事になるだろうと考えた。ベテランの撮影監督であったトーランドはすでにラジオやブロードウェイで多大な成功を収めた「若き天才」オーソン・ウェルズから何か得るものがあるはずだ、と考えたのだ。劇場で常に自ら照明を手がけたウェルズは、映画監督というものもまた照明に対して責任があるはずだ、と考えたのだ。その熱意に興味を抱いたトーランドは、撮影スタッフに陰でこっそり必要な技術的な微調整はさせたものの、ウェルズ に照明の配置などを一任することに同意したという。
誰もが『市民ケーン』は当時のどの映画とも一線を画するものであることをすぐに理解した。平凡な映像など何一つとしてない。たとえ、説明的なシーンさえも、通常は効率よく2人のミディアムショットで始まるものだが、それが驚くべき方法で撮影されている。ディープフォーカス、ローキー照明、豊かな質感、奇抜な構図、前景と後景との極端な対比、逆光照明、天井付きの屋内セット、側面からの照明、極端なアングル、極端なクローズアップと並列された叙事的なロングショット、めまいを起こしそうなクレーンショット、その他豊富な特殊効果など、これらは特に目新しいものではない。しかし映画批評家のジェームズ・ネアモアの言葉を借りて言えば「7段重ねのケーキの様な豪華さ」で、これらの既存の技術を自在に使いこなした者は誰もいなかった。
撮影技法的には、『市民ケーン』は革命の先駆けとなった。撮影のことなど特に意識する必要がないような、分かりやすいスタイルを理想としてきた古典的映画への挑戦となっている。『市民ケーン』においては、斬新かつ芸術的なスタイル自体が見ものである。
この映画における照明は、主人公ケーンの幼少時代や、新進気鋭の若手出版人としてその手腕を振るう青年時代には、一貫してハイキーが採用されている。彼が年老いて、頑迷になっていくにつれ、照明は次第に暗くなり、より明暗のコントラストが際だってくる。それによりケーンの家庭であるザナドゥ宮殿はあたかも永遠の夜の闇に包まれているかの様に見える。スポットライト照明だけが抑圧的な闇を刺し貫き、椅子やソファ、それに英雄の彫像などの輪郭を浮き上がらせる。だが、そこには湿っぽくて重苦しい、何者をも寄せ付けない雰囲気が充満しており、暗闇が言葉にならない悪意を覆い隠しているかのようである。
またスポットライトは象徴性を際だたせる目的で、よりクローズアップされたショットにも使用されている。ケーンの内在する品位と内面の崩壊の画面がコントラストの強い照明で暗示される。しばしば彼の顔面は照明により半分に分割され、片側は明るいスポットライトに照らされて、もう半分は暗く覆われている。大抵、目に見えるものよりも隠されているもののほうがより重要である。たとえば、ケーンはバーステインとリーランドに、新聞の一面に「編集の基本方針宣言」を載せるという。読者に対して彼こそが人々の市民としての権利や人間としての権利を真摯に尊重する者であることを約束する宣言文である。そしてケーンがその宣言文に自筆の署名をする際に、彼の顔面に突如影が落とされる。この突如挿入されたコントラスト照明は、まさに後のケーンの姿を前兆として暗示している。
撮影監督のグレッグ・トーランドは、ディープフォーカス撮影をすでに1930年代にウィリアム・ワイラー監督と共に実戦していた。しかし、『市民ケーン』のディープフォーカスの方がワイラーと実践したものよりずっと華麗で目を見張るものがある。広角レンズの使用はディープフォーカスのためには当然の選択であったが、広角レンズには人物同士の距離感を強調する特性があり、離別、疎外、孤独感などを扱う物語にとっては、結果として適切な選択となったともいえる。
また、ディープフォーカスは、観客が自由に情報を読み取るよう、仕向ける効果を持っている。たとえばスーザンが自殺を試みようとするシーンにおいて、ディープフォーカスされた最初のショットはすべての因果関係が示されている。スーザンが致死量の睡眠薬を飲み、薄暗いベッドで昏睡状態に陥っている。画面下でクローズアップの距離に空のコップと薬品のビンが置いてあり、画面中央のミディアムショットの距離にスーザンが息苦しそうにベッドに横たわっており、そして画面上部のロングショットの距離にはケーンがドアを叩き開けようとする様が映し出されている。この画面上の配置(ミザンセヌ)の3重構造は(1)致死量の睡眠薬を、(2)スーザンが飲み、(3)その原因はケーンにある。という因果関係をまさに視覚的に告発している。
特殊効果は映画の中で一貫として様々な手法で使用されている。たとえば、ザナドゥ宮殿の屋内セットなどでの特殊効果は、本物と錯覚するほどの品質に仕上がっている。その他、選挙演説のシーンにおいても大衆が大講堂に集まっている様子が特殊効果によってリアリティあふれる映像に仕上がっている。
1940年代のアメリカ映画界は、『市民ケーン』が与えた強い影響もあり、主題的にも撮影技法上も、より暗い方向へと向かっていた。この時代の最も顕著なスタイルはフィルム・ノワール、文字通り「暗黒映画」と呼ばれたものであろう。そのスタイルはまさにこの時代にふさわしいものであった。ウェルズのスタイルや手法は暗黒映画という文脈で引き継がれ、特に『上海から来た女』(1948)や『黒い罠』(1958)などはその傑作と言える。トーランドは1948年に48歳でこの世を去った。彼の死によって米国映画界はかけがえのない人物を失ったことになる。
[編集] ミザンセヌ(画面上の構成)
演劇界出身だったウェルズは、ダイナミックな舞台演技をこなすベテランでもあった。そしてウェルズはこの映画において比較的ロングショットを多用し、クローズアップショットの使用頻度は少なくなっている。ロングショットは演劇の舞台と観客との距離と同じ距離感を与え、ミザンセヌをより効果的に活かせるショットだからである。ウェルズの撮った映像の多くはクローズト・フォームの中でタイトフレームが用いられている。
さらにその多くの映像は奥行き感を際立たせるように構成されており、重要な視覚情報が「前景」「中間面」「背景」と3層に凝縮されている。登場人物同士の空間論的距離はバレエのように演出、構成されており、人物同士の力関係、利害関係の移り変わりを如実に示す。たとえば、映画序盤のケーンが遊び半分で買収した保守的な新聞社「インクワイラー」のオフィスへ、ケーン、バーステイン、そしてリーランドの3人が乗り込んでくるシーンである。そこで働いている社員たちが画面フレームに入っては消えていく中で、自分たちの家具や機材などの私物を運び込みながら、まもなく解雇されることになる無愛想な編集長カーター氏と途切れとぎれの会話を交わす。これらの会話は早口で話され、苛立ちをコミカルに表現する方法になっている。
[編集] 動き
ウェルズは映画製作の早い時期から、カメラ移動に精通していた。『市民ケーン』において、主人公チャールズ・ケーンの青年期には、カメラは若き躍動感に連動して良く動き、壮年期や老年期を迎えるとカメラは逆に遅い動きになる。つまり、カメラとケーンの動きは互いに同じ運動の原則をもっているのである。青年ケーンは若さゆえにエネルギーに満ち、息つく間もなく動き回り、その動きは青年時代を通してしばしば何かを言い終わらないうちに次の場面に移ってしまうほど滑らかである。しかし、年老いたケーンは、一歩踏み出すたびにうめき声を上げるかのようににぶい動きとなる。さらに、完全な静止状態か座っている状態で撮影される場合が多くなる。特にスーザンとのザナドゥ宮殿のシーンでは、彼が疲れ切って辟易としている様子が見てとれる。
これまでにウェルズほど大々的にクレーンショットを使った者はいなかった。しかし、その名人芸は決して自己満足のために利用されているわけではない。なぜなら、壮大で華麗なクレーンショットは重要な象徴的な観念を具現化しているからだ。たとえばケーンの死が知られた後、一人の新聞記者がスーザン・アレキサンダーを取材に訪れたときの場面だ。そのシークエンスは激しい暴風雨の中で始まる。私たちはナイトクラブの歌手として働いていた頃のスーザンの写真やポスターを見せられる。雷が鳴り響き、カメラはクレーンに乗って雨の中を上昇し建物の屋根まで駆け上がる。そして派手でけばけばしい"El Rancho"と書かれたネオンサインにまで突き進む。カメラを乗せたクレーンは天窓へと下降し、画面が稲妻で一瞬覆われた瞬間に天窓を通り抜け、人気のないナイトクラブ内へと潜り込む。そこにはスーザンが泥酔状態でテーブルの上に突っ伏し、悲しみに打ちひしがれている姿が捉えられる(彼女はケーンが亡くなったニュースを聞いて悲しんでいる唯一の人物である)。カメラと新聞記者はこの一連のシークエンスで数え切れない程の障害物(土砂降りの雨、ネオンサイン、天窓などの障壁)も出くわした訳で、私たちがスーザンの姿を確認し、その肉声を耳にするまでに、実に多くの障害物を通り抜けなければならなかったわけである。この一連のクレーンショットは、非情なプライバシーの侵害を映像化しており、スーザンがその精神的な苦痛から身を守るかのように張り巡らした障壁を、いとも簡単に無視して侵入してきたのである。
スーザンのオペラ歌手デビューのシーンにおいても、移動ショットがコミカルな効果を生み出すために使われている。彼女が最初のアリアを歌い始めると、カメラは天にも昇る勢いで上昇を始める。彼女はか細く弱々しい声で歌い続ける一方で、カメラは上昇の旅を続け、土嚢やロープや足場などの舞台装置裏を通り過ぎ、ついに裏方用の通路に立って下の舞台を眺めている2人の裏方の姿を捉えて止まる。彼らはしばらく聞き入った後、お互いの顔を見合わせる。一人が「彼女が本当にくさい代物だ」と言わんばかりに鼻をつまんでみせる。
[編集] 編集
『市民ケーン』における編集は日や月、年月さえ、その順序にはお構いなく自在に飛び越えているが、それでも名人芸と呼べるほどに綿密に計算されたものになっている。ジョン・スポルティングは、ウエルズはしばしばいくつもの編集スタイルを用いていると指摘している。たとえば、スーザンが自分のオペラキャリアを振り返る場面は、彼女が苛立ち気味のヴォイストレーナーと発声練習をしているところのロングテイクで始まる。幕が上がる直前の舞台裏の大混乱は、短い突発的な断片的ショットを繋ぎ合わせて編集されており、スーザンの歌手デビューが明らかに困惑に満ちたものであることを強調している。ウェルズは舞台上のスーザンの惨状と、客席のリーランドが退屈してうんざりしている様子とを対比する平行編集を用いている。悲惨な批評を巡って、ケーンとスーザンとの口論の場面は古典的なスタイルによって編集されている。テマティックモンタージュはスーザンが国内ツアーをしている場面を凝縮する目的で使用されている。このシークエンス最後のスーザンが自殺を図るシーンは、ディープフォーカスによるロングテイクで始まり、ケーンがホテルのスーザンの部屋に駆け込み、昏睡状態の彼女を見つけた所で終わる。
この映画においては、編集だけに絞って語ることは極めて難しい。なぜなら、この映画の編集は、しばしば音声効果と呼応し合っていて物語の断片を語るためではないからだ。オーソン・ウェルズは編集を厖大な時間を凝縮する目的で使っており、音声を連続性の装置として使っている。たとえばケーンが最初の妻エミリーと徐々に疎遠になっていく様子を表現するために、ウェルズは朝食の短いシーンを並べている。ハネムーン気分で仲良く話すシーンから始まり、その雰囲気は次第に乾いたものになり、そして不快な敵意にも似た苦々しいものに変わり、最終的には疎外感と静寂のみ残るのだ。さらに、このシークエンスは、恋に落ちた2人の親密感を際だたせるミディアムショットから始まる。結婚生活が荒廃するにつれて、ウェルズは同じテーブルに座っているにもかかわらずクロスカッティングで2人を別々に撮影する。そして1分少々のシークエンスはロングショットで2人が長いテーブルの両端に離れて座って、異なる新聞社の新聞を読んでいる様子を映して終わる。
ウェルズは似たような技法を使ってスーザン・アレキサンダーがどのようにしてケーンの愛人になったかを見せる。ケーンとスーザンとの出会いは、彼は道端で車に泥を撥ねられたことから始まる。彼女はケーンに自分の小さなアパートに立ち寄ればお湯があると申し出る。しばらくして彼らは友人となり、ケーンはスーザンに歌ってくれと頼む。スーザンもケーンの前で歌を披露することをしぶしぶ了承し、古いピアノの前に座って歌い始める。すると画面はディゾルブして、それと同時にスーザンがきれいに装飾された大広間のグランドピアノの前で豪華なガウンを身にまとって歌い終わる姿が浮かび上がってくる。私たちは2人のあいだに何が起きたのかを詳細に提示されなくても、スーザンの劇的な変化を見るだけで、暗に何が起きたかを推測できるようになっている。
[編集] サウンド
ウェルズはラジオの生放送ドラマの出身でもあるので、しばしば多くの映画における音声技術を開拓した人物としてもその才能を認められている。事実、彼は先任者たちの断片的な業績をさらに発展させ、それらを整理統合した最初の人であった。ラジオにおいては、音で映像を呼び起こさなければならない。たとえば、役者たちの喋る声に音響効果で反響音を入れると、それは大きな講堂で話しているという映像的イメージを喚起させる。また遠くで鳴る列車の汽笛は広大な景色をイメージさせるといった具合である。ウェルズは聴覚の決定的な特質を彼の映画音声へと応用させている。彼の音声技師であるジェームズ・G・スチュアートの助けもあって、ウェルズはすべての映像技術は音声技術と同等であることを発見した。たとえばショットの一つ一つが、音質や明瞭度や質感をも含み込んだ適切な音の質をもっているものだという発見である。ロングショットや極端なロングショットの音は遠くぼやけた音、クローズアップではくっきり明瞭かつ比較的大きな音が必要であること。またハイアングル・ショットではしばしば甲高い音楽や音響効果を伴い、ローアングル・ショットでは陰気で低音を伴うことが多い。場合によってはそれぞれの音はモンタージュのように重なり合い並行して使用することも可能である。
ウェルズは劇的な音声処理とともに、頻繁に時間や場所を移動させ飛び越えさせる。たとえば、映画のオープニング・シーンは、徐々に音声をかき消してケーンの死を告げて終える。そして、私たちは次のニュース映画のシークエンスにおいて「3月期のニュース!」という大音響の神の声のようなナレーションに突如襲われる。別のシークエンスでは、ジェド・リーランドが選挙運動の演説でケーンを「自由を尊び、働き者の友人、次の州知事、それが今回の選挙に出馬した…」と評し、次の瞬間マディソン・スクエア・ガーデンにいるケーンにカットを入れ、音声は「公約は…」とリーランドの応援演説が続いている。つまり音声を編集による映像と重ねることによって音声効果を見事に高めているのだ。
ウェルズはしばしば対話も重複させた。特に喜劇的なシークエンスでは、何人かの人物が同時に喋ろうとする。ザナドゥ宮殿においては、部屋があまりにも広いので、ケーンとスーザンはお互いに会話をするためには叫び合わねばならず、深刻な場面にもかかわらずそれとは不釣り合いな滑稽さを出す効果を生み出している。マディソン・スクエア・ガーデンの複写映像においても、私たちは大観客の歓声と喝采を聞くことによってあたかもそこに居るような想像を掻き立てられ、説得力のある映像となっている。
バーナード・ハーマンの映画音楽も同様に洗練されたものである。それぞれの音楽モチーフがそれぞれの主要登場人物や重要な場面に割り当てられている。多くの音楽モチーフはニュース映画のシークエンスで紹介されており、それらが後に、時には調子やテンポをそのシーンの雰囲気に合わせて多様な変化を持たせて使われている。たとえば、観客に強く訴えかける「バラのつぼみ」のモチーフは最初のシーケンスで紹介されており、その後、意味の真相を調査する際の一連の場面においても徐々にアレンジされた音楽モチーフを伴うことによって対話を強調している。ウエルズが最後に私たちに「バラのつぼみ」の真相を明かしてくれる際に(映画の登場人物は知り得ないのだが)、その音楽モチーフは徐々に重要性を高めていく効果ももたらしており、映画史上最もスリルあふれる真実暴露の仕方の一つになった。
ハーマンの映画音楽は、しばしばウェルズの映像に対応し一致している。たとえば、ケーンと最初の妻との朝食シーンのモンタージュ映像において、結婚生活の崩壊は様々に対応する音楽によって表現されている。そのシークエンスはやわらかいロマンチックなワルツで始まり、繊細な背景音楽をつけ加えることで両者の陶酔状態を表現している。次にはやや喜劇的な変奏が続く。両者に緊張状態が生じると、管弦楽はより不協和音が目立ってきて耳障りなものになる。最後のシーンでは、両者はもはや会話すら交わさなくなり、その静寂はシークエンス最初の音楽テーマを陰鬱かつ神経質な変化で伴奏させている。
多くのシーンにおいて、ウェルズは音声を象徴的な目的で使用している。たとえば、彼は、スーザンの悲惨なオペラ公演巡業をディゾルヴとモンタージュを駆使したシークエンスにしているが、背景音楽はひずんだ金切り声で聴くに耐えない嘆きにも似たスーザンの詠唱を使用している。そのシークエンスは少しずつ照明を落として、薄暗くしていき、スーザンの絶望感を表して終わる。それに伴う背景音楽はスーザンの歌声が突然うめき声のようになり止まってしまい、あたかも誰かによってレコードプレーヤーのプラグを歌の途中で引き抜いてしまったかのようである。
[編集] 演技
ウェルズはラジオでもニューヨークの舞台制作においても、つねに彼と一緒に働くお抱え脚本家、アシスタント、俳優などの人材を抱えていた。ハリウッドに乗り込んだときにも、彼は15人の俳優を含め、多くのスタッフを同行させたが、ウェルズを除いてはそのほとんどが無名の達人であった。ウェルズでさえ役者やフィルムメーカーとしてではなく、ラジオの人として知られているだけであった(ウェルズは多くのアメリカ人を実際に世界が火星人に侵略をされたかのように感じさせ、ある種のパニックに陥れた彼の有名な1938年の番組「火星人襲来」(または「宇宙戦争」、War of the World)において大衆の心を掴んだ。彼がその成功を喜んだのはもちろんであるが、その成功によって彼は弱冠22歳で「タイムズ」紙の表紙を飾ることになったのである。)
『市民ケーン』は第一級の役者で固められている。何人かの良くも悪くもない役者もいるが、決して迫力に欠けているわけではない。そして何人かは傑出しており、特に注目に値するのがウェルズ、ドロシー・カミンゴア、ジョゼフ・コットン、エヴェレット・スローン、そしてアグネス・ムーアヘッドである。多くの役者たちがレパートリー劇団の演技スタイルに熟練しており、彼ら全員で主題を盛り上げようとする共演者集団としてそれぞれの役割を果たす。その結果、物語全体が網の目のように途切れることなく劇的シーンを作り出していく効果を発揮している。マーキュリー劇団の役者たちは、映画界では若い新参者にもかかわらず熟練した映画俳優のように見える。彼らの多くにとって、これが映画への初出演であった。それなのに彼らはつねに自然で、心のこもった、信頼に値する演技をしている。
顔見世出演している名優たちも卓越した演技を披露している。なぜなら、彼らが演技する時間は限られており、台詞も少ない。しかし、だからこそ彼らはその登場人物がもつ複雑な(しばしば矛盾に満ちた)性格と存在感を限られた演技時間の中で伝えなければならない。たとえば、レイ・コリンズがケーンの政敵となるはずのジム・ゲティスという狡猾なボス役を演じている。抜け目なく冷笑的なジム・ゲティスはケーンの弱みをすべて知っており、少なくとも自分の身を守るためにケーンが敵意をむき出しにするまでは静観している。しかしゲディスは、恐らく最大の政敵になるはずのケーンが「自分の子供たちや母でさえ見ることになるだろう」縞模様の囚人服姿のゲティスの改ざんされた写真を新聞に載せようとしているのを知り、そこまでケーンが下劣であることに衝撃を受ける。ゲディスは鼻持ちならない嫌な奴であるにもかかわらず、私たちは彼に同情の念を抱かざるを得ない。
1つのシーンにしか登場しないが、ケーンの母役であるアグネス・ムーアヘッドもまた忘れることの出来ない印象を残す(彼女はウェルズの次の作品『偉大なるアンバーソン家の人々』でもより見事な演技を披露している)。彼女が演じるメアリー・ケーンはホーソーンの物語から抜け出して来たかのような、厳格なピューリタンのような陰鬱な人物になっている。彼女は愚か者と結婚してしまった事に気づくのが遅すぎた女という役柄を見事に演じている。行き詰まった彼女は、自らの結婚生活の屈辱感を噛みしめる以外ないのだが、息子には同じような運命を送らせたくないと思い、最愛の息子はより良いものに向かうべきだと心中で決意を固めている。言葉少なだが鋼鉄のような禁欲的な固い意志と決断力に裏打ちされた決意を秘めた女性として描かれ、直立不動の背筋がそれを物語るかのようだ。いかにも関わりを持ちたくない女性のイメージである。
エヴェレット・スローンとジョセフ・コットンは、バーステインとリーランドという一点の非の打ち所のない人物の役割を演じている。バーステインのケーンに対する無批判な英雄崇拝は、リーランドと比べるとやや知性に欠ける人物としている。彼はリーランドとは異なり、主義主張より友情に重きを置いている人物なのだ。しかし、愛情あふれるバーステインはどこか滑稽な無邪気さをも併せ持っている。しかしあまりにもケーンに対する盲目的な忠誠心に篤いので、彼はケーンの欠点やちょっとした悪徳を見出す能力に欠けている。年老いているが、バーステインは依然として冗談好きで、成功したビジネスマンであるが、底の浅い物質主義者というわけではない。そして「大金を稼ぐのにトリックなんて必要ない」と言って冷ややかに笑い、「もし、すべての望みが大金を稼ぐということならね」と続ける。バーステインはケーンの動機が、ただの金儲け主義よりももっと奥の深いところに気がついているのだ。そして恐らく彼は自分自身の平凡さに失望しているのだろう。
ケーン役のウェルズは惜しみない賛辞を受けている。ジョン・オハラは「ニューズ・ウィーク」誌の批評の中で「オーソン・ウェルズに勝る俳優はいない」とまで述べている。D・W・グリフィスもまた最高の役者であると表現している。背が高く、威圧的、そして低くかつ柔軟で幅のある声を持つウェルズは技巧派である。無謀で衝動的でありながらも説得力を持ち合わせる青年、頑固で専制的な中年、燃え尽きた体格のよい壮年をどれも見劣りなく演じているからに他ならない。
25歳時のケーンはチャーミングでカリスマ性があり、ありとあらゆる権威というものに対して頑固なまでに懐疑的である。事実ケーンは魅力あふれる青年なので、彼の独自なやり方への固執やその他の疑問を抱かせるを得ない行動もほとんど悪意を感じさせない。中年期に入ったケーンは、より陰気な雰囲気に変わる。圧倒的な気質はより平然と示されるようになる。もはや議論の余地はなく、目的が手段を正当化するようになり、他者が自分に従うのは当然と思うようにさえなっていく。そして、年老いたケーンは繰り返し戦っては破れる男であり、精神的な敗北者なのだ。
[編集] ドラマ
ウェルズが最初に没頭したのは舞台劇であった。ウェルズは進学校の中学に入学したのだが、彼はそこで30を数える芝居を監督し演じた。シェイクスピアが彼の第1のお気に入りの劇作家であったという。1930年、15歳のウェルズは学校を辞め、相続した財産をもってヨーロッパへと旅立ち、未来のブロードウェイ役者を目指してダブリンのゲート座の門を叩く。当初ウェルズの志に懐疑的だった支配人も彼の演技を感銘を受けて雇うことになる。1年もするとウェルズはいくつもの古典劇を演じ、演出するようになるが、特にエリザベス朝時代のものが多かったという。
1933年ウェルズはアメリカへ戻り、当時最も有名な舞台女優キャサリン・コーネルと一緒に巡業をする旅回りの役者の仕事にありついた。彼らは主にシェイクスピアやバーナード・ショーの作品を演じた。1935年にニューヨークで、志の高いプロデューサー(後に役者や演出も手がける)のジョン・ハウスマンのグループに加わる。
1937年、ウェルズとハウスマンは彼ら自身の劇団を設立し、マーキュリー座と命名する。彼らの素晴らしい舞台演出は熱烈に歓迎された。最も著名な作品は、現代衣装をまとった反ファシズムの「ジュリアス・シーザー」であろう。ウェルズは俳優や演出のみならず舞台装置や衣装デザイン、照明までも手がけた。有力な演劇批評家であるジョン・メイソン・ブラウンはウェルズを「舞台劇作の天才」と明言した。批評家のエリオット・ノートンもまた「最も賞賛すべき現代のシェイクスピア」と評した。
ウェルズはラジオパーソナリティとしての稼ぎを劇団の財源としていた。1930年代後半の彼の全盛期には、ラジオでの収益が週3000ドルにもなったという。彼はその3分の2をマーキュリー座へ投資した。それでも、劇団の経営は綱渡りで、断続的に破綻の危機が訪れた。1939年に初めて大失敗作を出し、マーキュリー座をたたむことになった。ウェルズがハリウッドに行ったのは、もともとは劇団立て直しのための手っ取り早い資金集めのためだった。そうすれば、彼は再びニューヨークへ戻り、マーキュリー座を復活できると考えたからだ。
彼が映画界へ進出したときに、ウェルズの舞台経験がいかに貴重なものであったかを証明している。彼は映画を本質的には演劇的なメディアであって、文学的なメディアではないと考えていた。私たちが検証してきたように、『市民ケーン』の証明スタイルは映画的というよりはむしろ演劇のスタイルに負うことが大きい。映画と同様に限られた空間内で演技することを必要とする舞台経験がウェルズにロング・テイクを多用させていると言える。
美術演出の領域に関しても、ウェルズは舞台制作の手法を駆使している。屋内セットの場合、その部屋を丸ごと作るのではなく、撮影に必要な部分だけを作ることで巨額の経費を節約したのだ。たとえばオフィスのセットは机と2つの壁のみで構成されてるにもかかわらず、私たちの眼には広く豪華な部屋の中に居るように見える。同様にザナドゥ宮殿のシーンにおいても、ウェルズは大きな家具や彫刻、暖炉などにスポットライトを当てることによって、その他の部分はあたかも部屋が大きすぎるために照らしきれないかのような感覚を伝えるため暗く映している。(実際に部屋はそれほど家具などで埋め尽くされていない)。それらの技術が有効でない場合には、ウェルズはRKO社の特殊効果部門の協力を得てアニメーションやマット・ショット、ミニチュア技術を駆使して壮大な背景や舞台を作り出した。
エドワード・スティーヴンソンの衣装はそれぞれの時代考証によって忠実に再現されている。映画は70年近くの年月を年代順に追っていないために、観客にはそのシーンの年代を衣装ですぐ分かるようにする必要があった。ケーンの少年時代はチャールズ・ディケンズからマーク・トウェインとの間のいずれの時期でも通用する、いかにも19世紀を象徴するような意匠が凝らされている。サッチャーの堅い襟首とシルクハットやメアリーやジム・ケーンのシンプルな開拓者の服装が時代をよく物語っている。
衣装は機能的な役割を持つと同様に象徴的な役割を持つ。社会改革運動家としての若き出版人ケーンは白い衣装を好んで着用している。さらに彼は仕事中でもジャケットを脱いでネクタイを外している。しかし晩年はいつも黒いビジネススーツを着用し、ネクタイもしている。エミリーの衣装は一見高そうだが、派手さを抑えてある。彼女はいつも上品で、ファショナブルかつ地味でつつましい女性に見えるようになっている。スーザンはケーンに出会うまでは質素な服装をしている。ケーンに出会って以降、彼女はきらびやかな派手なドレスを羽織っており、あたかも旬を過ぎたショーガールが手に入れた貴重品のすべてを見せびらかして歩いているかの様である。
[編集] ストーリー
ストーリーとプロットとの違いは、年代順に語られる物語と筋を追って再構築されたシークエンスとを比べると一番説明しやすいだろう。ハーマン・マンキーウィッツがこのストーリーの構想をウェルズに持ち掛けたときに、ウェルズはあまりにも話が広がりすぎてまとまりがなく焦点がぼやけているように感じたという。物語の筋をもっとはっきりさせ、かつ劇的な緊迫感を吹き込むためにウェルズは一連のフラッシュバックを使って、出来事の年代順をごちゃ混ぜにして、それぞれの出来事が語り手の視点から物語られていくことを提案した。ウェルズはこのような複合的なフラッシュバック技術を多くのラジオドラマの中で使っていたのだ。
ウェルズとマンキーウィッツはまたサスペンスの要素をも取り入れることにした。ケーンは死ぬ間際に「バラのつぼみ」と呟いて息絶える。それが、どのような意味を持つのか誰もわからないのだが、その言葉の重要性が一人の新聞記者トンプソンの好奇心を刺激した。トンプソンはそのあと最後までケーンの元同僚たちに質問して回る。ケーンの矛盾した性格にその謎を解く鍵があると彼は期待したのだ。
ウェルズは次のように主張している。「バラのつぼみ」のモチーフは、皆目見当もつかない雲を掴むような劇的な謎かけをして、観客の心を惹きつけておこうとする意図によるプロット上の仕掛けに過ぎない、と。しかしその仕掛けは見事に功を奏している。私たちもまた期待に胸膨らます新聞記者と同様に、私たちもまた「バラのつぼみ」がケーンの不透明な人間性を明らかにしてくれると期待するのだ。この仕掛けなしにはストーリーは統一性を失い不明瞭になってしまったであろう。「バラのつぼみ」という言葉の意味を追求することが物語に筋を与え、物語を先に進めようとする牽引力となり、私たち誰もが答えを待ち望んでいるという劇的な謎解きになっていくのだ。これこそが、世界各国の批評家がウェルズをアメリカのストーリーテラーの天才と讃える所以である。
ウェルズは『市民ケーン』にフラッシュバックの手法を駆使することで、過去の出来事を厳密に配列することにこだわることもなく、時間と空間を自由に飛び越え、ケーンの人生の様々な時期をかいつまんで挿入することが可能になった。さらにウェルズは映画の導入部で、ケーンの生涯の中で主な出来事と主要人物をまとめた簡潔なニュース映画を見せることで私たち観客が物語の概要を把握できるようにした。それぞれの出来事や人物はその後のフラッシュバックでさらに深く追求されることになる。
多くの批評家が驚嘆するのは、ジグゾーパズルのような映画の構成とその複雑さであり、また互いにかみ合うはずのパズルの一片が最後の大詰めまで重なり合わないように工夫してある点である。以下のあらすじは、映画の主たる骨組みになる単位と、それぞれの単位の中の主な登場人物と出来事を並べたものである。これら10に分けられるセクションの長さは均一でない。(全体の?%)は映画全長時間に対するそのセクションの長さである。
*1----プロローグ:ザナドゥ宮殿。ケーンの死。「バラのつぼみ」。(全体の約5%)
*2----ニュース映画:ケーンの死。巨万の富とデカダン風のライフスタイル。矛盾する政治的イメージ。エミリー・ノートンとの結婚。「愛の巣」の発覚。離婚。「歌手」スーザン・アレキサンダーとの再婚。政治的な宣伝作戦。オペラ経歴。大恐慌とケーンの経済的衰退。ザナドゥ宮殿での老後の孤独な隠遁生活。(全体の約10%)
*3----前置き:「バラのつぼみ」の謎を解明するためにケーンの関係者たちに話を聞いてくるようにと指示を受けるトンプソン。「きっと簡単に解明できるだろう。」最初のつまずき、スーザンはトンプソンに話をするのを拒む。(全体の約5%)
*4----フラッシュバック:ウォルター・P・サッチャーの回想。ケーンの少年時代。サッチャーが後見人となる。ケーンの最初の新聞:「インクワイアラー」社に乗り込む。バーンステインとリーランドの登場。新聞改革の時代。1930年代におけるケーンの経済的衰退。(全体の約15%)
*5----フラッシュバック:バーンステインの回想。「インクワイアラー」の初期の時代。「編集基本方針宣言」の発表。出版王国の構築。エミリー・ノートンとの婚約。(全体の約15%)
*6----フラッシュバック:ジェド・リーランドの回想。エミリー・ノートンとの結婚生活の破綻。ケーン、スーザンと出会う。1918年の選挙運動。スキャンダルの暴露記事、エミリーとの離婚、スーザンとの再婚。スーザンのオペラ経歴。ケーンとリーランドとの最終的な決別。(全体の約15%)
*7----フラッシュバック:スーザン・アレクサンダー・ケーンの回想。オペラデビューとオペラ歌手としての経歴。自殺未遂。数年に及ぶケーンとのザナドゥ宮殿における隠遁生活。スーザンとの別れ。(全体の約15%)
*8----フラッシュバック:ザナドゥ宮殿の執事、レイモンドの回想。ケーンの人生最後の日々。「バラのつぼみ」。(全体の約5%)
*9----結末:予想外の「バラのつぼみ」の新事実。プロローグの最初の部分へ逆戻りし、物語の終わりを告げる。(全体の約5%)
*10---出演、製作者のクレジット。(全体の約数%)
[編集] 脚本
『市民ケーン』はしばしば脚本の優秀さで脚光を浴びることになる。機知の豊かさ、構成の厳密さ、そして主題の複雑さで脚光を浴びる。脚本の原作が誰であるかが公開時にも1970年代にも議論を呼んだ。特に後者は批評家であるポーリン・ケールがその著書『スキャンダルの祝祭』において、ウェルズがハーマン・マンキーウィッツの仕上げた原稿に少しだけ加筆修正をほどこしたにすぎないと主張したのをきっかけに、1970年代に大きな話題になったのである。マンキーウィッツはハリウッドでは名の知れた人物であったが、悪名高き大酒飲みで、魅力的で機知に富んではいるが信頼を置けない人物である、と認識されていたからだ。彼がウェルズに最初にこの作品の元になった『アメリカン(american)』の構想を持ち掛けたとき(その後『市民ジョンUSA(John Citizen, USA)』と改題され、最終的には『市民ケーン』という題名になった)、ウェルズは以前の仕事仲間であったジョン・ハウスマンにマンキーウィッツが人里離れた場所で、誘惑から遠ざかり、脚本執筆に専念できるよう助けてやってくれと頼んだという。
ウェルズは脚本の何本かの原稿に広範囲にわたる修正を加えた。それはあまりにも広範囲に及んだためにマンキーウィッツは自分のシナリオとは根本的にかけ離れたものになったと契約破棄を訴えた。彼はまた脚本家としてウェルズの名がクレジットに載ることに異議を唱え、脚本家組合に訴え出た。その当時50%以上脚本執筆に貢献していない場合には、監督はその名を脚本家としてクレジットに載せることが許されなかったのである。組合は折衷案として両者の名前を載せることを許可した上で、マンキーウィッツの名前が必ず先に来なければならないという条件を加えた。
脚本を巡る諸問題が1970年代になってから再度浮上したとき、アメリカの学者ロバート・L・キャリンジャーがすべての論争に終止符を打った。彼は7つの主要な原稿を調査し、さらにその他の仕上げ段階の覚え書きや付け加えられた情報などを洗い直した。キャリンジャーの結論は、初期のマンキーウィッツの原稿は「退屈で緩慢な進行による多くのページがあり、最終的には割愛されるか完全に削除されるにちがいないものだった。そして最も顕著なのは、事実上この映画の最大の魅力であり特徴である文体の流麗さやユーモアがまったく欠けていた」というものだった。要するに、マンキーウィッツが洗練されていない生の素材を提供し、ウェルズが天賦の才能を提供したことになる。
脚本は驚きの連続で輝きをみせる。主要登場人物は当時のほとんどの映画の登場する退屈な典型的な人物とは大違いだ。だが、脚本は簡明で面白い。たとえば、ケーンがスーザンと結婚をする騒々しい場面。2人は厚かましい報道陣にとり囲まれ、この後何がしたいかと尋ねられる。するとケーンは「私たちはこれから偉大なオペラスターになるのさ」と答え、「もしなれなかったら、その時は、私にオペラ劇場を建ててくれるって、チャーリー(ケーン)が言ってくれたの」と調子を合わせる。得意顔のケーンは「その必要はないと思うがね」と言ってのける。そこで新聞の見出しに画面は切り替わり「ケーン、オペラ劇場を建設」という見出しが目に飛び込んでくる。
また、美しい詩的な瞬間もある。たとえば、バーステインが「バラのつぼみ」は長いこと見失った愛のようかも知れないという推察をすると、トンプソンは一笑に付すのだが、ケーンに忠誠を尽くしてその半生を捧げてきた年老いたバーステインが「その良い例が、この俺さ」と言い、意外にも美しい詩的なイメージに満ちたエピソードを話し出すのだ。「時は1896年のこと、ある日私はフェリーでジャージーへ行こうとしていた。こちらが出航しようとしていたときに、別のフェリーが入港してきた。そこにはフェリーから下りるのを待っている女がいた。女は白い服を着て、白いパラソルをもっていた。私はほんの一瞬だけ女性を見た。女は私のことなどまったく気づきもしなかった。だが、私には分かっていたのだ。一ヶ月も経たないうちに私は彼女のことで頭が一杯になるだろう、とね。」ウェルズはこの台詞を映画の中に織り込みたかったと語っている。
主題的には『市民ケーン』なので、かいつまんで紹介することになるだろう。他のウェルズの作品の多くと同様に『市民ケーン』の主題もまた「権力のおごり」と呼ぶにふさわしいものであろう。ウェルズは伝統的に古典的な悲劇や英雄物語の主題となってきた傲慢さや自惚れのために破滅していく人々に心惹かれていた。権力と富は腐敗を招き、腐敗は彼ら自身をも蝕んでいく。大抵純粋無垢な人物が生き残ることになるのだが、彼らはひどく怯えている。ウェルズは「私がこれまで演じてきた登場人物はどれもこれも、ファウストを様々な形で表現したものに過ぎない」と明言する。自身の魂を売り渡す者は誰でも何もかも失うことになるのだ。
ウェルズの悪に対する感覚は成熟しており、複雑で、因習に囚われることは滅多にない。彼は単純化された心理学や道徳的にありふれた戯画化の手法に頼ることなく、彼の同世代の中でも数少ない人間の闇の部分を探求した米国人フィルムメーカーであった。彼の描く世界は、本質的には滅び行く運命にあるものばかりだが、それは曖昧さや矛盾を抱えたまま、時にはつかの間の美の瞬間をも垣間見せながら滅びていく。ウェルズは自分を道徳心のある人間であると考えているが、彼は映画の中で決して道徳家ぶったり、信心深いふりをしたりしない。軽々しく糾弾する代わりに、『市民ケーン』はまさに失われた純粋さへの深い嘆きを表している。ウェルズは言う「この世のほとんどすべての真面目な物語は死を孕む破滅の物語である。しかし、それは単なる破滅というよりは。むしろ失われた楽園の物語と言えるだろう。私にとって、西洋文化そのものが失楽園であり、まさにそのこと自体が私たち西洋文化にとっての重要な主題なのだ。」
物語が時間の経過に沿って真っ直ぐ進んで行かない場合には、何かが失われ、何かが得られる。伝統的な手法による語り方では、通常、主人公は何を望んでおり、それをどのようにして手に入れるのかが問われるのだが、それではサスペンス性が失われてしまう。『市民ケーン』においては、主人公は最初の時点で死んでしまうので、私たちは他者の視点から彼の人生の断片をかき集めて整理統合していかねばならない。この複数の視点から一人の人物を語るという手法は、私たちに語り手の先入観や偏見を考慮せざるを得なくする。そのため『市民ケーン』は語り手たちの物語になっているのである。
それぞれ違った5人の語り手がおり、それぞれが私たちに別々のストーリーを語ってくれる。たとえ同じ出来事が重なっているときでも、私たちはそれらの出来事を異なった別々の視点から見るのだ。たとえば、スーザンのオペラデビューに対するリーランドの判断は、彼女を見下している彼の色眼鏡で語られている。リーランドは彼女の舞台上の姿を基本的には客席から眺めているだけなのだ。同じ出来事をスーザンが物語るときは、カメラは基本的にステージにあり、シークエンスの調子は滑稽どころか、苦しみに満ちたものになる。
ウェルズの語り口はプリズムのように多面的だ。ニュース映画と5人のインタヴューを受ける者たちは同じ一人の男、ケーンをそれぞれの独自の視点で語る。ニュース映画は私たちに公人としてのケーンの人生の重要な部分をかいつまんで見せてくれる。サッチャーの話は、富と権力の精神的優越感と絶対の自信に満ちているケーンの姿に染め上げている。バーンステインの語るストーリーは、彼らがまだ若いときのケーンに対する感謝と忠義の念に覆われている。リーランドはもっと厳しい見方を提供し、彼はケーンが何を言ったかではなく、実際に何をしたかで判断を下している。スーザンは最も被害者的な語り手であるが、また最も哀れみ深く繊細な語り手でもある。執事のレイモンドは、彼の知っている以上のことを知ったかぶりに話すが、彼の短いフラッシュバックはただ、サッチャーの調査を終わりにさせるきっかけに過ぎない。
この映画には実に多くの象徴的なモチーフが使われている。それらの幾つかは技術的なものである。たとえば、カメラアングルとしてはローアングルの映像に支配されていること。カメラの動きは映画の内容に方向性を与えるように使われている。たとえば、私たちがケーンの姿を見ることができるまでには、カメラは多くの障害物を必ず通り抜けねばならないことなどである。さらに、静寂、衰退、老い、死などに固執するモチーフもある。最も重要なモチーフはなんと言っても「バラのつぼみ」と物語の断片化であろう。
「バラのつぼみ」とは、少年時代にケーンが愛用していた橇であったことが最後の最後に判明する。多くの研究家や批評家たちが何十年も「バラのつぼみ」について議論してきたが、ウェルズは少年時代の純真無垢さを表すのに便利な象徴として、「大衆向けの安価な本での俄仕込みのフロイト」理論を使用したのだと説明している。1940年代当時の米国映画では、フロイト理論は幅広い支持を得ていた。特に思春期前の子供の生活はその後の人格形成を決定づける重要な役割を担っている、という説は広く受けいられていた。
しかしながら、「バラのつぼみ」は喪失の象徴というより、もっと一般化された象徴にもなっている。考えてみれば、まずケーンは幼い頃に両親を失った男である。彼は銀行に育てられ、新聞王としての若き理想も失うことになった。後にスーザンをオペラ歌手にするという必死の努力も水泡と化し、スーザンをも失う結果になる。これらのことはただ単純な目標以上のもの、エデンの園のような純真無垢な象徴以上のものでもあったので、「バラのつぼみ」の予想も出来ない真相暴露は、観客に強烈な感情的衝撃を与える効果も生み出した。
断片化のモチーフは、たった一言で複雑な人間性を「説明」しうるなどということを拒否する役割を果たしている。映画を観ている間中、私たちは複数の証言や繰り返し、そして全体像の断片を暗示する映像を見せ続けられている。このモチーフの例は、ジグゾーパズルや、おびただしい数の梱包されたままの木箱や芸術品などである。そもそも映画の構成自体が断片的であり、それぞれの語り手は部分的な情報を私たちに提供するのみである。映画の終わり近くのレイモンドのフラッシュバックにおいて、年老いたケーンがスノーグローブ(置物の一種)を見つけたとき「バラのつぼみ」と呟く。それから彼は茫然自失の状態でスノーグローブを手にしたまま階段を下りていく。そして彼が大きな鏡の間を通り過ぎる時、私たちは鏡に映ったいくつもの彼の姿を永遠に続くもののように見える。つまり、どれもこれもケーンなのである。
[編集] 制作と公開後
『市民ケーン』の興業成績や批評の歴史を紐解くとそれだけでも大いに興味深い話にあふれている。マーキュリー劇団をたたむことになった直後に、メジャーのRKOが弱冠24歳のウェルズに破格の契約を申し出た。一つの映画に付き当時の相場15万ドルの収入、それに加えてその映画の総売上の25%を保証するというものであった。さらに彼はどの映画にも製作、監督、脚本、主演を行う権利をもち、また彼が望めばそのすべてを担当してもよいことになった。つまり、彼は映画において芸術面において全権をまかされたのである。それに対するすべての責任は先見性のあるRKOスタジオの代表、ジョージ・シェーファーが負うことになっていた。
RKOは長期的展望に欠けていたため、いつも財政難であった。スタジオは1928年に資本家ジョセフ・P・ケネディ(後の大統領J・F・ケネディの父親)と、後のNBCにあたるRCAの代表であるデイヴィット・サーノフによって設立された。サーノフは当初「NBC映画部門」と呼ばれるようなスタジオになるであろうと考えていたが、ケネディは500万ドルの収益金を得るとすぐに事業から撤退してしまい、前途有望なスタートであったRKOはすぐに財政難に陥ってしまった。その主原因は絶えず経営方針が変更され、継続性が保てなかったためであった。他のメジャー・スタジオとは違いRKOは一貫した独自性や特徴あるスタイルを打ち出させずにいた。
サーノフと彼の新たなパートナーであるネルソン・ロックフェラーは、RKOをより高尚で斬新な映画を作るスタジオにしたかった。しかし、彼らは芸術性と興業成績とは必ずしも比例しないことを知ることになる。そこで、サーノフとロックフェラーはシェーファーの意見を聞き入れてウェルズを雇うことにする。もし、質が高くかつ収入力の映画を作れる人物がいるとすれば、それはラジオやブロードウェイで成功を収めた若き天才青年ウェルズであろう、と彼らは信じたのである。
ウェルズは1939年にハリウッド入りしたが、彼に対する風当たりは相当に強かった。多くの監督たちにとっては、35歳になるまでにA級映画を監督できたら幸運な方であるというのが当時の業界常識であった。それなのに24歳の青二才で、しかも門外漢が、最初の作品から全権を委任されたのだから気に食わないのも当然だ。ウェルズがRKOの設備を見て回ったときに、「少年のオモチャにしては最大級の電気機関車だろう。」と揶揄された。異彩を放つウェルズはほとんどの会社の古株たちからは芸術家気取りで、生意気で傲慢な奴だと見なされた。ところがウェルズも負けじと、ハリウッド社会を公然と冷笑してみせたが何の助けにもならなかった。「ハリウッドは金ぴかの郊外の町で、ゴルフ好きや庭いじりが趣味な人、平々凡々なが好きな奴や現状に満足している女優の卵にはもってこいの町だ。」と、いかにも面白おかしく語ったのだ。この若さ故の軽薄な冗談のおかげで、結果的には大きな犠牲を払うことになった。
製作当初から『市民ケーン』には難題がついて回る。製作現場の総責任者であるウェルズは、ハリウッドの映画界に姦しい憶測が飛び交うのも気にせず、「極秘裏」に映画撮影を続けた。それでも主人公のモデル探しの噂は瞬く間に広まった。出版王ハーストのゴシップコラムニストであったロウレラ・パーソンズは、この映画が自分のボスの私生活を扱うものだと噂を聞きつけると、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの全面的支援と協力を得て、パーソンズ主導の元に映画に対する反対運動を展開した。
映画が完成に近づくにつれ、ハーストの反対運動は一層激しさを増した。ハースト側は映画が配給される前に廃棄処分にしないと、スキャンダルや暴露記事を載せ続けると圧力を強めた。映画業界でもっとも影響力のある人物、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのルイス・B・メイヤーもこの圧力の片棒担ぎをして、もしネガフィルムを廃棄したら、RKOがこれまでに使った製作費用全額と廃棄処分による損益の全額を賠償してもいいという申し出をしてきた。さらにハースト側は他のスタジオにも、仮に配給されても彼らの系列の映画館では上映させないようにと圧力をかけた。さらにウェルズをコミュニストで徴兵忌避者であるという批判を彼の傘下の新聞紙上に掲載し続けた(事実、ウェルズは健康上の問題を理由に徴兵を忌避している。)これに対しRKO側は戦々恐々となり、態度の保留を余儀なくされた。ウェルズ自身はもし映画が公開されなければ、告訴するとRKO側に迫り、ついにRKOはリスクを背負う形で製作の続行を決断したのであった。
とるに足りない例外があったが、映画『市民ケーン』は批評家たちから絶賛を浴びる。ニューヨーク・タイムズ紙のボスリー・クローザーは『市民ケーン』を「少なくとも映画史上で最も偉大な映画のうちの1本(もっとも偉大ではないともしても)である」と評している。アメリカ映画界豊作の年といわれた1941年ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀作品賞に輝いた。それに続きアカデミー賞においても、9つの部門でノミネートされたのだが、ウェルズは授賞会場で彼の名前が呼ばれるたびに野次を飛ばされたのである。そして注目すべきは、オスカーを手にしたのは、結局脚本賞だけだったことである。ポーリン・ケールの指摘によると、この受賞はハリウッド業界の常連マンキーウィッツに対する支持の現れであり、主演、監督、最優秀作品などの部門では軒並みオスカーを逃したのは、成り上がり者、ウェルズに対する非難の表れであったということになる。
信じられないことに『市民ケーン』は興行的に失敗であった。そして、それはウェルズのキャリアの終わりの始まりであった。次回作『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)では先行試写会で不評であった事を理由にRKOは133分あったフィルムを88分までカットし、さらにハッピーエンドというシナリオまで加えたのである。しかし、その興業も失敗に終わる。その後すぐにRKOは経営再編を行い、その地位を追われてしまうのである。
[編集] 撮影技術
グレッグ・トーランドはウェルズがキャメラマンを探していると聞きつけて自ら名乗りをあげた。元々伝統的な映像スタイルに反発する気質を持っていたが『嵐が丘』(1939)でアカデミー賞を獲得し、優れたテクニックと早撮りで知られ、映像に対しては新らし物好き、派手好みという傾向の有ったトーランドは、企画段階から関わるなど壮絶な熱意を持って『ケーン』に携わった。画質の特徴は既に述べられた通りだが、これはかなり早い段階からトーランドとウェルズの間で合意されていた。RKOは当時サミュエル・ゴールドウィン社の専属だったトーランドを週700ドルで雇い、トーランド専属クルーと専用の機材を借り出す事になった。その機材の中には当時最新のミッチェルBNCカメラ(『嵐が丘』でも使われた)や、クック製の24mm広角レンズなどが有った。 この新しいカメラではイン・キャメラ・エフェクトが可能で、スーザンの自殺未遂シーンは、まず画面の手前だけ撮影し、フィルムを巻き戻して今度は奥だけを撮影するという手法で得られた。またこのミッチェルBNCは防音装置を取り付け可能で、それまでのカメラより駆動ノイズを低減させアフレコに拠らず現場で録音した音声を本編に使う事が出来る利点も有った。
ディープフォーカスを得るためにレンズの絞りをF8~16まで絞る。これは直射日光の下で撮影する時の値である。当然光量不足のため大規模な照明器具が必要になるところだが、当時ようやくASA64程度になったフィルムを3本使ってカラー映像を得るテクニカラーが開発されたばかりで、極端な露出不足を補うため大型のアークライトが開発されていた。一方で、増感現像も一部のシーンで行われている。
さらに効果的に使われているのがやはり当時最新の技術だった光学合成である。実写とマット・ペインティングの合成を可能にするオプティカル・プリンターはRKOに在籍していたリンウッド・ダンによって開発された装置なのでRKOならではの技術と言える。映画全編のうちオプティカル処理された部分は80%に及ぶとダンは証言している。マット・ペインティング作成にはウォルト・ディズニー・スタジオに所属していたペインターが多数参加したといわれる。
なお、当時の映画フィルムは基材がセルロイドで出来ていた。セルロイドのフィルムは後年開発された酢酸セルロースフィルムや今日のポリエステル・フィルムよりも透明度は勝るが燃え易く、ウェルズが持っていた本作のオリジナル・ネガは70年代にウェルズの別荘の火災で焼失した。
『ローマの休日』などのフィルム修復を行ったdtsデジタルイメージが残っていた素材フィルムに基づいてデジタル修復を行った版が2001年に製作60周年を記念して公開された。
- 日本国内ではパブリック・ドメインとなった現在複数のメーカーからDVDが発売されているが、修復版ではない。
[編集] 与えた影響
当然ながら、その後作られた映画作品に『市民ケーン』が与えた影響ははかり知れない。ハイライトと暗闇とのハイ・コントラストはフィルム・ノワールでよく目にする技法であるし(ウェルズの評価は戦後フランスで始まった)、ウェルズが若手監督の中で最も重要と語ったスタンリー・キューブリックは『2001年宇宙の旅』のHAL 9000コンピュータが機能停止させられる際にケーン同様原体験を語らせている。
グレッグ・トーランドと数々の名作を生み出したウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』でもアン王女が「薔薇のつぼみの柄のナイトガウンを」と言う台詞があったり、よく似たニュース映像など『市民ケーン』の引用ともとれる点が在る。パン・フォーカスや長廻しの多用は他のワイラー作品にもみられる特徴である。
日本の小津安二郎は昭和18年にシンガポールで、撤退した米軍が残していった米国の映画に含まれていた『市民ケーン』を、後に小津作品の撮影を手がける厚田雄春と共に観た。日本で『市民ケーン』が公開されたのは小津が没した3年後の昭和41年のこと。日本人として誰よりも早くこの作品を観た小津は戦前既に試みていたパン・フォーカスがふんだんに採り入れられている事に驚き、ウェルズの初監督作品という点にも衝撃を受け、帰国後に「チャップリンが62点ぐらいだとすると此奴は85点ぐらい」と振りかえっている。小津もパン・フォーカス、ローアングルに拘った作品を作り続けた。あるいはこれも『市民ケーン』の影響とされる。
なお、当然ながら戦中の日本では公開されず、戦後の占領時の日本には「アメリカの暗黒面を表現した映画」として、公開されなかった。そのため、一般の日本人がこの映画を初めて見たのはなんと、1961年1月19日のNHKテレビでの放映だったという[1]。
撮影用小道具としての「薔薇のつぼみ」の橇(予備)は現在スティーヴン・スピルバーグが所有している。
[編集] 脚注
- ^ 小林信彦『1960年代日記』
[編集] 参考資料
- CALLOW, SIMON, Orson Wells: The Road to Xanadu (New York : Penguin, 1996)
- THOMPSON, DAVID, Rosebud (New York : Knopf , 1996)
- GIANNETTI, LOUIS , Understanding Movies (New Jersey : Pearson Education, 1999)
- 『市民ケーン』、すべて真実(ロバート・L・キャリンジャー著/藤原敏史・訳 筑摩書房リュミエール叢書,1995)

