ルイス・ブニュエル

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ルイス・ブニュエル(Luis Buñuel, 1900年2月22日 - 1983年7月29日)はスペイン出身の映画監督である。フランス、スペイン、アメリカ、メキシコで多種多様な映画を撮った。特にシュールリアリズム作品とエロティシズムを描いた耽美的作品で有名。キリスト教に関する作品もあり、物議を醸した。

目次

[編集] 略歴

[編集] 生涯

1900年にスペイン・アラゴン地方のカラダンで地主の家に生まれる。17歳のときにマドリードに出て7年間を学生館で過ごし、後に詩人として有名になるフェデリコ・ガルシーア・ロルカ、画家として有名になるサルバドール・ダリなどと交友を結ぶ。最初は自然科学を学ぶが、途中で歴史学、哲学に変更。

1923年に父が死に、1925年にパリに出る。批評を書き、映画撮影所に出入りして助監督などをしているうちに当時の前衛芸術であるシュールリアリズム運動を知る。スペインに一時帰国したとき、まだ無名だった友達のダリと見た夢の話をしているうちに、それをもとに映画を作ることになる。二人で脚本を書き、パリに戻って『アンダルシアの犬』を撮影。女性の眼球(実際には牛の目が使われた)を剃刀でいきなり切るというスキャンダラスなシーンからスタートするこの映画は熱狂的な拍手で迎えられて、ダリとブニュエルはアンドレ・ブルトンらのシュールリアリスト達の輪の中に迎えられる。今も同作品はシュールリアリズムを代表する古典である。

その直後にダリとブニュエルは『黄金時代』を撮るが、右翼がスクリーンに向って爆弾を投げつける事件が起きて、その後50年間公開禁止となる。その後、ブニュエルはスペインに戻ってドキュメンタリー映画『糧なき土地』を撮影。スペインの最貧地方の生活を描いたこの映画はファシスト達の愛国心的反発を誘発し、これも公開禁止となる。国辱映画を作ったとして、ブニュエルはフランシスコ・フランコ政権下で指名手配までされることになる。

スペイン内戦が勃発し、ブニュエルは共和国側のフランス大使のスタッフとして東奔西走する。共和国側がファシストに敗北した頃はアメリカに渡っていてニューヨーク近代美術館で反ファシズム映画を集めるという仕事に就くが、あまりにも世間知らずなダリが『わが秘められた生涯』の中で「ブニュエルは無神論者だ」と発言することによって職を失う。

ハリウッドに移って映画周辺の仕事をしたあと、メキシコに移る。ここで久々に映画監督を再開し、コメディ映画『のんき大将』でヒットを飛ばし、社会主義リアリズム映画の傑作『忘れられた人々』によってカンヌ映画祭で監督賞を受賞。50歳にて国際的に返り咲く。

そこから後は、メキシコにとどまって低予算映画を量産し、『この庭での死』、『ロビンソン漂流記』などの冒険映画、『嵐が丘』などの文芸映画、偏執狂の男を描いた『エル』、不条理映画とでもいう傑作『皆殺しの天使』、どう形容してよいか苦しむ『スサーナ』、大衆向け娯楽作品の『昇天峠』、『幻影は市電に乗って旅をする』など多種多様な映画を撮る。この「メキシコ時代」の作品は、知名度が低い時期が続いたが、ブニュエルらしい映画として批評家の間で愛されているものも多く、ブニュエル没後は再評価が高まっている。アメリカ資本でも2本撮っている。

1961年にスペインに招かれて『ビリディアナ』を撮影。フランコ将軍が健在な時期に帰国したことで共和国側の亡命者達の間で非難轟々となる(やはり共和国側亡命者だったパブロ・ピカソ等は「フランコ政権が続く限りスペインには戻らない」と宣言してそれを死ぬまで守っている)。だが、当局の検閲を通り、スペイン映画として初のカンヌ国際映画祭グランプリを取ったこの映画は、乞食たちが最後の晩餐のパロディーを行うシーンがもとでスキャンダルを巻き起してスペインとイタリアで上映禁止。「スキャンダル映画監督」の健在ぶりを示す。

1963年以降はフランスに招かれジャンヌ・モロー主演で『小間使いの日記』を、カトリーヌ・ドヌーヴ主演で『昼顔』や『哀しみのトリスターナ』などの耽美映画を撮り、フランス映画界の異色の重鎮となる。そして『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『自由の幻想』というギャグ映画のようなもので観客を戸惑わせ、キリスト教異端事典で脚本を書いたという『銀河』や、同一人物の役をシーンによって二人の違う女優に演じさせた『欲望のあいまいな対象』で観客を煙に巻いた。1983年に死去。

[編集] 作品をめぐる評価

ブニュエルはデビュー作『アンダルシアの犬』の印象が強いためにシュールリアリズムの映画監督とされることが多いが、実際には多種多様な映画を撮っている。狭義の意味でシュールリアリズム映画と言えるのは最初の『アンダルシアの犬』と『黄金時代』の2作であろう。ブニュエルの作品を全てシュールリアリズムで捕らえようとする評論家もいるが、広義に解釈してもせいぜい『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』『自由の幻想』が入る程度だろう。ブニュエルの32作品からすればそれは一部でしかない。

ただ、『昼顔』のラストシーンのように、リアリズムでは説明のつかない不思議なシーンがブニュエル映画には顔を出し、それが「シュールリアリズム的」と評される元ともなっている。『忘れられた人々』では「ビルの工事現場で演奏するオーケストラ」がちらりと見えるシーンを撮影しようとしたり(実際にはプロデューサーが止めさせたが)、『欲望のあいまいな対象』ではスーツを着た主人公に意味もなくズタ袋を担がせたシーンを挿入するなど、合理的な意味解釈を拒否したり、混乱させることをブニュエルは好んでいる。

合理的解釈の拒否という点での極北はメキシコ時代の傑作と言われている『皆殺しの天使』だろう。上流階級の人々が晩餐会を催すのだが、不思議なことに誰も帰ろうとしない。皆で夜を明かすのだが、誰一人としてどうしても部屋から出られないのである。そして時間だけが過ぎていくというのが物語のプロットであるが、「何故彼らは部屋から出られないのか」という疑問に一切回答は与えられないままに映画は進行する。また、「部屋から出られない」ことに何かの暗喩が込められているのではないかという詮索にも、一切の手がかりを与えない。

やはりメキシコ時代の『昇天峠』では、主人公が峠を越すバスに乗ったものの次から次へと取ってつけたような邪魔が入って、なかなか峠を越すことができない。「越すことができない峠」に何らかの比喩なり暗喩を嗅ぎ取ることも可能かもしれないが、バスへの運行妨害がひたすら続いていくそのプロセス自体を楽しむ娯楽映画と考えるのが健全に思えてくるのがこの映画の魅力である。晩年の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にしても「なぜか食事にありつけない人たち」のエピソードが延々と続くだけなのだが、そのエピソード自体を愉しむように仕向けられる。世界の映画人の中でのブニュエルの高い人気は、こうした解釈を拒否して映画自体で楽しませようとする姿勢にあると考えられる。

こうした姿勢は『ブルジョワジーの密かな愉しみ』や『自由の幻想』の中では特に貫徹されており、不可思議なエピソードが能天気なまでに脈絡なく続き、それぞれのシーンも投やりで撮影したとしか思えないほどである。例えば『自由の幻想』での「連続乱射犯の流れ弾で街路樹から落ちる鳥」のシーンでは、剥製としか見えない鳥が樹からボトっと無機質に落ちるだけである。

だが、これらとは対照的にカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』では濃密でエロチックな描写をやって見せるし、『小間使の日記』『哀しみのトリスターナ』『ビリディアナ』、あるいはメキシコ時代の『嵐が丘』などの文芸映画では正当すぎる程の演出力を見せ付けてくれもする。『ロビンソン漂流記』、『河と死』、『それを暁と呼ぶ』は冒険映画としての面白さに満ち、『忘れられた人々』は社会主義リアリズムの傑作として評価された。ついでに書けば、『グラン・カジノ』は娯楽ミュージカル映画で、メキシコでヒットを飛ばした『のんき大将』はコメディ映画、『糧なき土地』はドキュメンタリーである。

ブニュエルの世界はかくも幅が広く、ハリウッドの映画人にも人気があった。1972年に久々にハリウッドを訪ねたブニュエルはジョン・フォードアルフレッド・ヒッチコックウィリアム・ワイラービリー・ワイルダーロバート・ワイズフリッツ・ラングらそうそうたる人々から歓待を受けている。このとき、ヒッチコックは『哀しみのトリスターナ』で切断されたドヌーヴの脚について語り続けたという。ハリウッド系ではないが、ウディ・アレンは『アニー・ホール』のために「ルイス・ブニュエル」自身の役でブニュエルに出演を依頼したこともある。

[編集] ブニュエルとキリスト教

ブニュエル映画について語る上でキリスト教は避けて通れない話題である。少年時代に厳格なイエズス会の学校に通わされた反発と、アナーキーなシュールリアリズムからの影響で、ブニュエルは自分のことを筋金入りの無神論者と自称していたが、実際には愛憎半ばする感情をキリスト教に抱いていたものと思われる。

『黄金時代』と『ビリディアナ』がキリスト教を茶化しているとされて上映禁止にされた話は有名だが、その一方では歴史上実在した柱頭修行者聖シメオンを描いた『砂漠のシモン』という作品もある。この映画では最後にシモンが悪魔の誘惑に負けるので反キリスト教的作品と見ることは可能だが、純粋な行者であるシモンに対する悪意を映画の中に感じることはできない。また、メキシコ時代には純粋無垢な神父を描いた『ナサリン』という映画があり、アメリカのカトリック教会から賞も貰っている。「純粋無垢な神父」を描くことでカトリックを馬鹿にしたのか賞賛しようとしたのか、ブニュエルの真意は一筋縄では捉えられないのだが、相反する感情を抱いていたと考えるのが妥当と思われる。『銀河』に至ってはキリスト教の異端事典を元に脚本が書かれている。

[編集] 監督作品

ウィキメディア・コモンズ