スパイク・リー

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スパイク・リー
Spike Lee
Spike Lee
2009年のトライベッカ映画祭にて
本名 Shelton Jackson Lee
生年月日 1957年3月20日(57歳)
出生地 ジョージア州アトランタ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 トーニャ・ルイス(1993年- )

“スパイク”シェルトン・ジャクソン・リー(Shelton Jackson "Spike" Lee, 1957年3月20日 - )は、ジョージア州アトランタ出身の映画監督プロデューサー作家俳優である。発表する作品ごとに社会的・政治的な問題を扱い、論争を巻き起こす事で有名である。現在ニューヨーク大学コロンビア大学ハーバード大学常勤教授として映画について教鞭を執っている他、母校であるモアハウス大学でも時折教壇に立っている。彼が設立した映画制作会社40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークス1983年以来35本の映画を公開している。

生い立ち[編集]

ジョージア州アトランタで、ジャズ・ミュージシャンである父ウィリアム・ジェームス・エドワーズ・リー三世、通称ビル・リー教師であると同時に作家でもある母ジャクリーン・シェルトンの間に生まれた。幼い頃に家族でニューヨークブルックリンに転居している。ブルックリンのフォート・グリーン地区は、彼が設立した映画製作会社である40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークスが運営されている場所で、他にリー自身が所有するビジネス、リーに関連するビジネスの多くも同地区を本拠地にしている。リーは幼少期に母親に「スパイク」というあだ名をつけられた。ブルックリンのジョン・デウェイ高校に通った後、最初の作品『ラスト・ハッスル・イン・ブルックリン』を製作した頃には、アトランタのモアハウス大学で学んでいた。彼はクラーク・アトランタ大学でも映画のコースを取り、モアハウス・カレッジでマスコミ学士学位を取得した。その後ニューヨークに戻り、ニューヨーク大学ティッチ・スクール・オブ・アートに入学し、1982年ファインアーツ修士を得て卒業している。

彼が大学院卒業課題のために製作した映画は『ジョーズ・バーバー・ショップ』で、学生が製作した映画として初めてリンカーン・センターでのニュー・ディレクター・ニュー・フィルム・フェスティバルに出品された。この映画は全米の大学生・大学院生を対象にした学生アカデミー賞でも大賞を受賞している。1985年、スパイク・リーは初めての商業映画に挑戦した。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』は予算16万ドルで製作され公開期間はわずかに2週間という悪条件にもかかわらず、翌1986年に公開された時には700万ドルを超える興行成績を残しスパイク・リーの才能のほどを世間に知らしめた。

『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』の成功が、スパイク・リーのCM監督としての新たなキャリアにつながっていく。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を見たスポーツシューズ・メーカーナイキのマーケティング部門が、ナイキのCM撮影を彼に依頼したのである。ナイキは、『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』に登場するマイケル・ジョーダン狂のキャラクター、マーズ・ブラックモン(リー本人が演じた)をエア・ジョーダンのCMでジョーダン本人と共演させようと考えたのだった。

その後、エア・ジョーダンを巡って、暴力事件がインナーシティで多発する事態になると、スパイク・リーは批判の矢面に立たされることになる。リーは、責められるべきはアパレルメーカー側でなく、「インナーシティーの若者がスニーカーとジャケットと金細工のアクセサリーくらいにしか価値を見出せない状況こそが改善されなければならないのだ」と反論している。リーは自身の製作会社の広告制作部門でコンバースジャガータコベルベン・アンド・ジェリーズのCMを制作した。

スパイク・リーの映画は人間や場所を描き出すものである。人種間の関係、現代におけるメディアの役割、都市部の犯罪と貧困、そして政治的な問題を見据える。彼は多くの作品で特徴ある音楽の使い方をしている。彼の父親ビルは著名なジャズ・ベーシストで、スパイク・リーのいくつかの作品で音楽を担当している。例を挙げると、後にスパイク・リーと盟友関係を築く事になるデンゼル・ワシントン主演のジャズ映画『モ'・ベター・ブルース』があり、ビル・リーは終盤の結婚式のシーンで花嫁の父親役として出演もしている。花嫁役のインディゴ・ダウンズ演じるジョイ・リーはビル・リーの娘でありスパイクの実妹である。

1989年、スパイク・リーは自身の監督作『ドゥ・ザ・ライト・シング』でアカデミー脚本賞にノミネートされた。また1997年、ドキュメンタリー映画『フォー・リトル・ガールズ』ではアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

論争[編集]

スパイク・リーは今までどんな論争にさらされようとも、人種間の関係について語ることを恐れたことはない。1992年、自身が制作した映画『マルコムX』を観るために学校を抜け出したとして糾弾されていた数名の黒人生徒を擁護した。その10年後には、ミシシッピ州上院議員のトレント・ロットが「1948年ストロム・サーモンドが大統領候補者に当選していれば良かった」と語った事件(サーモンドの項を参照)が紙面を騒がせた後、リーはABCテレビの看板番組『グッド・モーニング・アメリカ』でロットが正真正銘のKKKメンバーであると非難した[1]

スパイク・リーは1995年公開の映画『ニュージャージー・ドライブ』でエグゼクティブプロデューサーを勤めた。この映画ではニュージャージー州に住むアフリカ系アメリカ人自動車窃盗について描いている。当時、同州ニューアークでは全米で最も多く自動車泥棒が発生しており、当時のニューアーク市長シャープ・ジェームスはニューアーク市内でこの映画の撮影を許可しなかった。数年後の2002年、スパイク・リーはニューアーク市市長選でジェームスの敵対候補者コリー・ブーカーの支持を表明した。

1999年5月、カンヌ国際映画祭でスパイク・リー初の非黒人映画『サマー・オブ・サム』が公開され、リーはコロンバイン高校銃乱射事件についてハリウッドが受けている非難について質問された。リーは映画とテレビが問題だとは思わないと答えた。映画とテレビが青少年に与える影響についてインタビューされたリーは、米国の銃の問題が解決していないことについて語り、例として全米ライフル協会の名を挙げた。リーはこの件について詳しく語っている。

「彼らが『じゃあチャールトン・ヘストンについてはどうなんだ?』って訊いたから、『奴を撃て!』と言ったのさ。でもすぐに笑いながら『冗談だよ』って言ったんだよ。暴力が暴力を呼ぶことに対する単なる皮肉なジョークだったのさ」。メジャーなマスコミに以前から誤った解釈をされてきたため、リーはさらに続けて周りに集まったリポーター達に冗談を言った。「明日の朝は起きたくないな。朝刊の一面には俺がどれほどチャールストン・へストンを撃ってやりたいと思っているかって書かれるだろうからさ」

皮肉なことに、それは現実のものになった。保守派の擁護者であるルパート・マードックが所有している有力紙『ニューヨーク・ポスト』は、状況説明を省いてまるでリーが実際にへストンの死を望んでいるかのように書いた。この話はアメリカ議会にまで届き、共和党の代表ディック・アーメイは、リーは「教育現場における暴力問題についてより多くの暴力とより強い憎しみ以外に何も提供するものがない」と非難する声明を出した。リーが何度もメディアに出たり新聞社に話して訂正をしたにもかかわらず、実際の引用よりも誤った引用のほうが広く知られたままになっている[2]

さらに最近では、リーは2005年にアメリカ中西部を襲ったハリケーン・カトリーナ災害に対する連邦政府の対応について意見を述べている。CNNニュースキャスターが連邦政府はハリケーン・カトリーナの災害で苦境にある黒人を見捨てたと思うかと訊ねると、リーは「ありえない話というわけでもない。俺はアメリカ政府を信用していないから。彼らが黒人全員をニューオーリンズから移動させようとしているとしてもありえない話じゃないと思う」と答えている[3]。この後、スパイク・リーはハリケーン・カトリーナの災害を主題にしたドキュメンタリー『ウェン・ザ・リーヴス・ブローク』を監督している。

また2006年に公開されたクリント・イーストウッドの映画『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』について、黒人俳優が出演していない事を理由にイーストウッドを人種差別主義者と決め付け、イーストウッドがそれに反論したことから両者とも激しい舌戦を繰り広げたが、スティーヴン・スピルバーグが両者の仲介を引き受ける形で間に立ち和解した、とスパイク・リーは最新作『セントアンナの奇跡』が公開された後のインタビューで答えていると同時に、舌戦を後悔した、とも語っている。現在では両者とも良好な関係を維持している(なお、人種差別が当然のように行われていた当時のアメリカ軍において、黒人兵が戦闘兵科に付いたのは前年12月ヨーロッパ戦線におけるバルジの戦い前後からのことであり、硫黄島攻略戦当時においても黒人兵はアメリカ軍上陸部隊の1%に満たなかった)。

私生活[編集]

スパイク・リーは1993年10月3日ハーレムのリバーサイド教会で弁護士のトーニャ・ルイス(現在はトーニャ・ルイス・リー)と結婚。彼女とは、1992年9月の黒人政党支部会の年次総会があった週末、ワシントンDCで出会った。2人は支部の晩餐会に出席しており、彼女は妹のトレイシーと出席していた。彼女は、サラ・ローレンスからバージニア大学の法学部を卒業していた。スパイクは、著書『スパイク・リーのバスケットボール・ダイアリー』の中で、「彼女のはっとするような美しさに思わずのけぞった」と語っている。2人の結婚式には数百人の招待客が詰め掛け、親友のデンゼル・ワシントンは勿論、NBA選手のパトリック・ユーイングなど、親交の深い著名な人物が多く出席し、スティービー・ワンダーが2人を祝福して歌った。

1994年12月2日に第一子である女の子サッチェル[4]1997年には息子のジャクソンを授かった。

自身とバスケットボールについて何冊も本を出版している程のバスケ好きで、特にNBAニューヨーク・ニックスの熱狂的ファンとして有名である。ニックスの試合はいつも最前列で観戦し、相手チームの選手に野次を飛ばすことも多い。1994年東部カンファレンスファイナルの第5試合でインディアナ・ペイサーズに93対86でニックスが負けたとき、リーはペイサーズのレジー・ミラーに対して第4クォーターの間じゅう罵倒嘲弄を繰り返し、それに応酬する形でミラーが次々とシュートして25点も加算したため、翌日の『ニューヨーク・デイリー・ニュース』紙の一面には皮肉たっぷりに「どうもありがとう、スパイク」と書かれていた、ということもあった。

トリビア[編集]

主な監督作品[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]