羅生門 (1950年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
羅生門
Rashomon
監督 黒澤明
脚本 黒澤明
橋本忍
製作 箕浦甚吾
出演者 三船敏郎
森雅之
京マチ子
志村喬
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
編集 西田重雄
製作会社 大映京都撮影所
配給 日本の旗 大映
公開 日本の旗 1950年8月26日
イタリアの旗 1951年9月
アメリカ合衆国の旗 1951年12月26日
フランスの旗 1952年4月18日
上映時間 88分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
テンプレートを表示

羅生門』(らしょうもん)は、1950年昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎京マチ子森雅之志村喬モノクロスタンダード、88分。

芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。

自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影[注釈 1]を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限に映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した[1]。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。

日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞アカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。

あらすじ[編集]

平安時代。打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も乱れて荒れ果てた京の都。雨が降る中で羅生門下人がやって来る。雨宿りのためであったが、そこに杣売り旅法師が放心状態で座り込んでいた。下人は退屈しのぎに、二人が関わりを持つことになった事件の顛末を聞くと、二人は3日前に起こった恐ろしくも奇妙な事件を語り始める。

ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、侍・金沢武弘の死体を発見した。そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。杣売りは検非違使に届け出た。旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された侍が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。

やがて、侍を殺した下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、侍を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、その後に女が「自分の恥を二人に見せたのは死ぬより辛いから、どちらか死んでくれ、生き残った方のものとなる」と言ったため、侍と一対一の決闘をして勝った。しかし、その間に女は逃げてしまったと証言した。短刀の行方は知らないという。

しばらくして、生き残っていた武弘の妻・真砂が検非違使に連れて来られた。真砂によると、男に身体を許した後、男は夫を殺さずに逃げたという。だが、眼の前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、思わず我を忘れて自分を殺すよう夫に訴えたが、余りの辛さに意識を失い、やがて気がついた時には、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。

そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫・武弘の霊は、妻・真砂は多襄丸に辱められた後、多襄丸に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように彼に言ったのだという。そして、これを聞いた多襄丸は激昂し、女を生かすか殺すか夫のお前が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害しただという。

それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えて、杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、浅はかななものであった。多襄丸が真砂を犯した後に、多襄丸は真砂に自分の妻になってくれと哀願すると真砂は悪魔のような顔になって武弘と多襄丸とを決闘させた。その間に真砂は逃亡して武弘は多襄丸に殺されたのだと言う。

杣売りは人間不信を露わにするが、ところが下人は杣売りの話も信用しなかった・・・。

製作・公開[編集]

製作経緯[編集]

伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であった[1]が、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した。

当時黒澤は、東宝争議の影響で成瀬巳喜男山本嘉次郎本木荘二郎らと共に映画芸術協会を設立してフリーとなっていたが、同協会は大映と契約を結んでいたこともあり、同社で製作交渉を行った。しかし、大映はこの難解な作品の映画化に首をひねったため、黒澤は社長の永田雅一に「セット一杯で出来る」と説得してようやく企画が了承された[2]

撮影[編集]

撮影は大映京都撮影所で行われた。その撮影所前の広場に原寸大の「羅生門」のオープンセットを建設した。このセットは間口18間(約33メートル)、奥行12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)[1]で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。さらに門の右側を大きく崩し、荒廃した姿を再現した。完成された門はとても巨大なものになり、黒澤も「私もあんな大きなものを建てる気はなかった」[3]と語っている。大映重役の川口松太郎も「黒さんには一杯食わされたよ」と愚痴っている[3]。門の扁額は縦1メートル20センチ、横2メートル15センチの大きさで、字は書家の宇野正太郎によるもの[注釈 2]。この門以外に作られたセットは検非違使の白洲のみで、森のシーンは奈良奥山の原生林と光明寺の森でロケーション撮影された。

冒頭の雨のシーンでは、モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせたという。このやり方は『七人の侍』の豪雨の中の合戦シーンでも用いている。

出演者は黒澤映画常連の三船敏郎志村喬千秋実らに京マチ子森雅之上田吉二郎、端役に加東大介本間文子の8人のみである。ヒロインの真砂役は当初、原節子でいくつもりだったが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まったという。

完成間際の1950年(昭和25年)8月21日、アフレコ収録中に撮影所が出火し、オリジナルネガは無事だったが、一部の音ネガが消失。さらにその翌日には映写機でのテスト中に再び炎が上がり、フィルムから放出された毒ガスにより30人ほどのスタッフが病床につくというアクシデントが起きてしまう[4]。試写会は8月25日の予定だが、黒澤は残り2日間で録音作業を行い、なんとか試写会に間に合わせている。

公開[編集]

8月25日、大映本社4階で試写会が行われた。しかし、試写を見ていた永田社長は「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ってしまった。さらに永田は総務部長を北海道に左遷し、企画者の本木荘二郎をクビにさせている[5]

この翌日8月26日に本作は公開されたが、難解な作品だということもあり、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベストテンでも第5位にランクインされる程度だった。興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。

同年末、ヴェネツィア国際映画祭カンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られた。先に行われるカンヌ国際映画祭の候補作を選ぶため、各映画会社からお勧めの作品を選ぶこととなり、大映からは吉村公三郎の『偽れる盛装』と『羅生門』を選出した[注釈 3]。その中から関係者による投票を行い、上位2作品『また逢う日まで』と『羅生門』が候補作として選ばれた。しかし、『また逢う日まで』は製作会社の東宝争議の影響で出品費用が捻出できないため辞退、『羅生門』が残るも、こちらも辞退してしまっている。

そんな中、イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョリは、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなったが、何本と候補作を見ているとその一本である『羅生門』を観て感激し出品作に決めたが、大映側がこれに反対。そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて映画祭に送った。

当時、大映の重役をはじめほとんどの人々が作品の受賞を期待していなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で上映されるや否や大絶賛され、1951年(昭和26年)9月10日金獅子賞を獲得したのである。しかし、日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかったため、急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりにトロフィーを受け取ることになった。この姿は写真報道され、この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの誤解を招いたこともあった。

永田は受賞の報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返し、「訳分からん」と批判していたにもかかわらず、手のひらを返したように大絶賛し始め、自分の手柄のように語った。人はそんな永田の態度を「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄した。黒澤も後年このことを回想し、「まるで『羅生門』の映画そのものだ」と評している[3]。その後の大映は娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、吉村公三郎の『源氏物語』、溝口健二の『雨月物語』『山椒大夫』、衣笠貞之助の『地獄門』といった同社作品が次々と海外映画祭で受賞している。

黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で初めて知ったという。後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしている。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど、「あれは まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ。」[1]

1951年度の第24回アカデミー賞では日本映画初の名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞。翌1952年(昭和27年)度の第25回アカデミー賞では、美術監督賞(白黒部門)にノミネートされ、この授賞式には淀川長治が出席した。

『羅生門』のグランプリ受賞は、当時まだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた日本人に、古橋廣之進競泳で世界最高記録を樹立したことと、湯川秀樹ノーベル物理学賞を受賞したことと共に、現代では想像も出来ぬ程の希望と光明を与えた。この受賞により黒澤明監督と日本映画は世界で評価されていき、日本映画も黄金期へと入っていった。

評価[編集]

ランキング[編集]

本映画は現在に至っても国内外で高く評価され、映画批評家を対象にした過去作品のランキング等に載っている。

  • 1959年:「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」(キネマ旬報社発表)第12位
  • 1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第9位
  • 1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第15位
  • 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第4位
  • 1995年:「オールタイムベストテン」(キネ旬発表)
    • 「日本映画編」第7位
    • 「世界映画編」第33位
  • 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第5位
  • 2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第7位

以下は海外でのランキング

  • 「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)※10年毎に選出
    • 1982年:「映画批評家が選ぶベストテン」第81位
    • 1992年:「映画批評家が選ぶベストテン」第66位
    • 1992年:「映画監督が選ぶベストテン」第10位
    • 2002年:「映画批評家が選ぶベストテン」第13位
    • 2002年:「映画監督が選ぶベストテン」第9位
    • 2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第26位
    • 2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第18位
  • 2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第10位
  • 2010年:「史上最高の外国語映画100本」(英『エンパイア』誌発表)第22位
  • 2010年:「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第14位

受賞歴[編集]

受賞

ノミネート

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

多襄丸:三船敏郎
都の内外に悪名が轟く盗賊。女好きとしても有名。真砂の美貌や気性の激しさに惹かれ、金沢夫婦を襲う。
金沢武弘:森雅之 
旅をしている武士。言葉巧みに多襄丸に山奥まで連れて行かれ、木に縛られ、妻を手籠めにされる。
真砂:京マチ子
金沢の妻。一見、おとなしく貞淑な妻だが、内心では激しい気性を抱えている。
杣(そま)売り:志村喬
金沢の遺体の第一発見者。事件を目撃し、人間不信になるが、最後に人間らしさを取り戻し、捨て子を育てようと決心する。
旅法師:千秋実
生前の金沢を目撃していたため、検非違使に呼ばれる。杣売りの話を聞いて人間不信となるが、ラストの杣売りの行動に心を救われる。
下人:上田吉二郎
雨宿りの際に暇つぶしに杣売りの話を聞く。杣売りの偽善性を突き、人間のエゴイズムをさらけだす行動をラストにおこなう。
巫女:本間文子
巫女というより霊媒師。金沢の霊を呼び込み、証言をおこなう。
放免:加東大介
河原で倒れていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。

エピソード[編集]

下人役の上田吉二郎は、本作のグランプリ受賞後、葉書半分大の大きな名刺を作り、「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷して話題をまいた[6]

リメイク[編集]

暴行The Outrage アメリカ映画 1964年、オリジナル版『羅生門』の権利を正式に買い、この脚本を元に、舞台をメキシコに置き換えて再映画化された。

ウ・モーン・パー・ムアン』(U Mong Pa Meung、อุโมงค์ผาเมือง、英題:The Outrageタイ映画 2011年、オリジナル版『羅生門』の脚本をククリット・プラーモートが演劇用にタイ語に翻案した脚本を原作に、舞台を今から約500年前のタイに置き換えて映画化。

また、1971年(昭和46年)に松竹で、当時俳優として売り出し中の三船史郎三船敏郎の長男)の主演で、リメイク版『羅生門』の制作が発表されたが、準備中のまま完成には至らなかった。配役は次の予定であった。

トピック[編集]

この映画を由来に、現実の裁判で目撃証言が食い違うことを、法曹界の言い回しで、羅生門効果と呼ぶ。

脚注[編集]

注釈
  1. ^ フィルムが焼けてしまうため、タブーとされていた
  2. ^ 東京国立近代美術館フィルムセンターHP フィルムセンター・ニュース「『羅生門』扁額の書家が判明」 同サイトによると、その扁額は現在宮川一夫の息子が所蔵している。
  3. ^ 東宝からは『また逢う日まで』と『愛と憎しみの彼方へ』、松竹からは『長崎の鐘』、東横映画からは『レ・ミゼラブル ああ無情』と『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、新東宝からは『暁の脱走』を選出
出典
  1. ^ a b c d 都築政昭著『黒澤明 全作品と全生涯』
  2. ^ 『独立-冷戦の谷間で 昭和25年-27年』p.185
  3. ^ a b c 黒澤明著『蝦蟇の油 自伝のようなもの』
  4. ^ 映画保存協会 映画保存とは 第二章「映画フィルム」
  5. ^ 『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』p.160
  6. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]