ハワード・フィリップス・ラヴクラフト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
H・P・ラヴクラフト
H. P. Lovecraft
Howard Phillips Lovecraft in 1915 (2).jpg
ラヴクラフト(1915年)
ペンネーム HPL
誕生 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
Howard Phillips Lovecraft
1890年8月20日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州プロビデンス
死没 1937年3月15日(満46歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州プロビデンス
職業 小説家SF作家、短編作家、詩人
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
活動期間 1920年前後 - 1937年
ジャンル SFホラーファンタジーコズミック・ホラーウィアード・フィクション
文学活動 コズミシズム
代表作 「インスマウスの影」
「クトゥルフの呼び声」など
処女作 デイゴン』(1919年
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト: Howard Phillips Lovecraft1890年8月20日 - 1937年3月15日)は、アメリカ合衆国小説家詩人

概要[編集]

「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説で有名である。「H・P・ラブクラフト」と表記されることも多い。また文通仲間の間では「HPL」と呼ばれていた。ラヴクラフトの死後、彼の小説世界は、自身も作家である友人のオーガスト・ダーレスによりダーレス独自の善悪二元論的解釈とともに体系化され、クトゥルフ神話として発表された。そのため、ラヴクラフトはクトゥルフ神話の創始者とも言われる。ただし、ラヴクラフトの宇宙的恐怖を主体とする小説世界を原神話ラヴクラフト神話と呼び、クトゥルフ神話と区別することもある。

スティーヴン・キング菊地秀行など人気作家にも愛読者は多く、(フォロワー達による創作も含めて)アメリカの怪奇・幻想文学の重要な担い手と評される事も多い。一方風間賢二は、あくまで学問的な研究書では触れられない大衆小説家であって、文学者としては「独りよがりの三流のポー」に過ぎず、「愛読者はセンスに問題がある」としている[1]。事実、生前は低俗雑誌(パルプ・マガジン)作家としてそれなりの人気はあったものの、文学的に高い評価は受けておらず、出版された作品も極めて少なかった。その上で死後にダーレスの創立した出版社「アーカム・ハウス」(Arkham House)から彼の作品群が出版されたことで再評価が始まった経緯がある。

経歴[編集]

前歴[編集]

1890年8月20日、ロードアイランド州プロビデンスに宝石商人ウィンフィールド・スコット・ラヴクラフトの子として生まれる。商才豊かな父は地元の名士として知られていたフィリップス家から妻を得るなど社会的成功を収めたが、ラヴクラフトが幼少の時に神経症を患い、5年後に精神病院で衰弱死している。

父の死後は母方の祖父フィップル・フィリップスの住むヴィクトリア朝式の古い屋敷に引き取られた。経済的には先に述べた通り、母方の一族が裕福であった事から不足はなかった。早熟で本好きな少年はゴシック・ロマンスを好んでいた祖父の影響を受け、物語や古い書物に触れて過ごした。6歳頃には自分でも物語を書くようになったが、「夜妖」に拉致されるという悪夢に悩まされるなど[2]、父と同じ精神失調を抱えて育っていった。悪夢については8歳で科学に関心を持つと同時に宗教心を捨てると見なくなったという[3]

青年になると学問の道に進む事を志し、名門校であるブラウン大学を希望して勉学に励んだ。並行して16歳の時には新聞に記事を投稿するようになり、主に天文学の記事を書いていた。しかし肝心の神経症は悪化を続け、通っていた学校も長期欠席を繰り返し、成績は振るわなかった。追い打ちをかける様に唯一の理解者であった祖父が死ぬと精神的にも経済的にも追い詰められ、結局学校は卒業せずに退校している。それでも独学で大学を目指したが挫折し、18歳の時には趣味であった小説執筆をやめて半ば隠者の様に世間を避けて暮らすようになった。こうした神経症がよくなってきたのは30歳頃であるが、青年期の挫折はラヴクラフトにとって常に苦い記憶であった。

文芸活動[編集]

1914年4月、アマチュア文芸家の交流組織に参加した事をきっかけに、ラヴクラフトは小説との関わりを取り戻した。その3年後には小説の執筆を再開して同人誌に作品を載せるようになった。また1915年には文章添削の仕事を始めていたが、ラヴクラフトが大幅に手を加えた結果、元の原稿とはかなり違う作品になったこともままあった。これは彼の主要な収入源となっていたが、この頃は無料奉仕が多かった。ヘイゼル・ヒールドゼリア・ビショップZealia Bishop)など、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家が少なからずいる。前述のダーレスの他、ロバート・ブロッククラーク・アシュトン・スミスロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。長年高い評価を得られず、生活は貧しいものだった。旅行が好きで経済的に余裕があって健康だった時にはケベックニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあったが、その目的も古い時代の細かい事情を調査するためだったという[4]。貧困のお陰で長い間希望していた古い家に住むという願いがかなったのも事実である。

1922年になってようやく自身の作品が売れるようになったが、文才に自信が無かったため文章添削の仕事を続け腕を磨き続けた。45歳を過ぎてギリシア語をマスターしたが、1936年にロバート・ハワードが自殺したことに衝撃を受け、また同年腸癌との診断を受け、その後の栄養失調も重なり、翌年1937年に病死した。生前に出版された単行本は1936年にウィリアム・L・クロフォードが出版した、短編『インスマウスの影』の一作だけであった。 彼の没後1939年、手紙友達で同業作家であるオーガスト・ダーレス、ドナルド・ウォンドレイが発起人となり、彼の作品を出版するという目的でアーカム・ハウス出版社が設立された。

人物と創作の背景[編集]

食べ物の好みに関しては海産物が特に嫌いなようで、その嫌悪感は説明の出来ないほど激しいものであった。このことが彼の作品に登場する邪神たちの造形に強く影響を及ぼしたことは想像に難くない。好きなものはチーズチョコレートアイスクリーム。これはラヴクラフトの母が彼の好むものだけを与えたことによるものである。煙草は吸わず、アルコール飲料も飲まなかったという。作品はホラーや幻想的作品を主としていたが、迷信神話の類は一切信用せず無神論者を自認していた。エドガー・アラン・ポーダンセイニ卿ウォルター・デ・ラ・メアバルザックフローベールモーパッサンゾラプルーストといった作家が気に入っており、小説におけるリアリズムを好んでいた。一方でヴィクトリア時代の文学は嫌いであった。幼い頃にヴァイオリンを無理矢理習わせられていたために音楽に関する好みは貧弱であった。絵画に関しては風景画を好んでおり、叔母の描いた風景画を階段の壁にかけていた。それらは修復したものもあるようだが、大半は物置にしまわれていて傷んでしまっていた。ちなみにラブクラフト自身は絵を描けなかった。建築に関しては機能的な現代的建築を嫌っており、ゴシック建築が好きだったと言われている。あらゆる種類のゲームスポーツに関心がなく、古い家を眺めたり夏の日に古風で風景画のように美しい土地を歩き回る事が好きだった。

彼の生きた時代は西洋白人文明の優越性が自明のものとされ、それを人種論や優生学から肯定する学説が受け入れられており、彼の発言や作品の中にも現代視点で見れば人種差別的な考えがしばしば指摘される。ただし、ラヴクラフトはそれぞれの民族は性向や習癖が異なっていると述べ、ヒトラーの人種的優越感による政策やユダヤ人弾圧を批判しており、ムッソリーニには敬服しているがヒトラーは劣悪なコピーだと批判している(しかしながら、ヒトラーの『我が闘争』を読んだ当初はひどく感銘し、友人に対しこの本は最高の書であると絶賛している[5])。さらに自身の土壌であるアングロサクソン文明よりも中華文明がより優れていると考えており、また日本の俳句浮世絵を鑑賞したことを知人宛の書簡で述べている。しかし多くの人種の平等を唱えながらネグロイドオーストラロイドだけは生物学的に劣っているとして、この二者に対して明確な線引きが必要だと主張している[6]。晩年はさらに社会主義的傾向を強め、ソビエト連邦を礼賛している。

初期の作品はアイルランド出身の幻想作家ダンセイニ卿エドガー・アラン・ポーの作品に大きく影響を受けているが、後期は、宇宙的恐怖を主体としたより暗い階調の作品になっていく。ブラヴァツキー夫人が著した『シークレット・ドクトリン』をはじめ神智学の影響も見受けられる[7]。19世紀末から20世紀初頭にかけ世界的にスピリチュアリズムが流行しており、ラヴクラフトもその潮流の中で創作活動を行った[8]。作品は彼自身の見た悪夢に直接の影響を受けており、中には『ナイアルラトホテップ』など、夢にほとんど忠実に書かれた作品もある。このことが潜在意識にある恐怖を描き出し、多くの人を惹きつけている。現在も世界中で彼の創造した邪神や宇宙的恐怖をモチーフにした小説、ゲーム、映画等がつくられ続けている。

ラヴクラフトの墓碑

ラヴクラフトが没した際、生地プロビデンススワンポイント墓地にあるフィリップス一族の墓碑にラヴクラフトの名前が記載されたものの、彼自身の墓碑は作られなかったため、1977年にこれを不満とするファンが資金を集めてラヴクラフトの墓石を購入した。墓碑には生没年月日と彼の書簡から引用した一文「われはプロビデンスなり("I am Providence"、神意(Providence)と終生愛したプロビデンスをかけた洒落)」が刻印されている。また、しばしばラヴクラフトの墓を訪れたファンが『クトゥルフの呼び声』(初出は『無名都市』)から引用された以下の四行連句を墓碑に書き込んで行く。

"That is not dead which can eternal lie,

And with strange aeons even death may die."

『其は永久に横たわる死者にあらねど、

測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの』大瀧啓裕訳)
  • ただし、この詩の一行目にある"which can eternal lie"はThatを先行詞にしている関係代名詞節であり、"lie"と"die"の脚韻を踏むために後置されているだけである。that which = whatであるから、「永遠に横たわること能うものは死するに非ず、」が文法的に正確な訳である。従って二行目も「そして奇怪なる永劫のうちには死すらも死なん」などとなる[独自研究?]

略歴[編集]

代表作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ホラー小説大全
  2. ^ #神界のフィールドワーク254頁。1936年10月24日ヴァジル・フィンレイ宛の手紙。
  3. ^ #神界のフィールドワーク255頁
  4. ^ ラヴクラフト全集1の訳者あとがき(オーガスト・ダーレスの文章の要約)
  5. ^ 定本ラヴクラフト全集
  6. ^ 『履歴書』(1934年2月13日付F・リー・ボールドウィン宛書簡の一部)『ラヴクラフト全集 3』- H・P・ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、東京創元社創元推理文庫〉、ISBN 448852303X
  7. ^ #神界のフィールドワーク269頁
  8. ^ #神界のフィールドワーク265-266頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 西尾正「墓場」(青空文庫) 、ラヴクラフト「ランドルフ・カーターの陳述」の翻案である