ジュール・ヴェルヌ

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ジュール・ヴェルヌ
Jules Verne
Félix Nadar 1820-1910 portraits Jules Verne.jpg
ヴェルヌの肖像。写真家で飛行研究家の友人フェリックス・ナダールによる撮影
誕生 1828年2月8日
Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス王国ナント
死没 1905年3月24日(満77歳没)
フランスの旗 フランスアミアン
職業 小説家
国籍 フランスの旗 フランス
ジャンル サイエンス・フィクション
冒険小説
児童文学
代表作 海底二万里(1869年)
八十日間世界一周(1873年)など
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ジュール・ガブリエル・ヴェルヌフランス語: Jules Gabriel Verne1828年2月8日 - 1905年3月24日)は、フランスの小説家ハーバート・ジョージ・ウェルズとともにサイエンス・フィクション(SF)の開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。

生涯[編集]

フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方ナントで生まれる。家はロワール川中州の一つであるフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの家庭で過ごした。そして、この人里離れた孤立が彼の想像力と兄弟との絆を強くした。また、この当時のナントは交易が盛んで、異国情緒豊かな港町であった。そのようなナントに訪れてくる船乗りたちの冒険話もヴェルヌの冒険心と想像力をかきたて、彼は海の英雄になることを夢見たという。

父のピエールは地元の弁護士であり、論理的な人であったという。その性格を示す逸話として、自宅から事務所までにかかる歩数を知っていたことや、望遠鏡で教会の時計を見て、常に正しい時間を確認して行動していたなどといったものが残されている。このような父の性格はヴェルヌ作品の登場人物にも受け継がれることになる(例:『月世界旅行』のインピー・バービケイン)。母のソフィーは船乗りの家系の出で、父とは対照的で、ヴェルヌに「まるで竜巻のよう」とたとえられるほどの想像力の持ち主であった。ヴェルヌは5人兄弟の長男であるが、特にヴェルヌと同じく海に憧れを持つ弟のポールと仲が良かった。弟はのちに海軍に入隊したが、長男のヴェルヌは父の後を継ぐために法律を勉強した。学校はナントのリセに行った。成績は普通であったが、特にラテン語をよくし、数学好きであった。また、運動も得意だったため、学校の外では「広場の王様」とあだ名されたという。

11歳のときに、初恋の相手であるいとこのカロリーヌにサンゴの首飾りを買ってあげようと、密かに水夫見習いとしてインド行きの帆船に乗船した。しかし途中で父に見つかってしまい、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と言ったという逸話は有名である(しかしこの逸話が事実であるかどうかについては否定的な見方もある)。

1848年、ヴェルヌは父の勧めによりパリの法律学校へ進んだ。そこでヴェルヌは多くの芸術家たちと交流した。これは、ヴェルヌの才能を見た母が、パリにいた親戚に取り計らったことによるものであった。パリでの生活は充実したものではあったが、金銭面においてはあまり余裕のない生活であったらしい。そのうちアレクサンドル・デュマ父子と出逢い、劇作家を志すようになった。大デュマがプロデュースした、ヴェルヌの処女作である戯曲『折れた麦わら』は好評を博し、2週間上演された。

その一方でヴェルヌは、自然科学の論文も読んでいた。そのような中1840年代に、彼のお気に入りの作家であったエドガー・アラン・ポーが、小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせるという技法を示し、これに興味を持つようになっていった。

友人フェリックス・ナダールが製作した気球に触発されて、1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』が大評判となり、流行作家となる。そして彼は編集者のジュール・エッツェルと契約を結んで、生涯にわたって科学・冒険小説の傑作を生み出してきた。

1883年にはアミアン市会議員に当選し死ぬまで在職した。晩年には甥に襲撃されたこともあり、悲観主義的傾向が強くなったと言われるが、近年偶然に発見された初期の作品『二十世紀のパリ』(作中で文明批判を展開)に見るように、悲観主義的な一面は当初から持ち合わせていたようである。

ヴェルヌの社会思想[編集]

ヴェルヌは平和主義者・進歩主義者として有名であった。目立った活動はしていないもののボナパルティズムを奉じるナポレオン3世に常に批判的であった。また被圧迫民族解放の擁護者で彼の作品にはネモ船長をはじめ「虐げられた民族」が様々なところで登場する。

日本におけるヴェルヌ[編集]

ヴェルヌの日本への紹介は、1878年(明治11年)、川島忠之助が『八十日間世界一周』の前編を翻訳刊行したのが最初である(標題は『新説八十日間世界一周』。後編は1880年(明治13年)に刊行)。同書はまた、日本における最初のフランス語原典からの翻訳書であった。

1883年(明治16年)には、黒岩涙香が『月世界旅行』を翻案(翻案途上で中断、出版もされていないという説がある[1])。

1896年(明治29年)、森田思軒が英訳からの重訳であったが『二年間の休暇』を翻訳して「十五少年」という標題で雑誌『少年世界』に連載し、単行書として刊行した。同書は、少年文学の傑作として評価され、多くの読者を獲得した。翻訳されたヴェルヌの作品は、翻訳文学史において大きな位置を占めた。

現代のヴェルヌ[編集]

ヴェルヌの作品の多くは、子供用の物語として書き直されたり、映画やアニメのような映像作品の原作になったりと、広い人気を誇る。これは21世紀にまで続いており、ヴェルヌ作品は一種の共通認識になっていると言っても良い。

そういった人気の一例として東京ディズニーシーのテーマポート「ミステリアスアイランド」がある。これは『海底二万里』に登場するネモ船長が築いた秘密基地という設定である(かつてディズニーは『海底二万里』を映画化している)。

2008年3月に打ち上げられた欧州宇宙機関欧州補給機の1号機には彼の名を冠している。生誕183年の2011年2月8日には、google検索のロゴが「海底二万里」をイメージしたものになった。

ヴェルヌの名言として流布している「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」は、アロット・ド・ラ・フュイの伝記によれば、『海底二万里』執筆中のヴェルヌが父親に宛てた手紙の一節とされるが、この手紙は実物が発見されておらず、ラ・フュイ夫人による捏造の疑いが濃い。

ヴェルヌの評価[編集]

ヴェルヌの作品はつい最近まで「子供向け」「低俗」と批評されていた。しかし、その驚くべき科学技術の進歩に対する予言の忠実さや『二十世紀のパリ』に代表される文明批評・風刺精神を近年再評価する向きが出てきている。

1978年には生誕150年を記念して、故郷であるナントにヴェルヌ博物館が開館した。博物館にはヴェルヌの著作、写真、手紙や生前使用していた文具や家具などが展示されている。近年では元フランス天文学会会長コタルディエールと元アミアン・ジュール・ヴェルヌ国際センター長ドキスの監修による詳細な伝記研究『ジュール・ヴェルヌの世紀 科学・冒険・〈驚異の旅〉』が訳されている。

関連資料[編集]

  • 『ジュール・ヴェルヌの世紀 科学・冒険・〈驚異の旅〉』東洋書林 2009年(平成21年)
    • フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修 私市保彦監訳、新島進訳
  • 『特集ジュール・ヴェルヌ 水声通信27号』 (2008年(平成20年)11・12月合併号、水声社)

作品リスト[編集]

※日本語タイトルが複数ある場合は代表的なものを選び、別タイトルや直訳(斜字)を適宜併記した。日本語訳のない作品については直訳のみを斜字で示す。死後に息子が完成させた作品等も挙げた。より詳しい書誌情報に関しては#外部リンクの「ジュール・ヴェルヌ作品リスト」も参照。

中・短編集[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『明治・大正・昭和翻訳文学目録 国立国会図書館編』風間書房、『黒岩涙香集』黒岩涙香 筑摩書房、『黒岩涙香』伊藤秀雄 三一書房、『随筆明治文学1』柳田泉 平凡社、『改定増補黒岩涙香』伊藤秀雄 桃源社、などによる。
  2. ^ 講談社文庫BX『華麗なる幻想』巻末解説による。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]