富野由悠季

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とみの よしゆき
富野 由悠季
富野 由悠季
2008年台北ゲームショーにて
本名 富野 喜幸(旧ペンネーム)
別名義 井荻 麟(いおぎ りん)
斧谷 稔(よきたに みのる)
阿佐みなみ など
生年月日 1941年11月5日(73歳)
出生地 日本の旗 日本神奈川県小田原市
国籍 日本の旗 日本
身長 168cm
職業 アニメーション監督、脚本家演出家作詞家小説家
ジャンル アニメ
活動期間 1964年 -
配偶者 あり
著名な家族 長女:富野アカリ
次女:富野幸緒
主な作品
海のトリトン』(1972年)
勇者ライディーン』(1975-1976年)
無敵超人ザンボット3』(1977-1978年)
無敵鋼人ダイターン3』(1978-1979年)
機動戦士ガンダム』(1979-1980年)
伝説巨神イデオン』(1980-1981年)
戦闘メカ ザブングル』(1982-1983年)
聖戦士ダンバイン』(1983-1984年)
重戦機エルガイム』(1984-1985年)
機動戦士Zガンダム』(1985-1986年)
機動戦士ガンダムZZ』(1986-1987年)
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年)
機動戦士ガンダムF91』(1991年)
機動戦士Vガンダム』(1993-1994年)
ブレンパワード』(1998年)
∀(ターンエー)ガンダム』(1999-2000年)
OVERMANキングゲイナー』(2002-2003年)
リーンの翼』(2005-2006年)
ガンダム Gのレコンギスタ』(2014年 - )

富野 由悠季(とみの よしゆき、1941年11月5日 - )は、日本アニメーション監督、演出家脚本家作詞家小説家。本人は演出家・原案提供者としている[1]。日本で最初の連続テレビアニメ番組『鉄腕アトム』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその草創期から知る人物。代表作は『機動戦士ガンダム』などのガンダムシリーズ、『伝説巨神イデオン』、または『聖戦士ダンバイン』他のバイストン・ウェル関連作品など。

ペンネーム[編集]

本名・旧ペンネームは富野 喜幸(読み同じ)で、1982年以降富野由悠季というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。作詞家としては井荻 麟(いおぎ りん)で、日本サンライズ事務所のある上井草駅西武新宿線井荻駅の隣(となり)であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出にとみの善幸斧谷 稔(よきたに みのる)、作画監督に井草 明夫(いぐさ あきお)などのペンネームを使う。

経歴[編集]

幼少期[編集]

1941年神奈川県小田原市生まれ。同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、父は零戦の与圧服の開発スタッフで[2]、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという[3]

小学生の頃は同級生たちから孤立していた。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」(「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」が連載していた雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる[4]。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。

相洋高等学校卒業後、日本大学芸術学部映画科入学。一年先輩に山本晋也がいる。

1964年手塚治虫虫プロダクション入社。就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている[5]。当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。

虫プロ時代[編集]

虫プロダクションでは制作進行および演出助手を担当する。虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後にシャフトを起こす若尾博司だった。後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる[5]。富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか?」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く」ことだった。

鉄腕アトム[6]では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当。1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」で、新田修介の名で演出家としてデビューした。同話では脚本と絵コンテも担当している。同話を含め『アトム』では合計25本の演出と絵コンテを担当。自ら脚本を書いたエピソードも多い。この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。元々メインだったりんたろうとは後年まで軋轢があったが現在では和解している。

当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている[7]。ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている[8]

フリー時代[編集]

1967年、虫プロを退社。東京デザイナー学院で講師として講義を持つかたわら、オオタキ・プロダクション(シノ・プロ)[9]でCM制作に関わる。1968年、オオタキ・プロダクションを退社、フリーとなる。講師やオオタキ・プロダクションとの付き合いも続けながら、アニメ界への復帰を模索するようになりタツノコプロで仕事を受注する。虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いが更に強まる。ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。

当時、どこのスタジオに行っても見かける「さすらいのコンテマン」として有名だったという。この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。『未来少年コナン』ではコンテを宮崎駿に全て描き直され、畏敬の念もあり『機動戦士ガンダム』の製作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。(ただし、宮崎駿は誰のコンテでも全て自分で直すという)苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『いなかっぺ大将』では何度もやり直しを受けたという。『いなかっぺ大将』については「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」と書き、また『巨人の星』についてアニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた、と吐露している。富野は2作の作者川崎のぼるについて著作[10]で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している[11]。他方、『ど根性ガエル』のような作品は「またやってみたい」と発言している。

1971年、結婚。結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。このころに埼玉県新座市に引っ越す(『無敵鋼人ダイターン3』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。

監督デビュー以降[編集]

1972年、『海のトリトン』で実質的に初のチーフ・ディレクター・監督・絵コンテを務める。手塚治虫の漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて『海のトリトン』に改題)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外に共通点は薄い。放送当時は視聴率が伸びず、2クールで終了した。

1974年、『宇宙戦艦ヤマト』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを西崎義展プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている[12]。そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎義展を激怒させた。翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎義展からの依頼は来なかったと言う。のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ!』これです。他にありません。松崎君(松崎健一)も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている[13]

1975年:『勇者ライディーン』の監督、絵コンテも担当。オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作(鈴木良武)が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画に入ってから決まった放送局の方針と合わず、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。後任の長浜忠夫は、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収する事に努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している。(後に長浜ロマンロボシリーズにも演出、絵コンテとして参加している。同年、途中降板した出崎哲の後任として『ラ・セーヌの星』の最終話までの3クール目(第27話~第39話)の監督を務める。

1977年創映社日本サンライズとして改組・独立。サンライズ初のアニメーション作品である『無敵超人ザンボット3』の総監督・原作(共同原作/鈴木良武)・演出・絵コンテ・原画[14]を担当。『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。

1978年、『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。

ガンダム以降[編集]

1979年:自身の代表作といえる『機動戦士ガンダム』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞[15]を務める。それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、視聴率で苦戦し、スポンサーであるクローバーの意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する[16]。しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。ただし、富野本人はこれは社会現象ではなく、ただファンが盛り上がっただけと語っている[17]

また、1980年7月にスポンサーではなかったバンダイから300円のキャラクタープラモデル(いわゆるガンプラ)が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応する様にラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。岡田斗司夫は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく"ガンプラブーム"なのだ、と語っている。1982年からは劇中設定から離れたオリジナル展開である(MSV)の機体も多数発売されてユーザーの支持を受け、このバンダイの成功が後のΖガンダムの製作要請へと繋がっていく。

1980年、『伝説巨神イデオン』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞[18]を務める。『機動戦士ガンダム』終了のわずか三ヶ月半後に放送開始された。前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が二本同時に劇場公開される運びとなる。

1981年、映画『機動戦士ガンダム』の総監督を務める。他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。劇場版三部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面(ランバ・ラルとの遭遇と、その後のギレン・ザビの演説)までのエピソード。当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。1981年5月22日、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。『アニメージュ』のアニメグランプリ演出家部門でこの年から3期連続で1位となる[19][20]。1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠であるジャブローにたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただし売野雅勇との共同作詞)。再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督の安彦良和によるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。

同1982年、『The IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇』の総監督・原作・絵コンテを務める。他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないという敷居の高さがあった。にもかかわらず、再放送の放映状況があまり芳しくなかったためか、結局ガンダムの様なブームを起こすには至らなかった(一方、ガンダムの劇場版はテレビシリーズを見ていなくても特に問題はなかったが、こちらは頻繁に再放送がなされた)。とはいえ、イデオンが庵野秀明福井晴敏をはじめとするクリエーターに与えた影響は非常に大きく、「イデオンこそ富野の頂点」と言うディープな富野ファンも数多い。

同1982年、『戦闘メカ ザブングル』原作(鈴木良武と共同)・総監督・ストーリーボード・作詞。 元々は吉川惣司が監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯でわりに人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」等、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない。[21]。1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。テレビ版の再編集版で、『ドキュメント 太陽の牙ダグラム、チョロQダグラム』と併映。上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切って楽屋落ちにして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。だがテレビ版をあらかじめ見ていたアニメファンには、比較的好評で迎えられた。

1983年、『聖戦士ダンバイン』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。放映がファミリーコンピュータの発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業のクローバーが倒産するなどのトラブルが発生した。舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。

1984年、『重戦機エルガイム』の原作・総監督・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。キャラクターデザインメカニックデザイン永野護を起用。物語としては、前半は自分で自作のパロディをやるのかと言われるほど明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。富野は「この作品は永野のもの、永野にやる」と後年に述べており、当時は伏せられていたが、元より永野自身による企画であった事が近年に明かされている。ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野のファイブスター物語とエルガイムの間に権利的な関連性は無い。

1985年、自身初の続編シリーズ物の『機動戦士Ζガンダム』総監督。後の本人の口からいい意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によってかれらの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。

1986年、『Ζガンダム』の続編『機動戦士ガンダムΖΖ』原作・総監督・脚本・ストーリーボード・絵コンテ。井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。スポンサー側からの提案で前作『機動戦士Ζガンダム』放送中に急遽製作が決まった続編(ただし、本人は予測の内だったと語っている)。時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。しかし、『Ζガンダム』の事実上の続編でありながらも全く方向性が異なり、主に『Ζガンダム』ファンから苦情が寄せられたため、中盤以降はシリアス路線に軌道修正した。

1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の原作・監督・脚本・絵コンテ。初の劇場版オリジナル作品。「シャアアムロの物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『ハイ・ストリーマー[22]と角川書店版『ベルトーチカ・チルドレン』の二種類がある。角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。

1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『機動戦士ガンダムF91』の原作・監督・脚本(伊東恒久と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、立ち消えとなった。後に直接的な続編である漫画機動戦士クロスボーン・ガンダム』の原作を担当。

1993年、『機動戦士Vガンダム』の原作・総監督・絵コンテ・構成。井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。制作における混乱が大きく、ひどい状態となり放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否し、監督に今川泰宏を指名し、戦争ものではなくロボットプロレスをやるようにと指示した。その結果誕生したのが、『機動武闘伝Gガンダム』である。ただし現場には顔を出し、いくつかの作業を手伝っている。富野はこのガンダム作品の終了後、数年間にわたり現場から離れるが、その間ひどい「」状態にあり、立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという[23]。数年間はアニメ監督をやっていない(脚本や絵コンテはしている)。本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけた。作品や人を褒めることが決して多くない富野だが、本作については音楽を担当した千住明を絶賛しており、逢坂浩司によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。本作以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が製作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。

1994年、漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』原作(作画は長谷川裕一)。原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わった。同作品は『機動戦士ガンダムF91』の続編的物語で、1997年まで連載。

1996年、初のOVA作品の『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』の原作・監督・脚本・絵コンテ。『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品[24]。富野が前述の鬱状態の中製作した作品。後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。

1998年、WOWOW初のオリジナル有料アニメ『ブレンパワード』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。1993年の『機動戦士Vガンダム』以来5年ぶりのテレビ作品放映。スクランブル放送だったため、視聴者数はある程度限られた。富野は「自分たちは子供たちを“親なし子”にしてしまったのではないか?」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている[25]。また、当時企画が進行中だったガンダム作品(『∀ガンダム』)の制作に向けた、鬱症状からアニメ制作現場へ戻るためのリハビリと位置づけている。『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。ロボットデザインに旧知の永野護を起用する一方、キャラクターデザインにいのまたむつみを抜擢した。

1998年、『機動戦士ガンダム』誕生20周年記念作品として、『∀ガンダム』の原作・総監督・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。「∀」は、数学や論理学などで「すべての~」という意味で用いられる全称記号で、全てを包括して原点に返るという意味を込めて、タイトル「ターンエー」として用いられた。過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。キャラクターデザインにはカプコン安田朗を、メカニックデザインはアメリカの工業デザイナーシド・ミードを起用した。ミードがデザインした革新的なガンダムのデザイン(見た目と劇中の俗称から「ヒゲ」と呼称されることが多い)は放送前から意見が分かれたが、放送が始まると徐々に評価が高まり、2002年には劇場版2部作『∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶』として公開された[26]。劇場版は『∀ガンダム』テレビシリーズ全50話に新作カットを加え再編集した作品。「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。43話の初代ガンダムでさえ映画は3部作だったが、50話の『∀ガンダム』を2部構成にまとめている上、∀には編集する上で省略しやすい戦闘シーンが少なく、ストーリーも複雑なので、非常に展開が早く、富野自身も、1stガンダムに比べて編集が困難と語る。なお、この作品のノベライズを福井晴敏佐藤茂が個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。安田朗カプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『機動戦士ガンダム vs.シリーズ』である。

2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『OVERMANキングゲイナー』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。富野と田中公平による元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた芸能といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。富野は「当作品のライバルは『クレヨンしんちゃん』」と発言している。前作の『∀ガンダム』同様、スタッフの意見を取りまとめる立場を強く意識して制作に携わった。本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、中村嘉宏西村キヌ吉田健一の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用する事によりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。メカニックデザインには安田朗を再起用。若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという[27]

近年[編集]

  • 2003年:金沢工業大学客員教授に就任[28]。「ガンダム創出学」の講義を担当[29]
  • 2004年:上井草(井荻の隣の駅)に転居。名実ともに「井荻麟」となった。
  • 2005年:劇場版『機動戦士Ζガンダム』三部作を制作し、順次公開。映画『ローレライ』には、反乱軍として通信所を占拠する海軍大尉としてカメオ出演(画面での確認は困難)。12月から自身初のWEBアニメ『リーンの翼』の監督を務める。富野が初めてネット配信という形式で作ったアニメで、自身の小説『リーンの翼』を多少アレンジし、その数十年後の物語である。ダンバインで出てきた「オーラバトラー」が登場する。オーラバトラーなどにCGが使用されている。独特のセリフ回しと非常に早い展開が特徴。
  • 2006年:映画『日本沈没』にカメオ出演(京都の高僧役)。
  • 2008年:映画『少林少女』に主人公(柴咲コウ)の亡き祖父としてカメオ出演。
  • 2009年:ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞を受賞[30]。同年、アニマックスの「機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版」と言う番組に富野を初めとしたスタッフが出演。特に富野のガンダムに対するインタビューが多く語られた。
  • 2010年:映画『日本のいちばん長い夏』に元陸軍大将・今村均役で出演。
  • 2014年:TVアニメ「ガンダム Gのレコンギスタ」の原作・総監督を務める。


近年は大学で講義を持ち、文化庁の依頼で海外で講演を行うなど、今なお方面を広げて精力的に活動している。雑誌ガンダムエースでは、各界のスペシャリストとの対談記事『教えてください。富野です』が毎月連載されている。

作風[編集]

監督、絵コンテ(絵コンテの節を参照)、演出をしながらも、しばしばオープニング・エンディング曲や挿入歌の作詞をする。さらに並行して小説(主に自分の作品の小説化や自分の作品の派生作品)も書く。ただ、「小説でうっぷんを吐き出してしまうという悪い癖がある」と自認し、後書きなどで反省している。

絵コンテ

フリーの若手だった頃、ジャンルを問わず多くの作品に参加し、コンテをかなりのスピードで上げていったことから「コンテ千本切りの富野」、「さすらいのコンテマン」という異名をとるようになる[19]。業界では「富野に頼めば3日でコンテが上がる」と言われていた。制作スケジュールの厳しいアニメ業界では、富野のように絵コンテを上げるのが早い人材が重宝された。一時期富野の片腕と言われたアニメーターの湖川友謙によると、一部に例外があるようだがと断りながら「おトミさんのコンテの画は、どうとでもとれるような描き方なんですよ。アニメーターがもっと面白い事をやってくれればいいかという感じにもとれるのね。」と語っている[31]。元々映画系志望だっただけにリミテッド・アニメとは指向が違っていたと言われ、安彦良和によれば「画を描く手間を考えない『真面目にやっているのか?』というコンテ」、湖川友謙は「動かす意欲を刺激する良いコンテ」、高畑勲は「いわゆる職業化された、システム化されたコンテマンからは窺がえない意欲が感じられるコンテ」と評価。安彦の回想では、画面の奥の方で関係のないキャラクターの芝居が入っているなど、処理に困るシーンがあると現場で適当にカットしていたそうである。それでも特に文句を言ってこないため「軽い演出家」との印象を持っていたが、ガンダム製作時に膨大な設定を持ち込むのをみて考えを改めたという。『∀ガンダム』開始時点での絵コンテ総数は、名前が確認できるもののみで少なくみて586本で、アニメ史上最多記録と推測される[32]。監督業に就いてからも自ら多くのコンテを切り、スタッフに任せたコンテに満足できない時は忙しい時間を割いて自身で手直しをすることもある。『ザブングル』の時に顕著だった事例だが、ほとんど自分のコンテになってしまった時でもスタッフロールの記載を変えることはしない。これは「手直しされた人間にもプライドというものがあるだろう」という配慮からである。富野が絵コンテとして参加しクレジットもされた『未来少年コナン』において監督の宮崎駿がほとんど自分でコンテを書き替えたことも少なくなかったという経験も影響していると考えられている[33]。しかし「ただ彼らを甘やかしただけだったかもしれない」とも書いている[34][35]

ジャンル

監督を務めた作品には、ロボットアニメが主なジャンルである。本稿にもあるように、ロボットアニメ以外にも世界名作劇場シリーズを始め、広範にわたるジャンルにおいてコンテや脚本を手がけている。また「ガンダム」「イデオン」では登場するロボット群の大半のデザイン原案を自ら描いており、ほぼそのまま登場したものも多い。

テーマ

富野作品全てに共通するテーマの主題として本人は「人の自立と義務と主権の発見と、人が作ってしまう悪癖(これを“”と称している)の発見」と語っている[36]

ストーリー展開

主要な登場人物を一カ所(多くは戦艦)に放り込んでストーリーを展開するスタイルは「富野方式」と多少揶揄的に評されていると本人は述べている[37]

重要なキャラクターが死ぬ展開もいとわず、終盤に近づくにつれ、主要登場人物の大半が相次いで死に至るような作品(『無敵超人ザンボット3』、『伝説巨神イデオン』、『聖戦士ダンバイン』、テレビ版『機動戦士Ζガンダム』、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、『機動戦士Vガンダム』など)を作ることが多く、視聴者に強い衝撃を与えたため、「皆殺しの富野」などの異名で呼ばれたこともあった。代表作『機動戦士ガンダム』では大半が生き残ったが、後の小説版では途中で主人公を戦死させるという展開が見られる。これについては「全員殺した方が、きれいさっぱり何も残らずまとまりがつく(=制作者・視聴者共に、作品全体へ未練を残さず完結させる『最も理想的な表現法』)」と語っている[38]。また、『無敵鋼人ダイターン3』、『戦闘メカ ザブングル』など、スラップスティック・コメディ的な作品も作っている。その場合は主要登場人物が悪役やライバルを含めてほとんど死なないことも多い。近年では『∀ガンダム』や『OVERMANキングゲイナー』など、主に『ブレンパワード』以降は昔と比べると人の死や悲惨な描写が少ない王道展開の作品が多い。

登場キャラクターの特徴

主人公は「家庭環境が悪いので、性格は理屈っぽく捻くれている」パターンが多い。また家庭環境の影響か、軍隊をはじめとする集団組織(チーム)の中に溶けこむことができなかったり、あるいは嫌悪を表明したりする。作品中では主人公と両親の関係が決して良好なものではなく、両親を殺したり存在を忘れさせたりするなどしている。その上「親子兄弟姉妹、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」という家族へのアンチテーゼが込められることもある。しかし、両親が死んでしまったときなどは主人公が涙を流すなど、本当は家族を愛していた一面も描かれている。ただし、それでもなお、両親であるキャラクターはその「死の瞬間」、まさに肉体が消滅するその瞬間までも醜悪な人間であり続けることが多い。富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。作品の一部の男性キャラクターは母性に飢えている(マザコン)という共通点もある。当時のヒロインの多くは、若かりし頃につきあいのあった「チョキ」というニックネームの女性をモデルとしていると記されており、ヒロインには芯の強さが目立つ。実年齢とは別に、主人公よりもやや大人びた感じや引っ張っていくような性格の強さが目立つことが多い[39]。また、ほとんどの作品で、富野自身の特徴(思想、境遇など)の一部と似た面を持つ政治家、権力者や野心家のキャラクターが登場している。これらのキャラクターは、同時に前述のような「主人公と敵対する父親」の役割をも備えていることもある。その例として、ドン・ザウサー、デギン・ソド・ザビ、ドバ・アジバ、ドレイク・ルフト、バスク・オムパプテマス・シロッコシャア・アズナブルカロッゾ・ロナフォンセ・カガチ、クラックス・ドゥガチなどが挙げられる。これらのキャラクターはほぼ全ての作品において少なくとも体裁的には悪役であり、最終的には主人公の少年の手によってその思想・野望を折られる結末を迎えている。

演技指導

巨人の星』の主人公星飛雄馬のイメージが強かった古谷徹を『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役に推したり、俳優池田秀一戸田恵子、舞台役者だった白鳥哲朴璐美などを声優として発掘したりしている。

演技においては峻厳な指導で知られる。アフレコ現場には必ず立ち会って声優と演技の詳細を詰めるといわれ、その指導を受けたことで実力をつけた声優は少なくない。大のガンダムファンでもある子安武人も複数の作品で起用された結果、自身の演技の幅を広げた。要求に応えられないときはブースに駆け込んで罵声を飛ばすこともある。『機動戦士Vガンダム』で主役を務め、当時新人であった阪口大助をはじめ、『機動戦士Zガンダム』の劇場版に出演した新井里美浅川悠らはその峻厳性ゆえに泣き出したという。特に阪口に至っては鉄拳制裁まで加えたこともあったと噂されたが、後年阪口本人はそれを否定している[40]。また、『重戦機エルガイム』で主役を務めた平松広和は「キャラを殺して降ろす」とまで言われたという逸話もある。
メカデザイン

自ら登場メカをデザインすることもあり(ただし最終的な決定稿は専門のメカニックデザイナーの手による)、特徴的な容貌やギミックを好む。また、ダクトで覆われたゲルググの胴体やエルメスのビットやザクレロに配された多方面スラスターなどの機能的なデザインもある。俗に言われる「富野ラフ」にはほぼ決定デザインに等しい物も多く、ゾック以降のモビルスーツ、モビルアーマー、艦船の大半は、ほぽ富野ラフ通りにクリーンアップされている。

人物像[編集]

  • 趣味は素描(ドローイング)で[41]、自身の小説の挿絵もしばしば描いている。
  • 大変な甘いもの好きで、ショートケーキなどが好物。
  • 喫煙者であり、メイキングやインタビューなどでタバコを吸ってる姿がたびたび目撃される。
  • 物が捨てられない性格で、所有物をゴミに出す際、なかなか踏ん切りがつかない。さらに妻も衣類を捨てられない性格なので「家の中は地獄沙汰」と語っている。
  • 家族構成は、妻[42]と2人の娘。長女は演劇集団 円文芸/演出の富野アカリ、次女は振付家の富野幸緒

発言[編集]

「アニメを見るな」[編集]

富野は、将来アニメ業界に就きたいと思っている若者たちに対して、「アニメを見るな」「文芸、演劇、物語を見ないで映画、アニメが作れると思うな」「アニメ以外のことに奮闘しろ」「修身道徳格言を学べ」「大人から学ぶものなんて何もない」「映画産業全般に就きたいのなら学生時代から広くものを見なさい」「45歳までは君たちも挽回できる。人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。それが何だったか思いだせ」とアドバイスをしている[43]。また、近年のアニメについて「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしてもステレオタイプになる」「必ずしも、現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」と述べている[44]。また、「アニメや漫画は、子供が親に隠れてこっそり見るものであり、大人(成人)になればアニメはさっさと忘れなさい」と主張している。富野作品中でも、そのようなテーマを打ち出しているものも多い。そのため、40歳を過ぎようとしている「大人」が、自身の代表作『機動戦士ガンダム』に熱中していることを嘆き、ドストエフスキーゲーテなどの世界文学や、『徒然草』や『奥の細道』など古典を大人は読むべきと唱える齋藤孝に共感し、対談を申し込んだこともある。この対談では『機動戦士ガンダム』は娯楽に過ぎず、人生の指針や教訓になるような大そうなものではないし、そのようなものはないと結論している[45]

宮崎駿・高畑勲[編集]

宮崎駿とは同年の生まれ(宮崎が早生まれのため学年的には1年上で、富野はキャリアも含め宮崎の後輩にあたる)であり、自身のインタビューにおいて「宮崎らスタジオジブリ制作作品にライバル意識を持っている」というような発言や批判もしばしばする。だが宮崎、高畑勲を非常に高く評価している発言もあり、「(オスカーを取った宮崎駿のように自分がなれなかったのは)能力の差であるということを認めざるを得ない」[46]、「誤解を恐れず言えば、宮崎、高畑の演出論は黒澤明以上だ」とまで評している[47]

ゲーム[編集]

プライベートでは基本的に無趣味だと語るが、夫婦で家庭用テレビゲーム版『パズルボブル』などのパズルゲームをプレイして楽しんでいる様子をインタビューにおいて語っている。なお、ゲームに関しては自身の性格からして、のめり込んで身を滅ぼすだろうという想いから、触れないよう尋常ならざる努力をしてきたと語っている。『A,C,E2』の特典DVDでは、「ゲームは麻薬」「ゲームに携わる仕事をしている人間は嫌い」との発言をしているが、ゲーム技術の発展については理解を示している。また、台北のゲームショーへ赴くなどしており、積極的にゲーム関連のイベント(自身の関連した作品が出展されたからだろうが)に参加している。また、ガンダムのゲーム作品を代表する『ガンダム vs.シリーズ』ではゲームの企画にも関わっている。この時訪問したカプコンで出会ったのが『∀ガンダム』以降の盟友となる安田朗である。

作品[編集]


フリー時代の参加作品

「さすらいのコンテ・マン」だった時代に関わりを持ったアニメには次のようなものがある。

その他参加作品
  • ザ☆ウルトラマン(テレビシリーズ 1979-1980年)- 絵コンテ
  • 無敵ロボ トライダーG7(テレビシリーズ 1980-1981年)- 絵コンテ
  • 銀河漂流バイファムシリーズ(テレビシリーズ、OVA 1983-1998年)- 原案
    十五少年漂流記』のように子供達だけで宇宙をサバイバルする物語のプランは『機動戦士ガンダム』の企画時に出されたボツ案であり、改めてこのアイディアを用いたのが本作であるため「原案」としてクレジットされている。
  • New Story of Aura Battler DUNBINE(OVA 1988年)- 原作・監修
  • 新世紀GPXサイバーフォーミュラ(テレビシリーズ 1991年)- 初期オープニング
  • ママは小学4年生(テレビシリーズ 1992年)- オープニングストーリーボード
  • スーパーロボット大戦 プロモーション(東京ゲームショー会場で上映 1997年)- 監督、脚本、絵コンテ[50]
  • G-SAVIOUR(特撮ドラマ 2000年)- 原作・特別監修
  • GUNDAM THE RIDE(劇場用作品 2000年)- 原作・特別監修
  • ガンダム新体験 ‐0087‐ グリーンダイバーズ(劇場用作品 2001年)- 原作・特別監修
  • ガンダムクライシス(劇場用作品 2007年)- 原作・特別監修
  • GUNDAM EVOLVE 5 RX-93 ν GUNDAM(OVA 2007年)- ストーリープロット・アイデア協力
    GUNDAM EVOLVEの作品のひとつ。クェスとハサウェイの悲劇的な結末を変更し、アムロが子供(クェス)のわがままを叱ることのできる父性的な面で描かれたり、クェスが死ななかったりと転化されている。富野自身が“映画版にのっとる必要はない”とのコンセプトで作られた。過去のGUNDAM EVOLVE作品と違いCGとセル画を合わせる手法、内部フレームがむき出しのνガンダムと変形ギミックが搭載されているα・アジールのアイデアは富野自身が出した。

著作[編集]

小説[編集]

機動戦士ガンダムシリーズ
  • 『機動戦士ガンダム』全3巻(朝日ソノラマソノラマ文庫〉、1979-1981年)、(角川書店角川文庫、のち角川スニーカー文庫〉、1987年)
    文庫版は若干の改訂が施されている。
  • 『機動戦士Ζガンダム』全5巻 (講談社、1985-1986年)、(角川文庫、のち角川スニーカー文庫、1987年)
    1巻:カミーユ・ビダン、2巻:アムロ・レイ、3巻:強化人間、4巻:ザビ家再臨、5巻:戻るべき処(ところ)。
  • 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』全3巻(前篇・中篇・後篇)(徳間書店アニメージュ文庫〉、1987-1988年)(2009年復刻)
    雑誌『アニメージュ』に『機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』として連載された。2002年、このタイトルに戻して『機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』全3巻(1巻:アムロ篇、2巻:クェス篇、3巻:シャア篇)(徳間書店〈徳間デュアル文庫〉)として刊行。
  • 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』全1巻(角川文庫〈のちに角川スニーカー文庫〉、1988年)
  • 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』全3巻(上・中・下)(角川スニーカー文庫、1989-1990年)
    角川書店版の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』の続編であり、現在流布している宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。
  • 『機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード』全2巻(上・下)(角川スニーカー文庫、1991年)
  • ガイア・ギア』全5巻(角川スニーカー文庫、1988-1992年)
    Vガンダムから50年後の宇宙世紀0203年が舞台。宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。月刊ニュータイプに1987年から1991年にかけて連載された。
  • 『機動戦士Vガンダム』全5巻(角川スニーカー文庫、2003-2004年)
    1巻:ウッソ・エヴィン、2巻:マルチプル・モビルスーツ、3巻:マリア・リーディング、4巻:コンビネーション、5巻:エンジェル・ハイロゥ。
  • 密会〜アムロとララァ』上巻・下巻 -(角川mini文庫、1997年)、全1巻 -(角川スニーカー文庫、2000年)
    文庫版はmini文庫版の二冊を一冊にまとめた物で、加筆修正がなされている。
  • 『はじめたいキャピタルGの物語』 - ガンダムエース誌創刊100号(2010年12月号)に寄稿したもので、地球から伸びる宇宙エレベータが舞台の作品。未完の為今後の展開については不明。挿絵も富野本人が描いている。
バイストン・ウェル物語シリーズ
  • リーンの翼 - バイストン・ウェル物語より』全6巻(角川書店 カドカワノベルス、1984-1986年)
    文庫版全6巻(角川文庫〈のちに角川スニーカー文庫〉、1986年)
    完全版全4巻(角川書店、2010年)全面改稿および書き下ろし(4冊セット版も存在)。
    一般雑誌『野生時代』(角川書店)に連載された。
  • 『ファウ・ファウ物語』全2巻(上・下[51])(角川文庫、1986-1987年)
    月刊ニュータイプに『ファウファウ物語(リストリー) From BYSTON WELL STORIES』として1985年4月号~1986年12月号に連載(全21回)。
  • オーラバトラー戦記』全11巻(カドカワノベルス、1986-1992年)、(角川スニーカー文庫、2000-2001年)
    『野生時代』に連載。1巻:アの国の恋、2巻:戦士・美井奈、3巻:ガロウ・ラン・サイン、4巻:ギィ撃壊、5巻:離反、6巻:軟着陸、7巻:東京上空、8巻:マシン増殖、9巻:オーラ壊乱、10巻:重層の刻、11巻 完結編:ハイパー・ホリゾン。
  • 『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』全5巻(アスペクト〈ログアウト冒険文庫、のちにファミ通文庫〉、1995~1997年)
    『月刊LOGOUT』に連載(第1巻分のみ)。
その他の小説
  • 『伝説巨神イデオン』全3巻(ソノラマ文庫、1981-1982年)、(角川文庫(のちに角川スニーカー文庫)、1987-1988年)
    1巻:覚醒編、2巻:胎動編、3巻:発動編。
  • 破嵐万丈シリーズ』全4冊(ソノラマ文庫1987-1992年)
    無敵鋼人ダイターン3スピンオフ作品。―薔薇戦争、―憂鬱ミュージアム、―ヒット・カップル、―愛はシベリアから
  • 『シーマ・シーマ』全3巻(アニメージュ文庫、1988-1989年)
    前篇:疾風の果てに、中篇:修羅に昇る、後篇:血族を払う
  • 『アベニールをさがして』全3巻(ソノラマ文庫、1995-1996年)
  • 『王の心』全3冊(カドカワノベルス、1995-1996年)
    ―死者の書、―天女生誕の書、―再臨飛翔の書

漫画原作[編集]

  • 機動戦士クロスボーン・ガンダム(作画:長谷川裕一) 』全6巻(角川コミックス・エース、1994-1997年)
    「機動戦士ガンダムF91」の続編。初めてガンダムシリーズの漫画原作者として、原作および企画に関わった。続編の『機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝』等には関わっていない。

自著、エッセイ[編集]

  • 『だから僕は… 「ガンダム」への道』(徳間書店、1981年)、『だから、僕は…(増補改訂版)』(アニメージュ文庫、1983年)、『だから僕は… ガンダムへの道』(角川スニーカー文庫、2003年)
    自伝的エッセイ。ガンダムの事はほとんど触れられていないが、それまでの仕事について詳しく書かれている。
  • 『「イデオン」ライナー・ノート ―アニメの作り方 教えます』(徳間書店、1982年)
    虚実入り混じる、TV版から番組打ち切りを経て映画版公開へといたる『イデオン』製作手記風創作。『アニメージュ』誌にTV放映時に同時進行で連載していたものをまとめたもの。
  • 『∀(ターンエー)の癒し』(角川春樹事務所、2000年) 。2002年に文庫版刊行。
    エッセイ。主に『Vガンダム』監督前から『∀ガンダム』放映終了までのもの。
  • 映像の原則-ビギナーからプロまでのコンテ主義(キネ旬ムック)』(キネマ旬報社、2002年)、『映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)』(2011年)
    映像の特徴から編集・作画・演技・音響など、映像作りに必要なほとんどの作業についてを記した実務書。
  • 『富野に訊け!』(徳間書店、2005年)、『富野に訊け!!』(アニメージュ文庫、2010年)
    『アニメージュ』誌上連載をまとめたもの。読者からの相談に富野が答える人生相談である。『劇場版 Ζガンダム』の主題歌を歌うGacktとの対談が収録されているほか、相談の中には声優・歌手の桃井はるこからの相談もあった。
  • 『「ガンダム」の家族論』(ワニブックス ワニブックスPLUS新書、2011年)

共著[編集]

  • 『戦争と平和』共著:大塚英志上野俊哉ササキバラ・ゴウ(徳間書店、2002年)
  • 『教えてください。富野です』(角川書店、2005年)
    富野がホスト役を務める『ガンダムエース』誌連載の対談企画をまとめたもの。対談相手は坂村健上妻宏光齋藤孝水谷修野口聡一。装丁は樋口真嗣で、両手を掲げて咆哮する全裸の富野というビジュアルが強烈な印象を与える。解説は福井晴敏
  • 『ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集 I』、『―II』、『―III』(角川書店、2011年)
    ガンダムエース誌連載の対談企画(全100回)をまとめたもので、全3巻に96回分の対談が収録されている。

関連書籍[編集]

  • 『富野由悠季全仕事 1964-1999(キネ旬ムック)』(キネマ旬報社、1999年)
    ロングインタビュー及び、多くの業界人が富野を語っている。資料性も非常に高い。
  • 『富野語録 富野由悠季インタビュー集(ラポートデラックス)』(ラポート、1999年)
  • 『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集(キネ旬ムック)』編:氷川竜介藤津亮太(キネマ旬報社、2000年)
  • 『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(講談社、2002年)

作詞提供[編集]

  • 『ザ・ロンゲスト・ロード イン 破嵐万丈/鈴置洋孝』(1980年)
    声優鈴置洋孝のレコードのプロデュース、ドラマ、作詞。A面がドラマレコード。井荻麟名義で『ハッシャ バイ』作詞(『劇場版 Ζガンダム』で挿入歌として使用される)。
  • 『LOVE PROFILE』たいらいさお(1983年)
    井荻麟名義で全曲を作詞したアルバム。
  • 『STARLIGHT SHOWER』MIO(現MIQ)(1984年)
    井荻麟名義で「阿母麗(アモレイ)」、「Good-bye Tokyo」を提供。LPアルバムであったが、2012年にCD化された。
  • 『REVERBRATION IN GUNDAM』井上大輔
  • 『HEROES~to my treasure~』古谷徹(2008年)
    「ララの夜想曲 -nocturne-」を井荻麟名義で作詞。作曲はGacktが手がけた。

原作・原案名義作品[編集]

富野由悠季以外のスタッフの手によって製作された映像作品であっても、テロップでは「原作者」もしくは「原案者」とされ、矢立肇と名を連ねて表示される。なお、富野はガンダム第1作の企画案を当時サンライズへ30万円で売り渡したため(だが業界の慣例としてはそれが当たり前であった)、ガンダム関連商品の売上が富野自身に還元されることはないという[52]

その他、漫画・小説のガンダム作品などにも必ず名前が入っている。

受賞[編集]

出演[編集]

映画

TV

CM

  • スカパー!』(2013年)「「スカパー! ココロ動かすアニメ篇」本人出演 TV、ラジオCM[53][54]

立体作品[編集]

From First
バンダイのHY2M 1/12ザク多数とPGガンダム1体を使用したオブジェ。2005年に開催された美術展『GUNDAM―来たるべき未来のために―』の上野の森美術館での開催時に新しく展示物に加わった作品で、大阪サントリーミュージアムでの開催時は展示されていない。
ZAKUの夢
From Firstのリニューアル。以前に富野がプロデュースしたブロンズ像作品『大地より』(上井草駅前に展示)の鋳造失敗品を流用して作った壊れたガンダム像を、12体のザクが取り囲む作品。おもちゃのまちバンダイミュージアムにて展示されている。
1/1ガンダム(監修)
静岡ガンダムでは、ビームサーベルへの投影映像を監修(コンテも作成)。元々富野は実物大ガンダムが作られている事自体を知らされていなかったが、完成間際に「頭部の可動、ミスト噴射、発光」を提案し、そのために工期が一ヶ月遅延したとされている(ただし1993年に作られた「10mのVガンダム」では頭部及び肘関節の可動が実現している事から、可動が考えられていなかったというのは多少不自然である)。

脚注[編集]

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  1. ^ 『∀の癒し』角川春樹事務所, 2000年
  2. ^ BSアニメ夜話,NHK
  3. ^ 朝日新聞の連載コーナー『おやじのせなか』
  4. ^ NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季
  5. ^ a b 「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(2)」 『毎日新聞』 2009年11月3日、12版、9面。
  6. ^ 手塚治虫が自身の同名漫画を原作に制作した日本初のテレビアニメーション(モノクロ)。
  7. ^ 『アニメ大国の肖像』中日新聞連載、2006年
  8. ^ 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」(2013年6月)
  9. ^ オオタキ・プロダクションの表記は著作『だから僕は…』に準拠。エッセイ『∀の癒し』には同一CM制作会社と思しき会社がシノ・プロの名で登場している。
  10. ^ 『だから僕は…』
  11. ^ 『富野由悠季全仕事』
  12. ^ 著作『だから 僕は…』
  13. ^ アニメック』第10号、1980年
  14. ^ ノンクレジットだが、富野本人が証言している
  15. ^ 井荻麟名義で「翔べ! ガンダム」(オープニング)、「永遠にアムロ」(エンディング)、「シャアが来る」「いまはおやすみ」(挿入歌)、「きらめきのララァ」(挿入歌・本編未使用)作詞
  16. ^ 講談社刊『ガンプラジェネレーション』での当時の関係者証言による
  17. ^ NHKで放送された『「まるごと!機動戦士ガンダム」』より
  18. ^ 井荻麟名義で「復活のイデオン」(オープニング)、「コスモスに君と」(エンディング)作詞
  19. ^ a b c 「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(4)」 『毎日新聞』 2009年11月10日、13版、9面。
  20. ^ 第3回アニメグランプリ:'80年下半期”. 徳間書店. 2009年11月11日閲覧。
  21. ^ 参考文献『ロマンアルバム・エクストラ57 戦闘メカ ザブングル』(徳間書店)
  22. ^ 前・中・後。徳間書店版は劇場版とほぼ同じストーリーだが、前半に劇場版以前の物語が追加されている。
  23. ^ 著作『∀の癒し』
  24. ^ なお、本編ビデオ各巻末には本人出演による、バイストン・ウェルの世界観、演出、作画に関する解説が収録されている。
  25. ^ 本作DVD説明より
  26. ^ 富野道(劇場公開時のコラム)
  27. ^ DVDブックレット
  28. ^ 教員プロフィール”. 金沢工業大学. 2009年11月12日閲覧。
  29. ^ 「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(5)」 『毎日新聞』 2009年11月11日、12版、9面。
  30. ^ Leopard in Honour of Yoshiyuki Tomino and Manga Night” (英語). Film Festival Locarno (2009年8月9日). 2009年11月11日閲覧。
  31. ^ アニメスタイルで連載されていた湖川友謙へのインタビューより抜粋
  32. ^ 『富野由悠季全仕事』の調査
  33. ^ 大塚康生が語るところによる
  34. ^ 著書『映像の原則』の後書き
  35. ^ 「ほとんど」という点についてであるが、コンテというものは1つのカットではなく、カットの連続に意味があるので、直す場合はどうしても全て直すということになる
  36. ^ Check it Out! 1998 バンダイカタログ
  37. ^ NHKBS、アニメ夜話
  38. ^ 『月刊アニメージュTV!』#63でのイデオン制作時のエピソードにて
  39. ^ 著書『だから 僕は…』にて
  40. ^ 【Style of the PRINCE】第12回ゲスト:阪口 大助さん Vol.2”. 2011年11月30日閲覧。
  41. ^ 本人執筆の小説(F91他)の作者紹介欄等による。
  42. ^ 著書『だから僕は…』や『「イデオン」ライナー・ノート』においては「亜々子」という名前で記されているが、本名かどうかは明らかにされていない。
  43. ^ 文化庁メディア芸術プラザ インタビューにおいて
  44. ^ 富野由悠季氏、アニメを語る(1) 宮崎駿は作家であり、僕は…
  45. ^ 齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(講談社現代新書、2008年)
  46. ^ 富野由悠季氏、アニメを語る(1) 宮崎駿は作家であり、僕は…
  47. ^ 『富野由悠季全仕事』でのインタビューにて。
  48. ^ 後半の演出。つまり初のチーフディレクター作品という事になるが、実際には初期数話に関わった程度であり、演出は前半に引き続き木下蓮三が行っている(『富野由悠季全仕事』p430)。
  49. ^ イラスト構成で見せる非アニメ作品。
  50. ^ クレジット表記は無し、上映時間は3分35秒。(『富野由悠季全仕事』p364より)
  51. ^ 下巻の初版は第17~22章(総77頁分)が欠落している。
  52. ^ 『ターンエーの癒し』、及び山田玲司絶望に効くクスリ―ONE ON ONE―(Vol.5)』(週刊ヤングサンデー2005年11号)でのインタビューにて。だが、近年は0.00数パーセントもらえるようになったとも発言している。
  53. ^ 堺 雅人×富野監督共演のスカパー!最新CM「ココロ動かすアニメ篇」本日より全国オンエア開始!
  54. ^ スカパー!ブランドTVCM堺雅人さん出演の最新CM共演はアニメーション監督の富野由悠季さん!

関連項目[編集]

外部リンク[編集]