舛田利雄

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ますだ としお
舛田 利雄
生年月日 1927年10月5日(87歳)
出生地 日本の旗 日本兵庫県神戸市
民族 日本人
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1957年 -
配偶者 あり
著名な家族 長男:舛田明廣
長女:舛田紀子

舛田 利雄(ますだ としお、1927年10月5日 - )は、日本映画監督である。兵庫県神戸市出身。

経歴・人物[編集]

多感な青年期~映画界へ[編集]

  戦時中、舛田は中学生であったが軍事教練に反発し退学になるなど、大の〝軍人嫌い〟少年だったという。

大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。 大学卒業後は教師になるつもりであったが、映画に関心を持つようになり1949年より新東宝シナリオ塾で学び、その翌年に新東宝助監督部に入社。中川信夫井上梅次に付く[1]

日活時代・石原裕次郎との仕事[編集]

1954年、活動を再開した日活に移籍。助監督として井上梅次市川崑久松静児らに師事する。

1957年、監督に昇進。翌年に公開した『心と肉体の旅』で監督デビュー。 監督昇進時、舛田はまだ29歳であり当時の映画界としては異例のスピードであった。

以後、『赤い波止場』、『今日に生きる』など充実した娯楽作を撮り続け、『錆びたナイフ』をはじめとする石原裕次郎主演作品を最も多く(計25作品)演出した監督として日活を支え、日活アクション映画全盛期に数々の作品のメガホンを執り〝日活の舛田天皇〟とも言われた。

日本映画界のヒットメーカー[編集]

1968年に日活退社後はフリーになる。

1970年黒澤明が諸事情で降板した20世紀フォックス制作の日米合作による戦争大作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を深作欣二と共同で務める。当時、ハリウッドから降板した黒澤に代わる日本側監督のオファーを日本映画界の名だたる名匠、巨匠らが断るなか舛田自身にもオファーがあり一度は断っていたが、しばらくして再び舛田のもとにオファーがあり『面白そうだから』という理由で日本側監督を引き受け話題となる。

以降は、池田大作原作の映画『人間革命』と『続・人間革命』(脚本家・橋本忍の推薦で参加したが舛田自身は信者や公明党員ではない)、五島勉原作のパニック特撮『ノストラダムスの大予言』、戦争大作『二百三高地』、『大日本帝国』、『日本海大海戦 海ゆかば』、『零戦燃ゆ』など、大作映画を任される機会が増えていく。

様々なジャンルの作品でも常に安定した作風にまとめ上げる確かな演出の腕を買われ、さらに手がけた作品がどれも興行的にも成功したため日本映画界において実力派の映画監督として娯楽作品をコンスタントに手がけてきた。

また『大都会』などの石原プロ作品をはじめとしたテレビ映画の演出も数多く手掛けるほか、筒井康隆作品の初映画化である『俺の血は他人の血』以後、日本SF大賞を受賞した小松左京原作の映画化作『首都消失』など、SFや特撮映画の演出も多い。

2男1女あり。長男はフジテレビドラマディレクターの舛田明廣。長女は女優声優舛田紀子

1993年紫綬褒章、1999年勲四等旭日小綬章受章。

2007年、初の著書『映画監督 舛田利雄~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~』(舛田利雄・佐藤利明著・ウルトラ・ヴァイブ)が刊行される。 同書では日本の娯楽映画を牽引してきた存在でありながらも、それまで取り上げられる事の多かったとは言い難い舛田にロング・インタビューが行われて好評を博した。

2008年、第33回湯布院映画祭にて「舛田利雄のあくなき仕事」として『赤い波止場』『完全な遊戯』『二百三高地』など10本の作品が特集上映される。また本人出席のシンポジウムも開催され元気な姿を見せた。

舛田が手掛けた作品への出演が多い俳優の丹波哲郎は自身の著書で『舛田はとにかく喧嘩が強い』と書いおり、いつも出演するのが楽しみな監督の一人として挙げていた。

劇場アニメーション作品の監督・監修[編集]

『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ[編集]

1970年代には既にジャンルを問わず数々の劇場大作映画の仕事を手掛け断固たる立場を築いていた舛田であるが、1974年から放送が開始されたテレビアニメ宇宙戦艦ヤマト』に監修としてクレジットされている。

本作の企画段階当時、企画・原案・プロデューサーを務めていた西崎義展が従来のアニメーション作品とは一線を画す高年齢層の鑑賞にも耐えうる劇場映画並のリアリティある作品作りを目指し、そういった製作体制の影響と当時の業界においてまだアニメーション作品が格下と見られる時代であったため市場への売り込みを考慮したセールスアップという双方の目的から劇場映画監督である舛田を制作に誘ったことがきっかけである。

こうして『宇宙戦艦ヤマト』のテレビシリーズへの参加を快諾した舛田は西崎プロデューサーから監督とストーリーの監修を依頼されたが、映画の仕事のため企画会議に3度出席しただけで実際にはテレビシリーズには直接タッチはしなかった。

西崎プロデューサーら制作スタッフの熱意とは裏腹に1974年より放送されたテレビシリーズは商業的に失敗に終わったが、放送終了後に日本国外輸出向けにテレビシリーズを再編集し劇場版として公開する話が持ち上がる。西崎プロデューサーは当初これを最後にアニメから手を引き、ファン向けに1週間だけ劇場公開するつもりだったという。この劇場版の製作にあたり再び舛田に協力を仰ぎ1975年5月、劇場向けの再編集を開始。当初は5時間の長さだったが、舛田の監修のもと、宇宙戦艦ヤマト艦長沖田十三の物語に焦点を当てる方針で必要最低限の部分を除きそれ以外は丸ごと削除するなどして、約2時間短縮するなどして完成。 1977年に公開された『宇宙戦艦ヤマト(劇場版)』は周囲の予想を裏切りアニメーション映画の常識を破る大ヒットを記録する。

さらに翌年1978年には完全新作として『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』も公開され前作を上回る大ヒットとなり「ヤマトブーム」と呼ばれる社会現象が巻き起こる。 本作で舛田は脚本・監督として積極的に制作に参加したため舛田の意見が随所に反映されており、特にクライマックスの展開は舛田の日活時代の監督作である『零戦黒雲一家』に酷似している。また、本作から登場する宇宙騎兵隊の斉藤始は舛田が発案したオリジナルキャラクターである。

その後、1980年には自身が手掛けた戦争大作『二百三高地』と同年同日に公開された『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版第3作『ヤマトよ永遠に』でも脚本と監督を手掛け、両作品とも大ヒット。実写大作映画とアニメーション大作映画というジャンルの枠を超えた作品を同時に手掛け共にヒットに導くという前例のない偉業を成し遂げ、〝明治から未来まで撮る男〟として話題となる。

1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』と2009年公開の『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』では監督から〝総監修〟という立場に回り(『完結編』では従来通り脚本も手掛けている)、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを影で支え続けた。

『宇宙戦艦ヤマト』以降もアニメーション映画に参加し、1979年公開の『海のトリトン』(劇場版)では監修を、1982年公開のSF戦争アニメーション映画『FUTURE WAR 198X年』で勝間田具治と共に監督、1985年公開のSFアニメーション映画『オーディーン 光子帆船スターライト』を総監督、1992年から1994年にかけて制作された『劇場版 三国志シリーズ』を監修し、また1995年から発売されたOVAアニメーション『YAMATO2520』でも監修を手掛けた。

主な作品[編集]

映画[編集]

TVドラマ[編集]

TVアニメ[編集]

ビデオアニメ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本の映画人』 p.547-548

外部リンク[編集]