レッドパージ

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レッドパージred purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

目次

[編集] 概要

皇居前広場のある皇居外苑付近(1989年撮影)

第二次世界大戦終結後、GHQ/SCAPは日本の民主化を推進し、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化し、また1949年中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。こうした流れのなかで、7月以降、GHQの勧告により、マスコミ(新聞・放送)、官公庁、企業などでも追放が行われていった。当時の日本共産党は内部分裂状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる[1]

なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照

1950年に電気通信省旭硝子川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年現在、70人により同様の申し立てがされている(3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告、後に神戸地方裁判所国家賠償を求める訴訟を起こしている)。2010年にも長崎県の7人について、同県弁護士会からの救済勧告が出た。

2011年5月26日神戸地方裁判所は、上記3人の訴えを棄却している。また、雇用主を相手取った訴訟は、すべて原告側が敗訴している。

[編集] 原因

GHQ/SCAPの民主化政策により、社会主義を背景にした労働運動が激化したが、これによって日本共産党の勢力が伸びていた。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24)の下山事件三鷹事件松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件が、日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだというプロパガンダがなされたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。

[編集] 脚注

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  1. ^ 松本清張『日本の黒い霧』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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