志賀義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
志賀 義雄
しが よしお
Tokuda Kyuichi's ashes.JPG
1955年9月17日、徳田球一の遺骨を抱いて北京から羽田空港へ戻った志賀(左。右は徳田夫人のたつ)
生年月日 1901年1月12日
出生地 山口県萩市
没年月日 1989年3月6日(満88歳没)
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
所属政党 第一次日本共産党→)
第二次日本共産党→)
日本共産党→)
日本共産党(日本のこえ)→)
日本のこえ→)
平和と社会主義

選挙区 大阪府第1区
当選回数 4回
任期 1955年2月28日 - 1966年12月27日

日本の旗 衆議院議員
選挙区 大阪府第1区
当選回数 2回
任期 1946年4月11日 - 1950年6月6日
テンプレートを表示

志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 - 1989年(平成元年)3月6日)は日本政治家共産主義運動の活動家。衆議院議員日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長などを務めた。山口県萩市出身。ソ連共産党から資金援助を受けていた[1]

経歴[編集]

戦前の活動と投獄[編集]

旧姓、川本。1906年、母方の祖父の養子となり、志賀姓となる。旧制萩中学校(現・山口県立萩高等学校)から一高を経て東京帝国大学文学部に入学する。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。その後は共産党の活動を行ったが、1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙され、治安維持法により有罪とされた。獄中生活は1945年(昭和20年)に日本が第二次世界大戦で敗北するまで続いたが、志賀は多くの党員と異なり、獄中でも転向拒否を貫いた。

戦後の活動[編集]

日本の敗戦後、志賀は10月に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令に基づいて府中刑務所から徳田球一などと共に釈放され、党政治局員として徳田書記長や野坂参三政治局員等と共に党勢拡大に努めた。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では大阪1区(大選挙区制)で当選し、同党初の国会議員となった5人の中に名を連ねた。志賀はその後も中選挙区制の大阪府第1区で衆議院議員への当選を重ねた。

1950年(昭和25年)1月、当時の共産党が掲げていた占領下の平和革命路線をコミンフォルムが批判したのを契機に徳田らが武装闘争路線へと傾いたのに対して反論を提示し、宮本顕治と共に国際派として扱われた。国際派は党内の反主流派で、徳田ら主流派は志賀の党員資格を停止し、事実上除名した。また、同年にはGHQから公職追放対象者となり、衆議院議員の地位を喪失した志賀は地下に潜伏した。

その後、1955年(昭和30年)に共産党が武装闘争路線を放棄すると、志賀は再び公然活動を開始した。また、同年に徳田が1953年(昭和28年)に既に北京で死去していた事が発表されると、その遺骨を引き取るために、徳田の妻のたつと共に日本との国交がなかった中華人民共和国を訪問した。これは、日本共産党の関係者が初めて合法的に中国を訪問した例とされている。

他の共産党指導者らとともに、徳田球一の遺影を囲む(1955年8月)。
(前列左から、志田重男、野坂参三、紺野与次郎。後列左から、志賀、宮本顕治、春日正一

以後、志賀は共産党の常任幹部会委員として、宮本書記長の平和革命・議会活動重視路線を支持した。党勢の緩やかな回復と大阪での強固な党支持基盤に支えられ、衆議院での議席奪回にも成功した。1955年の第27回衆議院議員総選挙から、4回連続の当選を果たした。

日本のこえ[編集]

1963年(昭和38年)に部分的核実験停止条約が調印され、1964年(昭和39年)に国会でその批准が問われると、志賀は共産党内で再び少数派となった。当時は中ソ対立が激化しており、この時点では中国共産党と友好関係があった日本共産党は中国と歩調を合わせる形で条約批准反対を決めた。しかし、ソ連共産党に近いとされる志賀はこの条約を支持し、党の決定に反して5月15日の衆議院本会議採決で白票を投じた。その結果、5月21日に共産党中央委員会は志賀の除名を決定した[2]。一方、6月30日に、志賀は自分と同時に共産党を除名された参議院議員の鈴木市蔵の他、神山茂夫中野重治らと共に「日本共産党(日本のこえ)」を結成すると発表し、自らが委員長となった。

部分的核実験停止条約でソ連の意向に添った日本のこえ派はソ連共産党の支持を受け、同年に機関紙「日本のこえ」を創刊したが、日本共産党員のほとんどは宮本を中心とした従来の執行部を支持し、志賀を支持したのは新日本文学会の主流派や「民主主義学生同盟」など構造改革派系の新左翼党派などを除くとわずかであった。一方、このころから共産党(宮本派)と部落解放同盟の対立が激しくなるが、その一因として、共産党の見解によれば、志賀派と解放同盟が手を組んだ経緯があったとされる[3]

結果として、志賀は支持基盤の多くを失い、1967年(昭和42年)1月29日第31回衆議院議員総選挙では大阪6区(この選挙から旧大阪1区が分区された)で落選して、通算6期で衆議院議員としての国会活動を終えた。その後も同派は混乱と低迷を続け、同年10月には神山と中野が同派を離脱した。1968年には自派から「日本共産党」の名称を外して「日本のこえ」としたが、同年7月の第8回参議院議員通常選挙に鈴木が出馬を断念し、同派所属の国会議員はいなくなった。

1977年(昭和52年)、同派は「平和と社会主義」と改称し、創立時の名称からは完全に変更した。さらに1979年(昭和54年)、日本共産党は代表団をソ連に派遣し、ソ連共産党との関係を修復したため、国際的な後ろ盾を失った志賀は日本の共産主義運動における影響力を大きく低下させた。

1989年(平成元年)に死去。墓所は徳田と同じ東京都多磨霊園にある。

参考[編集]

  • 郷里の山口県萩市の「萩博物館」の「萩の人物コーナー」に志賀義雄の経歴が写真とともに紹介されている。
  • 生家は高杉晋作生家と道を挟んで向かい側にあり、木戸孝允の生家とも近隣にある。

著書[編集]

徳田球一(左)・野坂参三(中央)とともに写真に収まる志賀(右)
  • 『民主主義日本と天皇制』新生社 1946
  • 『財政とインフレーション』暁明社 1948
  • 『世界と日本』暁明社 1948
  • 『日本革命運動史の人々』暁明社 1948
  • 『予算の階級性』党活動家必携叢書 真理社 1948
  • 『国家論』ナウカ社 1949
  • 『戦後日本の危機と財政』暁明社 暁明文庫 1949
  • 『日本革命運動の群像』合同出版社 合同新書 1956
  • 『日本帝国主義について』三一書房 1972
  • 『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社 1974
  • 『日本共産党史覚え書』田畑書店 1978
  • 志賀義雄選集』全2巻 五月書房 1991‐92

共著編[編集]

  • 『獄中十八年』徳田球一共著 時事通信社 1947 のち大月新書
  • 『日本論 マルクス・エンゲルス・レーニン』編 日本共産党中央委員会出版部 1961
  • 『みなさんに訴える 共産主義者の良心と信念』鈴木市蔵共著 刀江書院 1964
  • 『国際通貨問題と労働者階級』編 日本のこえ出版局 1971
  • 『千島問題 アジア集団安全保障への道』編 日本のこえ出版局 1971
  • 『アジア集団安全保障とクリール(千島)問題』編 四谷書林 1973

翻訳[編集]

  • デボーリン『レーニン主義の哲学 原名・戦闘的唯物論者レーニン』希望閣 1925
  • デボーリン『レーニンの戰鬪的唯物論』希望閣 1927

脚注[編集]

  1. ^ アンドレイ・イーレシュ『KGB極秘文書は語る』
  2. ^ この賛成投票から除名に至る時期、当時は朝日新聞の政治部記者だった石川真澄は志賀の自宅をたびたび訪れ、この投票行動についての見解や従来の活動に関する回顧を聞くとともに、「明らかにロシア人と思われる」と石川自身が感じた欧州系の人物の姿を目にした。この模様は志賀の死後に出版された『人物戦後政治――私の出会った政治家たち』(岩波書店1997年岩波現代文庫2009年)の中で叙述されている。
  3. ^ しんぶん赤旗』嶋田昇 2007年1月4日(木)「しんぶん赤旗」 崩れ出した「解同」タブー