タシュケント

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タシュケント
Toshkent
Aerial view of Tashkent, Uzbekistan.JPG
Tashkent emblem.jpg
市章
位置
の位置図
座標 : 北緯41度18分 東経69度16分 / 北緯41.3度 東経69.267度 / 41.3; 69.267
行政
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
 行政区画 タシュケント特別市
 市 タシュケント
地理
面積  
  市域 334.8km2
標高 455m
人口
人口 (2006年現在)
  市域 1,967,879人
その他
等時帯 UTC+5 (UTC+5
市外局番 +998 71(2)
公式ウェブサイト : http://www.tashkent.uz/

タシュケントは、ウズベキスタン首都。ウズベキスタン北東部、シルダリア川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。

都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。現代ウズベク語表記は Toshkent、ロシア語表記はТашкент (Tashkent)。ペルシア語表記ではتاشكند (Tāshkand)。タシケントと表記されることも多い。

目次

[編集] 歴史

タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ(c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。

国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年にはの将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。

カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。

モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマーワラーアンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。

タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。

1865年帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年トルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年トルキスタン軍管区設置や1889年カスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。

ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー英語版らスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年サマルカンドに代わって首都となった。

第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。

1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われた。そのため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ている。

[編集] 気候

ケッペンの気候区分では地中海性気候に属する。夏は、7月の平均気温が27.8℃で、最高気温は40度に達する日も多く、暑さと乾燥が厳しい。冬は雨が多く、1月の平均気温は0.9℃で寒さもそれほど厳しくない。年間平均気温は14.1度。年間総降水量は420mmである。


タシュケントの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 ℃ (°F) 22.2
(72)
25.7
(78.3)
32.5
(90.5)
36.4
(97.5)
39.9
(103.8)
43.0
(109.4)
44.6
(112.3)
43.1
(109.6)
39.8
(103.6)
37.5
(99.5)
31.1
(88)
27.3
(81.1)
44.6
(112.3)
平均最高気温 ℃ (°F) 6.0
(42.8)
8.1
(46.6)
14.0
(57.2)
22.1
(71.8)
27.1
(80.8)
33.2
(91.8)
35.8
(96.4)
34.2
(93.6)
29.0
(84.2)
21.4
(70.5)
14.4
(57.9)
8.9
(48)
21.2
(70.2)
日平均気温 ℃ (°F) 0.9
(33.6)
2.5
(36.5)
8.3
(46.9)
15.7
(60.3)
20.2
(68.4)
25.7
(78.3)
27.8
(82)
25.7
(78.3)
20.3
(68.5)
13.6
(56.5)
8.1
(46.6)
3.7
(38.7)
14.4
(57.9)
平均最低気温 ℃ (°F) -2.6
(27.3)
-1.4
(29.5)
4.0
(39.2)
10.0
(50)
13.6
(56.5)
17.9
(64.2)
19.6
(67.3)
17.5
(63.5)
12.7
(54.9)
7.6
(45.7)
3.7
(38.7)
0.2
(32.4)
8.6
(47.5)
最低気温記録 ℃ (°F) -28.5
(-19.3)
-25.6
(-14.1)
-16.9
(1.6)
-6.3
(20.7)
-1.7
(28.9)
3.8
(38.8)
8.2
(46.8)
5.6
(42.1)
0.1
(32.2)
-11.2
(11.8)
-22.1
(-7.8)
-29.5
(-21.1)
-29.5
(-21.1)
降水量 mm (inches) 55
(2.17)
47
(1.85)
72
(2.83)
64
(2.52)
32
(1.26)
7
(0.28)
4
(0.16)
2
(0.08)
5
(0.2)
34
(1.34)
45
(1.77)
53
(2.09)
420
(16.54)
出典: Pogoda.ru.net[1] 9.3.2010


[編集] 交通

市内交通は、地下鉄路面電車などがある。タシュケント地下鉄は、中央アジア初で、ソ連時代にソ連で7番目の地下鉄として1977年に開業した(着工のきっかけとなったのは、1966年地震である)。現在3路線で29駅。

空港

鉄道

[編集] 観光

ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多い。[2]

また、タシュケント郊外のチャルヴァック貯水湖は行楽地として有名で、マリンスポーツウィンタースポーツを楽しむことができる。

[編集] スポーツ

FCパフタコール・タシュケントロコモティフ・タシュケントFCブニョドコルが、タシュケントを本拠地とするサッカークラブ。FCブニョドコルが、2008年におけるAFCチャンピオンズリーグの決勝トーナメントにまで進出した。

[編集] 姉妹都市

[編集] 脚注

  1. ^ Pogoda.ru.net” (Russian). 2010年3月9日閲覧。
  2. ^ UZBEK friends(ウズベクフレンズ)
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