バーブル

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バーブル

バーブルペルシア語: ظهیرالدین محمد بابُر , Ẓahīr al-Dīn Muḥammad Bābur1483年2月14日 - 1530年12月26日)は、ティムール朝サマルカンド政権の第6代君主(在位:1497年 - 1498年)、ムガル帝国の初代皇帝(在位:1526年 - 1530年)。

目次

生涯 [編集]

父はティムールの三男ミーラーン・シャーの曾孫の一人でフェルガナ盆地を領有していたウマル・シャイフ・ミールザーフランス語版。バーブル自身はティムールから5代目の直系子孫に当たる。母はチンギス・カン次男の家系であるチャガタイ・ウルスの当主ヴァイス・ハーンの王女クトルク・ニガール・ハーニムである。

フェルガナの領主時代 [編集]

1494年に父ウマル・シャイフの急死によってフェルガナの領主を継いだ。以後、サマルカンドの領有をめぐるティムール家内部の争奪戦に加わり、数度サマルカンドを領有した。また、ヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷やその子息たちに庇護を求め、また共闘を行うなど、ティムール朝内部でも目紛しい活躍を見せる。

しかし1504年ジョチ家の後裔ムハンマド・シャイバーニー・ハーン率いるウズベク族シャイバーニー朝の侵入によってスルターン・フサイン家のヘラート政権が瓦解すると、彼もまたその地を追われる。

カーブルの領主時代 [編集]

そのため、その代替地を求めてアフガニスタンカーブルを支配する。

1508年、それまで他のティムール家の王子たちと同様に「バーブル・ミールザー」と呼ばれていたが、長男フマーユーンが誕生した同じ年に、自ら「バーブル・パーディシャー」を名乗った。

1511年11月、サファヴィー朝の支援を得て、3度目のサマルカンド征服を敢行する。しかし、バーブルのシーア派傾倒を嫌ったスンナ派のサマルカンド住民は早くも離反し、ウズベク軍のウバイドゥッラーフ・ハーンカタロニア語版の反抗によって1512年春にはサマルカンドを放棄。この地を永久に失った。

秋にブハーラー近郊でバーブルとサファヴィー朝との連合軍がウズベクに敗退してから、マーワラーアンナフル方面へ進出は難しくなった。

この後の数年間はカーブルを中心にアフガニスタン周辺の支配を固めつつ、インド方面への遠征を行うようになる。

北インド侵攻 [編集]

カーブルのバーブル廟

1519年インダス川を渡河してパンジャーブ地方に侵攻したが、ロディー朝の反撃にあって敗れた。

ロディー朝で内紛が起こって衰退したため、1524年に再び軍を率いて侵攻し、ラホールを支配下に置き、1525年にはパンジャーブに進出して同地を占領下に置いた。

1526年、ようやく内紛を収拾したローディー朝のスルターンイブラーヒーム・ロディー英語版が10万を号するの大軍を率いて侵攻してくる。しかしバーブルはわずか1万の軍をもってパーニーパットの戦い英語版で大勝し、逆にロディー朝の首都であったデリーアーグラを占領してしまった。そしてこれをもって、遂に皇帝として即位し、ムガル帝国を創始した。

ラージプート族との戦い [編集]

即位の翌1527年ラージプート族の藩王連合軍が攻めてくるなどその治世は多難を極めた。同年、アヨーディヤーに建設していたマスジドバーブリー・マスジドが完成。

1530年12月26日、バーブル自身が在位わずか4年でアーグラにおいて48歳で死去した。死後は長男のフマーユーンが後を継いだ。王朝の基礎固めはの孫のアクバルの代に果たされることとなった。

バーブル勝利の理由 [編集]

バーブルが10万の兵をわずか1万で破ったのは、鉄砲を有効に用いたからであったとか、強力な騎兵隊を編成していたためであると言われている。バーブルは1520年代に入ってからアフガニスタンやインドでの戦闘で、攻城戦などに火縄銃や各種の大砲の部隊を積極的かつ組織的に投入しており、これら銃火砲を専門に扱うアミールや職人たちに大砲や銃の鋳造、購入、部隊編成を行わせている。パーニーパットの戦いでのバーブルの勝利は、インドにおける銃火砲の本格的移入を告げる記念碑的な事件であり、1514年チャルディラーンの戦いにおけるサファヴィー朝に対するオスマン朝の勝利と比肩されるものである。バーブルは職人などをサファヴィー朝とオスマン朝の係争地であったアナトリア方面から、おそらくサファヴィー朝経由で銃火器製造の職人やアミールを招聘していたと見られている。それまでラージプート政権や他のムスリム政権では銃や大砲などの使用がほとんど知られていなかったようであるが、パーニーパットの戦いに代表されるバーブルの積極的な使用以降、インドでの戦闘に銃火砲が多く投入されるようになった。

逸話 [編集]

  • 「バーブル」の名は、勇敢であった『ライオンヒョウトラなどのネコ科の猛獣の総称』を意味するものであるが、バーブルはその名の通り、勇猛果敢で豪胆な人物であった。また彼はチャガタイ語ペルシア語の詩文に秀で、『詩集』や自伝である『バーブル・ナーマ』と通称されるチャガタイ語文学の傑作を残している。また、従兄弟にあたる歴史家ミールザー・ハイダルなどの文人や学芸の保護にも積極的で、インドにおけるペルシア語文芸を本格的に根付かせたのはバーブルの功績が大きい。
  • 「バーブル」(بابر Bābur)の名前について、第2音節をファトハ(fatḥa, [a])で読む「バール」(بابَر Bābar)なのか、あるいはダンマ(ḍamma, [u])で読む「バール」(بابُر Bābur)なのかで長らく議論となっていたが(シャクルを参照)、バーブル存命時代前後に作成された詩文の音韻研究などによって、後者の「バール」(بابُر Bābur)と読んでいた事が現在ではほぼ確定した。(そのため、1904年に刊行された A. S. Beveridge による『バーブル・ナーマ』の校訂本などの書名は The Bȧbar-nȧma となっているが、現在では英語やトルコ語、ロシア語などの校訂本や訳本などの書名でも Bābur-, Bâbur-, Бобур- といった具合に、ダンマ([u])による表記でほぼ統一されている)
  • 食卓にマスクメロンが出ると、生まれ故郷の中央アジア恋しさのため涙を流したという。
  • フマーユーンが重病に倒れた折、宮廷の占い師はバーブルに『一番大切なものを諦めれば、皇子の命は助かる』と進言し、バーブルが寝床の周りを3度歩き回ってフマーユーンの回復を祈ると、今度はバーブルが病気になり、そのまま死亡したと伝えられる。

画像 [編集]

関連項目 [編集]

  • 間野英二 - 『バーブルナーマ』訳註全3巻と別巻で研究書を刊行 京都・松香堂書店