アブー・サイード (ティムール朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

アブー・サイード1424年 - 1469年)は、ティムール朝の第7代君主(在位:1451年 - 1469年)。初代君主ティムールの三男でアゼルバイジャンタブリーズアミールであったミーラーン・シャーの孫にあたる。

目次

生涯 [編集]

スルタン・ムハンマドの子としてヘラートで生まれ、ウルグ・ベクのもとで養育されるが、シャー・ルフの死後の1448年、ウルグ・ベクに対して帝位簒奪を試みる。しかし、これは失敗しブハラで自立を図るもこれも失敗、サマルカンドにて投獄された。しかし、ウルグ・ベクが長男のアブドゥッラティーフに暗殺されると、サマルカンド有力者によって救出され、1450年に再度反乱を起こす。ウズベクアブール=ハイル・ハーンの援助を得てトランスオクシアナを征服。サマルカンドを占領し、アブドゥッラーを処刑し、ティムール帝国東部のサマルカンド政権の支配者となる。

アブー・サイードはその後アブー・クサイム・バーブルのヘラート政権と戦う。アブー・クサイム・バーブル死後の混乱に乗じ、黒羊朝ジャハーン・シャーと同盟し、アブー・クサイム・バーブルの息子のシャー・マフムードを追放したティムールの曾孫イブラヒムを破る。1459年ヘラートを征服、ペルシャを東西でジャハーン・シャーと分割し、その後61年までにアフガニスタンの大部分も征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール帝国を再統合を成し遂げた。

しかし、1467年にジャハーン・シャーが白羊朝ウズン・ハサンに破れると、ジャハーン・シャーの息子たちを援助し、ウズン・ハサンと敵対する。そして1469年、ウズン・ハサンとの戦いに敗れ捉えられるとシャー・ルフの曾孫で彼の政敵であったジャディガル・ムハンマドに引き渡され処刑された。

死後 [編集]

彼の死後、ホラーサーンホラズムそしてヘラートはティムールの子ウマル・シャイフの曾孫にあたるフサイン・バイカラ(フサイン・ミルザともよばれる)がジャディガル・ムハンマドを処刑しこれを確保、ヘラート政権を復活させた。残されたサマルカンド政権の領域はアブー・サイードの4人の息子に分割相続された。長男アフマドはサマルカンドとブハラ、そしてティムール帝国の支配者の称号を相続し、次男のマフムードバダフシャン英語版ハトロンテルメズクンドゥーズヒサールを相続した。三男のウルグ・ベクカーブルカザニを確保し、四男のウマル・シャイフ・ミールザーフェルガナを相続した。このウマル・シャイフとチャガダイ王家出身のトルグ・ニガール・ハーニムの間に生まれた息子が、後にムガール帝国を建国するバーブルである。

人物・逸話 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ Jean Aubin, "Abū Saʿīd", in Encyclopaedia of Islam, 2nd ed., vol. I (1960), page 148, quoting from V.V. Barthold, "Ulug Beg i ego vremya" [Ulugh Beg and his time], 1918.
  2. ^ Muhammad Haidar, "Tarikh-i-Rashidi",<1928