チャルディラーンの戦い

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チャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。 鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえる人もいる。ただ、後述に記す通り兵力差が物をいった戦いとも思われる。

[編集] 経過

オスマン帝国軍は、セリム1世に率いられ、10万とも20万とも言われ、対するサファヴィー朝軍は、イスマーイール1世に率いられた1万5千とも4万ともいわれる西アジア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団クズルバシュであった。

戦いの前日にサファヴィー朝軍は布陣を終えたが、左翼を受け持った将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーと右翼を受け持った将軍のドルミーシュ・ハーン・シャームルーとのあいだで、夜襲を行うか否かで意見が対立したために、結局イスマーイール1世が正面攻撃を行うことを決意することになった。

夜が明けると、サファヴィー朝軍は騎馬軍団クズルバシュが怒濤のような猛攻を行い、オスマン帝国軍の右翼を守るアナトリア騎兵軍をつきくずすほどであった。しかし、戦局は鉄砲を装備したイェニチェリと鎖でつないだ大砲を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎兵をことごとくうち倒すかたちになり、右翼の傷も救援に回ったイェニチェリ鉄砲隊によって形勢が逆転し、サファヴィー朝軍は善戦する左翼ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーを失って総崩れとなった。結果、イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れるほどの惨敗となった。

[編集] 影響

オスマン帝国軍は、9月にはタブリーズを占領する戦果を上げたが、補給の困難と遠征による疲れや軍勢内部にじょじょに広がった厭戦気分から深追いをさけて退却せざるを得なかった。イスマーイール1世はこの敗戦で、政治への興味を失って狩猟や酒色に走るようになり、1524年に37歳の若さで没することになり、王朝は一気に衰退した。サファヴィー朝はしばらく忍耐と苦渋の時代を過ごすことになる。