バルフ
| バルフ بلخ |
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緑のモスク |
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| 座標 : 北緯36度45分 東経66度54分 / 北緯36.750度 東経66.900度 | |
| 行政 | |
| 国 | アフガニスタン |
| 州 | バルフ州 |
| バルフ بلخ |
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バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語 بلخ Balkh )はアフガニスタンの都市。バルフ州に属する。かつては、バクトリア王国の都バクトラとしても繁栄した。古代より交易路の要所として発展したが、現在は小規模な都市となっている。人口は105,300人 (2006年の公式推計[1])。
目次 |
地勢 [編集]
アフガニスタンに広がる山岳地帯の山麓近く、バルフ川の右岸に位置している。ウズベキスタンの国境に近く、約70キロほど北が国境地帯である。近隣の都市としては、約20キロ東のマザーリシャリーフが挙げられる。
歴史 [編集]
古代より交易路の拠点として繁栄しており、その繁栄はバビロンやニネヴェ、エクバタナにも比類したとされる。ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視された。アケメネス朝ペルシアの支配を経て、アレクサンドロスに征服された。前325年頃、アレクサンドロスが死去したという虚報を契機に、一部のギリシア人軍団が反乱を起こすと、彼らはこのバクトラを占領して一時抵抗をみせたが鎮圧された。アレクサンドロス帝国の分裂後は、セレウコス朝シリアの支配下におかれた。前256年頃、ギリシア人のディオドトスがセレウコス朝に対して反乱を起こし、この都市(当時はバクトラ)を中心としてバクトリア王国が独立を果たした。この地ではギリシア文化が維持され、後世にも影響を与えたとされる。
ただし、バクトラの都がどこであったかは、確実な裏付けがあるわけではない。かつて根拠となっていたバラ・ヒッサール遺跡は、調査によってティムール帝国期の遺跡であったことが分かった。おそらくはこの地などを中心としてギリシア文化が保たれたと考えられるが、その後世への継承については、以前想定されていたより限定的であったとされる。(いわゆる後世の「ガンダーラ美術」も、近年はローマ帝国がインド洋にまで商業網を広げる中で、再びギリシア文化が北インドへ伝えられたとする見解が有力になっている。)
その後は、大月氏、ついでクシャーナ朝のもとで繁栄し、仏教の受容も進んでいった。イスラーム時代以前にはバルフ周辺はトハーリスターンと呼ばれており、バルフ自体も同地方の首都とされ仏教の一大中心地として繁栄した。特にナウバハール寺院が有名であった。後のアッバース朝期に活躍し、ハールーン・アッ=ラシードの宰相として活躍したヤフヤー・イブン=ハーリドらを出したバルマク家は、このバルフのナウバハール寺院の管長(バルマク)に起源を持つ一族であったと伝えられる。このバルフをはじめとするトハーリスターン周辺の支配をめぐって、6世紀にはエフタルとサーサーン朝と抗争が続いたが、最終的にはサーサーン朝の統治下におかれた。その間、この地に唐僧の玄奘も訪れたとされる。イスラーム教の成立と拡大にともない、サーサーン朝は圧迫されていった。最後の君主ヤズデギルド3世は、この辺りを拠点として一時抵抗を続けたとされる。
その後、654年頃にバスラ総督アブドゥッラー・イブン=アーミル麾下のアフナフ・イブン=カイス率いるアラブ軍がホラーサーン征服のためトハーリスターン地方周辺に侵攻した。このときバルフはアフナフと和平条約を結んでイスラーム側に帰順した。ムアーウィヤがウマイヤ朝の初代カリフとして即位すると、カイス・ブン・アル=ハイサム・アッスラミーがホラーサーン総督として任命されたが、この時期にはバードギース、ヘラート、バルフといったホラーサーン東部の主要都市の多くがイスラーム政権側に離叛しカイスは鎮定のためバルフをまず攻略しナウバハール寺院を破壊したと伝えられる。その後バルフの住民たちがカイスと再び和平条約を結びたいと願い出たため、これに応じて和約と安全保障の協定が結ばれた。バスラ総督のイブン=アーミルはカイスの方針を弱腰であるとして厳しく問責したが、ヘラート、バードギースなどもバルフに続いて和平条約と安全保障が再度締結されたという。
こうしてイスラーム勢力によって征服され、ウマイヤ朝、アッバース朝、サッファール朝の支配を受けた。900年頃になるとサーマーン朝がこの地を征服して勢力を拡大させ、その後、テュルク系王朝の支配を受けた。12世紀の地理学者イドリースィーは、この地における商業の発展や教育の充実を記している。この時代ホラーサーン地方は四つの行政区に分かれその主要都市はそれぞれメルヴ、ニーシャープール、ヘラートそしてバルフであった。13世紀になるとチンギス・ハンに征服されて荒廃したとされる(しかし、マルコ・ポーロがこの都市について言及していることから疑問も残される)。1220年、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドの追捕としてジェベ、スブタイ率いるモンゴル軍がホラーサーンに侵攻したが、この時バルフは使者を送ってモンゴル軍に帰順し、ダルガチが置かれたと伝えられる。西チャガタイ・ハン国のタルマシリンの治世の1333年に、イブン・バットゥータがバルフを訪れて、チンギス・ハンの破壊によってすっかり荒廃してはいるものの、堅固で壮大な市街地・モスク・マドラサの遺跡から往時の繁栄の跡が偲ばれると記録している。
14世紀、のちに広大な帝国を築き上げるティムールと、そのライバルであったアミール・フサインが争いを繰り広げたが、バルフはその際のフサインの居城となった。最終的にはティムールがバルフを包囲してフサインを降伏させた(en:Siege of Balkh)。この際にティムールによって街の城壁が破壊された。そのため、近隣の都市マザーリシャリーフで第4代正統カリフであるアリーの墳墓が「発見」されたこととあわせ、マザーリシャリーフにその繁栄を奪われた。西域番国志によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路で「八剌黒」(バルフ)を訪れている。16世紀末、ティムール朝ヘラート政権のスルターン・フサイン・バイカラの時代にはスルターン・フサインは長男バディーウッザマーンと激しく対立を深めたが、バルフはその後、一旦は19世紀初頭に繁栄を取り戻すが、洪水期にマラリアが流行して都市機能を失い、再びその中心的位置をマザーリシャリーフに譲った。20世紀初頭のブリタニカ百科事典には、ユダヤ人コミュニティーの存在も指摘されている。
1966年、バルフの郊外から壺に入った多くのコインが出土した。アテネなどギリシアの諸ポリスで流通していたものであり、おそらく前4世紀前半に埋蔵されたものと推測されている。
観光 [編集]
- 「緑のモスク」
- ラビーア・バルヒーの墓
主な出身者 [編集]
- アブー・マーシャル(潮の満干と月の満ち欠けを関連づけた)
- イブヌル・バルヒー(歴史家、『ファールースの書』)
- ジャラール・ウッディーン・ルーミー(メヴレヴィー教団の創始者、ペルシア四大詩人)
- サーマーン・フダー
- ウンスーリー(詩人)
- ダキーキー(詩人)
- ラシッド・アル=ディーン・ワトワート(詩人)
- ミールホーンド(歴史家)
参考文献 [編集]
- マルコ・ポーロ『東方見聞録』(1969年、現代教養文庫)
- クラヴィホ『チムール帝国紀行』(1967年、桃源社)
- 岩村忍『アフガニスタン紀行』(1992年、朝日文庫)
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- アフガニスタンへの扉・バルフの紹介(日本語)