カニシカ1世

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カニシカ1世
Kanishka I
クシャーナ朝の王
KanishkaCoin3.JPG
カニシカ1世の金貨
王朝 クシャーナ朝
父親 ヴィマ・カドフィセス
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カニシカ1世(Kanishka I、生没年不詳)は、クシャーナ朝の第4代君主。ヴィマ・カドフィセスの子。カニシカ1世はクシャーナ朝の中で最も名の知られた王であり、バクトリア語資料では κανηϸκε κοϸανο (クシャーナ朝のカニシカ)、漢訳仏典では迦膩色迦などと表記される。のちの時代にカニシカ2世がいたことが知られるが、一般にカニシカ王といえばまず間違いなくカニシカ1世を指す。

来歴[編集]

カニシカの出自は長く不明であった。比較的支持された説として、カニシカは前代までの王(クジュラ・カドフィセスヴィマ・カドフィセス)と血縁が無く、王位を簒奪して新たな王朝を築いたという説がある[誰によって?]。また、彼がホータン小月氏の出身者であるとする説もある[誰によって?]。だが近年の新たな発見により、カニシカはヴィマ・カドフィセスの息子である可能性が極めて高くなった(王朝交代説参照)。

カニシカが王位を得た後に根拠地としたのは北西インドであった。彼は北西インドの都市プルシャプラ(現:ペシャーワル)を首都とした。また後代のインドの記録によれば、彼はカニシカ市を建設したという。また、彼は新たにカニシカ紀元と呼ばれる暦を定めた。

カニシカはガンジス川を下って遠くインド東部地方にまで勢力を拡張することを目指した。ネパールカトマンズやガンジス川中流のサールナートを支配下にいれ、パータリプトラ近辺にまで迫った。さらにカニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これが征服の痕跡であるのかどうかは不明である。

一方で仏典の記録には、カニシカはパルティアと戦って大勝利を収めたとする記録がある。それによれば、当時のパルティア王は甚だしく凶暴であり、クシャーナ朝の領土を侵略したのでカニシカ王はこれを迎え撃って勝利し、パルティア人を9億人殺したという。この数値は明らかに誇張であり、またパルティアとクシャーナ朝は国境を接していたことから当然紛争があったとは考えられるが、カニシカの対パルティア戦の実態はよくわかっていない。

カニシカの時代にはクシャーナ朝はガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となっていたが、彼の治世の後半以降、クシャーナ朝に関する記録は乏しくなり、その歴史の詳細は分からなくなってしまう。

カニシカの後、おそらく息子であるヴァーシシカが王位を継いだ。

カニシカの在位年[編集]

カニシカの在位年については長く議論されてきているが、現在に至るまで定説と呼べる物は無い。年代推定の根拠となるのは以下のような点である。

  • 後漢書』には西暦125年頃までのクシャーナ朝の事情が記されているが、この中でカニシカ王に全く触れられていないことから、カニシカの即位は125年より後であったと考えられること。
  • コインなどのクシャーナ朝の遺品の研究からカニシカの治世がヴィマ・カドフィセスより後であると考えられること(この点はラバータク碑文にヴィマ・カドフィセスがカニシカの父であるとする記述があったことからも裏付けられた)。
  • 三国志』の記録に太和三年(229年)に大月氏王波調(ヴァースデーヴァ)の使者が訪れたという記録があること。

などである。

カニシカ紀元74年から98年頃がヴァースデーヴァの治世であった(前後にもっと長い可能性がある)ことが考古学的に知られており、ここから逆算してカニシカ紀元の第1年が西暦168年より前であると推定されている。

こういった証拠と、その他のわずかな傍証からカニシカ王の在位年代が推定されている。フランスの学会では144年 - 173年説が多く支持されているが、なお定説とは言えないという[要出典]インドの学者ディクシトは144年 - 164年頃と主張し、また他にも多くの説がある。しかし概ね2世紀半ばの人物であるという点ではいずれの説も一致している。

王朝交代説[編集]

カニシカ以後、カドフィセスからイシカ系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠として、カニシカ王による王朝交代説が長く多くの学者によって唱えられてきた。

これを傍証するものとして、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティカニカKanika)王とグザン(Guzan おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったという物や、漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。

しかし、1993年アフガニスタンラバータクで偶然発見された碑文の解読から、この王朝交代説に大きな反証が提示された。この碑文はバクトリア語(バクトリア地方で使われたイラン系の言語)で記された1200字あまりの文書であり、この地方のカラルラング(総督、辺境長官)であったシャファロに対して、カニシカ王が彼の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。

そして、カニシカの祖先として曽祖父クジュラ・カドフィセス、祖父ヴィマ・タクト、父ヴィマ・カドフィセスの名が記録されていたのである。こうしてこの碑文はクシャーナ朝史の研究に大きな見直しを迫るものとなった。

仏教とカニシカ王[編集]

仏典の伝説[編集]

カニシカ王が仏教を保護したことは多くの仏典に記録されている。仏典の伝説によれば、カシミール地方の王にシンハと言う人物がおり、仏教に帰依して出家し、スダルシャナと称してカシミールで法を説いていた。カニシカは彼の噂を聞いてその説法を聞きに行き、仏教に帰依するようになったという。カニシカ王は各地に仏塔を建造したことが知られているほか、彼の治世に仏典の第四回結集(第三回とも)が行われたとも伝えられている。

同じく仏典の記録によれば、カニシカ王は中央インドを攻撃した際、現地の王に和平を請われ、条件として3億金を要求した。現地の王がこれを支払い不可能であると回答すると、2億金を減額する代わりにサーケータ出身の詩人アシュヴァゴーシャ(漢:馬鳴)を送るように要求した。こうしてカニシカ王の下に来たアシュヴァゴーシャは、大臣マータラ(漢:摩吒羅)、医師チャラカ(漢:遮羅迦)と並んで「三智人」と呼ばれ、カニシカ王の「親友」となったという。アシュヴァゴーシャは実在の人物であり、この記録はある程度事実を含んでいるといわれている[誰によって?]

宗派[編集]

日本中国仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが、実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい。アシュヴァゴーシャの残した作品などから、カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教、特に説一切有部であったといわれている。

他宗教とカニシカ王[編集]

実際にはカニシカ王は仏教だけではなく、他の宗教との関係も濃密であった。彼の発行したコインにはシヴァなど伝統的なインドの神の図像が表されており、彼の支配した時代のタクシラにはおそらくゾロアスター教の拝火神殿と思われる建物も存在している。

カニシカ1世のコイン[編集]

表の銘文にはギリシャ文字で“ϷΑΟΝΑΝΟϷΑΟ ΚΑΝΗϷΚΙ ΚΟϷΑΝΟ”「諸王の王、カニシュカ王」とあり、裏には太陽神ヘーリオス(ΗΛΙΟΣ)が描かれたり、仏陀(ΒΟΔΔΟ)が描かれたりした。

カニシカ1世のマーク

関連項目[編集]

先代:
ヴィマ・カドフィセス
クシャーナ朝の君主
第4代:144年頃 - 171年
次代:
ヴァーシシカ