バクトリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バクトリアの版図
バクトリアの版図

バクトリア紀元前255年頃 - 紀元前139年頃)とは、現在のアフガニスタン北部バクトラを中心としたアレクサンドロス大王の後継者が建てたギリシア人王国で代表的なヘレニズム国家の一つ。バクトリア王国は王統交替、勢力盛衰が頻繁で、王権が弱く、地方の王が権力を持ち、しばしば国家が分裂した。

目次

[編集] バクトリア王国の建国以前

バクトリア地方は、もともとアッシリアが分裂してできた4王国の一つであるメディア王国の一部であった。その後、紀元前518年ごろ、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となった。さらにその後、紀元前328年マケドニア王国アレクサンドロス大王によって征服された。大王の死後はセレウコス朝シリアの一部となったが、大王に従ってやってきたギリシア人が住み続けた。

[編集] バクトリア王国の建国

紀元前256年にサトラップ(太守)の地位にいたギリシア人のディオドトスが反乱を起こし独立してバクトラ(Baktra、現:アフガニスタン北部、バルフ)を都とするバクトリア王国を建国した。このとき、北部のソグディアナ、西方のマルギアナなどを併合した。ディオドトス2世の時代の紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立したパルティアと同盟を結び、西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続いた。

[編集] バクトリア王国の発展と分裂

紀元前2世紀に入ると、ヒンドゥークシ山脈を越えて南下、ガンダーラを占拠した。さらに紀元前175年 、北西インドに進入し、パンジャーブ地方支配した。しかし、このとき紀元前175年 にセレウコス朝の支援を受けた、エウクラティデス王(紀元前171年紀元前145年)がバクトリア本国を奪う。さらに、この混乱に乗じて、パルティアのミトラダテス1世によって本国の侵入を受ける。しかしインドに進出したデメトリオス王(紀元前190年紀元前162年)は、さらに北西インドの征服を続け、アラコシアゲドロシアカチャワール半島まで支配下とした。このときがバクトリア王国の最盛期といわれる。その後、紀元前162年 デメトリオス王はエウクラティデス王によって敗死する。ほどなくしてギリシア人勢力はバクトリアの政権と北西インドの政権(インド・グリーク朝)に分裂した。 分裂後、デメトリオス王と同じ王家の出身のメナンドロス王(~紀元前145年)は北西インドにおいて覇を唱えた。この王は哲学議論好きとして知られ、仏僧のナーガセーナと議論を交わし、最後に仏教に帰依したと言われている。これは仏典『ミリンダ王の問い』の主人公であるミリンダ王として名高い(ミリンダは、メナンドロスがインド風に訛ったもの)。この王はパンジャーブ地方シアルコートを拠点とし、北はガンダーラ地方、東はデリー南方のマトゥーラまで支配し、シュンガ朝インドの首都パータリプトラまで攻め込んだ。

[編集] バクトリア王国の衰退とバクトリア地方の放棄

その後、デメトリオス王の子ヘリオクレス王がエウクラティデス王を倒し、バクトリアを取り戻す。そして、紀元前145年 メナンドロス王の後継者も倒してパンジャーブまで領土を広げた。しかし紀元前139年に北方のインド=スキタイ騎馬民族トハラ族がバクトリア本国に侵入した。これによってバクトリアを放棄し、北西インドにおいてギリシア王朝を存続させた。その後は、サカ族やパルティアの侵入を受け、次々と滅ぼされた。ヘルマイオス王はカブールを中心として、最後まで独立を維持したが1世紀初めにクシャーナ朝の侵入によって滅ぼされる。このとき、インドのギリシア王朝は滅びたが、ギリシア人はその後もこの地域に住み続けた。 王国は滅びたが、バクトリアの文化は後の国々に受け継がれ、クシャーナ朝期のガンダーラ美術に大きな影響を与えた。

[編集] 遺跡

アイ・ハヌム遺跡 - タジキスタンとの国境近くにあるアフガニスタン北部で発見されたバクトリア有力都市の遺跡。かつてのアレクサンドリア・オクシアナに比定される。

[編集] 歴代王

[編集] 関連項目