スーサ

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スーサで出土したスフィンクスの壁画

スーサ(Susa, 古代ペルシア語: Šušim[要出典], 聖書ヘブライ語: שושן Šûšan, ギリシア語: Σέλεύχεια, 近世ペルシア語: شوش Shūsh)は、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州en:Shush Countyシューシュ英語版

概要[編集]

スーサは、アクロポリス、アバダーナ、王の都市、技師の都市の四つの遺構からなる。1901年には、ルーブル美術館に保管されているハンムラビ法典碑も発見された。アパダーナは、ダレイオス1世によって建設され、冬の宮と呼ばれた宮殿の謁見の間跡である。スーサの守護神はインシュシナク英語版

歴史[編集]

スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国首都であった。

紀元前647年アッシリアアッシュールバニパルによって破壊された(en:Battle of Susa)。

紀元前540年アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に占領されてエラムは滅んだが、王宮が置かれて王の道の起点として再び栄えた。

アケメネス朝ペルシャ崩壊後、紀元前324年マケドニア王国アレクサンドロス3世スーサの合同結婚式英語版を行なった。

遺跡から多くのパルティア時代の陶器等の遺物が発見されていることからパルティア時代に至ってもスーサは都市としての繁栄を続けたと考えられる。その後ローマ皇帝トラヤヌスの侵攻によりスーサも占領された[1]。サーサーン朝のシャープール2世時代に再建された[2]。638年アラブ軍に破壊され、その後も都市として存続したが(モスクの遺構が残る)、1218年モンゴルに破壊され廃墟となった。

遺跡[編集]

スーサの神殿跡からシルハク・インシュシナク碑文が刻まれている青銅製の神殿模型が見つかっている。この青銅模型を作ったのは紀元前1200年ごろのシュトルク朝エラムの王シルハク・インシュシナクロシア語版であるといわれている。模型の意義や目的については、2010年現在解明されていない。

インシュシナク(スーサの都市神)に深く愛されししもべ、アンシャンとスーサの国を広げた支配者、エラムの守護者シュトルク・ナフンテ英語版の息子である余シルハク・インシュシナクは、自身の日の出の儀式(模型)を青銅で作った。

旧約聖書[編集]

ヘブライ語ではシュシャンとなる。伝説的人物であるダニエル書の主人公ダニエルの墓とされるもの(シューシュ・ダニエル)がある(画像)。

脚注[編集]

  1. ^ Robert J. Wenke, Elymeans, Parthians, and the Evolution of Empires in Southwestern Iran, Journal of the American Oriental Society, vol. 101, no. 3, pp. 303-315, 1981
  2. ^ Ṭabarī,Vol5 The History of Al-Tabari: The Sasanids, the Byzantines, the Lakmid,State University of New York Press (November 4, 1999),p57,p65