紀元前312年

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紀元前312年(きげんぜんさんびゃくじゅうねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「コルウスとムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元446年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前312年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

セレウコス朝[編集]

シチリア[編集]

共和政ローマ[編集]

中国[編集]

  • 張儀の策謀に嵌ったは大軍を発してを侵攻した。秦の軍隊は迎撃して丹陽にて大いに楚軍を破り、8万人を斬った。逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置した。楚の懐王が再び全国の徴集できる部隊を召集して進攻を発動し、藍田で秦軍と会戦すると、秦軍は再び勝利した(藍田の戦い)。この戦いは楚の衰亡の端緒となった。はこの機に乗じて、楚に侵攻し、鄧に達した。楚軍はこれを聞いて撤兵し、2城を割譲して秦と講和した。
  • の公子職は、に服属することを条件にして王に即位することを許された。即位した昭王は燕の再興と斉への復讐を目的にして、臣民と労苦を分かち、富国強兵と人材の登用に励んだ。昭王は郭隗を師と仰いだ。これが有名な「まず隗より始めよ」の故事であり(郭隗に宮殿を与えて優遇することで郭隗程度でも優遇されるのだからもっと優れた人物はもっと優遇してくれるということ)、郭隗のいうとおりに名将で名高い楽毅が燕にやって来たのもこの昭王の時代である。楽毅は魏より、劇辛より来た。昭王は楽毅を亜卿に任じ、国政を任せた。
  • 韓の宣恵王が死去し、太子倉が即位して、襄王となる。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

関連項目[編集]