アッピア街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
アッピア街道の道筋(白線)

アッピア街道ラテン語: Via Appia)は、現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道(Via Appia Antica)とも呼ばれる。

概要・歴史[編集]

ローマ市街の境界サン・セバスティアーノ門
ローマ付近の街道

紀元前312年に当時のケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により元老院の反対のなか、すでに存在したローマアルバーノ丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈なウェスウィウス山火山岩が用いられた。

アッピア旧街道の当初のルートはローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門カラカラ浴場付近)を起点とし、アリッチャ、アッピウスのフォルム、テッラチーナフォンディフォルミアミントゥルノ(ミントゥルナエ)、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでであった。

紀元前190年、街道はベネウェントゥム(現ベネヴェント)やウェヌシア(現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代にはタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現ブリンディジ)まで延長された。

また、途中のベネウェントゥムからブルンディシウム(現ブリンディジ)を直線で結ぶトライアナ街道英語版トラヤヌスのアッピア街道)が109年に造られている。

紀元前71年、約6000人の奴隷がスパルタクスに率いられ反乱を起こしたマルクス・リキニウス・クラッススによってこの奴隷反乱が鎮圧されると逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらはポンペイにまで達した。

ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。

街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている(ヴェッレトリ近辺など)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベを多数見ることができる。

ローマ布教に失敗し追われる身となった聖ペトロが、アッピア街道の中途でイエスの幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine, quo vadis ?)」と尋ねたところとしても知られる。現在その場所にはドミネ・クォ・ヴァディス教会が建てられている。そして、ペトロは再度ローマへ赴き、逮捕されて逆さ十字架の刑に処された。刑場の跡地は現在のバチカンであり、墓所はサン・ピエトロ大聖堂となっている。

マイルストーン[編集]

ローマ帝国が前120年頃の道路関連法「センプローニウス法」に基き、主要な街道に1ローマ・マイル (1000歩) ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはこのマイルストーンが現在でも残っている。 起点はフォロ・ロマーノである。

第1マイルストーン(I Milliarium)[編集]

第1マイルストーン

サン・セバスティアーノ門(アッピア門)の少し先、トレニタリアの線路の手前に第1マイルストーン(里程標)がある。これは76年に建てられたものの複製で、実物はカンピドリオ広場に置かれている。なお、第1マイルストーンの設置場所は現在の位置ではなく、アッピア門の所[1]であったという説もある。碑文は次のようなものである。

I. / IMP(ERATOR) CAESAR / VESPASIANUS AUG(USTUS) / PONTIF(EX) MAXIM(US) / TRIB(UNICIA) POTESTAT(E) VII / IMP(ERATOR) XVII P(ATER) P(ATRIAE) CENSOR / CO(N)S(UL) VII DESIGN(ATUS) VIII[2]
(日本語意訳)ここが1マイル / インペラトル・カエサル / ウェスパシアヌス・アウグストゥス(=ウェスパシアヌス帝のこと)/ 最高神祇官 / 護民官7回 / インペラトール歓呼17回 国家の父 ケンソル / 執政官7回 翌年執政官8回
IMP(ERATOR) NERVA CAE(SAR) / AUGUSTUS PONTIFEX / MAXIMUS TRIBUNICIA / POTESTATE CO(N)S(ULE) III PAT(ER) / PATRIAE RIFECIT[3]
(日本語意訳)インペラトール・ネルウァ・カエサル / アウグストゥス(=ネルウァ帝のこと)最高神祇官 / 護民官 執政官3回 / 国家の父 が(この里程標を)再建した

関連項目[編集]

終点のブリンディジ

参考文献[編集]

外部リンク[編集]