第三次奴隷戦争
| 第三次奴隷戦争 | |
|---|---|
| 戦争:第三次奴隷戦争 | |
| 年月日:紀元前73年 - 紀元前71年 | |
| 場所:イタリア | |
| 結果:ローマ軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| ローマ | 逃亡奴隷、剣闘士他 |
| 指揮官 | |
| グナエウス・コルネリウス・レントゥルス ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ クラッスス |
クリクスス オエノマウス スパルタクス |
| 戦力 | |
| ローマ8個軍団(40,000 - 50,000人)他 | 約120,000人 |
| 損害 | |
| - | 殆どが戦死、残りは磔刑 |
第三次奴隷戦争(だいさんじどれいせんそう、ラテン語:Tertium Bellum Servile)は、紀元前73年から紀元前71年にかけて共和政ローマ期にイタリア半島で起きた剣闘士・奴隷による反乱である。3度の奴隷戦争の中で最大規模のものであった。反乱軍側の首謀者スパルタクスの名にちなんでスパルタクスの反乱と呼ばれることが多い。
目次 |
[編集] 背景
紀元前3世紀後半にイタリア半島を統一したローマの勢いは紀元前2世紀に入っても留まるところを知らず、領土拡大の為の対外戦争に邁進していった。北アフリカでは第三次ポエニ戦争、ギリシアでのマケドニア戦争、小アジアではミトリダテス戦争、シリアを治めるセレウコス朝とのローマ・シリア戦争、ヒスパニアでのヌマンティア戦争などその戦域は広がる一方でありかつ長期に及んだ。
各地に派遣されたローマ軍の中核は重装歩兵であり、その担い手はローマ市民権を持ったローマ市民達であった。同時に彼らはそれまでの国家の経済的基盤と言うべき中小の自作農民でもあったが、このような従軍の連続によって農業を続けることができず、徐々に土地を手放さざるを得なくなっていく。
元老院階層やエクィテス(騎士階級)を中心とするローマの富裕層はこれらの土地を吸収して確固とした大土地所有制を築き上げていった。クラウディウス法の規定により対外戦争で得た資本の商業活動への投資を禁じられていた元老院議員は、それに代わる投資先としてカンパニアなどのイタリア半島中部の土地を選択するようになる。またエクィテスは元老院議員階級に次ぐ資力を持ち、法規定に縛られずに商業活動を活発に行いつつも投資先としてはやはり伝統的かつ安全な郊外の農地を選ぶ傾向があった。彼らは安価な労働力としてローマが征服したガリア、ゲルマニア、トラキアなどの地から大量の奴隷を輸入し、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制を急速に発展させた。ラティフンディウムにおける奴隷の扱いは人間的なものとは程遠く、彼ら奴隷たちに支えられた大土地所有制が最盛期を迎える中で反乱の危険は高まっていった。
もともとローマの家産経済は奴隷による労働力によって担われていた。しかし奴隷でも都市と郊外、また同じ郊外でも大農場や鉱山と中小自営農などの間ではその待遇に大きな違いが存在した。奴隷反乱の起こったシチリアやカンパニアは大土地所有者が多く、奴隷達の待遇も劣悪なものであったと考えられている。
[編集] スパルタクス
スパルタクス(Spartacus)はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニアのカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス所有の剣闘士養成所に属していた[1]。一般に伝えられるスパルタクスの出自は、「トラキアのメディ族出身、ミトリダテス戦争にてポントス王国側の傭兵として参戦。メディ族がローマと講和して後はローマの補助兵となったものの、反ローマ闘争に身を投じた。やがてローマ軍の捕虜となり、奴隷として売られてカプアの剣闘士養成所に入った」というものであるが、
- トラキアの王子であった
- ローマ軍の外人部隊の一員であったが脱走したために剣闘士にされた
などの説もある。 これらの外人部隊はローマが征服した土地の人々で構成され、ローマに対する反抗心が強かった。スパルタクス自身については、寄せ集まったにすぎない反乱軍をよくまとめ、強力なローマ軍に連戦連勝したことからも、その人望や戦争指揮能力は卓越したものであったと考えられる。
[編集] 経過
[編集] 脱走・蜂起
紀元前73年春、スパルタクスは剣闘士養成所から脱走を計画、それに同調したガリア人のクリクスス(Crixus)やオエノマウス(Oenomaus)ら数百名の奴隷と共に脱走を実行、その内の7、80人が成功してナポリに程近いヴェスヴィオ山のカルデラに逃げ込んだ[2]。ローマはプラエトル(法務官)ガイウス・クラウディウス・グラベル(Gaius Claudius Glaber)に兵3,000を預け派遣したものの、反乱軍はローマ軍を奇襲して勝利を収めた。
敗走したローマ軍が放棄していった武器や防具を手に入れると共に、この勝利を伝え聞いた周辺地域の奴隷たちが続々と加わった。ローマはプラエトルであったプブリウス・ウァリニウス(Publius Varinius)に兵2,000を預けて反乱鎮圧に向かわせたが、反乱軍はウァリニウス軍を撃破した。その間に反乱軍の規模は約70,000名まで膨れあがったとされる。反乱側の首謀者の内、オエノマウスは既に戦死していたため、スパルタクスとクリクススがそれぞれ軍を率い、食糧を求めてヌケリア(Nuceria)やメタポントゥムなどのイタリア南部やカンパーニャ地方の都市を略奪して回った。
[編集] 反乱軍進撃
冬が近づくにつれスパルタクスとクリクススが率いる反乱軍はイタリア半島南端のトウリィに集結し、ここを越冬地として武器の製造などを行って軍の増強に努めた。すでに反乱軍は戦闘員だけでなく女子供や老人も含む一大集団にふくれあがっていた。この時反乱軍は復讐として捕虜にしたローマ兵に自分達が課せられたと同じに、剣闘士として互いに戦わせたとされる。
紀元前72年、スパルタクスとクリクススは奴隷たちを故郷に帰すという考えからガリアなどローマ領の北方を目指して進軍を開始した。それに対して、ローマはその年の執政官(コンスル)であったグナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌスとルキウス・ゲッリウス・プブリコラが出撃、反乱軍討伐に当たった。ゲッリウス率いるローマ軍2個軍団はクリクススの率いていた反乱軍30,000をガルガヌス山麓で撃破、クリクススを含む多数の奴隷を戦死させた。ゲッリウスとレントゥルスに挟撃される恐れのあったスパルタクスは一計を講じて、まずはクリクススを破ったばかりのゲッリウス軍を撃破した後、レントゥルス率いるローマ軍にピケヌムで勝利を収めた。
また、ムティナ(現在のモデナ)でガリア・キサルピナ属州総督ガイウス・カッシウス・ロンギヌスの軍団も撃破、北上を続けついにはローマ共和国の国境地帯であるアルプスの麓までたどり着いたが、結局アルプスを越えることはなかった。この理由としては諸説あるが、半島内を略奪して回ることを望む周囲の圧力に屈した、女子供を含んだ大所帯でのアルプス越えは無理だと判断したとも言われている(当時アルプスを縦断する軍用道路は既に整備されており婦女子であろうとアルプス越えはそれほど困難ではなかったとする説もある)。ただし、反乱軍の一部の非戦闘員達はアルプスを越えて故郷に戻ったという説もある。
[編集] ローマ軍反撃
スパルタクスらは再び南下し、当時ローマ最大の富豪でありプラエトルであったマルクス・リキニウス・クラッススの指揮する2個軍団を打ち負かした。クラッススは敗走した一中隊を見せしめのために十分の一刑に処すことで漸く軍規を回復することが出来た有様であった。年末には、反乱軍はメッシーナ海峡の対岸、イタリア半島最南端のカラブリア地方の都市レギウム(現:レッジョ・ディ・カラブリア)にに行き着いた。キリキアの海賊の助力を得てシチリアに渡ろうとしたと推測されているが、ついに彼らの前に船団が現れることはなかった。もともと奴隷戦争と呼ばれる大規模な3つの大規模蜂起のうち2つはシチリアで起きており、スパルタクスがこの島を拠点にしようとしたことは大いに考えられる。
紀元前71年初頭、カラブリアに留まっていた反乱軍をクラッススの8個軍団が包囲した。また元老院はヒスパニアのグナエウス・ポンペイウス及びトラキアで戦っていたマルクス・テレンティウス・ウァロ・ルクッルス(Marcus Terentius Varro Lucullus、ルキウス・リキニウス・ルクッルスの弟)にも本国に戻り鎮圧に加わるように決議した。スパルタクスはブルンディシウム(現:ブリンディシ)へ逃れようとし、この包囲網の突破を試みた。
ルカニアでスパルタクス軍(兵40,000とも60,000ともされる)とクラッスス軍(8個軍団)との最終決戦が開始された。降伏は許されず死刑となるのが明らかであった反乱軍兵士は決死の覚悟を固め一連の戦闘は激しい戦いとなったが、平地戦で圧倒的な強さを示すローマ軍はついに反乱軍を撃滅した。スパルタクスは戦死したが、死体が誰か判別できなかったほどに切刻まれたという。この戦いで生き残った反乱軍の者たちは北へ逃れたが、すでに帰国していたポンペイウスの軍によって壊滅させられた[3]。鎮圧に難渋したクラッススに対して、最終的勝利をものにしたポンペイウスは英雄として扱われ、その後の両者にとって遺恨となったが、両者はこの功績もあって紀元前70年に揃って執政官となった。
反乱軍に加わった約6,000人の奴隷が捕虜となり、カプアからローマに向かうアッピア街道沿いに生きながら十字架に磔にされた(この刑罰は当時のローマの非市民に対する極刑にあたる。イエス・キリストも同じ刑を受けた)。クラッススは決して彼らの遺骸を片付けてはならないと命じたため、この道を通る者はその後何年にも渡ってその有様を見なければならなかった。また戦死者たちの死骸を調べたが、スパルタクスと判別されるものは見つからなかった。スパルタクスによる反乱は潰えたが、この反乱以降奴隷の待遇は向上したといわれる。
紀元前60年、ポンペイウス、クラッスス及びガイウス・ユリウス・カエサルによる第一回三頭政治が始まり、ローマは一応の政治的安定を得ることができた。
[編集] その他
- 第一次世界大戦期のドイツの政治組織「スパルタクス団」の名は首謀者の一人であるスパルタクスに由来している。
- ガイウス・ユリウス・カエサルは『ガリア戦記』の中で、この戦争についてゲルマン人が関与したと記している。このことより、クリクススやオエノマルスはゲルマン人との説もある。
[編集] 第三次奴隷戦争を扱った作品
- バレエ『スパルタクス』(1956年、アラム・ハチャトゥリアン)
- 映画『スパルタカス』(1960年、アメリカ、監督スタンリー・キューブリック、主演カーク・ダグラス)
- 音楽『スパルタカス』(1975年、トリアンヴィラート)
- バレエ映画『スパルタクス』(1976年、ソ連)
- 宝塚歌劇花組『スパルタカス』(1992年、主演安寿ミラ)
- 小説『剣闘士スパルタクス』(2004年、佐藤賢一著、中央公論社)
- テレビドラマ『スパルタカス』(2010年、アメリカ Starzテレビ)
- 『スパルタカス』[1](2010年、日本語版放映 スター・チャンネル)
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- プルタルコス『プルタルコス英雄伝』 村川堅太郎訳、ちくま学芸文庫
- 塩野七生『勝者の混迷 ローマ人の物語III』 新潮社
- 土井正興『スパルタクスとイタリア奴隷戦争』 法政大学出版局
- 土井正興『スパルタクス反乱論序説』 法政大学出版局
- 土井正興『新版 スパルタクスの蜂起 古代ローマの奴隷戦争』 青木書店